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  11. 加藤清正

加藤清正

ジャパンナレッジで閲覧できる『加藤清正』の日本大百科全書(ニッポニカ)のサンプルページ

加藤清正
かとうきよまさ
[1562―1611]

安土(あづち)桃山時代の武将。秀吉「子飼い」の肥後熊本の大名。尾張(おわり)国愛智(えち)郡中村(名古屋市)の生まれ。幼名夜叉丸(やしゃまる)、元服後は虎之助(とらのすけ)清正と改名。幼少時より豊臣(とよとみ)秀吉に仕える。1580年(天正8)播磨(はりま)国神東(じんとう)郡(兵庫県神崎郡)120石を給せられ、翌年の鳥取城攻め、備中(びっちゅう)国冠山(かんむりやま)城攻め、山崎の戦いに参加。とくに1583年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで活躍し、七本槍(やり)の一人に数えられる。その功績により近江(おうみ)・山城(やましろ)・河内(かわち)国など3000石の知行(ちぎょう)を得る。1585年従五位下(じゅごいのげ)主計頭(かずえのかみ)に叙任。1587年の九州征伐には後備、肥後宇土(ひごうと)城番を勤める。このころの役職は兵粮方(ひょうろうかた)に関係していたらしい。また和泉(いずみ)国(大阪府)堺(さかい)周辺の代官を兼務。このころから母の教化で日蓮(にちれん)宗の信仰が強くなる。1588年佐々成政(さっさなりまさ)の後を受け、肥後北東部半国(芦北(あしきた)郡を含む)の領主となり隈本(くまもと)(熊本)城主。領地高約19万5000石。肥後の豊臣蔵入地(くらいりち)の代官も兼務。文禄(ぶんろく)の役には第二軍を率いて出兵し、鬼将軍と恐れられ、1592年(文禄1)7月には朝鮮の2王子臨海君(りんかいくん)、順和君(じゅんなくん)を会寧(かいねい)(北朝鮮)で捕らえ、さらに兀良哈(オランカ)(現ロシア領)にまで兵を進む。片鎌槍(かたかまやり)での虎狩りは有名なエピソードで、武将の名を高めているが、江戸中期につくられたもの。戦役では領土割譲を主張し、しだいに石田三成(いしだみつなり)、小西行長(こにしゆきなが)らの講和派のために孤立化し、ついに1596年(慶長1)讒訴(ざんそ)され、伏見(ふしみ)に蟄居(ちっきょ)を命ぜられる。この蟄居期間中に京畿(けいき)で大地震があり、秀吉の身を案じて登城したので謹慎が解けたという、「地震加藤」の物語があるが、謹慎解除の真相は不明。このころ呂宋(ルソン)(フィリピン)貿易を計画しているし、理財にも秀でた人物である。慶長(けいちょう)の役に再出兵したが、蔚山(うるさん)城にて苦戦し、九死に一生を得て帰国。関ヶ原の戦いでは九州における東軍の中心となる。戦後に肥後一国(天草・球磨(くま)を除く)領主(54万石、豊後(ぶんご)国の一部を含む)となる。このころから領内の川普請(かわぶしん)、新田開発を進め、今日の肥後平野の基礎をつくる。また壮大堅牢(けんろう)な名城熊本城を築城(慶長3、4、6年着工説がある)し、城下町を形成し、今日の熊本市の母胎となる。領内政策の一つにキリスト教の弾圧を早くから行い、日蓮宗の興隆に努めた。1603年(慶長8)3月、従四位下(じゅしいのげ)肥後守(ひごのかみ)に叙任。その後江戸城、名古屋城の普請工事に活躍。11年豊臣秀頼(ひでより)を説得し、徳川家康と二条城で会見させ、和平策を企図する。その帰途、船中にて発病。後世、この会見で毒饅頭(どくまんじゅう)を食わされて毒殺されたと伝説化されているが誤りで、彼の死因は脳溢血(のういっけつ)による。晩年は「履道応乾(りどうおうけん)」の印章を使用し、文芸・茶道にも努める。慶長(けいちょう)16年6月24日、50歳で死亡。本廟(ほんびょう)が熊本市西区本妙寺にある。のち子加藤忠広のとき御家騒動や領内政策などの不手際で、1632年(寛永9)庄内(しょうない)(山形県)に配流(はいる)され、加藤氏断絶となる。
[森山恒雄]

