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  11. 下鴨神社

下鴨神社

ジャパンナレッジで閲覧できる『下鴨神社』の日本歴史地名大系のサンプルページ

下鴨神社
しもがもじんじや

[現]左京区下鴨泉川町

賀茂かも高野たかの両川の合流点に近い糺森ただすのもりに鎮座。平安遷都以前当地に住した賀茂氏の氏神で、祭神は賀茂建角身かものたけつのみ命・玉依日売たまよりひめ命。「延喜式」神名帳の愛宕おたぎ郡に「賀茂御祖神社二座並神名大、月次相嘗新嘗」とあり、正式には賀茂御祖かもみおや神社と称するが、賀茂川上流の京都市北区上賀茂にある賀茂別雷かもわけいかずち神社を上賀茂神社というのに対し、一般に下鴨神社、下鴨社という。旧官幣大社。当社は平成六年(一九九四)世界の文化遺産(古都京都の文化財)に登録された。境内は国史跡に指定。平安時代には朝廷より伊勢神宮に次ぐ尊崇をうけた上下両社は、以来祭礼・奉幣・行幸などが同日に行われ、合せて一社の扱いをうけ、文献上も両社を賀茂社と総称することが多い。→上賀茂神社

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔社領〕

朝廷と密接な関係をもつ両賀茂社は、平安時代を通じて強力な経済的基盤として広大な社領を有するようになる。延暦四年(七八五)一一月に愛宕郡封戸各一〇戸が両社の神領とされたのをはじめ(続日本紀)、下鴨社には貞観七年(八六五)四月に神田五段(三代実録)、寛仁元年(一〇一七)には愛宕郡のうち蓼倉たてくら栗野くるすの上粟田かみあわた出雲いずもの四ヵ郷が寄進されている(寛仁二年一一月二五日「太政官符」類聚符宣抄、「小右記」)。以後、「賀茂御祖神社略誌」によれば寛治三年(一〇八九)一一月一六日に、幡磨国伊保崎いほざき、伊予国宇和うわ郡六帖網・内海、紀伊国紀伊浜、讃岐国内海、豊前国江嶋えじま、豊後国水津木津きづ、周防国佐河牛嶋さがわうしじま御厨、近江国堅田安芸河かたたあきがわが、翌四年七月二三日の官符により、遠江国河村かわむら荘公田三〇町、美濃国梅原うめはら荘公田四〇町、紀伊国仁儀にぎ荘公田三〇町、長門国厚狭あさ荘公田三〇町、土佐国津野つの荘公田三〇町、讃岐国葛原かつらはら荘田地六〇町、因幡国土師はにし荘田地四〇町、安芸国竹原たけはら荘四〇町、備後国勝田かつた荘田地四〇町、備中国富田とみた荘六〇町、但馬国土野はにの荘田地五〇町、丹波国木津きつ荘田地四〇町、摂津国小野おの荘四〇町、近江国高嶋たかしま荘五〇町、越前国志津しつ荘田地四〇町、越中国倉垣くらがき荘田地三〇町、越後国石河いしかわ荘公田四〇町、丹波国三和みわ荘公田四〇町、美濃国席田むしろだ荘公田一五町が寄進され、また後三条天皇の延久年間(一〇六九―七四)には、播磨国鞍位くらい荘、美作国河今かわいま保が新たに社領となっている。天永元年(一一一〇)には藤原忠実が尾張五烟・美作五烟の封戸を寄進している(同年一一月二〇日「摂政藤原忠実寄進状案」朝野群載)。このほかに下鴨社の荘園・御厨として、

山城国西岡猪熊にしおかいのくま荘・賀茂荘・久世くぜ郷・小赤目こあかめ荘・宇治田上網代たなかみあじろ
摂津国三嶋みしま荘・平安へいあん荘・長洲ながす御厨・尼崎あまがさき
近江国音羽おとわ荘・爾保にほ荘・玉置たまき荘・丹生にう
播磨国塩岡しおおか荘・賀茂網代かもあじろ
備中国戸見保
安芸国都宇つう

があげられている。これらをみると、荘園は主として公田地をもって構成されたこと、魚介類など供物貢進のための浦・浜・河・島などが寄進されているところに特徴がみられる。なかでも寛仁元年の愛宕郡四郷の寄進は、含まれる田地・官物・官舎すべてを社領とし、恒例の祭祀、社殿の修造にあてるように定められたもので、これにより下鴨社の経済的基礎は一挙に確立したといえる。しかし鎌倉時代に入ると荘園・御厨をめぐる在地・他領主との争いが生じており、たとえば建久八年(一一九七)には、下鴨社の御厨の一つであった山城国宇治うじの網代をめぐり宇治〓こいとりとの間で相論が起こっている(「鴨御祖社司申状」勧修寺家本永昌記裏文書)。祭礼・神事に用いる氷魚を得ていた下鴨社が、宇治〓取のために収納できなくなった旨を訴えたもので、これに対する反論、宇治河〓請陳状(勧修寺家本永昌記裏文書)も残っている。また建保五年(一二一七)には摂津国長洲御厨の開発田をめぐって奈良東大寺と相論になった。長州御厨は「如両方申状者、件御厨雖為社家進止、於其地者寺領之条」(「右大臣藤原道家書状」東大寺要録)、すなわち供御人は下鴨社人で土地は東大寺領という関係から、いずれが領有するかの問題が生じたものである。これらの相論は、下鴨社がもはやかつてのような安定した経済的基盤を確立しえなくなったことをうかがわせる。江戸時代には朱印社領五四一石をうけている(京都御役所向大概覚書)

