1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 遺跡
  8. >
  9. 寺・神社・教会
  10. >
  11. 本能寺
日本歴史地名大系

本能寺
ほんのうじ

[現]中京区下本能寺前町

寺町てらまち通に西面して総門を開く。法華宗(本門流)の大本山。卯木山と号し、本尊十界大曼荼羅。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔開創〕

応永二二年(一四一五)日隆があぶら小路高辻たかつじと五条坊門ぼうもんの間(現京都市下京区)に建立、当初本応ほんのう寺と号した。日隆は妙本みようほん(現妙顕寺)第四世日霽に師事したが、その跡を継承した月明と相いれず、妙本寺を去り当寺を建立した。しかしまもなく月明の衆徒によって破却され、日隆は南都北嶺に遊学、摂津・河内を伝道した。永享元年(一四二九)六角室町ろつかくむろまち(現中京区)の豪商小袖屋宗句の帰依を得て、大内裏の跡にあたる内野うちの(現京都市上京区)に本応寺を再建(両山歴譜)。さらに同五年、信者の如意王丸より六角通以南、四条坊門以北、櫛笥くしげ以東、大宮おおみや以西方一町の地(現中京区)を寄進され、日隆は内野の伽藍をここに移建、寺号を本能寺と改めた。永享一〇年足利義教は寺地の北東の角、六角小路に面する東西一三丈・南北一五丈の地を召上げ、ここに非人風呂を設置した(同年一一月二日「室町幕府奉行人奉書」本能寺文書など)

〔本門法華宗〕

この頃日隆は本勝迹劣の宗義を説き本門法華宗を興して、北陸・畿内・瀬戸内一帯を伝道し、顕本けんぽん(現大阪府堺市)本蓮ほんれん(現岡山県牛窓町)などを創立した。とくに日隆の弟子日典・日良は当時海外貿易の中継地であった種子たねが島・屋久やく島・永良部えらぶ島まで教線を伸ばし、末寺を建て、この地域を本能寺門流の有力基盤とした。種子島に伝来した鉄砲を本土へ普及させるのに本能寺が関係し、天文一八年(一五四九)に細川晴元が鉄砲を直接種子島より入手したことも本能寺の斡旋によった(四月一八日「細川晴元書状」本能寺文書)。一方日隆は宝徳三年(一四五一)法華信行の根幹として信者に対し信心法度事一三ヵ条(京都妙蓮寺蔵)を定め、寺僧には本能寺条々法度・定本能寺之法度(本能寺蔵)などを定め、教団組織の基本を確立。四代日明・六代日与などは本末関係のあり方を示した当門流尽未来際法度(本興寺蔵)を制定した。応仁の乱の前後、京都法華宗は繁栄し、本能寺・妙覚みようかく寺・妙本寺など洛内に法華宗二十一ヵ寺本山が建立され、京都町衆の帰依をうけていた。本能寺が瀬戸内一帯へ教線を伸ばした背景にも、洛内有力町衆・商人の塩屋・小袖屋あるいは茶屋一族などの大檀那の存在があった。町衆の自衛と自治にも法華寺院が関係し、本能寺も構と称する堀や土塁の防衛施設、さらには自衛的武力を備えていた。

