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  11. 国府・府中・城府・駿府
日本歴史地名大系
国府・府中・城府・駿府
こくふ・ふちゆう・じようふ・すんぷ

古代に駿河国の国衙が置かれた地。静岡平野の中央、安倍あべ川下流の左岸に位置する。現在の静岡市中心部とされる。古代の駿河国府の比定地については、現在の駿府城跡北方の長谷はせ通の南側あるいは北側、駿府城跡の南東地区(城内中学校・青葉小学校などを含む一帯)、駿府城跡北東の横内よこうち上足洗かみあしあらい方面などの説がある(静岡県史)。中世には古代以来の国府以外に府中・城府・駿府などともよばれた。

〔国府〕

中世に国府と記された史料は必ずしも多くない。「源平盛衰記」巻二三によると、治承四年(一一八〇)一〇月一〇日に平家の源頼朝追討軍が「駿河の国府」に着いている。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一二月二四日条には、上洛の帰途の頼朝が国府に着いたことが記される。建武二年(一三三五)八月一四日、足利尊氏が建武政権に反した北条時行を討伐するために下向、「駿河国府合戦」を行った(「足利尊氏関東下向宿次・合戦注文」国会図書館所蔵文書)。康永二年(一三四三)八月一八日の実祐・平盛平連署奉書写(「諸家文書纂」所収興津文書)によると「駿河国苻」の長者某が所領公事を免除されている。永享四年(一四三二)の将軍足利義教の富士歴覧に際しての飛鳥井雅世の著した「富士紀行」や中原師郷の日記「師郷記」にも国府とみえ、文亀―大永年間(一五〇一―二八)に連歌師宗長が著した「宗祇終焉記」や「宇津山記」「東路の津登」「宗長日記」、天文―永禄年間(一五三二―七〇)の歌人相玉長伝の私家集「心珠詠草」などにも国府と記載されている。永禄元年に京都より鎌倉までの宿次が書写された「実暁記」には、手越てごし宿と瀬無河せながわ宿(瀬名川宿)との間の宿として国府がみえ、手越宿から一里、瀬無河宿へ五〇丁の距離にあると記される。なお「経覚私要鈔」応仁二年(一四六八)条の末尾にもほぼ同様の記述があるが、国府―瀬無川間は一里とある。大永八年九月一五日には、今川氏輝が「駿河国府新長谷寺」の千代菊に同寺を安堵している(「今川氏輝判物」長谷寺文書)新長谷しんはせ寺は駿河国惣社である神部かんべ神社(静岡浅間神社を構成する三社の一つ)東方の門前通りにあり、国府の中心地に位置すると目されることから、このように記されたと考えられる。

〔府中〕

南北朝時代から使われた駿府の別称。駿河国府に由来する。苻中・府・苻・符と記され、府内と書く場合もある。観応元年(一三五〇)一二月日の伊達景宗軍忠状(駿河伊達文書)に「苻中」とみえる。永享四年の足利義教の富士歴覧に際しての「九条満家公引付」には、「駿河大井川ヨリ苻マテ七里」と記される。同じく歌人尭孝の著した「覧富士記」にも「けふそ駿河府藤枝より五里、にも至り侍りぬる」とある。山城醍醐寺座主満済も駿河府(「満済准后日記」永享四年九月二九日条)、府中あるいは苻中と記す(同書同五年七月二〇日条・閏七月二八日条)。長禄二年(一四五八)二月一三日の下里民部紀州熊野檀那職売券(米良文書)は、「するか符中山岸殿上臈」と記される。

