NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1700冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 日本史上の人物
  10. >
  11. 真田昌幸

真田昌幸

ジャパンナレッジで閲覧できる『真田昌幸』の国史大辞典のサンプルページ

真田昌幸
さなだまさゆき
一五四七 - 一六一一
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に長篠の戦で討死したため、真田の姓に復して家を相続し、信濃国小県郡真田に住み勝頼の援助を得て沼田城を中心とする北上州を勢力下においた。同十年の武田氏滅亡後は織田信長に属して本領安堵をうけたが、本能寺の変で政情が不安定になると、徳川家康に味方しながら戸石城(長野県上田市)に移って、小県郡の豪族を勢力下におさめ、信濃をねらう上杉・徳川・北条の勢力の間をぬって、翌十一年に上田城を築城した。同十三年家康が北条氏政と講和するために沼田城を北条氏に返付するよう命ずると、沼田は徳川氏から封ぜられたものではなく自力で得た土地なので、返却する必要はないと拒否し、徳川軍に上田城を攻められたがこれを撃退した。同十五年家康と講和し、ついで豊臣秀吉に属した。同十七年秀吉から沼田城を北条氏へ渡すように命ぜられ、これに従ったが、翌年の小田原征伐によって北条氏が滅亡すると、戦功により再び沼田を領した。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦に際しては、次男幸村とともに西軍に味方して、上田城に拠って徳川秀忠の軍が西上するのを阻止し、秀忠を関ヶ原の戦に参加させなかった。この戦では東軍が勝利したため苦境に陥ったが、東軍に味方した長男信之の嘆願によって、所領は没収されたものの幸村とともに一命を助けられ、紀伊国高野山麓九度山に幽居した。この地で慶長十六年六月四日没した。六十五歳。なお同十四年六月四日、六十五歳で没したとの説もある。法諡は一翁干(閑)雪大居士。墓は和歌山県伊都郡九度山町善名称院にある。室は菊亭(今出川)晴季の娘。
[参考文献]
『大日本史料』一二ノ八 慶長十六年六月四日条、同一二ノ二一補遺、同条、『寛政重修諸家譜』六五四、『長国寺殿御事蹟稿』(『(新編)信濃史料叢書』一五・一六)
(笹本 正治)
©Yoshikawa kobunkan Inc.
上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


真田昌幸の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 208
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. 真田昌幸
日本大百科全書
安土(あづち)桃山時代の武将。武田の将幸隆(ゆきたか)の三男。11歳のとき人質として甲府に赴き、のち武田信玄(しんげん)の近侍となり、武藤喜兵衛と称した。157 ... ...
2. 真田昌幸
世界大百科事典
1547-1611(天文16-慶長16) 安土桃山時代の武将。生没年には1545-1609等の説もある。幸隆(ゆきたか)の三男。武田氏に仕え武藤喜兵衛とも称した ... ...
3. さなだ‐まさゆき【真田昌幸】
デジタル大辞泉
[1547〜1611]安土桃山時代の武将。信濃の人。通称、喜兵衛。上田城主。武田信玄・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。関ヶ原の戦いでは豊臣側に与し、次男幸村とともに ... ...
4. さなだ‐まさゆき【真田昌幸】
日本国語大辞典
安土桃山時代の武将。はじめ武田晴信に仕え、武藤氏をついだが、長篠の戦いで二人の兄が戦死したので旧姓に復した。のち織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に属し、上野国沼田、 ... ...
5. さなだまさゆき【真田昌幸】 画像
国史大辞典
一五四七―一六一一 安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・ ... ...
6. さなだ-まさゆき【真田昌幸】
日本人名大辞典
1547−1611 戦国-織豊時代の武将。天文(てんぶん)16年生まれ。真田幸隆(ゆきたか)の3男。真田信之・幸村の父。武田氏滅亡後,徳川家康に,のち豊臣秀吉に ... ...
7. 真田昌幸印[図版] 画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc. ... ...
