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  11. 難太平記
国史大辞典

難太平記
なんたいへいき
応永九年(一四〇二)二月、今川了俊(貞世)の著作。自筆本は知られない。『国書総目録』は十九部の諸本をあげており、承応改元のころの書写にかかる京都大学谷村文庫本が年記のある諸本中最古のもの。述作の根本精神は今川家の顕彰・保持にあり、そのために自分を含めた今川家の功績の歴史が省みられ、特に応永の乱に際しての了俊自身の立場がいかなるものであったかを子孫に書き残そうとしたのである。したがって表現形式は、一種の家訓・置文の趣があり、合戦記の体を備えた覚書となっており、中世末―近世初期に盛行する覚書・聞書などの先駆的な著作ともいえる。父範国から聞いたこと、自己の見聞にかかるもの、実証の裏付けのあることを記しており、了俊前後に至る今川家の家史としてのみならず同時代の史料として貴重であり、史論書として取り扱うことも可能である。今川家の功績が『太平記』に正当に書き入れられていないというところから同書を批判し、そのために同書の作者論、増補過程などに言及して『太平記』批判の書として知られ、書名も後人によって『難太平記』と称されたが、述作の趣旨からいえば『太平記』批判は派生的なことである。本書が、『太平記』の作者は「宮方深重の者」、と記している箇所は字面通りに南朝の立場に立つ者とうけとられていたが、『太平記』の作者は宮方より武家方に接近した位置にいるのに同書の記述は「宮方深重の者」が書いたと思われるくらい不都合だ、という意味であるとの解釈もある。全体の三分の一ほどを応永の乱関係の記述にあてている。微妙な表現の中に、かつて自分の九州探題の職を解かれる原因を作った大内義弘や、関東公方足利満兼との連繋の経緯が語られている。足利宗家を絶対視しながらも足利義満の政治を論鋒鋭く批判し、応永の乱にかかわった自己の立場を巧みに弁明しており、その線から、あるべき「天下の天下たる道」=政道論を展開している。『群書類従』合戦部所収。→今川貞世(いまがわさだよ)
[参考文献]
川添昭二『今川了俊』(『人物叢書』一一七)、桜井好朗「難太平記考」(『中世日本人の思惟と表現』所収)、杉山次子「難太平記の諸本について」(『軍記と語り物』九)
(川添 昭二)
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1. 『難太平記』
日本史年表
1402年〈応永9 壬午〉 2・‐ 今川了俊, 『難太平記』 を著す。  ...
2. 難太平記
日本大百科全書
子孫に正しく伝えることを目的とし、結果的に『太平記』の記述を部分的に修正することにもなっている。『難太平記』の書名は後人の命名であろう。内容は、足利尊氏(たかう ...
3. 難太平記
世界大百科事典
今川貞世(了俊)の著作。1402年(応永9)2月,了俊78歳のとき成立した。題名は《太平記》を批判するという意味である。しかし,これは後人の命名で,了俊の意図が ...
4. なんたいへいき【難太平記】
デジタル大辞泉
室町時代の史書。1巻。今川了俊著。応永9年(1402)成立。今川一族の家系・歴史・功績などを記し、「太平記」の記述を訂正する箇所が多い。  ...
5. なんたいへいき【難太平記】
日本国語大辞典
子孫のために書き残したもの。文中「太平記」の誤謬を指摘し、反対訂正している箇所が多く、後人によって「難太平記」と称されるようになった。ナンタイヘ ...
6. なんたいへいき【難太平記】
国史大辞典
[参考文献]川添昭二『今川了俊』(『人物叢書』一一七)、桜井好朗「難太平記考」(『中世日本人の思惟と表現』所収)、杉山次子「難太平記の諸本について」(『軍記と語 ...
7. 青野原の戦い
日本大百科全書
府軍を美濃(みの)青野原(岐阜県大垣市赤坂町)で破った戦い。北畠軍は『太平記』に50万騎、『難太平記』に30万騎とあるが、北条時行(ときゆき)の率いる北条氏残党 ...
8. あか‐とり【垢取・赤鳥】画像
日本国語大辞典
今川範国(のりくに)が美濃国(岐阜県)青野原の合戦に用いて以来、子孫吉例としてこれを用いた。*難太平記〔1402〕「故殿笠じるしを思案し給ひけるに、あか鳥を馬に ...
