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シャビエル(フランシスコ・ザビエル)

ジャパンナレッジで閲覧できる『シャビエル(フランシスコ・ザビエル)』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
シャビエル
Francisco de Xavier
一五〇六 - 五二
スペイン人イエズス会士。キリスト教(ローマ=カトリック)を日本に最初に伝えた。古記録には「しびえる」(寛永ころの日繰(ひぐり、祝日表))、「ジャヒエル」(『契利斯督(キリスト)記』)、「サベイリウス」(『西洋紀聞』)と表記され、現在もザビエル、ザベリオ、シャヴィエルなどさまざまな表記がある。出身国スペインでもXavier,Javier両様の綴があてられ、ともにハビエルと表音されるが、シャビエルはXavierのバスク・ポルトガル読みである。スペイン北東部ピレネー山麓のナバーラ出身でバスク人の血をひく。父ファン=デ=ハッスーJuan de Jassuはスペインに併合される以前のナバーラ王国の貴族で、国王の財政顧問・宰相を務め、母マリア=デ=アスピルクエタMaria de Azpilcuetaの出自も名門で、輿入れの際アスピルクエタとシャビエルの二城を嫁資として持参している。一五〇六年四月七日彼は第六子として首都パンプローナに近いシャビエル城で生まれ、育った。二五年十九歳の時パリ大学の聖バルブ学院に入学。同室のピエトロ=ファーベルPietro Faberの感化で真摯な生活を続けるうちに、やはり同学院に学ぶ元スペイン軍人イグナシオ=デ=ロヨラIgnacio de Loyolaの指導を受け、三四年同志とイエズス会を実質的に創立した(教皇パウルス三世Paulus IIIの認可は四〇年)。同会の活躍に瞠目したポルトガル国王ジョアン三世João IIIは植民地東インドの布教に協力を仰ぐべく会員の派遣をロヨラに要請した。かくてシャビエルが推挙され、四一年四月七日彼は極東における教皇代理としてリスボンを出発。翌年五月六日ゴアに到着した。爾来七年間インド海岸、セイロン島、マラッカ、香料群島で超人的な布教活動に従ったが、「頑迷な」異教徒、イスラム教徒の抵抗に直面し、また新改宗者に対するポルトガル人の迫害、布教保護にあたるはずの国王の軍隊の非協力などから活動の割りに成果は得られなかった。四七年十二月マラッカで彼を尋ねてきた日本人アンジローと邂逅。その知性・人格にいたく惹かれ、また日本人一般の資質を聞き、さらに日本を知る友人ジョルジ=アルバレスJorge Alvarezが彼の請を容れて綴った『日本記』を読んで東洋伝道の成果は日本でこそ見られるものと確信し、ポルトガル国王の支配の及ばぬ日本への渡航を決意した。日本が一人の強力な「国王」の実権下にあることを、また日本に「大学」のあることを聞いた彼は、まず「国王」に謁して布教許可を得、ついで「大学」で論争してキリスト教の権威を高めようと計画した。四九年四月アンジローを案内役とし、司祭コスメ=デ=トルレスCosme de Torres、修士ファン=フェルナンデスJuan Fernandezほか二名を伴ってゴアを出発。マラッカで中国人のジャンクに乗り換えて同年八月十五日(天文十八年七月二十二日、聖母被昇天の日)鹿児島に上陸。領主島津貴久から住院を与えられ、布教の自由を得、上洛の便宜供与の約束もとりつけた。彼はアンジローの助力で教理を簡単に纏め、それを島津氏の菩提寺たる禅刹福昌寺の境内で聴衆に読んだ。また同寺の住持忍室と親しくなり、霊魂の不滅を論じ合った。信者は増加したが、仏僧の烈しい妨害があり、また内心期待した貿易の利益の空しさに失望した貴久の態度も硬化し、ついにキリスト教への改宗は死を以て禁じられた。彼は上洛を急ぎ、五〇年九月トルレス・フェルナンデス、日本人信者鹿児島のベルナルド、アンジローの弟ジョアンほか一名を従えて出発。市来を経て京泊から海路平戸に渡った。碇泊中のポルトガル船が彼を丁重に歓迎するのを見て、利に敏い領主松浦隆信は彼を厚遇し布教を許した。改宗者も多く出たが滞留一ヵ月余で同地をトルレス・ジョアンに委ね、厳寒の候、博多・下関を経て山口に到着した。一行の辻説法の噂は領主大内義隆に達し、謁見は許されたが布教許可はなく、成果も特になかった。