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改訂新版・世界大百科事典

遠江国
とおとうみのくに

旧国名。遠州。現在の静岡県西部,大井川以西。

古代

東海道に属する上国(《延喜式》)。国名は〈琵琶湖=近ッ淡海〉(近江)に対する〈浜名湖=遠ッ淡海〉(遠江)に由来するとされている。7世紀の中葉,遠淡海,久努,素賀の3国造の支配領域を併せて成立したものと思われる。国郡制に先行する国評制下の評として長田評,荒玉評・紀甲評(藤原宮木簡),淵評・駅評(伊場木簡)などが確認されている。令制下では国郡制施行当初の管郡は浜名,敷智(ふち),引佐(いなさ),麁玉(あらたま),長田,磐田,周智(すち),佐益(のち佐野(さや)/(さの)),城飼(きこう),蓁原(はいばら)の10郡で,大国であったと推定されている。国府は磐田市見付,淡海国玉神社(総社)付近にあったとされ,また同市国府台には国分寺址(国指定史跡)がある。709年(和銅2)長田郡を分割して長上・長下の2郡とし,722年(養老6)佐益郡8郷を割いて山名郡を置き,また881年(元慶5)には磐田郡を割いて山香郡を置き,13郡に成長した。人口は奈良時代で8万1000人,平安中期で9万人と推定されている。719年(養老3)按察使(あぜち)が置かれると,遠江国司は駿河,伊豆,甲斐3国を管下においた。《正倉院文書》中に740年(天平12)の〈遠江国浜名郡輸租帳断簡〉があり,現在は湖底に水没した当時の水田が風害にあったようすや農民の家族構成などを知ることができる。災害はまた麁玉河(天竜川)の氾濫によってもしばしばもたらされ,761年(天平宝字5)の大決壊を修理した天宝堤は,今もそのなごりを浜北市にとどめている。遠江国を象徴する浜名湖には浜名橋がかけられ,884年(元慶8)には大規模な改作の行われたことが《日本三代実録》に見える。また浜名湖の〈引佐細江〉などは《万葉集》にみえ,伝空海作《遠江浜名淡海図》(漢文)には平安初期の姿が活写されている。平安時代の荘園として,関白藤原頼通領笠原荘,円勝寺領質侶(しどろ)荘などのほか,蒲御厨(かばのみくりや)をはじめとする伊勢神宮領が国内に多数置かれた点に特色がある。
[原 秀三郎]

中世

鎌倉~室町期

源頼朝は1180年(治承4)8月に伊豆で挙兵し,10月には富士川の戦で平氏軍を破り,遠江守護に安田義定を補任して,みずからは鎌倉に入った。しかし93年(建久4)義定は子義資の罪に縁坐して守護職を解かれた。その後は北条時房をはじめ時房一流(大仏(おさらぎ)氏)が守護職を代々相伝して鎌倉末に至った。なお鎌倉期遠江の在地領主(武士)としては浅羽氏,相良氏,内田氏,横地氏,勝田氏(勝間田氏)らがいた。中世はいわゆる荘園公領制に基礎をおいた社会であったが,遠江は村櫛荘,原田荘,初倉荘,池田荘,蒲御厨などの史料が豊富で,荘園公領制支配の具体的様相を知りうる荘園のほぼ東限をなしている。鎌倉中期以降,各地の荘園はしだいに地頭領主によって荘園諸職や得分が侵害され,地頭請や地頭天野氏の侵害をうけた山香荘にみられるような下地中分(したじちゆうぶん)が行われるようになった。