9. あかとりのもん【垢取紋】画像
国史大辞典
馬の手入れ用具の垢取の形象を表現した家紋。赤鳥紋とも書く。今川氏の所用として著名であり、『難太平記』に、今川範国が赤坂の合戦の時、富士浅間宮の神託によって、笠 ...
10. 秋山記行・夜職草 184ページ
東洋文庫
九州探題となり、九州における足利一族の勢力確立に活動した。和歌、連歌にすぐれ、『今川大草紙』『落書露顕』『難太平記』『今川了俊書札礼』などの著書がある。 ...
11. 足利家時
日本大百科全書
生没年不詳。鎌倉後期の武将。頼氏(よりうじ)の子で室町幕府を開いた尊氏(たかうじ)の祖父にあたる。『難太平記(なんたいへいき)』によると、源義家(よしいえ)が7 ...
12. 足利家時
世界大百科事典
背負って立ったが,得宗専制体制への傾斜が深まるなか,足利氏は北条氏から外様視されていった。《難太平記》によると3代のうちに天下をとることを祈願して切腹したという ...
13. あしかがいえとき【足利家時】画像
国史大辞典
母は上杉重房の女。字は太郎。式部丞、従五位下伊予守。室は六波羅探題北条時茂の女。今川了俊の『難太平記』に、足利家には遠祖八幡太郎義家の置文なるものがあり、「我七 ...
14. あしかが-いえとき【足利家時】
日本人名大辞典
?−? 鎌倉時代の武将。足利頼氏の子。足利尊氏の祖父。「難太平記」によれば,先祖の源義家の遺書に,「7代後に生まれかわって天下をとる」とあり,家時はその代にあた ...
15. あと‐つぎ【跡継・後継】
日本国語大辞典
〔名〕(1)家督を継ぐこと。また、その人。よつぎ。あととり。家督相続人。*難太平記〔1402〕「我等上意に叶て、故殿隠居のいとま申されて為 ...
16. あべかわ【安倍川】静岡県:静岡市
日本歴史地名大系
日、下流部西岸の手越河原で足利直義と新田義貞の両軍が戦い、新田軍が勝利している(「太平記」「難太平記」など)。「言継卿記」弘治二年(一五五六)九月二四日条に「自 ...
17. あんていき【安定期】 : 室町幕府
国史大辞典
上意〓さしおかれ申す」(『難太平記』)と評したように、露骨に弱みにつけ込む政策であったが、こうした過程で全国の守護職の大半は家 ...
18. 今川貞世
世界大百科事典
く,晩年は和歌・連歌の教導にあけくれ,冷泉歌学を体系化した。弟子に正徹がいる。代表的作品に《難太平記》(1402),《二言抄》(1403),《言塵集》(1406 ...
19. いまがわさだよ【今川貞世】画像
国史大辞典
貞世著作の紀行文として『道ゆきぶり』(偽作とする意見もある)、『鹿苑院殿厳島詣記』がある。『難太平記』は今川家に関する所伝や、応永の乱における貞世自身の立場につ ...
20. いまがわしきょかん【今川氏居館】静岡県:静岡市
日本歴史地名大系
戦国大名となった今川氏の居館。暦応元年(一三三八)今川範国が駿河守護に補任され(「難太平記」など)、永禄一一年(一五六八)暮れに今川氏真が武田信玄によって駿河国 ...
21. いまがわのしょう【今川庄】愛知県:西尾市
日本歴史地名大系
以て名字と為す。今も吉良荘内に上下今川村存す」とあり、ある時期に吉良庄内にあったことがわかる。また「難太平記」に「今川庄をば、左馬入道の御時より長氏の少年の御時 ...
22. 今川了俊
日本大百科全書
武門の人でありながら、冷泉歌学の伝統を守り、歌論書、連歌学書、紀行文、故実書など多くの著作を残した。著書に『難太平記』がある。上田純一 ...
23. いまがわ‐りょうしゅん【今川了俊】
デジタル大辞泉
り、九州の南朝方を制圧。その後、足利氏満との共謀の疑いを受け引退。和歌・連歌にすぐれた。著「難太平記」「今川大双紙」など。  ...
24. いまがわ‐りょうしゅん【今川了俊】
日本国語大辞典
九州探題となり、九州を制圧。のち駿河守護。歌を冷泉為秀(れいぜいためひで)に学び、「二言抄」「言塵集」「難太平記」「了俊弁要抄」などを著わす。「今川状」の著者と ...
