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文禄・慶長の役

ジャパンナレッジで閲覧できる『文禄・慶長の役』の国史大辞典のサンプルページ

文禄・慶長の役
ぶんろく・けいちょうのえき
文禄元年(一五九二)から慶長三年(一五九八)にかけ、豊臣秀吉が明征服をめざして朝鮮に侵略した戦争。この戦争の呼称について、朝鮮では当時の干支をとって「壬辰・丁酉の倭乱」と呼び、明では日本が侵入した明の辺寨(朝鮮)をおさえるという意味で、「万暦朝鮮の役」と呼ぶ。これに対し、日本では当初「唐入り」とか「高麗陣」とか呼んだが、江戸時代にはいり、「征韓」とか「朝鮮征伐」と呼ぶようになり、近代に至っても「朝鮮征伐」の呼称は続いたが、それとならんで「文禄・慶長の役」とも呼ばれるようになった。今日では「文禄・慶長の役」「朝鮮出兵」「朝鮮侵略」と呼ぶのが一般的である。秀吉が東アジア征服構想を持った背景として、十五―十六世紀における東アジア世界の変動があげられる。それは朝貢貿易と海禁による明の冊封体制が緩み、倭寇の貿易が盛んとなったこと、さらに、ポルトガルをはじめとする南蛮諸国の貿易船が東アジアに進出し、明がおさえていた東アジアの通交関係を崩したことである。これにより、東アジアにおける明帝国の地位は低下した。明征服をめざした秀吉の朝鮮侵略はこのような時期に行われた。ところで、この東アジア征服構想は天正十三年(一五八五)の秀吉の関白就任直後からみられるが、同十五年の九州征服を契機とし「高麗・南蛮・大唐」までも従えるというようになった。そして、対馬の宗氏をつうじ、秀吉は朝鮮にみずからのもとに服属し、明征服の先導をするよう命じた。しかし、旧来朝鮮と深い交易関係をもっていた宗氏は秀吉の指示を曲げ、家臣の柚谷康広を日本国王使に仕立て、秀吉が日本を統一し新たに国王となったので親善の通信使を派遣してほしいと朝鮮に要請した。はじめ、朝鮮側は秀吉が日本国王の地位を簒奪したものとみなし、これを断わった。ついで同十七年、秀吉の強硬な命令により、宗義智(よしとし)みずからが博多聖福寺の外交僧景轍玄蘇、博多の豪商島井宗室らとともに朝鮮に渡海し、秀吉の日本統一を祝賀する通信使の派遣を重ねて要請した。その結果、黄允吉・金誠一らが通信使として日本に渡り、同十八年十一月、秀吉は聚楽第でかれらを引見した。その際、秀吉はこの通信使を服属使節と思いこんで「征明嚮導」(明征服の先導をすること)を命じた。これが朝鮮国王のもとに報告されることになったが、秀吉は翌十九年から肥前名護屋城を明征服の基地にするための築城普請を行なった。一方、宗義智と小西行長は対馬がこれまでもっていた朝鮮通交の権益を維持するため、秀吉の「征明嚮導」命令を「仮途入明」(明に入りたいので朝鮮の道を貸してほしい)という要求にすりかえて朝鮮側に交渉したが、朝鮮はこれを拒絶した。

〔第一次朝鮮侵略(文禄の役)〕