 南北朝内乱の時代の遠江は南朝方の有力な拠点の一つで,南朝方貴族の荘園が多く,とりわけ浜名湖北域に井伊氏がおり,宗良親王が井伊谷城へ入った。しかし北朝方の遠江守護今川範国らの活躍で諸城が落とされ,南朝方の抗戦も終わった。遠江国守護職は範国の後,一時仁木氏,千葉氏らにも変わるが,主として今川氏がおさえ,斯波義重から今川泰範,そして1419年(応永26)に斯波義淳が任ぜられて以降,室町期には斯波氏が世襲した。しかし斯波氏は越前,尾張の守護を兼ね,遠江を本拠としなかったため,今川貞世(了俊)や仲秋系の遠江今川氏の勢力が根強く残った。応仁・文明の乱では遠江守護斯波義廉が西軍に,駿河守護今川義忠が東軍に投じたため,遠江では国人領主層も含めて乱の渦中に巻き込まれた。なお遠江の国人領主には,室町幕府の奉公衆になったものも多い。荘園公領制はこの間村櫛荘や原田荘細谷郷にみられるごとく,南北朝期の半済(はんぜい)や室町期の年貢の代官請負制などを通じて,しだいに解体・形骸化していった。また農民層の成長も著しく,蒲御厨では代官排斥闘争や徳政一揆なども起こった。

戦国期

今川氏による遠江侵攻は義忠の代にはじまる。義忠は1476年(文明8)斯波氏と結び反乱を起こした勝間田・横地氏を討伐した帰途,その残党のため討死した。これを継いだ氏親は,伯父伊勢新九郎(北条早雲)の援助をうけて遠江へ侵攻し,1508年(永正5)には遠江守護に任ぜられ,17年には引馬城を攻めて遠江における斯波氏の勢力を一掃した。氏親は領国内に検地を行い,寄親寄子制で家臣団を編成し,さらに《今川仮名目録》を制定するなど,領国支配体制の強化をはかった。こうして氏親以降,氏輝,義元,氏真の今川氏4代は戦国大名とよばれ,49年(天文18)に三河一国も支配下におさめた義元段階に,その領国支配は頂点に達した。しかし義元は桶狭間の戦で織田信長に討たれ,68年(永禄11)には徳川家康が遠江へ侵攻して翌年氏真の立てこもった掛川城を開城させ,今川氏は事実上滅亡した。

 家康は1570年(元亀1)に居城を浜松に移し,本格的に遠江の経営にのり出すが,この後10年余りにわたり,武田信玄・勝頼父子と,三方原や長篠の戦,高天神城や二俣城をめぐる攻防など,遠江を中心に抗争をくりかえした。82年(天正10)に武田氏が滅亡し,ついで信長が本能寺で討たれた後,家康は三河,遠江,駿河,甲斐,南信濃の5ヵ国を領有した。そして89年から翌年にかけて,五ヵ国総検地と七ヵ条定書の交付が行われ,小田原攻めに備えた領国内の農民支配体制,軍事体制の強化・整備がはかられた。なおこの総検地は,遠江に残された検地帳により,太閤検地とほぼ同内容のものであることがわかる。

交通,文化

すでに平安末には橋本宿,引間宿,池田宿,見附宿,懸川宿,菊川宿などの宿が設けられていたが,鎌倉幕府の成立により,京と鎌倉を結ぶ東海道の果たす役割が飛躍的に増大した。室町期から戦国期には,流通経済や交易のみならず,軍事行動のためにも,領国内の交通路の整備がはかられた。その一端は今川氏や,とくに徳川氏の天正年間(1573-92)の浜松宿中にあてた伝馬手形,池田や馬籠などの渡船場保護の定書,駿府~岡崎間の宿中に下した伝馬朱印状などからうかがうことができる。

 宗教的には,遠江では鴨江寺,尊永寺,西楽寺など,元来は真言宗の影響が強かった。しかし中世後期には,禅宗それも曹洞宗が大いに発展し,如仲天誾(じよちゆうてんぎん)の開いた森の大洞院や華蔵義曇の開いた引間の随縁精舎(普済寺の前身)などが教線拡大の一大拠点となった。臨済宗も,後醍醐天皇の皇子といわれる無文元選が奥山に方広寺を開くなど,相当の発展を示した。また中世以来民俗芸能の発達もみられた。藤守や小国神社の田遊(たあそび),西浦(にしうれ)の田楽など,豊作への予祝(よしゆく)神事として民衆の共感に支えられながら今に伝えられている。