25. いまがわ-りょうしゅん【今川了俊】
日本人名大辞典
冷泉(れいぜい)為秀にまなび,歌人としても知られた。応永19-25年ごろ死去。名は貞世(さだよ)。著作に「難太平記」「今川状」「二言抄」など。【格言など】衆人の ...
26. うえすぎのりふさ【上杉憲房】画像
国史大辞典
字は雪谿。杉谷と号し、瑞光院と称した。足利尊氏の生母清子の兄として尊氏の信頼が厚く、今川了俊の『難太平記』によれば、元弘三年(一三三三)尊氏が鎌倉幕府に反旗をひ ...
27. うえすぎのりふさ【上杉憲房】 : 上杉憲房/(一)
国史大辞典
字は雪谿。杉谷と号し、瑞光院と称した。足利尊氏の生母清子の兄として尊氏の信頼が厚く、今川了俊の『難太平記』によれば、元弘三年(一三三三)尊氏が鎌倉幕府に反旗をひ ...
28. うしろ‐あわせ【後ろ合(わ)せ】
デジタル大辞泉
ていること。背中合わせ。「―に立つ」 2 あべこべ。反対。逆の方向。 「両人の異見―なり」〈難太平記〉 ...
29. うしろ‐あわせ[:あはせ]【後合】
日本国語大辞典
けて」(2)(比喩的に)ものごとが食い違うこと。互いに正反対になること。仲が悪くなること。*難太平記〔1402〕「両人の異見うしろあはせなり。きよき武者の心は同 ...
30. うじこ【氏子】
国史大辞典
いわば氏人のいっそう精神的な面を強調すべく「氏子」という語が出現したと考えられる。そしてその後も『太平記』『難太平記』、謡曲『桜川』などではその傾向のもとに用い ...
31. おく‐ぜい【奥勢】
日本国語大辞典
*太平記〔14C後〕一九・奥州国司顕家卿上洛「され共先一番に渡りつる奥(ヲク)勢の人馬に、東岸の流せかれて」*難太平記〔1402〕「建武四年やらん、康永元年やら ...
32. かさはらのまき・かさはらのしょう【笠原牧・笠原庄】静岡県:小笠郡
日本歴史地名大系
聖・供米配分状案」同文書)、次いで北畠親房(年月日未詳「旧記写」徴古雑抄)の所領であった。「難太平記」によると、今川了俊は南北朝中期に闕所であった当庄を望んだが ...
33. かんのうじょうらん【観応擾乱】
国史大辞典
師直の執事復職はいうまでもない。この間における尊氏の動きは不可解な要素が多いが、今川了俊が『難太平記』で述べているように、彼の真意は政務の直義から義詮への移譲に ...
34. 楠流
日本大百科全書
のきまさしげ)の兵略・戦術を祖述した、近世兵学の流派。すでに戦国武将のなかには、『太平記』『難太平記』などの軍記物を治政や軍略の指南書とみる者が現れた。さらに江 ...
35. ぐんしょるいじゅう【群書類従】
国史大辞典
三九五 阿州将裔記・三好家成立之事・三好別記・十河物語 三九六 予章記 三九七 大友記 三九八 難太平記・上月記・荒木略記 三九九 親房卿被贈結城状・吉野御事書 ...
36. 高氏
日本大百科全書
に仕えた。足利家時(いえとき)の置文(おきぶみ)は師氏(もろうじ)に宛(あ)てられている(『難太平記』)。南北朝時代には、師重(もろしげ)の子高師直(こうのもろ ...
37. こうし【高氏】画像
国史大辞典
に三河に移り、額田郡日志賀・菅生の郷司職を相伝、重氏は足利頼氏・家時二代の執事をつとめた。『難太平記』にみえる足利家時の置文は重氏の子師氏に宛てられており、師氏 ...
38. 幸若舞 2 景清(かげきよ)・高館(たかだち)他 174ページ
東洋文庫
るが、前征夷大将軍の居所または将軍の父の居所の意に解している。また前将軍その人をさす例は、『難太平記』(『類従』三九八)にあって、『貞丈雑記』巻二にも「大御所と ...
39. こてさしはら【小手指原】埼玉県:所沢市地図
日本歴史地名大系
鎌倉攻略のため武蔵国へ入り女影原(現日高市)で足利直義軍と対戦(梅松論)、小手指原でも合戦があった(難太平記)。貞和四年(一三四八)四月の相馬胤家代康国申状案( ...