程なく岩国あたりから海路泉州堺に到着。五一年一月勇んで入洛したが室町時代末期の京都は戦乱で廃墟にひとしく、天皇・将軍の権威は地に堕ち、比叡山の「大学」は異国人の故を以て彼の入ることを拒んだ。すべてを知った彼は滞在十一日で離京。淀川を下り堺へ戻った。彼は次の目標を山口に置き、当時中国一の富強を誇った大内氏の保護を仰いで、同地を布教の中心地たらしめようと考えた。まず平戸に赴き、祭器やかねて「国王」に献上すべきものとしていた時計・楽器・眼鏡・ポルトガルの酒・織物など珍奇な贈物とインド総督・ゴア司教の推薦状を携えて同年四月再度山口を訪れ、正式に領主大内義隆に謁見した。義隆は布教を許可し、住院として廃寺一宇を提供した。教勢は俄然活気を呈し、仏僧を含む訪問者が住院に殺到し、また天体の運行、雷、雨、月の盈虚(えいきょ)など自然現象の説明は聴衆を魅了した。一方彼はキリスト教を中国人が認めないことを訝かる疑問に接したが、これはのちの中国伝道の計画につながった。滞在中の改宗者は琵琶法師ロレンソ、山口のマテオはじめ五百余に及ぶ。またキリスト教の創造主の意味を明確にするため、布教上便宜的に使ってきた「大日(ダイニチ)」の語を廃し、ラテン語の「デウス」を用いた。逗留五ヵ月ころ、豊後の領主大友家の使者がポルトガル船の沖の浜入港と義鎮の招請を伝えてきたので、平戸から呼んだトルレスに山口を託し、海路豊後に至った。彼はポルトガル船長ドゥアルテ=ダ=ガーマDuarte da Gamaの勧告を容れ、盛儀を整えて同年九月十九日義鎮を府内の居城に訪ねた。義鎮はキリスト教に関心を寄せていたので礼を尽くして彼を迎え、直ちに布教を許し、時至れば自身改宗する旨語った。六十日余の滞在中彼は山口からの書翰で陶隆房の叛乱により大内氏は滅んだものの、義鎮の弟八郎(大内義長)が新領主に迎えられ、教会保護が保証されたことを知って安堵したが、鹿児島上陸以来全くインド・ヨーロッパから書翰がなく、また四九年に要請した援助者の派遣もなかったので、事情を気遣い、一応インドに帰還して問題を整理した後、日本の布教にあたるべき宣教師を選定し、再び来日しようと企てた。義鎮からポルトガル国王宛ての書翰と贈物を預かり、ヨーロッパに派遣すべき鹿児島のベルナルド、山口のマテオ両名とほか二名を伴って五一年十一月二十日ガーマの船で沖の浜を出発。翌年二月ゴアに帰着した。二年三ヵ月の日本滞在中の改宗者は千にも満たなかったが、理性によらなければ容易に信者にならないと見た日本人に寄せる期待は大きく、彼は書翰・口頭で「その文化・礼儀・作法・風俗・習慣はスペイン人に優る」「日本人ほど理性に従う人民は世界中で逢ったことがない」と伝えてやまなかった。また日本文化の源泉は中国にあり、中国伝道の成功は日本のキリスト教化を促すものと考えてゴアの総督使節の広東派遣を企てたが果たせず、直接中国に渡航すべく司祭バルタザール=ガーゴBaltasar Gago、中国人従僕アントニオほか一名を伴って五二年四月ゴアを、七月マラッカを出発。八月末広東港外上川(サンシャン)島に上陸した。鎖国下の中国入国の機を待つうちに熱病で倒れ、十二月三日早暁に没した。享年四十七。遺骸は同島に埋葬後、五四年ゴアに移された。一六一九年教皇パウルス五世Paulus Vにより福者に、二二年教皇グレゴリウス十五世Gr-egorius XVによりロヨラとともに聖人に列せられ、一九〇四年教皇ピウス十世Pius Xにより「世界の伝道事業の保護者」と定められた。
[参考文献]
『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』(河野純徳訳)、吉田小五郎『聖フランシスコ・シャ〓エル小伝』、同『ザヴィエル』(『人物叢書』二一)、ラウレス『聖フランシスコ・サヴィエルの生涯』(松田毅一訳)、ルイス=フロイス『日本史』(柳谷武夫訳 『東洋文庫』四・三五・六五・一六四・三三〇)、ゲオルク=シユールハンメル「日本に於ける聖フランシスコ・ザヴィエル―一五四九―一五五一年―」(『キリシタン研究』一)、G.Schurhammer:Franz Xaver,sein Leven und seine Zeit.4 vols.;G.Schurhammer:Der heilige Franz Xaver,der Apostel von Indien und Japan.
(岩谷 十二郎)


