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  11. 応仁の乱
日本大百科全書(ニッポニカ)

応仁の乱
おうにんのらん

1467年(応仁1)~1477年(文明9)の11年間にわたり、細川勝元(ほそかわかつもと)と山名持豊(やまなもちとよ)(山名宗全(そうぜん))とをそれぞれの大将として、諸国の大・小名が東西両軍に分属し、京都を主戦場として戦った大乱。応仁・文明(ぶんめい)の乱ともいう。
[今谷 明]

乱の原因

室町幕府は基本的には、守護領国制を基盤とする有力守護大名の連合政権的性格をもつが、将軍権力も奉行人(ぶぎょうにん)、奉公衆(ほうこうしゅう)など独自の権力基盤をもち、有力守護の勢力均衡のうえに幕政を展開していた。将軍親裁権を最高度に発揮した将軍義満(よしみつ)の代を過ぎると、幕政は主として三管領(さんかんれい)、四職(ししき)家を中心とする有力守護大名で構成される重臣会議が政務議決機関として機能していたが、嘉吉(かきつ)の乱(1441)を経過すると、大名間の均衡が大きく崩れてきた。1433年(永享5)に斯波義淳(しばよしあつ)が死去するや、将軍義教(よしのり)が家督相続に介入、一族の内紛を誘発させて同氏を弱体化し、嘉吉の乱によって赤松氏も没落。1454年(享徳3)には畠山(はたけやま)氏も当主持国(もちくに)の家督継承権をめぐって内紛が起こった。すなわち、幕政に参与しうる有力大名家が淘汰(とうた)された結果、重臣会議の機能は麻痺(まひ)するに至ったのである。ここにおいて将軍の生母日野重子(ひのしげこ)や、乳人(めのと)今参局(いままいりのつぼね)など側近の女性が幕政に容喙(ようかい)する現象を生じ、今参局が処刑されてのちは、政所執事(まんどころしつじ)伊勢貞親(いせさだちか)や相国寺(しょうこくじ)蔭凉軒主(いんりょうけんしゅ)季瓊真蘂(きけいしんずい)ら守護家でない側近勢力が台頭して、幕政は混乱状態に陥った。加うるに、1441年(嘉吉1)以来数年ごとに徳政一揆(とくせいいっき)が頻発して、幕府の財政基盤である土倉(どそう)、酒屋などの経営に打撃を与えた。地方では関東の幕府離脱、戦乱長期化や、国人(こくじん)層による幕府直轄領、五山禅院領を含む荘園(しょうえん)押領が相次ぎ、幕府の財政基盤も不安定の度を加えていったのである。このような状況のなかで、山名氏は嘉吉の乱によって赤松氏の遺領を継承して、山陰山陽にわたる7か国の分国をもつ有力守護に成長し、細川氏もまた畿内(きない)、四国、山陽に8か国の分国を、一族の内紛もなく無傷に維持し、この両守護家が、瀬戸内制海権を両分する形で幕政の主導権を争う形勢となった。この両勢力の領袖(りょうしゅう)は、赤入道とよばれた前侍所頭人(さむらいどころとうにん)の山名持豊と、管領細川勝元である。
 前記のような幕政の動向、有力守護の勢力関係を背景とはしつつも、乱勃発(ぼっぱつ)の直接的原因は別のところにあった。侍所頭人とともに京都を軍事的に押さえる要職であった山城(やましろ)守護職は、1449年(宝徳1)以来、畠山氏が兼務していたが、1450年畠山持国は、実子の義就(よしなり)に所領を譲り、養子の政長との間に対立が生まれた。政長は細川勝元を頼り、その結果1460年(寛正1)に義就は幕府を追放され、追討を受ける身となり、大和(やまと)に亡命した。そのためその後畠山氏の家督と山城守護を継承した政長に対し、義就は激しい敵意をもち、家督と山城守護奪回の機をねらっていたのである。この畠山氏内訌(ないこう)に、細川勝元は終始政長を支持し、山名持豊も当初は勝元に従ってはいたが、幕軍を相手に孤軍奮戦する義就の軍事的才幹に注目し、ついには義就派に回ることになる。乱の直接的契機としては、ほかに斯波義廉(しばよしかど)・義敏(よしとし)の対立、実子義尚(よしひさ)の誕生による将軍義政(よしまさ)と跡目義視(よしみ)の反目があるが、乱の経過からみてさして重要な意味はもたない。両軍対立の基本はあくまで畠山義就・政長の争いと、それに加担する山名、細川らの有力守護家の角逐である。