8. 真田昌幸花押[図版] 画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc. ... ...
9. あがつまぐん【吾妻郡】
国史大辞典
中世以降草津の湯の名があらわれ、有名人の入湯のことが紀行や伝承に残っている。戦国時代の終りには信濃国の真田昌幸の勢力が吾妻郡全部から利根郡に及び、名胡桃城(利根 ... ...
10. あずまやさん【四阿山】長野県:小県郡
日本歴史地名大系
天正二年(一五七四)一一月、信綱は小県郡蓮華童子院に四阿山別当職を安堵している(同文書)。また翌三年一一月、真田昌幸は頼甚に四阿山別当職を安堵している(同文書) ... ...
11. あらまきむら【新巻村】群馬県:利根郡/新治村
日本歴史地名大系
二六日の武田家朱印状(北条文書)で「荒巻村同寄居」が小中彦兵衛尉に宛行われ、同八年五月四日の真田昌幸感状(中沢文書)では、猿ヶ京三ノ曲輪を焼払った戦功により、「 ... ...
12. あわざわむら【粟沢村】群馬県:利根郡/水上町
日本歴史地名大系
[現]水上町粟沢 綱子村の北東、利根川沿いに位置し、藤原道(沼田街道)が通る。慶長四年(一五九九)閏三月、真田昌幸らから清水峠越後側の清水(現新潟県南魚沼郡塩沢 ... ...
13. いいなおまさ【井伊直政】 画像
国史大辞典
にも参画し、家康から武田遺臣を多く付属させられた。同十二年小牧・長久手の戦、十三年信濃上田の真田昌幸攻撃に参加し、十四年豊臣秀吉が家康の上洛を促すため母大政所を ... ...
14. いいぬまむら【飯沼村】長野県:小県郡/丸子町
日本歴史地名大系
田庄内飯沼之郷」とみえる。天正一〇年(一五八二)武田氏滅亡のあと、真田氏領有となる。同一一年真田昌幸上田城築城のあと、昌幸の兄信綱の子宮内大輔信興が飯沼に館を建 ... ...
15. いかほむら【伊香保村】群馬県:北群馬郡/伊香保町
日本歴史地名大系
とで広く同山麓一帯を伊香保とよんだものと思われる。元亀二年(一五七一)九月二六日、武田信玄は真田昌幸を先兵として白井(現子持村)に攻め入ったが(武田信玄感状「松 ... ...
16. いくしまたるしまじんじゃもんじょ【生島足島神社文書】
国史大辞典
来の古文書。戦国時代のものが多く、天文二十二年(一五五三)八月十四日付武田信玄安堵状をはじめ真田昌幸・同信之などの文書がある。なかでも本文書の特徴をなすのは永禄 ... ...
17. いせやま【伊勢山】長野県:上田市/神科地区/塚原村
日本歴史地名大系
山城のまわりに関係地名を残している。天正一〇年(一五八二)一〇月一三日、家臣一三名の知行・屋敷を安堵した真田昌幸の安堵状(熊谷文書)に「伊勢山へ令参上、可致訴訟 ... ...
18. 犬伏
世界大百科事典
られた。なお,真田氏関係の諸記録の伝えるところでは,1600年(慶長5)関ヶ原の戦に先立って真田昌幸,信之父子が宿営し,この地で東軍と西軍に分かれたという。18 ... ...
19. いわいどうじょうあと【岩井堂城跡】群馬県:北群馬郡/小野上村/村上村
日本歴史地名大系
るが天正一九年(一五九一)の「双林寺伝記」によると、元亀三年(一五七二)八月上旬、武田信玄は真田昌幸を先手として信濃より白井領に乱入、白井城(現子持村)城主長尾 ... ...
20. いわびつじょうあと【岩櫃城跡】群馬県:吾妻郡/吾妻町/原町
日本歴史地名大系
岩櫃城はこれら一揆衆の在番する城となったと思われる。天正一〇年(一五八二)武田氏の滅亡後は吾妻郡には真田昌幸の勢力が浸透し、岩櫃城は真田氏の支配するところとなっ ... ...