天正二十年三月、秀吉は十六万の日本の兵力を九軍に編成して朝鮮に渡航させた。四月十二日、宗義智と小西行長の率いる第一軍は釜山に上陸。そして、「仮途入明」の最後通牒を朝鮮側に示したが、朝鮮側からは返事がなく、日本軍は釜山城を陥す。ついで翌日、宗義智らの日本軍は東莱城に迫り、「戦うなら相手になろう、戦わなければ道を通せ」と東莱城に木札を投げ込んだ。これに対し、東莱府使宋象賢らの朝鮮側は「死するは易し、されど道を通すは難し」と木札を投げ返した。ここから東莱城の攻防戦が始まったが、日本軍はこれも陥した。かくして、第一次朝鮮侵略(文禄の役)が始まる。宗義智・小西行長らの第一軍についで加藤清正・鍋島直茂らの第二軍、黒田長政らの第三軍が朝鮮に侵入。同年五月三日、朝鮮の都漢城(ソウル)が陥落し、朝鮮国王は逃亡。五月十八日、その報告に接した秀吉は、明征服ののち、後陽成天皇を北京に移し、日本の天皇は良仁親王か智仁親王とし、豊臣秀次を中国の関白に、日本の関白には羽柴秀保か宇喜多秀家を任命し、秀吉自身は日明貿易の港であった寧波(ニンポー)を居所とし、朝鮮は羽柴秀勝か宇喜多秀家に与えるなどの大陸経略構想を関白秀次に示す。漢城を陥した日本軍は京畿道に宇喜多秀家、忠清道に福島正則、全羅道に小早川隆景、慶尚道に毛利輝元、黄海道に黒田長政、平安道に小西行長、江原道に森吉成、咸鏡道に加藤清正をそれぞれ部将として、朝鮮全域に侵入。その目的は朝鮮全域を明征服の足場として固め、釜山から義州までの道筋確保にあった。このころ、秀吉は自身の朝鮮渡海を計画していたが、徳川家康らの引きとめにより、それを延期し、かわって石田三成らが朝鮮奉行として渡海し、朝鮮に在陣する諸大名を指揮することとなる。朝鮮の各地に侵入した諸大名はまず朝鮮農民の支配を行なった。農民を農耕につかせ、兵糧米をとり、反抗するものを処罰する占領政策を施行した。咸鏡道の場合、鍋島直茂は朝鮮農民を人質にとり、人質と引きかえに兵糧米をとった。この侵略行為に対し、朝鮮農民は両班層を指導者に、義兵を組織し決起した。慶尚道では郭再祐の率いる義兵が、全羅道では高敬命の率いる義兵が、日本軍の侵略直後に起り、日本の侵略が朝鮮奥地へ進むにつれ、義兵の決起は朝鮮全域にひろまった。また、李舜臣の率いる朝鮮水軍は日本水軍を破って日本の補給路を止め、明からもいち早く救援軍が朝鮮に入る。文禄二年一月、李如松を提督とする明軍は平壌に陣する小西行長・宗義智の日本軍を破って、漢城に向けて南下。これに対し日本軍は漢城の北方にある碧蹄館(駅)で明軍を破り、李如松は撤退した。平壌と碧蹄館の戦を契機とし石田三成ら朝鮮奉行は咸鏡道の清正らをも漢城に撤退させることとした。清正は咸鏡北道吉州城に籠城している家臣を救出し、鍋島直茂らとともに漢城へひき揚げた。碧蹄館の戦で明軍が敗北したものの、明軍の南下により、朝鮮軍は勢いづいた。同年二月、日本軍が漢城に結集するのを見、全羅道巡察使権慄の率いる朝鮮軍は漢城の西、幸山城に陣を構えた。日本軍はこれを攻めたが反撃を受けた。

〔日明講和交渉の経過〕

碧蹄館の戦で李如松は一敗地にまみれたが、同年三月、明の軍務経略(明で兵を動かすとき、経理・提督のうえに置かれる総指令官、文官があたる)宋応昌は漢城に陣する日本軍の糧道を断つ作戦を考え、漢城の南にある竜山倉(もともと朝鮮国家の租税米の収納倉、それを日本軍が接収)を焼討ちした。これにより、漢城に陣する日本軍は残っていた二ヵ月分の兵糧のほとんどを失い窮地に立った。同年四月、これを機会に明の遊撃将軍沈惟敬は小西行長に「まもなく四十万の明兵が出動し、日本軍を攻めてくる。いま、二人の朝鮮王子を還し、日本軍が漢城を撤退すれば、明日両国の関係は治まるだろう」と威喝し、日本軍はここで沈惟敬の提案を聞き入れた。