日本大百科全書(ニッポニカ)
ザビエル
ざびえる
Francisco Xavier 
[1506―1552]

キリスト教宣教師。「東洋の使徒」とよばれる。イエズス会創立期の司祭で、東洋に派遣され、日本に初めてキリシタン宗門を伝えた。
1506年4月7日、ナバラ王国(スペイン北部の地方)の貴族の家に生まれる。幼少時に同国は隣国のカスティーリャに敗北して滅びるが、ザビエルはパリ大学に留学。27歳のときに優れた指導者イグナティウス・デ・ロヨラの感化を受け、1534年、同志とともにモンマルトルの丘に集い誓約するところがあり、1540年、ロヨラを初代総長とするイエズス会が公認される。これより先、ポルトガル国王は東インドにイエズス会の優れた人材を派遣することを望んだので、ザビエルが選ばれ、1541年、彼はリスボンを離れ、モザンビーク島を経、インドのゴアに至った。
ローマ法王の使節、イエズス会の東インド管区長の資格をもって、彼はコモリン岬をはじめインド各地を巡り、さらに1545年から1547年にかけて、マラッカからモルッカ諸島まで布教に従事した。その間、マラッカの教会で最初の日本人として鹿児島出身のヤジロウ(アンジロウ)らに会い、彼らの母国日本にキリシタン宗門を広める大いなる熱意を抱いた。
1549年(天文18)8月15日にザビエルは鹿児島に第一歩を印した。薩摩(さつま)(鹿児島県)、平戸(ひらど)(長崎県)を経、周防(すおう)山口(山口県)でも同僚フェルナンデス修道士らと伝道したのち、1551年の初めに堺(さかい)に達し、ついで京都に赴いたが、戦乱のために天皇も将軍も権威がないのを悟る。落胆のうちに西下した彼は、周防の大内義隆(おおうちよしたか)を再度訪れ、数々の珍奇な品を献上してその好意のもとに山口で布教した。ついで豊後(ぶんご)(大分県)にポルトガル船が入港したとの知らせでその地に移り、大友宗麟(おおともそうりん)(義鎮(よししげ))に謁したのち、1551年ひとまず離日してインドに帰った。翌1552年中国布教を志してゴアから旅立ったが、広東(カントン)沖のサンショアン島で病死した。ときに1552年12月2日(3日説は誤り)。遺骸(いがい)は現在ゴアのボン・ジェズ教会にあり、右腕だけはローマのジェズ教会に安置されている。1622年、聖人の位に列せられた。
[松田毅一]2018年2月16日



世界大百科事典
ザビエル
Francisco de Xavier
1506-52

スペイン人のイエズス会士。ナバラ王国のザビエルに生まれる。バスクの血をひく父母はともに王国の名門で,父は王国の要職を歴任し,枢密院議長も務めた。1512年親フランス政策をとるナバラの首都パンプロナはカスティリャ軍に占領され,ザビエル一家は離散し,父と兄2人はフランスに亡命,父は3年後に死亡した。フランシスコは母と姉たちと王国にとどまり,苦難の幼少年時代を過ごした。21年兄ら王国の旧臣は首都奪回を企てて失敗した。このとき首都を守るカスティリャ側に軍人イグナティウス・デ・ロヨラがおり,この戦いで重傷を負ったことを転機に宗教家の道を歩むことになる。25年ザビエルは19歳でパリ大学に入学し,30年に修士号を取得,講師として哲学,ラテン語を教えるかたわら,アリストテレスの哲学を研究し,将来は故国に戻り高位聖職者になることを考えていた。だが,のちにパリに来たロヨラとの出会いは,ザビエルの運命を変え,34年ロヨラを中心として創設された新修道会イエズス会に同志の一人として参加した。41年,東インド布教にイエズス会士の登用を決めたポルトガル国王の要請に応じ,ザビエルは教皇使節の肩書でインドに赴いた。42-48年までインド半島沿岸,セイロン島,マラッカ,モルッカ諸島にまで精力的に布教旅行を行った。47年12月マラッカで日本人アンジローと出会ったことから日本行きを決意した。49年(天文18)8月トレス,フェルナンデス,アンジローらと来日し,51年11月まで2年3ヵ月滞在した。この間鹿児島,平戸,山口,京都,豊後を訪問して日本開教の目的を果たし,1000名内外を改宗させた。日本滞在中,中国改宗の必要性を感じ,52年単身で中国へ向かったが,上陸目前にして上川島で没した。東洋布教開拓のパイオニアとしての功績は大きく,1622年列聖され,1927年〈カトリック布教の保護聖人〉とされた。祝日12月3日。岩波文庫に《聖フランシスコ・ザビエル書翰抄》を収める。