21. いわむらだまち【岩村田町】長野県:佐久市
日本歴史地名大系
に北高禅師を中興として繁栄した。武田氏の滅亡後天正一〇年(一五八二)徳川家康の麾下依田信蕃や真田昌幸の攻撃を受けて岩村田黒岩城が陥落(依田記)。その後なお「佐久 ... ...
22. うえぐりむら【植栗村】群馬県:吾妻郡/吾妻町
日本歴史地名大系
もつ植栗河内守元吉がいたという。岩櫃城主斎藤憲広の家臣で、永禄六年(一五六三)の岩櫃落城により真田氏に属し、真田昌幸に直接の家臣として重用されたと伝える。天正八 ... ...
23. 上田(市) 画像
日本大百科全書
鹿教湯(かけゆ)、武石など各方面へのバスの発着地。 市街地は、1583年(天正11)真田郷の豪族真田昌幸(まさゆき)が築城し、形成された城下町である。上田城跡( ... ...
24. 上田[市]
世界大百科事典
1933年市制。人口12万3680(2005)。古代には信濃国府・国分寺が設けられ(跡は史跡),戦国時代に真田昌幸が城を築いて以来,城下町として発展,市街は旧北 ... ...
25. うえだし【上田市】長野県
日本歴史地名大系
〔近世〕その後上田盆地は埴科郡の土豪村上氏、甲斐の武田氏と支配の変遷を経たが、天正一一年(一五八三)真田昌幸が曰理駅とされる地からやや東寄りの千曲川河岸段丘を利 ... ...
26. 上田城 画像
日本大百科全書
戦国期から江戸期の城。長野県上田市二の丸にある。平城(ひらじろ)。別称尼ヶ淵城。真田昌幸(さなだまさゆき)・幸村(ゆきむら)(正しくは信繁(のぶしげ))父子が、 ... ...
27. うえだ‐じょう【上田城】 画像 地図
デジタル大辞泉
上田市にある旧上田藩の城。天正11年(1583)から同13年にかけて真田昌幸(さなだまさゆき)が築城。二度の徳川軍との戦いののちに破壊。元和8年(1622)仙石 ... ...
28. うえだ‐じょう[うへだジャウ]【上田城】
日本国語大辞典
長野県上田市にあった城。天正一一年(一五八三)真田昌幸が千曲川に臨む尼ケ淵に築城。寛永三年(一六二六)仙石忠政が修築。宝永三年(一七〇六)松平忠周が五万三〇〇〇 ... ...
29. うえだじょう【上田城】
国史大辞典
武田氏治下の真田幸隆がこれを拡張した前歴があるが、近世城郭として整備築城したのは、徳川家康治下にあった真田昌幸で、天正十一年(一五八三)八月、城郭建設を計画し、 ... ...
30. うえだじょう【上田城】長野県:上田市/上田城下
日本歴史地名大系
真田氏のそれまでの根拠地、松尾城(現小県郡真田町)の名をとり松尾城ともいわれた。天正一一年(一五八三)真田昌幸が築城に着手、翌一二年にほぼ完成したとみられる。染 ... ...
31. 上田城跡[百科マルチメディア]
日本大百科全書
千曲川(ちくまがわ)に臨む段丘崖(がい)上に残る城址。上田城は1583年(天正11)に真田昌幸(さなだまさゆき)が築城した平城(ひらじろ)で、尼ヶ淵城(あまがふ ... ...
32. うえだじょうか【上田城下】長野県:上田市
日本歴史地名大系
たらしい。約一〇キロ東北の真田(現小県郡真田町)に拠って小県地方及び北上州一円を勢力圏とした真田昌幸が、天正一一年(一五八三)上田盆地の中央にあたるこの地に築城 ... ...