和議の前提条件として、(一)さきに清正が咸鏡道で捕らえた二人の朝鮮王子は還す、(二)日本軍は漢城を去り、釜山浦まで引きあげる、(三)開城に陣する明軍は日本軍の漢城撤退と同時に遼東へ引きあげる、(四)そのうえで、明から日本に講和使節を派遣する、ということとなった。この講和交渉は講和に反対する朝鮮を除外して進められた。ここで明の軍務経略宋応昌は策略を企て、配下の謝用梓と徐一貫を明皇帝からの使節と詐称して日本の軍営に送り込んだ。日本軍はこの二人を正式の明使節と思い込み、かれらを連れ、漢城を離れて釜山に向け南下した。偽りの「明使節」は石田三成らの案内により、同年五月十五日、肥前名護屋に着く。徳川家康や前田利家らは「明使節」を歓待し、景轍玄蘇や南禅寺の玄圃霊三らはかれらと和議の折衝を行い、その折衝を踏まえて相国寺の西笑承兌が和議条件草案をまとめ、六月二十八日、秀吉は和議条件七ヵ条と「大明勅使に告報すべき条目」を「明使節」に示した。和議条件七ヵ条の要点は、(一)明皇帝の姫を日本の天皇の后にすること(第一条)、(二)日明両国において近年勘合が断絶しているので、今回、これを改め、官船と商舶の往来を図る(第二条)、(三)朝鮮の領土は明に免じて北四道と漢城を朝鮮国王に還す(第四条)、というものであった。また、「大明勅使に告報すべき条目」は、(一)「日本は神国」であり、秀吉は「日輪の子」であり、秀吉の天下統一は天命である、(二)秀吉は海賊取締令によって海路を平穏にしたのに、明が謝詞を示さなかったのは日本を小国と侮ったもので、ゆえに明を征しようとして兵を起した、(三)朝鮮は日本と明との会談を斡旋すると約束したが、それを実行しなかったので、日本はその違約をただすために朝鮮に兵をだしたところ、朝鮮が抵抗して戦となった、(四)明は朝鮮の急難を救おうとして利を失ったが、その責任は朝鮮にある、というものであった。謝用梓らはこの条件を聞き入れ、翌二十九日、名護屋を離れた。一方、謝用梓ら「明使節」が名護屋にとどまっていたころ、朝鮮では沈惟敬と小西行長は策を練り、行長の家臣内藤如安を偽りの講和使節に仕立て、偽作した秀吉の「降表」(表とは皇帝に奉る文書)を持たせて明皇帝のもとへ派遣した。北京に着いた如安は、(一)釜山周辺に駐屯する日本軍の撤兵、(二)日本は朝鮮と和解し、明の宗属国となる、(三)秀吉は冊封のほか貢市を求めない、と申し入れた。この結果、明から冊封使が来日し、文禄五年九月、大坂城で秀吉に明皇帝からの封王の金印と冠服を捧げたが、明皇帝の誥勅には「茲に特に爾を封じて日本国王と為す」(原漢文)とあるのみで、秀吉が提示した和議条件はまったく無視されていた。これが第二次朝鮮侵略(慶長の役)をひき起した。

〔第二次朝鮮侵略(慶長の役)〕

慶長二年二月、秀吉は朝鮮南四道を実力で奪うことを目的に、再び十四万の軍を朝鮮に派兵し、慶尚道の沿岸に城郭(倭城)を普請させ、これを日本軍の拠点とした。そして当面の攻撃目標を全羅道においた。同年七月、日本軍の主力はまず元均(元均は李舜臣の出世を妬んで李舜臣を陥れ、忠清・全羅・慶尚三道の水軍統制使となっていた)の率いる慶尚道巨済島の朝鮮水軍を破り、元均は加徳島で敗死した。この巨済島の戦(唐島(からしま)の戦)を皮切りに第二次朝鮮侵略が始まったが、これ以後、日本軍と朝鮮・明軍との間に行われた主な戦いとしては次のものがある。(一)慶長二年八月、慶尚道黄石山城(黄石山は慶尚道居昌から全羅道全州へつうじる境)の戦。朝鮮側はこの地点を死守したが、加藤清正らの日本軍がこれを陥す。