40. 篠村八幡宮
世界大百科事典
したと考えられる。義経は同荘を法華山寺開山の円朗に寄進し,以後中世を通じて同寺領となった。《難太平記》によれば,足利尊氏は1333年(元弘3)4月,当八幡の社頭 ...
41. しのむらはちまんぐう【篠村八幡宮】京都府:亀岡市/篠村
日本歴史地名大系
尊氏が当社に祈願し、兵を挙げて六波羅(現京都市東山区)を攻めたことは、「梅松論」「太平記」「難太平記」などによって明らかである。この時、尊氏が当社に納めた願文が ...
42. 修験道史研究 335ページ
東洋文庫
 此記の作者は宮方深重の者にて、無案内にて押て如レ此書たるにや窺に尾籠のいたりなりとは、 『難太平記』において今川了俊が『太平記』の作者の立場につき論じた言とし ...
43. 修験道史研究 18ページ
東洋文庫
279とりかえばや物語      73       ナ仲資王記〈元久元・9・16〉   86難太平記         335入唐求法巡礼行記      369蜷 ...
44. するがのくに【駿河国】静岡県
日本歴史地名大系
降、当国が山東・山西と東西二つの地域に区分されていたと考えられる。今川了俊(貞世)の著した「難太平記」に、応永二年(一三九五)の駿河守護今川泰範在職中に、泰範の ...
45. そら‐ものぐるい[:ものぐるひ]【空物狂】
日本国語大辞典
水のはしのしたの乞食の説法事「徳をかくさんとおもはば、そらものくるひをすべしなど侍ぞかし」*難太平記〔1402〕「猶世に憚りて空物狂になり給ひて、其代は無為に過 ...
46. 太平記画像
日本大百科全書
州探題として足利政権の確立に貢献した今川貞世(いまがわさだよ)(了俊(りょうしゅん))の著『難太平記(なんたいへいき)』によれば、暦応(りゃくおう)(1338~ ...
47. 太平記
世界大百科事典
近江ノ国ノ住人〉とある。さらに,歌人,武人として高名であった今川了俊(貞世)が1402年(応永9)に著した《難太平記》には《太平記》の成立に関し注目すべき記述が ...
48. たいへいき【太平記】
国史大辞典
南北朝内乱期を描いた軍記物語。四十巻。成立と作者については明らかでないが、『難太平記』の記述によれば、暦応元年(延元三、一三三八)から観応元年(正平五、一三五 ...
49. 太平記 30ページ
日本古典文学全集
法勝寺の住持となり僧正に任ぜられる。→巻二「東使上洛円観文観等召し捕りの事」。恵鎮は、今川了俊『難太平記』によれば、足利直義のもとへ「太平記三十余巻」を持参して ...
50. 太平記 35ページ
日本古典文学全集
に玄恵がいたとある。建武三年の『建武式目』の制定編者八人に玄恵が入っていることは、今川了俊『難太平記』が推測させる玄恵中心の『太平記』改訂作業の存在とともに、玄 ...
「難太平記」の情報だけではなく、「難太平記」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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太平記(日本大百科全書(ニッポニカ))
南北朝時代の軍記物語。40巻。 [山下宏明]成立。足利(あしかが)氏の一支族で九州探題として足利政権の確立に貢献した今川貞世(いまがわさだよ)(了俊(りょうしゅん))の著『難太平記(なんたいへいき)』によれば、暦応(りゃくおう)(1338~42)、康永(こうえい)(1342~45)のころ、法勝寺(ほっしょうじ)
小島法師(改訂新版・世界大百科事典)
南北朝時代に活躍した法体の人物で,1886年に重野安繹が学界に紹介した《洞院公定日次記》の応安7年(1374)5月3日条の記事により,《太平記》の作者として注目された人物。同記事は〈伝聞〉として,前月の28~29日ごろに彼が死亡したこと,彼が〈太平記作者〉であること,〈卑賤の器(うつわ)といへども名匠の聞え〉
今川了俊(日本大百科全書(ニッポニカ))
南北朝時代の武将で、歌人としても著名。俗名は貞世、今川範国の子。冷泉為秀に和歌を学び、二条良基に連歌を学ぶ。官位は左京亮を経て伊予守、正五位下。1367年(正平22・貞治6)室町幕府の引付頭人となり、また侍所頭人として山城守護を兼ねた。
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