近世

政治

徳川家康が豊臣秀吉の命により後北条氏滅亡後の関東へ転封したのは1590年(天正18)8月であった。そして遠江の諸城へは,いっせいに豊臣系の大名が配置された。すなわち浜松に堀尾吉晴12万石,掛川に山内一豊5万石,横須賀に渡瀬繁詮3万石,また久野に松下之綱が1万6000石で,それぞれ封ぜられた。これら豊臣系大名は太閤検地をはじめ新たな領国支配を進めるが,1600年(慶長5)の関ヶ原の戦で家康が勝利を収めるといずれも転封させられ,わずか10年でその支配を終えた。

 こうして翌1601年には幕藩体制下の新たな藩制が成立し,浜松藩は松平忠頼5万石,掛川藩は松平定勝3万石,横須賀藩は大須賀忠政6万石となった。久野藩は03年松平重綱が転封,さらに40年(寛永17)に北条氏重が転封して廃藩となった。また19年(元和5)に近藤秀用が1万石で入封して一時井伊谷(いいのや)藩が成立するが,一族5人に分知し,旗本五近藤となり,2年後には廃藩となった。さらに1710年(宝永7)には本多忠晴が1万5000石で入封して相良藩が成立,同藩は58年(宝暦8)に田沼意次が入封して大いに発展するが,その失脚とともに一時廃藩,その後再度田沼氏が入って幕末に至った。遠江の諸藩には徳川家門や譜代大名が主として任ぜられ,また幕閣に連なるものが多数でるなど,移動が激しかった。浜松藩はその典型で,天保改革の水野忠邦など5人の老中を出し,幕末まで藩主の転封がくりかえされた。掛川藩,横須賀藩も当初は同様であったが,前者は1746年(延享3)に太田資俊が,後者は1682年(天和2)に西尾忠成が入封し,以後はそれぞれ太田・西尾両氏で幕末に至った。遠江一国でみると,これら諸藩領はいずれも石高は10万石に満たない小藩であり,天領(幕府領)や旗本領,遠江以外の他藩の飛地などが多かった。たとえば阿多古,西手,奥山,犬居の4領などを含む北遠地方は,一時期徳川頼宣の駿府藩領となった以外は天領であり,遠州中泉代官・川井代官,信州駒場代官などの支配をうけた。とくに中泉代官所の支配地は一時三河,駿河から甲斐にまで及び,その後天保期には遠江,三河の6万石余であった。個々の村々についてみると,これら諸領主の相給支配になっている所も多かった。

社会経済

農民支配の基礎となる検地は,徳川氏の五ヵ国総検地,豊臣系大名の太閤検地をうけて,幕藩体制成立初期の1604年(慶長9)に行われた遠州総検地,いわゆる〈辰之御縄〉が重要である。伊奈忠次が検地奉行となり,天領を中心に遠州一円に実施されたもので,南遠では石高,北遠では永高(永楽銭による高表示)となっているが,いずれにしてもこの検地によって近世村落の基礎が確定された。それゆえ慶長検地は古検とも称され,このときの検地帳は近世を通じて基本的な土地台帳としての役割を持ったため,今日でも各地にかなり残されている。その後とくに寛文・延宝期(1661-81)の検地を通じて,最終的に近世の村落体制ができあがった。