(二)同年八月、全羅道南原城(南原は全羅・慶尚両道の要衝)の戦。明の副総兵楊元は全羅道の朝鮮軍とともに南原城の守備を固めた。宇喜多秀家・島津義弘らの日本軍はこれを陥落させ、楊元は逃走。(三)同年九月、忠清道稷山(稷山は忠清北道の京畿道に接した地点)の戦。毛利秀元と黒田長政の兵が明軍の副総兵解生の軍と戦うが決着つかず、両軍とも引き揚げる。同じころ、加藤清正の兵は忠清道清州を占領し、ついで、京畿道の南部にある安城と竹山境を攻略。(四)同年十二月から翌慶長三年正月にかけての蔚山(ウルサン、慶尚道蔚山は釜山浦から慶州への要衝の地点)の籠城。慶長二年十一月初め、加藤清正・浅野幸長らは蔚山で新城普請にかかる。明・朝鮮軍は十二月二十二日ごろ、蔚山城に迫り蔚山城の水道を断つ。このため蔚山城の日本軍は兵糧も水も尽き籠城。翌三年正月、毛利秀元らが蔚山を囲む明・朝鮮軍を背後から攻め籠城終る。(五)同三年十月、慶尚道泗川(しせん)の戦。前年十月、島津氏は慶尚道泗川に新城普請。ここに明提督董一元の率いる明・朝鮮軍が攻撃したが、蔚山の場合と違い、ここは城普請が終っており、島津氏の鉄炮隊は明・朝鮮軍を撃破。(六)同三年十月、全羅道順天の戦。前年十二月、小西行長は全羅道順天に新城普請。ここに明西路軍提督劉〓の率いる明・朝鮮軍が攻撃したが失敗。ついで明水路将陳〓、および李舜臣の朝鮮水軍が順天城の挾撃をはかったが、これも失敗。(七)同年十一月、慶尚道露梁津の海戦。この年の八月、秀吉の死により、家康ら五大老は朝鮮在陣の諸大名に朝鮮撤退を指示。朝鮮撤退が始まった時、陳〓・李舜臣の明・朝鮮の水軍は順天にいた小西行長らの退路を押えた。このため、島津氏は慶尚道露梁津に陳〓・李舜臣の明・朝鮮の水軍をひきだして戦った。この海戦で島津氏は多大な損害を受けたが、李舜臣も弾にあたって戦死。この間に小西行長らは順天を逃れた。

〔朝鮮侵略の傷跡と影響〕

これらの戦で日本軍による残虐行為が行われた。その第一が鼻切りである。秀吉は老若男女僧俗すべての薙切りを指示しており、秀吉から派遣された軍目付が諸大名から鼻を受け取り、「鼻請取状」をだした。この鼻切りは大名が家臣に戦功の証しとして強制した。清正などは家臣一人に鼻三つを割り当てた。切り取った鼻は塩漬けにして樽に詰め、秀吉のもとに送られた。秀吉は京都東山方広寺の近くに塚を築いてこれを埋め、西笑承兌を導師に命じ「大明・朝鮮闘死の衆」を「慈悲」の心をもって弔うものとし、虚構の供養をした。残虐行為の第二として朝鮮人の「山狩り」がある。日本軍と戦う朝鮮のゲリラは山に隠れ、点と線を押える日本軍を襲撃した。このため、日本軍は朝鮮農民にゲリラの在処を密告したものに褒美を与えるとし、ゲリラの所在がわかり次第、それを殺戮した。残虐行為とならんで朝鮮側に危害を加えたものに朝鮮人捕虜連行がある。その捕虜のほとんどは農民であった。日本、ことに西国では、農民が陣夫役などで朝鮮に駆り出され、農耕人口が手薄となっていたため、連行された朝鮮農民は奴隷として農耕を強制された。また捕虜のなかには陶工がいた。連行された朝鮮陶工は西国の大名たちの領内で陶磁器の生産を強制された。薩摩焼・有田焼・萩焼などの基礎がここに築かれたのである。そのほか捕虜のなかには朱子学者もいた。有名なものとして姜〓の場合をあげることができる。姜〓は朝鮮朱子学の名儒李退渓の門流をくむものであった。