[今谷 明]

乱の経過

1466年(文正1)9月、将軍義政は伊勢貞親、季瓊真蘂らの意見具申に基づいて、斯波家の家督を義廉から義敏に更迭し、あわせて足利義視を暗殺しようとして諸大名を刺激した。義廉派の持豊、義視派の勝元は分国の軍勢を京都に集中し、貞親、真蘂は近江(おうみ)(滋賀県)に逃亡した。これが文正(ぶんしょう)の政変とよばれる事件で、義政の側近政治は崩壊し、幕閣は勝元、持豊が激しく対立抗争する主導権争いの場と化した。京都への兵力集中は持豊派のほうが迅速で、同年末には驍将(ぎょうしょう)畠山義就の大軍が大和から入京するに至り、持豊は義政に強請して斯波義廉を越前(えちぜん)、尾張(おわり)、遠江(とおとうみ)3国の守護職に還補せしめ、1467年(応仁1)1月には義就が畠山氏の家督に返り咲いた。このため窮地に陥った政長は同月18日、山城上御霊(かみごりょう)において義就軍に挑戦、ここに前後10年に及ぶ戦乱の火ぶたが切られた。しかし、緒戦に立ち遅れた政長はあえなく敗走し、持豊派は完全に幕府を掌握した。勝元は、戦勝気分に油断している持豊派のすきを縫って地方で反撃に転じ、分国軍勢を入京させる一方、赤松政則(あかまつまさのり)に播磨(はりま)、備前(びぜん)、美作(みまさか)3国を衝(つ)かしめて山名氏を牽制(けんせい)、また斯波義敏には越前(えちぜん)を、武田信賢(たけだのぶかた)には若狭(わかさ)を、土岐政康(ときまさやす)には伊勢と持豊派守護の分国に侵入させ、同年5月には幕府奉公衆の援助を得て花の御所を占拠することに成功した。この将軍邸占拠で勝元は緒戦の不利を取り戻し、やむなく持豊方は堀川(ほりかわ)の西に陣を構えた。以後、勝元一派を東軍、持豊派を西軍と称することとなった。東軍に参加した守護は細川氏、畠山政長、武田信賢、京極持清(きょうごくもちきよ)、赤松政則、富樫政親(とがしまさちか)、斯波義敏らで、西軍は山名氏、畠山義就・義統(よしむね)、斯波義廉、六角高頼(ろっかくたかより)、一色義直(いっしきよしただ)、土岐成頼(しげより)、河野通春(こうのみちはる)、大内政弘(おおうちまさひろ)という面々で、九州と信濃(しなの)(長野県)以東の大名は加わっていない。東軍は将軍を擁する有利な立場から、西軍諸大名の守護職を逐次剥奪(はくだつ)し、自派の一族や大名に補任(ぶにん)したが、西軍大名も実力をもって新任守護に抵抗し、戦況は長期化、膠着(こうちゃく)状態の様相となった。
 1467年(応仁1)5月26日、京都市街戦が決行される。東軍が一色義直邸を包囲して戦火が拡大し、一時は勝元側が優勢にみえたが、同年秋に山名、大内の大軍が入京したため西側が盛り返し、西軍は将軍邸、相国寺など洛中(らくちゅう)の要所を占拠して東軍を洛外へ追い払った。なかんずく畠山義就軍は東寺から西岡(にしおか)一帯を占拠し、自ら「山城守護」と称して乱終息時まで10年近く洛南地方を実力で支配した。1468年には洛外の主要社寺もほとんど兵火にみまわれた。これらは「足軽(あしがる)」「疾走(しっそう)の徒」とよばれる傭兵(ようへい)集団の活動によるもので、東軍では侍所(さむらいどころ)所司代(しょしだい)多賀高忠(たがたかただ)の配下骨皮道賢(ほねかわどうけん)、西軍では山城土豪御厨子(みずし)某といった人々が彼らを差配した。