戦国時代になると、明応(一四九二―一五〇一)から永正年間(一五〇四―二一)初期にかけて海長かいちよう(現清水市)住持日海の記した日海記(海長寺蔵)に苻中と記され、「宗長日記」では府中と記されている。また「実隆公記」享禄三年(一五三〇)三月三日条では府中で火災があり、二千余軒が焼失したと記される。弘治二、三年(一五五六、五七)に駿府に滞在した山科言継も府中と記している(言継卿記)。天正年間(一五七三―九二)の徳川家康家臣松平家忠も「家忠日記」に府中と記す。一方、文明年間(一四六九―八七)の「正広日記」や本願寺一〇世証如の「天文日記」、あるいは同寺一一世顕如の右筆宇野主水が記した「天正日記」などは符中としている。個別文書では、大永六年六月一二日の駿河国皮革職人彦八に屋敷地を安堵する今川氏親朱印状(七条文書)をはじめとして、寿桂尼朱印状(同文書)、今川義元判物(村岡大夫文書など)、天文一九年一二月一一日に太原崇孚雪斎が記した今川家諸宗礼式(写、臨済寺文書)、今川氏真判物(静岡浅間神社文書・顕光院文書など)など、今川時代のものは府中と記すものが多い。ただし永正六年九月六日の今川氏親判物写(駿河志料)では、「当府内寺中屋敷・玉屋屋鋪」と「当府寺中付玉屋屋敷」と同一事象について二とおりの記載がなされている。また天文一三年九月二八日の今川義元判物(海老江文書)でも「府内横田居屋敷」という記載があり、弘治二年から永禄元年頃の臨済寺・善得寺等諸塔頭・諸末寺帳(臨済寺文書)でも府内と記される。永禄九年九月三日の天沢てんたく寺領を安堵する今川氏真判物(清見寺文書)では、「府中天沢寺」と「府内志田垣屋敷」と両様の記載がみられる。これに対して、天正一一年一一月一〇日の徳川家康朱印状(村岡大夫文書)では「駿州府内浅間領」と記され、これ以降の家康発給文書は府内を用いている。ところが武田氏滅亡後に家康に仕えた内記勝長(昌継)は、その判物(長谷寺文書など)で府中と記している。以上のように、戦国時代には府中とか府内と記され、史料の性格や作成・発給者によってある程度の使い分けがなされているが、両者に実体的な相違は認められない。

府中の範囲や構成・構造をうかがい知る史料はほとんどないが、わずかに次のような当時の町名が知れる程度である。永禄九年一〇月二六日の今宿いまじゆく商人などに対する法度を定めた今川氏真判物(写、判物証文写)の存在によって、新たな宿が成立していたことがわかる。天正一五年三月七日の駿府浅間社新宮神主親貞が、家康による駿府城修築のため上地された浅間社領屋敷銭を書上げた注進状(写、駿河志料)には同一四年の上地として「よこた」「神門町」「新宿町」「よこまち」「小辻町」が記されているが、新宿町が前記の今宿と同じかどうかは不明。また同一五年の上地として「ちゝの町」「あんさい町」「宮のさき」「ゆミはり」、さらに「馬場之町」などの地名がみえる。同注進状写には追筆で「御曲輪内、又武家邸トナレリ」とあり、いずれも駿府城の周辺の地名と考えられる。このうち「よこた」は天文一三年の前掲今川義元判物にみえる「府内横田居屋敷」と同一地と考えられる。「よこまち」は永禄八年六月吉日の熊野御師実仙坊道栄の「駿河之切紙」の注文(米良文書)にみえる「よこをち」のこととみられ、駿府城東方の横内のことと思われる。「宮のさき」は「さきの宮」とも書かれているが、同一三年正月二〇日の武田信玄判物(静岡浅間神社文書)に「自今以後於于御神領宮崎、立市可売買之事」とある宮崎みやがさきと考えられ、現在の静岡浅間神社門前の宮ヶ崎町辺りであろう。以上、今川時代の今川氏居館から、武田氏に続いて徳川家康による駿府城構築が行われていく過程で、武家屋敷町・宿町・門前町など機能の異なった町が形成され、府中全体として発展するとともに、構成に変化の生じていることがうかがえるが、詳細は不詳。