〔天文法華の乱と本能寺の変〕

天文五年近江比叡山(延暦寺)衆徒が法華衆徒を攻め、本山二一ヵ寺が焼失するという天文法華の乱が起こった。叡山衆徒が七月二三日未明下山、一方法華宗側では妙見寺御霊ごりよう(現上京区)を守衛したのをはじめ、本能寺も約二万の兵で四条口を固めた(西山歴譜)。しかし法華宗は敗れ、本能寺も灰燼に帰して堺顕本寺に難を逃れた。同一一年後奈良天皇の綸旨を得て法華寺院は帰洛、再興を試みた。しかし延暦寺は日蓮宗徒帰住勅許に抗議し、叡山末寺になるべしと訴えた。そこで法華宗側は六角定頼に調停を依頼し、六角定頼の被官平井加賀守・進藤山城守あてに、調停成立後は二万疋の礼をする旨申出(本能寺文書)、同一六年に和議が成立した。本能寺も堺より帰洛し、四条坊門西洞院に再興された。天文一六年・同一七年頃と思われる。この再興には八世日承が努力した。日承は伏見宮邦高親王の子で本能寺中興といわれる。天正一〇年(一五八二)六月二日早暁、当寺に宿泊中の織田信長が明智光秀の襲撃に遭い、その兵火によって焼失した(「信長公記」、フロイス「日本史」)。当寺が現在地に移ったのは再建途中の豊臣秀吉の都市計画によるものであった(京都古町記録)。同二〇年には本堂・大書院・客殿・祖師堂・開山堂・塔頭十数院が完成した。

〔近世の推移〕

元和元年(一六一五)七月二七日の徳川家康黒印状(本能寺文書)には「山城国鴨川村之内四拾石之事、全可〓寺納〓者也」とあるように朱印寺領四〇石、寺地は「東西六拾七間四尺、南北百四拾五間五尺四寸五分」であった(京都御役所向大概覚書)。江戸中期には寺門の人材・子弟育成のため伏見大亀谷ふしみおおかめだに(現京都市伏見区)隆閑りゆうかん寺学室を建立して本能寺学問所を開設したが、明治維新の際廃仏毀釈によって廃校となった。また天和―元禄期(一六八一―一七〇四)には塔頭の大住院日甫(以信)が立華に優れ、本能寺未生流を興した。天明八年(一七八八)の大火で堂宇の大半は焼失し、さらに元治元年(一八六四)長州軍の木屋きや(現中京区)薩摩屋敷砲撃で灰燼と帰し、現在の建物は昭和三年(一九二八)の造営。この間は隆閑寺学室を移して仮本堂とした。

〔伽藍・塔頭と文化財〕

境内には本堂のほか方丈・客殿・講堂・総門、子院の恵昇えしよう院・蓮承れんじよう院・定性じようしよう院・高俊こうしゆん院・本行ほんぎよう院・源妙げんみよう院・竜雲りよううん院・日承王墓・信長本廟がある。平安時代の伝藤原行成筆書巻一巻(国宝、京都国立博物館寄託)、鎌倉期の梅樹雉雀の文様のある銅鏡一面(国指定重要文化財、同館寄託)、暦応二年(一三三九)の紙本墨書花園天皇宸翰御賀札一幅(国指定重要文化財)などがある。

ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額550万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題のオンライン辞書・事典サービスです。
ジャパンナレッジについて詳しく見る
本能寺の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 29
検索コンテンツ
1. 本能寺画像
日本大百科全書
京都市中京(なかぎょう)区下本能寺町にある法華(ほっけ)宗本門流の大本山。1415年(応永22)日隆の創立で、当初は五条坊門にあって本応寺と号したが、33年(永 ...
2. 本能寺[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
法華(ほっけ)宗本門流の大本山。1415年(応永22)、僧日隆(にちりゅう)が油小路高辻(あぶらこうじたかつじ)と五条坊門の間に寺塔を建立、本応寺と号したのが起 ...
3. 本能寺
世界大百科事典
京都市中京区にある法華宗(本門流)の本山。妙顕寺から分かれた日隆が1415年(応永22)油小路高辻と五条坊門の間(現,下京区)に開創,29年(永享1)内野(うち ...
4. ほんのう‐じ【本能寺】地図
デジタル大辞泉
京都市中京区にある法華宗本門流の大本山。山号は、卯木山。開創は応永22年(1415)。開山は日隆。もと五条坊門にあり、本応寺と称したが、のちに改称。天文法華の乱 ...
5. ほんのう‐じ【本能寺】
日本国語大辞典
京都市中京区下本能寺前町にある法華宗本門流の大本山。山号は卯木山。応永二二年(一四一五)日隆が創建。はじめ本応寺といい油小路高辻と五条坊門との間にあったが、永享 ...
6. 本能寺[図版]画像
国史大辞典
都名所図会 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
7. ほんのうじ【本能寺】画像
国史大辞典
京都市中京区寺町通御池下ルにある。法華宗本門流の本山。妙本寺(現在の妙顕寺)の僧日隆が応永二十二年(一四一五)油小路高辻と五条坊門に本応寺を開創して、一派を成 ...
8. ほんのうじ【本能寺】京都市:中京区/柳池学区/下本能寺前町地図
日本歴史地名大系
[現]中京区下本能寺前町 寺町通に西面して総門を開く。法華宗(本門流)の大本山。卯木山と号し、本尊十界大曼荼羅。〈京都・山城寺院神社大事典〉〔開創〕応永二二年( ...
9. 本能寺(ほんのうじ)【篇】
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 530ページ ...
10. 本能寺(ほんのうじ)跡[考古学]
イミダス 2016
京都市中京区西洞院通り六角下るにある、旧本能寺跡。関西文化材調査会が調査して、堀、石垣と大量の焼けた瓦が見つかった。本能寺は、1415年創建の法華宗寺院である ...
11. ほんのうじぎれ【本能寺切】
国史大辞典
平安時代の古筆。藤原行成の自筆で、小野篁・菅原道真・紀長谷雄など、当時詩才を謳われた人たちの文章(漢文)を書写したもの。いま、京都本能寺に、四紙を継いだ残巻( ...
12. ほんのうじちょう【本能寺町】京都市:中京区/本能学区地図
日本歴史地名大系
中京区六角通油小路下ル 東西に通る六角通(旧六角小路)を挟む両側町。中央を南北に小川通が通る。平安京の条坊では、町の北側は左京四条二坊四保一六町南、南側は左京四 ...
13. 本能寺の首/人間の剣 戦国編1
デジタル大辞泉プラス
森村誠一の長編時代小説。2003年刊行。『人間の剣 戦国編』(1999)を分冊刊行したもの。人間の剣シリーズ。 2012年12月 ...
14. ほんのうじ の 変(へん)
日本国語大辞典
天正一〇年(一五八二)、織田信長が中国の毛利氏と対戦中の羽柴秀吉を救援しようとして京都本能寺に宿泊した際、出陣の命を受けて先発していた明智光秀が反逆して丹波亀山 ...
15. 本能寺の変画像
日本大百科全書
1582年(天正10)6月2日、明智光秀(あけちみつひで)が京都本能寺に主君織田信長を襲って自殺させた事件。この年3月、甲斐(かい)(山梨県)の武田氏を滅ぼした ...
16. 本能寺の変
世界大百科事典
1582年(天正10)6月2日,明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を急襲して自殺させた事件。羽柴(豊臣)秀吉の備中高松城攻防をめぐって織田・毛利両軍が全 ...
17. ほんのうじ‐の‐へん【本能寺の変】
デジタル大辞泉
天正10年(1582)明智光秀が織田信長を京都本能寺に襲い、滅ぼした事件。羽柴秀吉の高松城攻撃を救援するため本能寺に止宿中であった信長を、先に増援を命じられて丹 ...
18. ほんのうじのへん【本能寺の変】
国史大辞典
天正十年(一五八二)六月二日、明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を急襲して自刃させた反逆事件。備中高松城を囲んでいた豊臣秀吉からの戦況報告で織田・毛利 ...
19. 本能寺の変[流行観測]
現代用語の基礎知識 2016
スマートフォンの普及以降、若者の流行はアプリ経由で共有される動画からも生まれる。代表例は男性2人のダンスユニット、エグスプロージョン の踊る授業シリーズ 。「本 ...
20. ほんのうじ‐ぶんりん【本能寺文琳】
日本国語大辞典
茶入(ちゃいれ)の一つ。唐物文琳茶入。大名物。総体飴黒色釉の中に飴色のなだれ二筋が畳付に至る。織田信長が本能寺に寄進したところからいう。ホンノージブンリン〓[ブ ...
「本能寺」の情報だけではなく、「本能寺」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る