かれは南原城への兵糧運搬の監督にあたっていた時、藤堂高虎の兵に捕らえられ、伊予国大津へ連行された。その後、姜〓は伏見に移され、藤原惺窩とめぐりあった。藤原惺窩は姜〓から実践的な朝鮮朱子学を学び、ここに江戸時代朱子学の基礎が築かれたのである。慶長三年八月十八日、秀吉は没した。これにより、徳川家康らは朝鮮在陣の諸大名のもとに撤退の指示をだし、同年十一月、島津氏の撤兵を最後として、この朝鮮侵略は終った。前後七年にわたったこの朝鮮侵略は日本・朝鮮・明の三国にさまざまな影響を与えた。日本では豊臣政権が衰退の一途を辿った。それとともに朝鮮で戦った諸大名は御家の戦功を後世に遺すため、『征韓録』などの記録をまとめた。これらの記録が幕末から近代にかけての征韓論の素材となった。また、朝鮮を救援した明は国力が衰亡し、女真(清朝)に滅ぼされることとなった。これに対し、朝鮮にとってこの戦争は、大量殺戮行為や捕虜連行など、朝鮮民族にはかり知れない傷跡を遺した。秀吉の朝鮮侵略は朝鮮民族のあいだで「壬辰の悪夢」として後世に語り伝えられ、忘れがたいものとなって民族意識のなかに脈うっている。なお、両度の役における個別の戦のうち、以下のものについてはその項目を参照。文禄の役―「錦山(きんざん)の戦」「閑山島の戦」「海汀倉(かいていそう)の戦」「延安の戦」「碧蹄館の戦」「幸州(こうしゅう)の戦」「晋州(しんしゅう)の戦」、慶長の役―「唐島の戦」「蔚山の戦」「泗川の戦」。
[参考文献]
天荊『西征日記』、柳成竜『懲〓録』(朴鐘鳴訳注 『東洋文庫』三五七)、伴信友『中外経緯伝』、北島万次『朝鮮日々記・高麗日記』(『日記・記録による日本歴史叢書』近世編四)、同『豊臣政権の対外認識と朝鮮侵略』、池内宏『文禄慶長の役』正編一・別編一、中村栄孝『日鮮関係史の研究』中、内藤雋輔『文禄・慶長の役における被〓人の研究』、藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』、徳富猪一郎『近世日本国民史』豊臣氏時代丁・戊・己篇、参謀本部編『日本戦史』朝鮮役、李烱錫『壬辰戦乱史』、琴秉洞『耳塚』、三鬼清一郎「太閤検地と朝鮮出兵」(『(岩波講座)日本歴史』九所収)、辻善之助「豊臣秀吉の支那朝鮮征伐の原因」(『(増訂)海外交通史話』所収)、鈴木良一「秀吉の「朝鮮征伐」」(『歴史学研究』一五五)、貫井正之「豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争における朝鮮人民の動向について」(『朝鮮史研究会論文集』一)、田中義成「豊太閤の外征に於ける原因に就て」(『史学雑誌』一六ノ八)、田保橋潔「壬辰役雑考」一(『青丘学叢』一四)
(北島 万次)
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2. 文禄・慶長の役
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3. 文禄・慶長の役
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5. 青木周蔵自伝 290ページ
東洋文庫
『日本書紀』によると、朝鮮を遠征したという〕並に豊臣氏、韓国を征し併せて明国と干戈を交へ〔文禄・慶長の役〕、以て我威武を海外に表示したるも、其の事業たる、広く世 ...