この内乱は、傭兵集団が主要戦力を構成した最初の大規模な戦乱であるといわれる。東軍16万、西軍11万という『応仁記』の両軍の動員兵力には誇張があるとしても、各荘園、郷村からは荘官、在地土豪層を中心に騎馬、半甲冑(はんかっちゅう)、人夫で構成される兵団が徴発され、さらに京都周辺では京中悪党、疾走の徒など足軽傭兵が補充された。後者の活躍が目だったのは、地方の農民軍隊では長期の在京が困難だったからである。
 3年目を経過すると、戦局の中心は地方に移ったが、1471年(文明3)、越前守護代朝倉孝景(あさくらたかかげ)の幕府帰参は東軍の優勢を決定づけ、1473年に両軍の総帥持豊と勝元が相次いで死去すると、両軍首脳には厭戦(えんせん)気分がみなぎった。ことに山名氏惣領(そうりょう)の政豊が東陣に帰参し、幕府から山城守護に補任されるに及んで、細川、山名両氏の対立という初期の構図はまったく色あせ、本来の立役者政長・義就の両畠山氏が両軍を代表した形で徹底抗戦を叫ぶ状況に変化したのである。かくして1477年(文明9)9月、畠山義就が長期にわたり占領していた山城を退去し、同年11月に大内政弘、土岐成頼らが分国に引き上げることにより、京都を中心とする戦乱はようやく収束にこぎ着けた。政弘、成頼らは乱前に保持していた守護職を還補されたが、義就のみはついに赦免されず、実力で地盤を構築するほか存立の道をとざされたため、奮迅の勢いで河内(かわち)の政長軍攻撃に乗り出す。したがって、河内、大和、南山城ではなお戦火が続行、拡大し、義就は同年中には完全に河内を制圧、大和を勢力下に収めて、1482年(文明14)には南山城に侵入、翌年には宇治川以南を実力占拠し、やがて山城国一揆を引き起こす。
[今谷 明]

乱の結果

応仁の乱をこのように義就、政長の抗争を軸としてみると、真に大乱が終息するのは1485年(文明17)の山城国一揆成立であり、畿内(きない)の農民、土豪の自立、成長が、無意味な守護大名の抗争に終止符を打ったという評価もできよう。以後、大乱に参加した諸大名は、幕府の権威による分国支配が困難となり、実力による領国統治権の確保の必要性に迫られることになった。また幕府の実質的支配領域、すなわち幕府の威令の届く範囲も漸次縮小され、1487年(長享1)の六角征伐、1493年(明応2)の河内出陣を通じて幕府の動員兵力は畿内近国の守護軍と奉公衆に限られるようになり、幕府の裁判権行使も畿内に限定されてくる。このように事実上、畿内政権と化した室町幕府を、実力で押さえるようになるのが細川氏であった。同氏は他の大名と異なって、家督紛争を起こさず族的結合を維持し、乱中乱後を通じて首脳部が京都に常駐し、1493年4月の政変で将軍の廃立を強行し、政敵畠山政長を暗殺してからは完全に幕閣の主導権を掌握した。細川氏が畿内において戦国大名化の道を踏み出したこの年を、戦国時代の始まりとする説が有力である。政所執事、侍所開闔(かいこう)、右筆方(ゆうひつかた)など幕府の諸機構は、事実上、細川氏の行政機関化するに至る。