 近世の農村では大河川下流域の新田開発が進展したが,それには灌漑用水の整備が不可欠であった。1588年(天正16)に創設された寺谷用水は天竜川の一支流を開削したもので,これによって磐田郡一帯73ヵ村の用水が整備されたといわれている。また浜松地方には,文化年間(1804-18)に井組21ヵ村によって作られた下飯田用水組合などがある。農民にとって用水の確保は死活問題であり,各地で用水相論も頻発した。1853年(嘉永6)から翌年にかけて起こった仲井用水相論(井組5ヵ村と上山梨村との相論)などは関係史料が豊富で,相論の内容を詳細に伝えている。中期以降幕末にかけては,領主の収奪強化や飢饉などのため百姓一揆も各地で起こるが,遠江では支配体制をゆるがすような大規模な一揆は知られていない。しかし早くも1786年(天明6)には二俣で打毀が起こり,穀類や品物の買占め・売惜しみで物価高騰を招いたとされた商人たちが襲撃された。1823年(文政6)にはいわゆる文政茶一件が起こった。川根地方では早くから茶の栽培が行われていたが,1813年(文化10)に江戸で茶問屋の株仲間ができ,その下に川根組14名,駿府組29名の茶仲間が結成された。この茶仲間の流通の不正や横暴に対して,遠江と駿河113ヵ村の茶生産者が訴訟を起こしたのである。結果は提訴が却下され,首謀者に過料刑が科せられて終わったが,国を越えて農民たちが連合した意味は大きかった。そのほか46年(弘化3)の水野忠邦失脚・転封後に起こった浜松藩の1万人を超す百姓一揆,57年(安政4)に中泉代官所の新たな分一(ぶいち)税賦課などに反対する北遠73ヵ村の分一一揆,60年(万延1)の城下騒動,二俣騒動などがあった。

交通,産業,文化

東海道は近世に入ってますます重要性を増した。幕府の公用・私用の便,とりわけ大名の参勤交代の大通行,一般の旅人や物資の継立輸送などのため,宿駅の整備,交通の安全確保が幕府にとって大きな課題となった。遠江にはいわゆる〈東海道五十三次〉のうち金谷,日坂(につさか),掛川,袋井,見附,浜松,舞坂,新居,白須賀の9宿があった。袋井はやや遅れるものの,おそらくは白須賀も含めて,他の宿駅は関ヶ原の戦の翌1601年(慶長6)に設置されており,幕府開設以前であることからも,東海道を重視した徳川氏の意欲がうかがわれる。また東海道の脇往還として,浜名湖の北部を通る本坂道(通称姫街道)があり,さらに秋葉山から水窪(みさくぼ)を通り,青崩峠を越えて伊那に至る信州街道(秋葉街道)も,地方道として重要であった。遠州からは魚や塩などの海産物,信州からは米や茶などがもたらされた。物資の輸送の面では,陸路よりも海上交通の果たした役割が大きい。伊那地方から切り出された榑木(くれき)は天竜川を下され,掛塚湊から駿府や江戸へ運ばれた。また遠江の湊は大坂~江戸間の海上輸送の中継港として発展し,近世前期までの横須賀湊,それに代わった後期の福田(ふくで)湊,田沼時代に拡張・整備された相良湊,勝間田川河口の川崎湊などが知られている。横須賀湊は1707年(宝永4)の大地震で使用不能になったもので,この宝永と1854年(安政1)の安政大地震とは,南遠地方に大きな被害をもたらした。

 特産物・主要産業としては,まず浜松地方の遠州木綿織物の発達があげられる。北遠山間部ではシイタケ栽培や茶の生産が進み,千頭(せんず)の御用材をはじめ,木材の産地としても知られている。また掛川の葛布,森町の古着,御前崎方面の甘藷や切干しなども有名である。