[岸野 久]

[索引語]
Xavier,F.de
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1549年〈天文18 己酉〉 7・22 シャビエル ,鹿児島に上陸( キリスト教の伝来 )(イエスズ会士日本通信)。 1550年〈天文19 庚戌⑤〉 8・‐ シ ...
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9. あしかががっこう【足利学校】
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10. アルバレス【Jorge Alvarez】
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11. アンジロー【Angero】
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12. イエズスかい【イエズス会】
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13. イエズスかいしにほんつうしん【イエズス会士日本通信】
国史大辞典
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14. いきづきしま【生月島】
国史大辞典
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15. イタリア【Italy】
国史大辞典
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16. おおいた【大分】
国史大辞典
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17. おおうちよしたか【大内義隆】
国史大辞典
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18. おおともそうりん【大友宗麟】
国史大辞典
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十六世紀にとつぜんポルトガル人が日本にあらわれた。日本の一海賊弥次郎は聖フランシスコ・デ・シャビエルによって改宗したが、シャビエルはこれを日本におけるカトリック ...
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22. ガーゴ【Balthasar Gago】
国史大辞典
一五一五~二〇年ごろ、リスボンに生まれ、そこで一五四六年イエズス会に入り、四八年インドへ向かう。五二年初めシャビエルとともにゴアを出発してマラッカへ向かい、日本 ...
23. ガーマ【Duarte da Gama】
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24. きょうふうじぎょう【矯風事業】 : キリシタン社会事業/(二)
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25. キリシタンがっこうせいど【キリシタン学校制度】
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27. キリシタンしゃかいじぎょう【キリシタン社会事業】
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28. キリシタンだいみょう【キリシタン大名】
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30. キリスト教
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32. ゴア【Goa】
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ばれ、在留のインド総督ないし副王は、顧問会議・裁判所・法務局・司法官を有した。東洋の使徒聖シャビエルの布教以来発展を見たキリスト教会は、ゴア最盛時の一六〇〇年ご ...