本能寺と同じ寺・神社・教会カテゴリの記事
興福寺(国史大辞典)
奈良市登大路町にある法相宗大本山。南都七大寺の一つ。寺伝では「こうぶくじ」という。縁起によると、天智天皇八年(六六九)藤原鎌足の死去に際し、妻の鏡女王が鎌足の念持仏の釈迦丈六像などを祀る伽藍をその山階(山科)邸に設けたのに始まり(山階寺)、その子不比等によって藤原京の厩坂に移遷(厩坂寺)
東大寺(国史大辞典)
奈良市雑司町にある華厳宗の総本山。大華厳寺・金光明四天王護国寺・総国分寺などの別称がある。南都七大寺・十三大寺・十五大寺の一つ。東大寺の寺号は平城京の東方にある大寺を意味し、『正倉院文書』の天平二十年(七四八)五月の「東大寺写経所解案」に初見するが
法隆寺(日本大百科全書(ニッポニカ))
奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳(しょうとく)宗総本山。斑鳩寺(鵤寺、伊可留我寺とも書く)、法隆学問寺などの異称がある。南都七大寺の一つ。草創の由来は、金堂の薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)光背銘によると、用明(ようめい)天皇が病気平癒を念じ
龍潭寺(日本歴史地名大系)
[現]引佐町井伊谷。県道引佐―舘山寺(かんざんじ)線の西側の小丘陵上に位置する。臨済宗妙心寺派。山号は万松山、本尊は行基作と伝える虚空蔵菩薩。元文六年(一七四一)に気賀(けが)関所(現細江町)に差出した御要害村寺院縁寿録(山本家文書)によると、天平五年(七三三)に行基が地蔵寺を開創、のち自浄(じじよう)院と改号した
渭伊神社(日本歴史地名大系)
[現]引佐町井伊谷。井伊谷(いいのや)の北西端に鎮座する。社域西側を神宮寺(じんぐうじ)川が半円を描いて流れ、杉・檜・楠の古木が社叢をなす。祭神は品陀和気命・息気長足姫命・玉依姫命。旧郷社。「延喜式」神名帳にみえる引佐郡六座のうちの「渭伊(イイノ)神社」に比定される。


「本能寺」は織田信長に関連のある記事です。
その他の織田信長に関連する記事
本能寺の変(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正十年(一五八二)六月二日、明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を急襲して自刃させた反逆事件。備中高松城を囲んでいた豊臣秀吉からの戦況報告で織田・毛利両軍の全面的対決を決意した信長は五月十七日、徳川家康の供応にあたっていた光秀にも出陣を命じた。すぐに光秀は本拠近江坂本城に帰り
山崎の戦い(日本大百科全書(ニッポニカ))
1582年(天正10)6月、本能寺の変のあと、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が山城国山崎(京都府乙訓郡大山崎町)で明智光秀を討った戦い。本能寺の変の起こったとき秀吉は、毛利輝元の部将清水宗治の備中高松城を水攻めにしていた。信長の死を知った秀吉は、それを秘して毛利氏と講和を結び、2日後には姫路城に戻って軍備を整え
明智光秀(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。明智氏は美濃の名門土岐氏の庶流とされているが、光秀の出自や素性は詳らかでない。通称十兵衛。越前で朝倉義景に仕えたらしいが、永禄十一年(一五六八)七月足利義昭が朝倉氏のもとから織田信長を頼って美濃に赴いたとき、光秀は細川藤孝とその工作をしたらしく
本能寺(日本歴史地名大系)
[現]中京区下本能寺前町寺町通に西面して総門を開く。法華宗(本門流)の大本山。卯木山と号し、本尊十界大曼荼羅。〈京都・山城寺院神社大事典〉〔開創〕応永二二年(一四一五)日隆が油小路高辻と五条坊門の間(現京都市下京区)に建立、当初本応寺と号した。日隆は妙本寺(現妙顕寺)第四世日霽に師事したが
ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額550万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題のインターネット辞書・事典サイト。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る