 宗教的には,中世に引き続き曹洞宗の勢力が大きく,とくに可睡斎(かすいさい)は1583年(天正11)に家康より三遠駿豆4ヵ国の曹洞宗僧録司を命ぜられ,近世に入って大僧録としての地位を確立した。秋葉山頂近くにある秋葉寺の三尺坊は鎮火・防火の神として崇敬を集め,とくに近世以降遠江を中心とする東海道筋に秋葉信仰が広まった。各地に秋葉講が結成され,秋葉供養塔,常夜灯も建てられた。また厄除観音で知られる法多山尊永寺も,遠州一円で庶民の信仰を集めた。このような庶民信仰の中で,とりわけ熱狂的なものとして伊勢への〈お蔭参り〉があり,とくに大規模なものは4度に及び,遠江からの参加者も多かった。幕末1867年(慶応3)の〈ええじゃないか〉騒動は三河にはじまったといわれるが,たちまち東海道筋に広がり,遠江でも8,9月ころに〈お札降り〉が各地で起こり,民衆の乱舞が続いた。この騒動の翌年に討幕運動が急速に進み,明治維新の成立をみた。この東征軍には遠州報国隊も従軍しており,その中心となって活動したのは浜松諏訪神社の杉浦大学など当地方の神官層であった。それには平田派の国学の影響も大きかったが,遠州の国学者としては浜松伊場村に生まれた賀茂真淵や,その門下で《遠江国風土記伝》を著した内山真竜(またつ)などが名高い。

 1868年(明治1)徳川家達の駿府入封により遠江のほとんどは駿府藩(のち静岡藩)となった。71年静岡県・堀江県が成立,のち浜松県を経て76年静岡県に合体する。
[本多 隆成]