33. うえだはらむら【上田原村】長野県:上田市/川辺地区
日本歴史地名大系
その後武田氏の勢力下におかれ、天正一〇年(一五八二)武田氏の滅亡後は真田氏の領有となり、天正一六年五月真田昌幸は重臣矢沢綱頼に上野沼田(現群馬県沼田市)の所領二 ... ...
34. 上田藩 画像
日本大百科全書
信濃(しなの)国上田城(長野県上田市)を居城として東信地方を領有した藩。1583年(天正11)真田昌幸(さなだまさゆき)が築城し、城下町を形づくった。関ヶ原の戦 ... ...
35. 上田藩
世界大百科事典
信濃国(長野県)上田に藩庁を置いた譜代中藩。この地方出身の土豪真田昌幸が,1584年(天正12)上田に城を築き,翌年豊臣秀吉に随身することによって領主の地位を安 ... ...
36. うえだはん【上田藩】
国史大辞典
信濃国(長野県)上田を藩庁とした藩。藩庁は廃藩まで天正十二年(一五八四)真田昌幸が築いた上田城にあった。昌幸は戦国大名として北上州から小県郡全域を制圧していた ... ...
37. うすいとうげ【碓氷峠】長野県:北佐久郡/軽井沢町/峠町
日本歴史地名大系
上杉年譜・「北条氏邦書状」片野文書)、天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉方の上杉景勝・前田利家・真田昌幸と小田原方松井田城主大導寺政繁との戦(国初遺言・真田文書)な ... ...
38. うつのみやくにつな【宇都宮国綱】 画像
国史大辞典
突然国綱は秀吉の命に背いたという理由で、所領を没収され備前の宇喜多秀家に預けられ、十一月には浅野長政・真田昌幸によって宇都宮領の検地が行われ、翌年蒲生秀行が入部 ... ...
39. うんの-てるゆき【海野輝幸】
日本人名大辞典
年上野沼田城代となる。謀反の疑いで,岩櫃城代であった兄海野幸光とともに,天正9年11月22日真田昌幸に殺された。72歳。 ... ...
40. おおいじょうあと【大井城跡】長野県:佐久市/岩村田町
日本歴史地名大系
岩村田には武田の旧臣大井美作守(大炊助・雅楽助)がたてこもっていたが、徳川家康麾下の依田信蕃と真田昌幸の連合軍に攻め落された(依田記)。 ... ...
41. おおかしわぎむら【大柏木村】群馬県:吾妻郡/吾妻町
日本歴史地名大系
三島村への佐奈峠がある。天正一二年(一五八四)二月三日、「大柏木」百姓などが同地の砦に集められている(「真田昌幸朱印状」渡文書)。同一八年徳川家康の関東入部によ ... ...
42. おおくぼ-ただつね【大久保忠常】
日本人名大辞典
の長男。天正18年徳川秀忠にしたがい,小田原攻めに参陣。慶長5年関ケ原の戦いに際し,上田城の真田昌幸を攻撃。のち武蔵(むさし)私市(きさい)藩(埼玉県)藩主大久 ... ...
43. おおた-よしまさ【太田吉政】
日本人名大辞典
遠江(とおとうみ)(静岡県)の二俣城,高天神城での武田勝頼との戦いに参加。慶長5年徳川秀忠にしたがい真田昌幸を攻め,上田七槍のひとりとして知られた。寛永15年3 ... ...
44. おおぼしじんじゃ【大星神社】長野県:上田市/房山村
日本歴史地名大系
常田村の科野大宮社と並んで、由緒ある社とされている。上田築城後間もない天正一五年(一五八七)八月一四日真田昌幸は社殿修理料を寄進している(小野文書)。また上田城 ... ...
45. おかのやむら【岡谷村】群馬県:沼田市
日本歴史地名大系
輝幸・幸貞父子を祀り、昭和二年(一九二七)建立された。「加沢記」によれば天正九年、海野父子は真田昌幸に謀反の疑いをかけられ、迦葉山に向かう途次、十二の森近くの女 ... ...