 地方では荘園制の解体が決定的となり、守護代層や有力国人が台頭し、彼らのうちには自ら戦国大名化する者も出現した。荘園制と在地領主制を基軸とする中世国家の枠組みが最終的に崩壊するのも、この乱の重要な結果である。したがって、日本の歴史を二分する大きな時代転換の契機をこの大乱に求める説が有力である。一方、戦争による混乱にもかかわらず、義政の浄土寺山荘を中心に東山(ひがしやま)文化という公家(くげ)、武家、禅の融合による新しい思潮、芸術が発生し、戦乱を地方に避けた僧侶(そうりょ)や公卿(くぎょう)たちによってそれが地方に伝播(でんぱ)された。この文化は、庶民の生活様式のなかに定着するという重要な一面をもち、近世庶民文化の源流をなす意義をもつ。また、戦火を免れた奈良は京都に次ぐ大都市として発展し、一条教房(いちじょうのりふさ)が乱を避けた土佐(とさ)中村や、京の禅僧が多く流寓(りゅうぐう)した周防(すおう)山口、出雲(いずも)富田(とだ)は、戦国大名の庇護(ひご)とも相まって、西国における新興都市として文化の中心地となっていった。
[今谷 明]

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1. おうにん の 乱(らん)
日本国語大辞典
室町時代、応仁元年(一四六七)から文明九年(一四七七)まで一一年間続いた、京都を中心とする内乱。将軍家の相続問題と、畠山・斯波両管領家の家督争いから、諸国の守護 ...
2. 応仁の乱画像
日本大百科全書
南山城に侵入、翌年には宇治川以南を実力占拠し、やがて山城国一揆を引き起こす。今谷 明乱の結果応仁の乱をこのように義就、政長の抗争を軸としてみると、真に大乱が終息 ...
3. おうにん‐の‐らん【応仁の乱】
デジタル大辞泉
応仁元年〜文明9年(1467〜1477)、細川勝元と山名宗全の対立に将軍継嗣問題や畠山・斯波(しば)両家の家督争いが絡んで争われた内乱。戦いは京都で始まり、のち ...
4. 応仁・文明の乱
日本史年表
細川勝元 ・ 畠山政長 ら(東軍), 山名宗全 ・ 畠山義就 ・ 斯波義廉 ら(西軍)と戦う( 応仁の乱 始まる)(後法興院政家記)。 1477年〈文明9 丁酉 ...
5. おうにん・ぶんめいのらん【応仁・文明の乱】画像
国史大辞典
もつ家臣がそれにかわって戦国大名への道をきりひらくのである。応仁の乱はまさに戦国時代の序曲であった。 [参考文献]永島福太郎『応仁の乱』(『日本歴史新書』)、永 ...
6. 応仁の乱後の文化の地方伝播[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
〓Shogakukan ...
7. 応仁の乱初期の両軍勢力[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
8. 応仁の乱初期の両勢力配置図[図版]画像
国史大辞典
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9. 応仁の乱の被災地域[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
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10. 応仁の乱の両軍勢力分布[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
〓Shogakukan ...
11. 書評 歴史書の棚 英雄が出てこない応仁の乱の正しい見方=今谷明
週刊エコノミスト 2016-17
応仁の乱は応仁元(1467)年に始まったのであるけれど、終結したのが文明9(1477)年なので、「応仁文明の乱」と学界では呼ぶことが多い。大乱終結直後に著された ...
12. あいおいし【相生市】兵庫県
日本歴史地名大系
守護勢力は検断等を通じて庄内に浸透し、とくに嘉吉の乱後、守護赤松氏に代わって守護山名氏が支配の度合を強めた。応仁の乱後は守護に復した赤松氏の協力なしには矢野庄支 ...