33. ザビエル【Francisco Xavier】
デジタル大辞泉
九州・中国・近畿の各地で伝道。52年、中国への伝道の途次広東(カントン)付近の上川島で没。シャビエル。  ...
34. ザビエル【Francisco de Xavier】
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35. ザビエル
日本人名大辞典
インドにもどり,さらに中国をめざすが1552年12月3日広東港外で病死。46歳。パリ大卒。シャビエルともよむ。 ...
36. しまづたかひさ【島津貴久】
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同九年出家し、伯囿と号した。貴久から義久への家督移譲はこの前後とみられる。この間、貴久は、天文十八年のシャビエルの鹿児島上陸にあたっては、最初は家臣の入信を認め ...
37. シャビ[EURO2008を制し最優秀選手を獲得したスペイン代表]
イミダス 2016
シャビエル・エルナンデス・クレウス。Xavier Hernandez Creus。プロサッカー選手。 2008年6月30日、ヨーロッパサッカー連盟がEURO2 ...
38. しゅうきょうぶんか【宗教・文化】 : 戦国時代/(五)
国史大辞典
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39. すおうのくに【周防国】
国史大辞典
足利義植は将軍職を追われて、大内義興を頼り、やがて復位した。天文二十年(一五五一)、同義隆はシャビエルに布教を許したが、まもなく家臣の陶隆房(晴賢)に襲われて自 ...
40. せんごくじだい【戦国時代】
国史大辞典
後北条氏の小田原など、都市文化が発展を遂げた。天文十八年イエズス会宣教師フランシスコ=ザビエル(シャビエル)の鹿児島来訪をきっかけとして、日本にキリスト教という ...
41. たいがいかんけい【対外関係】 : 近世
国史大辞典
試みたものの必ずしも大きな成果があがらなかった。しかしイエズス会宣教師の一人フランシスコ=シャビエルはマラッカでこの地に赴いた一日本人アンジローと会見し、これが ...
42. ちゅうせい【中世】 : 橋
国史大辞典
渡船が多く、一般には未だそれ以前の徒渉の時代であった。天文二十年(一五五一)フランシスコ=デ=シャビエルは、周防国で、ある時は膝まで、ある時は腰まで冷たい川につ ...
43. チラデンテスの日
デジタル大辞泉プラス
ブラジルの祝日。1792年、独立の父とも呼ばれるジョアキン・ジョゼ・ダ・シルバ・シャビエル(俗名チラデンテス)が処刑された日。 2014年10月 ...
44. ティラデンテス(Tiradentes)
世界大百科事典
1746-92 1789年にブラジルで発覚した〈ミナスの陰謀〉の首謀者。本名シルバ・シャビエルJoaquim José da Silva Xavier。ブラジル ...
45. ティラデンテスの陰謀
日本大百科全書
密告され逮捕された。首謀者の歯科医ティラデンテスTiradentes〔歯抜き屋の意、本名シルバ・シャビエルJoaquim Jos〓 ...
46. とけい【時計】
国史大辞典
朝廷ではこれにより時が測られた。西洋式の機械時計(自鳴鐘と称した)は、日本ではフランシスコ=シャビエルFrancisco de Xavierが天文二十年(一五五 ...
47. トルレス【Cosme de Torres】
国史大辞典
となった。四六年にフランシスコ=シャビエルに会い、ともにゴアへ行き、四八年にイエズス会に入会、天文十八年(一五四九)にシャビエルとともに日本へ渡った。シャビエル ...
48. どうばんが【銅版画】
国史大辞典
日本にヨーロッパの銅版画が伝わったのは、フランシスコ=シャビエルのキリスト教伝来の天文十八年(一五四九)以降のことである。銅版画には銅版面に直接図像を彫刻する ...