46. おがさわらさだよし【小笠原貞慶】 画像
国史大辞典
をつれて豊臣秀吉のもとに走ったことなどにより、一時家康を離れた。同十五年三月、秀吉の命により真田昌幸とともにまた家康の指揮下に入った。同十七年嫡子秀政に家をゆず ... ...
47. おがわじょうあと【小川城跡】群馬県:利根郡/月夜野町/月夜野町
日本歴史地名大系
る。天正六年(一五七八)上杉謙信の死後は、翌七年に武田方の真田昌幸が名胡桃・小川城を攻略(加沢記)、同八年五月一九日の可遊斎宛真田昌幸条書(吉川金蔵氏所蔵文書) ... ...
48. おだわらせいばつ【小田原征伐】 画像
国史大辞典
懸案の上州沼田城の明渡しと交換に、氏政・氏直のいずれかが上洛し秀吉に礼を尽くす約束をした。沼田城主真田昌幸は、本能寺の変後に北条氏が上州領有を企図して以来秀吉に ... ...
49. おのこむら【小野子村】群馬県:北群馬郡/小野上村
日本歴史地名大系
「双林寺伝記」は翌三年八月のこととして先手真田昌幸は「小野子ノ荘」へ攻め入り遠里近村を焼払ったと記す。天正一〇年(一五八二)一〇月一九日の折田軍兵衛宛真田昌幸宛 ... ...
50. おのやまじょうあと【尾野山城跡】長野県:小県郡/丸子町/尾野山村
日本歴史地名大系
衛門尉守重が名を連ねている。天正一三年(一五八五)八月には徳川家康の軍が、丸子城を攻めた時、真田昌幸は尾山の城に出向いたと伝えている(上田市史)。本郭は東西一五 ... ...
「真田昌幸」の情報だけではなく、「真田昌幸」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

真田昌幸と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
日本史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「真田昌幸」は真田丸に関連のある記事です。
その他の真田丸に関連する記事
明石掃部(明石全登/あかしてるずみ)(日本人名大辞典・世界大百科事典・国史大辞典)
織豊-江戸時代前期の武将。宇喜多秀家につかえ,関ケ原の戦いで西軍に属して敗れ筑前(福岡県)秋月にすんだ。大坂の陣では豊臣秀頼の招きに応じ,真田幸村らと活躍したが,慶長20年(1615)大坂落城の際に死んだとも,逃亡して元和4年に病死したともいう。
長宗我部盛親(国史大辞典)
一五七五-一六一五。安土桃山時代の武将。土佐国の大名。幼名千熊丸、右衛門太郎(増田右衛門尉長盛を烏帽子親として右衛門、盛親を名乗る)、土佐守。天正三年(一五七五)岡豊(おこう)城(高知県南国市)に生まる。長宗我部元親の四男、母は斎藤氏。
毛利勝永(日本人名大辞典)
織豊-江戸時代前期の武将。毛利勝信の子。関ケ原の戦いで西軍に属し,敗れて父とともに土佐高知藩主山内一豊(かずとよ)にあずけられる。慶長19年子の勝家と脱走して大坂城にはいり
後藤基次(後藤又兵衛)(改訂新版・世界大百科事典)
織豊政権期の武将。通称又兵衛。氏房,政次ともいう。播磨三木城主別所氏に仕えた新左衛門の子。豊前黒田氏に養われ,孝高・長政父子に仕えた。長政に従って豊臣秀吉の九州征伐,文禄・慶長の役に従軍,関ヶ原の戦にも戦功をあげる。
豊臣秀頼(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五九三-一六一五。豊臣秀吉の第二子。文禄二年(一五九三)八月三日大坂城内に生まれた。母は側室浅井氏(茶々、淀殿)。秀吉は実子に恵まれず、浅井氏との間に鶴松を得たが三歳にして死別した。このため秀頼誕生の喜びは大きく、みずから肥前名護屋の陣中より正室北政所に書状を送り
真田丸に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1700冊以上(総額750万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