13. あいちぐん【愛知郡】愛知県
日本歴史地名大系
那古野庄も所領争いを生じて荘園はしだいに崩壊に向かい、室町時代に守護となった管領斯波氏による領国化が進んだ。応仁の乱以降は守護代の織田氏一族がこれに代わって尾張 ...
14. あいのまち【愛野町】長崎県:南高来郡
日本歴史地名大系
また応安六年(一三七三)九州探題の今川了俊の軍勢が征西将軍宮の勢力を攻略した際も合戦の場になったようである。応仁の乱後は有馬氏の台頭が著しく、町域もその支配下に ...
15. 白馬節会
世界大百科事典
ようになった。左右馬寮が白馬21匹を引き,天皇,群臣の前を7匹ずつ3組にして引き回してゆく。応仁の乱以後,一時行われなくなったこともあるが,明治維新に廃絶される ...
16. あおじじょうあと【青地城跡】滋賀県:草津市/部田村
日本歴史地名大系
ら、周囲に堀をめぐらしていたとみられ、城の規模は方二町程度と推定される。青地忠綱の築城とも、応仁の乱後の築城ともいわれる(「近江栗太郡志」など)。当城を根拠とし ...
17. あかなべのしょう【茜部庄】岐阜県:岐阜市/旧厚見郡地区
日本歴史地名大系
文安二年(一四四五)には東大寺の公人友清による代官請負となっている(同年五月一二日東大寺公人友清代官職請文)。応仁の乱以後のことはほとんどわからない。文明九年( ...
18. 赤松氏
世界大百科事典
代わった。その後,政則は一族が後南朝から神璽(しんじ)を奪還した功によって幕府出仕を許され,応仁の乱中に旧領国の支配権を回復したが,実権は家臣とくに浦上氏に握ら ...
19. あかまつさいこうき【赤松再興記】
国史大辞典
幕府への出仕を許され、やがて嘉吉の乱以前の播磨・備前・美作三国守護の地位を復した経緯、さらに応仁の乱後の赤松氏の領国内に浦上・宇喜多氏らの成長があって争乱のつづ ...
20. あかまつし【赤松氏】画像
国史大辞典
弑逆の嘉吉の乱を起して、山名・細川氏らの軍勢に追討され、一時赤松氏は没落したが、一族の政則が応仁の乱前後のころに家運を再興し、再び播磨・備前・美作三国守護となっ ...
21. 赤松政則
世界大百科事典
り神璽を奪還した功により再興される。この家督継承者が赤松満祐の弟義雅の孫にあたる政則である。応仁の乱が起こると東軍細川方にくみし,まもなく播磨,備前,美作3国の ...
22. あかまつまさのり【赤松政則】画像
国史大辞典
管領細川勝元や蔭凉軒主季瓊真蘂の助力もあって、満祐の弟義雅の孫にあたる政則(四歳)に赤松宗家の家督が許された。応仁の乱が起ると、政則は東軍細川方に党し、間もなく ...
23. あがたむら【阿形村】兵庫県:小野市
日本歴史地名大系
鹿町)の妙見社へ赤松満政退治を立願し、当村を寄進したという。満政の攻撃は失敗。のち赤松政則は応仁の乱の間隙に乗じて播磨を回復するが、文明一五年(一四八三)一二月 ...
24. あきぐん【安芸郡】
国史大辞典
を打ち立てた。南北朝時代に細川氏が土佐の守護となってから、安芸氏は細川氏に属して活動したが、応仁の乱後細川氏が衰えるに及び、安芸国虎が台頭し、長宗我部氏と拮抗し ...
25. あきぐん【安芸郡】 : 安芸郡/(二)
国史大辞典
を打ち立てた。南北朝時代に細川氏が土佐の守護となってから、安芸氏は細川氏に属して活動したが、応仁の乱後細川氏が衰えるに及び、安芸国虎が台頭し、長宗我部氏と拮抗し ...