6. あおやちょう【青谷町】鳥取県:気高郡
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合併。〔上野焼〕 「赤池町史」によると、上野焼の陶祖である尊楷は朝鮮釜山の城主尊益の子で、文禄・慶長の役の頃に加藤清正およびその配下の毛利勝信に従って肥前唐津領 ...
8. あきたはんさいしゅうこもんじょ【秋田藩採集古文書】
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9. あきづきたねなが【秋月種長】
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10. あさのけもんじょ【浅野家文書】
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11. あさのながまさ【浅野長政】
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12. あたけぶね【安宅船】
国史大辞典
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13. 安土桃山時代
世界大百科事典
は太閤となった91年から,関ヶ原の戦によって豊臣政権が崩壊した1600年まで。朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を中心に展開される時期であるが,秀次を高野山に追いやって ...
14. あまくぼむら【天窪村】長崎県:西彼杵郡/西海町
日本歴史地名大系
る。地内の高地は馬牧の跡とされる。天崎城跡、天久保館跡がある。天久保氏の所領であったが、文禄・慶長の役に出陣しなかったとして大村吉右衛門の知行になったという(大 ...
15. あらしこ【荒子】
国史大辞典
令に、「奉公人・侍・中間・小者・あらし子」が新儀に町人・百姓になるのを禁じた箇条があり、文禄・慶長の役のときには、在陣中の侍・中間・小者・あらしこ・人夫の欠落を ...
16. ありうらむら【有浦村】佐賀県:東松浦郡/玄海町
日本歴史地名大系
盛の死後における後継者争いで親を有馬家から入れ、岸岳城主としての波多氏を守った。大和守は文禄・慶長の役においては馳走役として名護屋に残り、波多氏滅亡後も有浦郷を ...
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18. 有田[町]
世界大百科事典
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19. 有田焼
世界大百科事典
江戸時代初頭,有田における磁器の創始は,日本陶磁史上画期的な出来事であった。伝承では,佐賀藩主鍋島氏が文禄・慶長の役後に連れ帰った李参平らの朝鮮人陶工の手ではじ ...
20. ありまはるのぶ【有馬晴信】
国史大辞典
同十八年には遣欧使節が招来した活字印刷機により、加津佐において「日本イエズス会版」の刊行が開始された。文禄・慶長の役には、小西行長とともに朝鮮に出陣、軍功をたて ...
21. あわしま【粟島】香川県:三豊郡/詫間町
日本歴史地名大系
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22. あわのくに【阿波国】徳島県
日本歴史地名大系
づいており、家臣の知行割も天正一七年検地の結果を基に行われたと考えられる。この間に家政は文禄・慶長の役などに出陣し、慶長三年の豊臣秀吉の死後は、同五年嫡子蜂須賀 ...
23. 壱岐[市]
世界大百科事典
などの景勝地があり,湯本温泉は壱岐唯一の温泉である。神功皇后をまつる聖母神社や豊臣秀吉が文禄・慶長の役の際に急造させた武末城跡(城山公園)には訪れる人が多い。辰 ...
24. 壱岐島
世界大百科事典
佐伯 弘次 近世 1587年に秀吉は壱岐国を平戸松浦氏にあてがい,翌年勝本城が築造された。文禄・慶長の役には朝鮮への兵員や物資の中継地となり大きな影響を受けた。 ...