49. ドチリナ=キリシタン【Doctrina Christão】
国史大辞典
一種であるため、一般に問答体で平易に教理が説かれている。わが国ではキリスト教伝来以来、まずシャビエルによって邦訳「ドチリナ」の編纂が始められ、やがてガーゴの「二 ...
50. なんばんがし【南蛮菓子】
国史大辞典
宣教師たちが布教のための具とし、また大名などへの贈り物としたこともあって普及を早めた。文献初出はシャビエル渡来の十年後の永禄元年(一五五八)。ただし「南蛮菓子」 ...
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1597年2月5日(慶長元年12月19日)に長崎で豊臣秀吉の命令によって処刑されたカトリックの司祭、修道士、信徒。秀吉は1587年(天正15)に宣教師の国外追放を命じたが、イエズス会員は秀吉の感情を害さぬように慎重に行動したので、事態は穏便に経過していた。
シャビエル(フランシスコ・ザビエル)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五〇六-五二。スペイン人イエズス会士。キリスト教(ローマ=カトリック)を日本に最初に伝えた。古記録には「しびえる」(寛永ころの日繰、祝日表)、「ジャヒエル」(『契利斯督(キリスト)記』)、「サベイリウス」(『西洋紀聞』)と表記され
イエズス会(世界大百科事典・国史大辞典・日本大百科全書・集英社世界文学大事典)
カトリック教会内の司祭修道会の一つ。16世紀イグナティウス・デ・ロヨラによって創立された。耶蘇会とも書かれ,同会士はジェスイットJesuitとも呼ばれる。イグナティウスはマンレサの神体験後,パリ大学で出会った6人の同志P.ファーブル,ザビエル,D.ライネス,N.ボバディリャ
バテレン 【伴天連・破天連・頗姪連】(日本国語大辞典)
キリスト教が日本に伝来した当時の宣教師・神父に対する呼称。パーテレ。日本に伝来したキリスト教の俗称。また、その宗徒。バテレン宗。*俳諧・信徳十百韻〔1675〕「百姓等国の悪党数千人 伴天連吟味ありぬへら也」*放浪記〔1928〜29〕
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聖書(集英社世界文学大事典・世界大百科事典)
ユダヤ教およびキリスト教の聖典。人類の歴史において,聖書ほど広く世界に行き渡り,人々の心を深く捉え,その社会・文化あるいは思想の形成に多大な影響を与え,また熱心な研究の対象となってきたものはおそらくないであろう。その意味で,聖書は人類の大いなる遺産
閻魔(日本架空伝承人名事典・日本国語大辞典・世界大百科事典)
閻魔は冥府の王として仏教とともに日本に入り、恐ろしいものの代名詞とされたが、地蔵菩薩と習合して信仰対象にもなった。奈良時代には閻羅王と書かれ、まれに閻魔国とも書かれている(『日本霊異記』)。閻羅は閻魔羅闍(えんまらじゃ)の略で、閻魔王の意味である。
信教の自由(日本大百科全書・世界大百科事典)
宗教を信仰し、宗教上の行為を行う自由。宗教の自由ともいう。信教の自由は、宗教的権威から人間精神を解放することにより、近代の精神的自由の確立に大きな役割を果たした。また、信教の自由は、人間の魂の救済にかかわる自由として、精神的自由の源をなし、近代以来の
三宝絵詞(東洋文庫・国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典)
平安中期,出家した尊子内親王に源為憲が献じた仏教入門書。表題には「絵」とあるが,絵は失われて詞書だけがのこる。本生譚,経典の功徳,仏教・年中行事などを内容とする。1990年01月刊
渓嵐拾葉集(国史大辞典・世界大百科事典)
叡山の光宗が応長元年(一三一一)から貞和四年(一三四八)にかけて叡山天台の行事・作法や口伝法門などを集録したもの。もと三百巻あったと伝えるが、現在は百十三巻。顕部・密部・戒部・記録部・医療部・雑記部の六部からなり、当時の天台の顕・密・禅・戒に関する
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