26. あきづのしょう【秋津庄】和歌山県:田辺市/下秋津村
日本歴史地名大系
に「十二町 八講領 秋津庄」とみえる。ただしこの覚書には疑義があるとされ、確かではない。なお応仁の乱では当地の土豪・地侍らも渦中に引込まれ、熊野本宮系統の山本・ ...
27. 安芸国
世界大百科事典
この対立は65年(寛正6)の幕府による河野討伐戦にも持ち込まれ,大内教弘は河野氏を助けた。 応仁の乱(1467)には大内与党の厳島神主竹原小早川らは西軍に,武田 ...
28. あきのくに【安芸国】広島県
日本歴史地名大系
主を従属させて強力な支配を展開することなく、国人領主たちが自らの支配を守って地域連合を進め、応仁の乱でも東西に分れて争うという状態が生じたが、そこへ大内氏や尼子 ...
29. あくたがわしゅく【芥川宿】大阪府:高槻市/芥川村地図
日本歴史地名大系
ともに京都攻撃の意を固めて「正月八日ノ午ノ刻ニ芥川ノ宿ニ陣ヲ取ル」とみえることからも知られよう。応仁の乱の東軍敗北の流れをうけて芥川城がいったん滅んだときも、戦 ...
30. 芥川城
世界大百科事典
芥川城(平城)と,背後の山地,通称三好山に築かれた第2期芥川城(山城)がある。芥河氏の本家は応仁の乱中に滅亡し城館もいったん荒廃したが,その後細川政元が再建をめ ...
31. あくたがわむら【芥川村】大阪府:高槻市地図
日本歴史地名大系
こののち鎌倉幕府御家人芥河氏一族がこの宿を拠点に成長し、宿の北辺に居城芥川城を構えた。同城は応仁の乱による退転ののちも細川氏に再興され、永禄一一年(一五六八)九 ...
32. あくみかんべ【飽海神戸】愛知県:豊橋市/飽海村
日本歴史地名大系
寛正五年(一四六四)六月二一日の庁宣(同書)によると、守護より役夫工米を課せられるなど武家の押領が進んでいる。応仁の乱前後には、文明七年(一四七五)二月の庁宣案 ...
33. 安居院
世界大百科事典
形成した。説話集《神道集》は安居院作と記してあるが確証はない。安居院流は室町時代まで栄えたが,応仁の乱で寺坊が焼失し,廃絶した。村上 学 澄憲 安居院流 聖覚 ...
34. あぐい【安居院】
国史大辞典
盛んで、依然として貴族・庶民に説教し『神道集』も著わされ、その名声はさらに広まった。しかし、応仁の乱に安居院が焼かれてまた再興されず、寺はついに廃絶した。→澄憲 ...
35. あぐいあと【安居院跡】京都市:上京区/成逸学区/前之町地図
日本歴史地名大系
応仁の乱まで現京都市上京区前之町にあった寺。もと近江比叡山東塔竹林院の里坊(円光大師行状画図翼賛)で、所在地の地名でもあった。「山槐記」永暦元年(一一六〇)一一 ...
36. あこうぐん【赤穂郡】兵庫県
日本歴史地名大系
海沿いでは戦国時代になると真宗の台頭が著しく、播磨六坊の万福寺と永応寺(ともに現赤穂市)が創建された。応仁の乱以来、播磨は激動の時代を迎える。東軍に属した赤松政 ...
37. あこうし【赤穂市】兵庫県
日本歴史地名大系
理解することができよう。ただそれ以降近世に至るまでは、市域における製塩の実情は明らかでない。応仁の乱が始まって赤松氏が守護に復帰するが、戦国期にあっては赤松・浦 ...
38. 浅井氏
世界大百科事典
示す史料がなく,おそらく浅井郡丁野郷(滋賀県長浜市の旧湖北町)付近を本拠とした国人であったと思われる。応仁の乱ごろより活動が現れるが,勃興したのは亮政(すけまさ ...