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検索コンテンツ
1. 加藤清正 画像
日本大百科全書
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3. 加藤清正
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4. かとう‐きよまさ【加藤清正】 画像
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[1562〜1611]安土桃山時代の武将。尾張の人。幼名、虎。豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍の一。肥後の半国を与えられて熊本城主となり、文禄の役・慶 ... ...
5. かとう‐きよまさ【加藤清正】
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安土桃山・江戸初期の武将。幼名虎之助。尾張国(愛知県)の人。賤ケ岳(しずがたけ)七本槍の一人。豊臣秀吉に仕えて戦功多く、肥後熊本城主となる。文祿・慶長の役には朝 ... ...
6. かとうきよまさ【加藤清正】 画像
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1562−1611 織豊-江戸時代前期の武将,大名。永禄(えいろく)5年6月24日生まれ。豊臣秀吉につかえ,賤ケ岳(しずがたけ)の戦いに七本槍のひとりとして活躍 ... ...
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9. かとうきよまさ【加藤清正】
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12. 加藤©正與二小西行長一爭二先陣一 (見出し語:加藤©正)
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13. 加藤©正像 (見出し語:加藤©正)
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14. 加藤©正家 (見出し語:加藤©正)
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15. 加藤©正建二本妙寺一 (見出し語:加藤©正)
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16. 加藤©正得二譽於異域一 (見出し語:加藤©正)
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17. 加藤©正捕二朝鮮王子一 (見出し語:加藤©正)
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18. 加藤©正於二朝鮮一望二富士山一 (見出し語:加藤©正)
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23. 加藤©正賞二飯田覺兵衞功一 (見出し語:加藤©正)
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24. 加藤©正造二營本門寺一 (見出し語:加藤©正)
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25. 加藤©正飼レ猿 (見出し語:加藤©正)
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26. 石田三成讒二加藤©正一 (見出し語:加藤©正)
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27. 加藤清正印[図版] 画像
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28. 加藤清正花押[図版] 画像
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日本歴史地名大系
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国史大辞典
たって親冬の孫久基は、退城せしめられ、代わって佐々成政にこれが与えられた。成政が誅されるや、加藤清正が入城し、本格的な城下町の建設が始まった。寛永九年(一六三二 ... ...
40. あきたぐん【飽田郡】熊本県:肥後国
日本歴史地名大系
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41. 浅野幸長
世界大百科事典
免れ,97年(慶長2)再度朝鮮に従軍,西生浦ついで蔚山(うるさん)城にこもり,明軍に包囲されて苦戦した。帰朝後加藤清正ら七将と石田三成を排撃して佐和山に隠退させ ... ...
42. あさのよしなが【浅野幸長】 画像
国史大辞典
しかしようやく明軍を撃退、三年四月帰国した。秀吉没後の不安な政情下では石田三成の党に強く反発、加藤清正・細川忠興らとともに「七人衆」と呼ばれた。そして関ヶ原の戦 ... ...
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世界大百科事典
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44. あしきたぐん【葦北郡】
国史大辞典
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46. あしやだむら【蘆屋田村】熊本県:上益城郡/矢部町
日本歴史地名大系
献じている。慶長六年(一六〇一)当村のうち一一二石が田辺又介に宛行われている(同年一〇月一六日「加藤清正黒印状」田辺文書)。慶長国絵図に村名がみえる。矢部手永に ... ...
47. 阿蘇(市) 画像
日本大百科全書
率いて活動。しかし、戦国時代末期、島津氏の肥後国進出によって衰え、阿蘇社の祭祀も衰退した。近世、加藤清正が阿蘇氏に知行を与え、社家と祭祀を復活。その後熊本藩主と ... ...
48. あそうじ【阿蘇氏】 画像
国史大辞典
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日本歴史地名大系
[現]甲佐町麻生原 緑川左岸にあり、西は世持村、南は船津村、北は津志田村に接する。加藤清正の緑川改修工事に伴って村の南東に麻生原堰が作られた(甲佐町史)。近世は ... ...
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