25. 石原道博[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:2件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:0件 『明末清初日本乞師の研究』石原道博『文禄・慶長の役』石原道博 ...
26. 石火矢
世界大百科事典
伝といわれる。織田信長,竜造寺隆信らに重視されたが,鉄砲ほどには進歩しなかった。このため文禄・慶長の役では日本軍は海戦において朝鮮水軍の大砲に悩まされ続けた。大 ...
27. いしむろむら【石室村】佐賀県:東松浦郡/鎮西町
日本歴史地名大系
を越天石室堺にとまる」とある。文禄・慶長の役の際、名護屋在陣の大名の陣所跡がこの村にもあり、赤松に真田源吾・結城秀康、石室に筑紫上野介 ...
28. いずみむら【泉村】長崎県:上県郡/上対馬町
日本歴史地名大系
待って二六日泉浦から出船、釜山浦に渡海した(「島津家久譜」旧記雑録)。泉村を公称したのは、文禄・慶長の役で当地に来て近海で漁を行い、諸将に魚を献じていた和泉国佐 ...
29. 伊勢水軍
世界大百科事典
の家臣団に編入されていった。九鬼嘉隆は,織豊政権の水軍組織の中核として,石山本願寺攻撃,文禄・慶長の役等に功をあげ,九鬼氏は大名に成長したが,江戸初期に移封。大 ...
30. いせぶね【伊勢船】
国史大辞典
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31. いていあんあと【以酊庵跡】長崎県:下県郡/厳原町/府中城下/日吉町
日本歴史地名大系
筑前博多聖福寺一〇世の玄蘇は天正八年宗義智の請により来島、当庵を足場に外交書契の主管にあたった。文禄・慶長の役でも従軍し、明使との交渉に活躍、明皇帝神宗から蜀紅 ...
32. いとうすけたか【伊東祐兵】
国史大辞典
翌年八月飫肥・清武・田野など千七百町余に改められ、旧領を復した。同十八年家臣中に結党の徒あるを鎮め、文禄・慶長の役に従軍。文禄検地により三万六千石を確定。関ヶ原 ...
33. いなぐん・いなごう【伊奈郡・伊奈郷】長崎県:対馬国
日本歴史地名大系
。なお朝鮮王朝側は大将を島主代官宗盛親とする(「朝鮮王朝実録」中宗五年四月乙未条など)。文禄・慶長の役に出陣した郡編成で最大の部隊は柳川党で、島主宗義智の側近と ...
34. いなどめりゅう【稲富流】
国史大辞典
以て熱心に技術を探求する者(入門者)に対しては、むしろ開放的に誰にでも極意を伝授したから文禄・慶長の役ごろまでには銃技の秘伝は一般化され、また他の新流派に対し大 ...
35. いのうえ-ゆきふさ【井上之房】
日本人名大辞典
黒田職隆(もとたか),孝高(よしたか)(如水),長政,忠之(ただゆき)の4代につかえ,小田原攻め,文禄・慶長の役などで活躍。筑前福岡藩主となった長政の命で慶長9 ...
36. いまりまち【伊万里町】佐賀県:伊万里市
日本歴史地名大系
地の城山である。天正四年(一五七六)竜造寺隆信に攻略されたがまもなく鍋島氏の支配となる。文禄・慶長の役には鍋島直茂と配下は「伊万里津」から出帆、乗艦国吉丸は伊万 ...
37. いまりやき【伊万里焼】
国史大辞典
形の不安定な皿や碗・壺・鉢などが多く、模様も簡単な柳・松・梅・菊などで李朝磁器に類似している。文禄・慶長の役に従軍した鍋島氏の連れ帰った朝鮮人陶工の手になるもの ...
38. いもうむら【芋生村】熊本県:鹿本郡/鹿北町
日本歴史地名大系
金福寺は慶長の検地帳の下ケ名に「金福寺ノ前」がある。氏神は字鳥越にある金凝神社。村内に「慶心の碑」が建ち、文禄・慶長の役で加藤清正が連れてきた紙漉の工人慶心が移 ...