39. あさいし【浅井氏】画像
国史大辞典
浅井郡丁野郷(滋賀県東浅井郡湖北町)付近を本拠にした土豪で、守護京極氏の古い被官だという以上わからない。応仁の乱ごろより活動が伝えられるが、勃興したのは亮政の時 ...
40. 朝倉氏
世界大百科事典
て,中野,松尾,阿波賀,向,三段崎,東郷,中島,北庄,鳥羽の支族を分出。敏景(孝景)のとき,応仁の乱および主家斯波氏の内紛に乗じ,1471年(文明3)越前一国を ...
41. 朝倉家記
世界大百科事典
《朝倉始末記》の異本の一。数種の朝倉氏関係文献を収集筆写した《朝倉家録》(富山県立図書館蔵)所収のものは,応仁の乱中朝倉氏を東軍に勧誘した幕府政所伊勢氏の書状, ...
42. あさくらし【朝倉氏】画像
国史大辞典
中野・松尾・阿波賀・向・三段崎・東郷・中島・北庄・鳥羽などの支族に分かれた。教景の嫡孫孝景(敏景)は応仁の乱の陰の立役者で、文明三年(一四七一)黒丸より一乗谷に ...
43. あさくら‐たかかげ【朝倉孝景】
デジタル大辞泉
いう。斯波(しば)氏に仕えていたが、内紛に乗じて越前を領し、一乗谷(いちじょうだに)に築城。応仁の乱で斯波氏に代わって越前守護となった。  ...
44. あさくらたかかげ【朝倉孝景】画像
国史大辞典
文正元年(一四六六)七月の大野・井野合戦などで、千福・増沢・二宮の諸氏を圧倒し、越前の統一を進めた。応仁の乱がおこると義廉を擁して京都の西軍の主力として活躍し、 ...
45. あさくらたかかげ【朝倉孝景】 : 朝倉孝景/(一)
国史大辞典
文正元年(一四六六)七月の大野・井野合戦などで、千福・増沢・二宮の諸氏を圧倒し、越前の統一を進めた。応仁の乱がおこると義廉を擁して京都の西軍の主力として活躍し、 ...
46. あさくら-たかかげ【朝倉孝景(1)】
日本人名大辞典
1428−1481 室町時代の武将。応永35年4月19日生まれ。応仁の乱を機に守護斯波(しば)氏にかわって越前(えちぜん)(福井県)を支配。一乗谷を本拠に戦国大 ...
47. 朝倉敏景
世界大百科事典
主家の内紛に乗じ守護代甲斐氏などの諸氏を圧倒し,一乗谷を本拠として越前を統一し戦国大名に成長。応仁の乱では初め西軍のち東軍に寝返る。家訓《朝倉孝景条々》をのこす ...
48. 朝来(市)画像
日本大百科全書
氏に備えて、守護代太田垣氏に竹田城を築かせたという。以後太田垣氏が同城を拠点に朝来郡を管轄。応仁の乱では侵入した丹波の細川勢を太田垣勢が夜久野(やくの)で撃退し ...
49. あさごぐん【朝来郡】兵庫県
日本歴史地名大系
越えて播磨に入り赤松満祐を滅ぼす戦功をあげ、山名持豊は播磨守護を兼ねるとともに幕府の実力者となり、応仁の乱には西軍の総帥となった。応仁二年(一四六八)山名氏の領 ...
50. あざいのしょう【浅井庄】滋賀県:東浅井郡
日本歴史地名大系
段銭が免除され、その礼として幕府に五貫文が納められている(「大乗院寺社雑事記」同月二日条)。応仁の乱後は守護六角高頼の押領によって興福寺の領有はまったく有名無実 ...