[索引語]
遠州 東海道 浜名湖 天宝堤 浜名橋 蒲御厨 安田義定 今川氏 斯波氏 今川氏 今川義忠 今川氏親 今川義元 浜松藩 掛川藩 横須賀藩 久野藩 近藤秀用 井伊谷(いいのや)藩 相良藩 中泉代官 辰之御縄 寺谷用水 下飯田用水組合 仲井用水相論 文政茶一件 川根(地域名) 信州街道 秋葉街道 可睡斎 秋葉信仰 尊永寺 遠州報国隊 内山真竜 堀江県 浜松県
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10. 配流遠江國 (見出し語:遠江國【篇】)
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徳川家光から朱印地七石三斗を安堵されたという(貞享三年「阿多古領村々寺社書上帳」中村家文書)。しかし「遠江国風土記伝」は長享元年(一四八七)に開山寂室玄光、開基 ...
40. あかおしぶたれこおりべじんじゃ【赤尾渋垂郡辺神社】静岡県:袋井市/赤尾村
日本歴史地名大系
赤尾神・渋垂神は、元慶二年(八七八)に従五位下を授けられている(「三代実録」同年九月一六日条)。「遠江国風土記伝」によれば「赤尾神社は今此社なし、転じて仏堂とな ...
41. あかさかごう【赤坂郷】静岡県:遠江国/敷智郡・敷知郡
日本歴史地名大系
広麻□□□」とみえる。また同市梶子遺跡からも「赤坂□」と記された木簡が出土した。「遠江国風土記伝」は鴨江・入野(現浜松市鴨江・入野両地区付近)などに比定、この地 ...
42. あかつちむら【赤土村】静岡県:周智郡/春野町
日本歴史地名大系
[現]春野町砂川 大時村の西、南西流する不動川上流右岸、高塚山南斜面の山腹にある。「遠江国風土記伝」によれば、当村と嶺沢頭村・徳瀬村を合せて砂川郷と称した。永禄 ...
43. あかねむら【赤根村】静岡県:周智郡/森町
日本歴史地名大系
岸に位置する。周知郡に属する。村名は南東に赤土山があり、土質が赤土であることにちなむという(遠江国風土記伝)。天正一七年(一五八九)七月七日付の徳川家七ヵ条定書 ...
44. あがたごう【英多郷】静岡県:遠江国/浜名郡
日本歴史地名大系
訓は不明だが、アガタと読むか。式内社英多神社が現三ヶ日町三ヶ日の浜名惣社神明宮に比定されるため、「遠江国風土記伝」が三ヶ日宿とするほか、新旧の「静岡県史」なども ...
45. あきばしんこう【秋葉信仰】
国史大辞典
大同四年(八〇九)不動三昧の法を修し、火炎につつまれ、手に剣索を持ち肩に両翼をつけ、白狐に乗って遠江国周智郡の秋葉山に飛来し、以後秋葉山の鎮守になったという。し ...
46. あきばじんじゃ【秋葉神社】新潟県:栃尾市/向谷地
日本歴史地名大系
修めた。延暦二年(七八三)には飛行自在の神通力を得、このとき現れた白狐に乗って空中を飛行し、遠江国の秋葉山に降り立ち安住の地としたという。行法会得のときに、もし ...
47. あこ
日本国語大辞典
〔名〕牛の雄。牡牛(おうし)。*物類称呼〔1775〕二「牛 うし 牡牛(をうし)を〈略〉遠江国にては、あこと云」 ...
48. あごいんしょうしち【安居院庄七】
国史大辞典
また万人講を結成して伊勢・春日・石清水三社への献燈や社会奉仕につとめた。弘化三年(一八四六)から遠江国長上郡下石田村(静岡県浜松市下石田町)で難村興復の報徳仕法 ...
49. あさだむら【浅田村】静岡県:浜松市/旧敷知郡・引佐郡地区
日本歴史地名大系
浜松庄の飛地と推定されている。正慶二年(一三三三)仏光寺(現京都市下京区)空性の同朋念性が関東から上洛の途中、遠江国麻田の仏光寺末寺で死去しており(常楽台主老衲 ...
50. 浅羽氏
世界大百科事典
武蔵,遠江の中・近世の武家。《吾妻鏡》に遠江浅羽荘司宗信,浅羽三郎,同小三郎行光,五郎行長らがみえる。宗信は遠江国の有力者として源頼朝にくみし1181年(養和1 ...
「遠江国」の情報だけではなく、「遠江国」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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徳政令(国史大辞典)
すでに締結されている売買・貸借・寄進などの契約について、無条件で、もしくは条件を付して、契約関係の継続、もしくは破棄を宣言する法令。一般には契約関係の破棄宣言のみを意味すると理解されやすいが、当代のさまざまな契約形態に対応して除外規定も少なくない。また、契約の破棄を
遠江国(改訂新版・世界大百科事典)
旧国名。遠州。現在の静岡県西部,大井川以西。東海道に属する上国(《延喜式》)。国名は〈琵琶湖=近ッ淡海〉(近江)に対する〈浜名湖=遠ッ淡海〉(遠江)に由来するとされている。7世紀の中葉,遠淡海,久努,素賀の3国造の支配領域を併せて成立したものと思われる。国郡制に先行する
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百舌鳥古墳群(日本歴史地名大系・国史大辞典・日本大百科全書)
台地と称される中位段丘上に東西四キロ、南北四・五キロにわたって分布する古墳群の総称。日本最大の大仙古墳(仁徳天皇陵に治定)をはじめミサンザイ古墳(履中天皇陵に治定)・田出井山古墳(反正天皇陵に治定)・ニサンザイ古墳などとそれに関連する陪冢および丸保山古墳(国指定史跡)
誉田古墳群(国史大辞典)
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古市古墳群(日本歴史地名大系・日本大百科全書)
羽曳野丘陵北辺の台地上、羽曳野市北西部から藤井寺市にわたる、東西三キロ、南北四キロの範囲に分布する大古墳群。前方後円墳一九基以上、前方後方墳一基、方墳一一基以上、円墳二五基以上で構成される。群のほぼ中央に位置する、墳丘全長四一五メートルの誉田御廟山古墳
新撰姓氏録(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・国史大辞典)
815年(弘仁6)に編纂された古代氏族の系譜書。本書の編纂は799年(延暦18)、諸国に本系帳の撰上を命じたことに始まる。814年に至り万多親王、藤原園人、同緒嗣らによって完成されたが、さらに源朝臣の条などを追加し、不備な点を補って翌年に朝廷に
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