39. いわくらじょうあと【岩倉城跡】鳥取県:倉吉市/岩倉村
日本歴史地名大系
ている(豊臣記)。同年七月には南条元続が没し、元清は跡を継いだ幼少の元忠の後見役を勤め、文禄・慶長の役では南条元忠の代理として元清は兵一千五〇〇を率いて参陣して ...
40. いんとくたいへいき【陰徳太平記】
国史大辞典
正徳二年(一七一二)に刊行された。正矩の曾祖父光景は毛利元就、祖父春継は吉川元春の部将として活躍、父家景も文禄・慶長の役で武功があったが、戦いが止み武事に力が尽 ...
41. うきた‐ひでいえ【宇喜多秀家】
デジタル大辞泉
[1573〜1655]安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に仕え、四国・九州・小田原征討で軍功をあげ、文禄・慶長の役に参戦、五大老の一人となった。関ヶ原の戦いに敗れ、八 ...
42. ウシウマ
世界大百科事典
からなり上毛を欠く。夏にはほとんど無毛となり,灰色の地肌を現すが個体差がある。島津義弘が文禄・慶長の役に際し朝鮮から持ち帰り,風雪をきらう性質が強いので温暖な種 ...
43. うちぼう・そとぼう【内房・外房】千葉県:総論地図
日本歴史地名大系
延宝二年当時の海高は船役金・鰯干場金や各種魚種の請負などを含んでいた。横渚村(現鴨川市)は漁業権の正当性を文禄・慶長の役や大坂の両陣や江戸城の石垣普請などの際水 ...
44. うら・はま【浦・浜】
国史大辞典
和泉の堺浦、若狭の小浜のように都市として確立してゆくものもあった。しかし近世初頭、特に豊臣秀吉の文禄・慶長の役を契機に漁民に対する課役として水主役が設定されると ...
45. うるさんまちがかり【蔚山町懸】熊本県:熊本市/熊本城下
日本歴史地名大系
この道筋を一・二・三丁目、あるいは上ノ丁・下ノ丁・八百屋町と三町に分ける場合もある。町名は文禄・慶長の役の後、朝鮮の蔚山から連れてきた人々を住まわせたことに由来 ...
46. えいせん【永川】
国史大辞典
韓国またこれによる。益陽・永陽・二水などの別号がある。古来、東莱・慶州より漢城に至る東路の一要地。文禄・慶長の役に、日本軍はエグテンと称した。宣祖二十五年(一五 ...
47. えいとくじあと【永徳寺跡】熊本県:玉名市/高瀬町
日本歴史地名大系
ごとく紛失したという。その後、加藤清正が入国後に熊本に移すことを命じて堂宇を解体したが、文禄・慶長の役の出陣のため放置され、材木は腐朽し寺地も蔵床となり、加藤忠 ...
48. えいまんじむら【永満寺村】福岡県:直方市
日本歴史地名大系
ある(続風土記附録)。宅間の南部には慶長期の高取焼の窯跡が残る。高取焼は遠州七窯の一で、文禄・慶長の役後に黒田長政に従って渡来した朝鮮人陶工八山(のち高取八蔵) ...
49. えどじょう【江戸城】
国史大辞典
もって城東の日比谷入江が埋め立てられて平地化し、同三年には西ノ丸殿舎の建築も行われた。その後文禄・慶長の役、秀吉の病死、関ヶ原の戦などが続いたので築城は休止状態 ...
50. 江戸幕府
世界大百科事典
済の能力を欠く身分におとしめられたのであった。 天下統一の完成後に秀吉が無謀な朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を行ったのは,このようにして戦争に国民を動員することが, ...
「文禄・慶長の役」の情報だけではなく、「文禄・慶長の役」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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