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山崎の戦い(日本大百科全書(ニッポニカ))
1582年(天正10)6月、本能寺の変のあと、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が山城国山崎(京都府乙訓郡大山崎町)で明智光秀を討った戦い。本能寺の変の起こったとき秀吉は、毛利輝元の部将清水宗治の備中高松城を水攻めにしていた。信長の死を知った秀吉は、それを秘して毛利氏と講和を結び、2日後には姫路城に戻って軍備を整え
本能寺の変(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正十年(一五八二)六月二日、明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を急襲して自刃させた反逆事件。備中高松城を囲んでいた豊臣秀吉からの戦況報告で織田・毛利両軍の全面的対決を決意した信長は五月十七日、徳川家康の供応にあたっていた光秀にも出陣を命じた。すぐに光秀は本拠近江坂本城に帰り
応仁の乱(日本大百科全書(ニッポニカ))
1467年(応仁1)~1477年(文明9)の11年間にわたり、細川勝元と山名持豊(山名宗全)とをそれぞれの大将として、諸国の大・小名が東西両軍に分属し、京都を主戦場として戦った大乱。応仁・文明の乱ともいう。乱の原因 室町幕府は基本的には、守護領国制を基盤とする有力守護大名の連合政権的性格
川中島の戦い(日本大百科全書(ニッポニカ))
戦国時代に甲斐の武田信玄と越後の長尾景虎(後の上杉謙信)とが、信州川中島で北信濃の領有をめぐり数度対戦した合戦の総称。合戦は1553年(天文22)から1564年(永禄7)の長期にわたって行われ、おもな対戦だけでも1553年、1555年(弘治1)、1557年、1561年(永禄4)、1564年の5回
文禄・慶長の役(国史大辞典)
文禄元年(一五九二)から慶長三年(一五九八)にかけ、豊臣秀吉が明征服をめざして朝鮮に侵略した戦争。この戦争の呼称について、朝鮮では当時の干支をとって「壬辰・丁酉の倭乱」と呼び、明では日本が侵入した明の辺寨(朝鮮)をおさえるという意味で、「万暦朝鮮の役」と呼ぶ
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「応仁の乱」は日本の歴史に関連のある記事です。
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初花肩衝(日本国語大辞典)
解説・用例 茶入。大名物。漢作唐物。素地は茶褐色。形状、釉の色ともに優美で気品が高く、春に先がけて咲く梅の花に似るとして足利義政が名づけたという。織田信長・徳川家康・豊臣秀吉らが所持し、のち再び家康に渡って徳川家に伝来した。三肩衝の一つ。
百舌鳥古墳群(日本歴史地名大系・国史大辞典・日本大百科全書)
台地と称される中位段丘上に東西四キロ、南北四・五キロにわたって分布する古墳群の総称。日本最大の大仙古墳(仁徳天皇陵に治定)をはじめミサンザイ古墳(履中天皇陵に治定)・田出井山古墳(反正天皇陵に治定)・ニサンザイ古墳などとそれに関連する陪冢および丸保山古墳(国指定史跡)
誉田古墳群(国史大辞典)
大阪府藤井寺・羽曳野両市にまたがる丘陵地帯に分布するわが国有数の古墳群で、古市古墳群とも呼ばれている。応神陵を中心に北方に仲姫陵・允恭陵、南には墓山古墳、白鳥・清寧・仁賢・安閑の諸陵など、中期初頭から後期にかけての大型前方後円墳などが群在している。応神陵陪塚の
古市古墳群(日本歴史地名大系・日本大百科全書)
羽曳野丘陵北辺の台地上、羽曳野市北西部から藤井寺市にわたる、東西三キロ、南北四キロの範囲に分布する大古墳群。前方後円墳一九基以上、前方後方墳一基、方墳一一基以上、円墳二五基以上で構成される。群のほぼ中央に位置する、墳丘全長四一五メートルの誉田御廟山古墳
新撰姓氏録(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・国史大辞典)
815年(弘仁6)に編纂された古代氏族の系譜書。本書の編纂は799年(延暦18)、諸国に本系帳の撰上を命じたことに始まる。814年に至り万多親王、藤原園人、同緒嗣らによって完成されたが、さらに源朝臣の条などを追加し、不備な点を補って翌年に朝廷に
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