〔城府〕

戦国時代に、主として禅僧によって用いられた駿府の別称。大永六年七月七日に曹洞宗増善ぞうぜん寺住持居廓元宋によって執り行われた今川氏親の二七日忌の記録である増善寺殿法事記録(増善寺蔵)に、今川家の継承者である氏輝のことを「東海道駿河州安部城府居住」と記す。天文一〇年に臨済宗臨済りんざい寺の住持となった明叔慶浚の語録である明叔録(禅昌寺蔵)に「安部郡城府臨済禅寺」とみえ、天正年間に臨済寺住持を勤めた鉄山宗純の語録である仏眼禅師語録(臨済寺所蔵)にしばしば「駿州城府」とか「河陽城府」とみえる。河陽とは駿河国の美称である。また「河府」と記される場合もある(前掲仏眼禅師語録、「護国禅師雪斎遠諱香語写」臨済寺文書)

〔駿府〕

駿府の初見は、永正年間と考えられる今川氏家臣の福島助昌の書状(大福寺文書)や朝比奈泰熙の書状(大沢文書)であるが、年次の明らかなものは大永五年九月二六日の長池親能禁制(本興寺文書)である。これらにみえる駿府の用法は、「駿府へ申遣候」などと記されるように、当時駿府に居館を構えていた今川氏当主のことをさしている。しかし同六年四月一四日制定の「今川仮名目録」に「駿府の中不入地之事」とあって、明らかに地名として用いられており、今川氏の公式の呼称であったといえる。以後においても、駿府の呼称は両様に用いられている。天文年間になると、北条氏も今川氏当主のことを「駿府御屋形」と記しており(同五年二月二日「北条家朱印状」土屋文書)、武田氏家臣駒井政武の著述になる「高白斎記」でも駿府と記している。天文二二年二月二六日に義元が制定した「今川仮名目録追加」においても「駿府不入之事停止之由」とあり、この時期駿府の呼称が定着していたといえる。永禄年間においても、今川氏真が岩瀬雅楽助に駿府における新酒造一軒に対する公事を免除しているように(同三年九月二七日「今川氏真判物」皆川博氏所蔵文書)、地名として駿府の呼称が用いられている。今川氏に代わって当地を占領した武田氏も駿府と記し(同一二年八月六日「武田晴信書状写」古今消息集など)、上杉謙信も引続いて駿府と記している(元亀四年六月二六日「上杉謙信書状」赤見文書)。武田氏滅亡後、駿河国が徳川領国に併呑されて以降その動静を記した「家忠日記」も駿府と記す。天正一七年一二月九日の北条氏規書状写(古証文)では、家康のことを駿府と記している。

以上、府中・府内といった表記と駿府という表記に使い分けがあったとはいえないが、駿府にはそこに拠していた治世者その人をさす使用法があった。天正三年一〇月一日、武田家が駿府商人衆に諸役免除を認め還住を促したのに対し(判物証文写)、同月一一日に松木氏や伴野氏など今川時代からの御用商人を含む一二名の商人衆が連署起請文(写、駿河志料)を提出しているのが、当時の駿府の内情をうかがわせる唯一の史料といってよい。その一ヵ条に「屋敷境水上垣可用之事」とあることから、商人町の屋敷境に溝や上垣が施されていたと思われ、一定の都市的景観がうかがえる。

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古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 1354ページ ...
48. すんぷ‐まちぶぎょう[:まちブギャウ]【駿府町奉行】
日本国語大辞典
〔名〕江戸幕府の職名。老中支配に属し、はじめ定員二人、のち一人。駿府(静岡市)に在住し、駿府町の政務一切をつかさどるほかに駿河、伊豆二国の幕府直轄領を支配したこ ...
49. すんぷまちぶぎょう【駿府町奉行】
国史大辞典
慶長十二年(一六〇七)、大御所徳川家康の駿府移徙の時に創置。二人役。井出甚之助正次・彦坂九兵衛直政が補任された。元和二年(一六一六)廃止。この時家康没し、駿府は ...
50. 駿府町奉行(すんぷまちぶぎょう)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 1355ページ ...
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