〔社殿〕

社領の確立とともに下鴨社の社殿の名称も諸史料に散見するようになり、経済的裏付けを得て社殿の整備も進められたと推定される。玉依日売命を祀る東殿、賀茂建角身命を祀る西殿からなる本殿は、延暦三年一一月二八日に修理が加えられており(続日本紀)、すでに建物が存在していたことが確認できる。各社殿について、その存在を伝える早い時期の史料を箇条書にすると次のごとくである。

幣殿 天暦五年(九五一)一〇月二八日「鴨御祖社幣殿焼亡」(「永昌記」嘉承元年四月一八日条)
中門 永祚元年(九八九)六月一九日「鴨御社中門内御殿前大樹顛倒」(日本紀略)
回廊・外門 元永二年(一一一九)一一月二日「神殿内外廻廊中門外門皆焼亡」(長秋記)
舞舎・西舎 寛仁元年一一月二五日「着舞舎坤舎座、差西去敷弁座、其西舎敷内記史等座」(小右記)
馬場舎 長元四年(一〇三一)四月二六日「今日下社馬場舎、兼日仰木工修理職等被仰云々」(左経記)
楼門 元永二年一一月一日「賀茂下御社此戌刻払地焼亡了、火出従庫中、及宝殿之由、(中略)中門廻廊楼、皆以為〓燼也」(中右記)
西鳥居 治暦四年(一〇六八)一一月一六日「先参下御社(中略)出自西鳥居」(帥記)
供御所 「嘉保二年五月七日、被行軒廊御卜、是去十二月十八日卯時、見付鴨御祖社供御所南面六尺許蛇出死事」(「康富記」文安五年四月二〇日条)

このように、平安時代末期にはほぼ完全な社頭の景観を整えている。賀茂御祖神社社頭図(京都国立博物館蔵)によれば、斎院の御所が本殿の西に、神宮寺が河合かわい社の北に造立されていた。この社頭図は鎌倉時代末期の景観をもとに、室町時代に描かれたといわれるが、現存しない斎院御所、神宮寺を除くと全体の社殿の配置はほぼ現状と一致し、社殿の大要は、少なくとも鎌倉時代以来そのままの姿で今日に継承されてきたことが明らかである。

〔式年遷宮〕

下鴨神社では式年遷宮制が平安時代以来定例となっている。すでに延暦三年一一月二八日にみられ(続日本紀)、南北朝内乱期や室町末期には遅延荒廃に及んだこともあるが、江戸時代の寛永六年(一六二九)に旧時の規模で再興された(「孝亮宿禰日次記」同年四月五日)。以来延宝七年(一六七九)、正徳二年(一七一二)、寛保元年(一七四一)、安永六年(一七七七)(以上「公卿補任」)、享和元年(一八〇一)、天保六年(一八三五)、文久三年(一八六三)(以上「賀茂御祖神社明細取調書」京都府立総合資料館蔵)とほぼ三〇年の間をおいて正遷宮が行われている。伊勢神宮とならぶこの式年遷宮は、本殿のみを造替、他社殿は修理を加えるものである(東京大学史料編纂所蔵写本「下鴨社遷宮記」は貞和四年の遷宮を詳細に記し、また「京都御役所向大概覚書」には正徳元年から翌二年にかけての正遷宮の造替、修復社殿が記される)。現在の本殿(国宝)は文久三年の造替、本殿を除くほかの諸殿は寛永六年の造替時のもので、現在三二棟が国指定重要文化財。

〔瀬見の小川〕

歌枕。歌学書「八雲御抄」に載り、証歌は鴨長明の歌で、「鴨の社の歌合とて人々よみ侍りけるに月を」として「石川やせみの小河の清ければ月もながれを尋ねてぞすむ」(新古今集)と詠じる。下鴨社の祭神賀茂建角身命が賀茂川を望んで「くあれども、石川の清川すみかわなり」といったことにちなみ、「石川の瀬見の小川」と名付けられたことが「山城国風土記」逸文にみえる。したがって本来は賀茂川の異称というべきである。今、下鴨社境内の糺森の中を流れる小川を「蝉の小川」とよぶのは、この名が賀茂社の縁起にかかわって命名されたからであろうか。玉依姫が丹塗矢を得るのも瀬見の小川でのことである。

石川や蝉の小川に忌串立てねぎし逢瀬は神に任せつ 顕昭(六百番歌合)
君が代も我世も尽じ石川や蝉の小河の絶じと思へば 源 実朝(金槐集)

のように詠まれているが、実は当時すでに所在も名も知られていなかったらしく、証歌としても長明の歌が初出である。長明の「無名抄」によれば、あの歌を出した歌合の際は「判者ニテ師光入道、カカルカハヤアルトテマケニナリ侍ニキ」という有様であった。その後顕昭に会って「是ハカモ川ノ異名也、当社ノ縁起ニ侍ベリ」と話したところ驚いたという。賀茂社の禰宜の家に生まれた長明は知っていたが、他は歌人でも知らなかったわけである。顕昭はのちにその著「袖中抄」に「せみのをがは」を記している。

〔刊行後の調査の進展〕

平成一二年(二〇〇〇)・一三年・一六年の三カ年に実施した旧奈良ならの小川の発掘調査で、祭祀遺構が発見された。祭祀遺構は祭祀とそれを行うために設えた祭壇である。祭壇は平安時代のもので旧奈良の小川の南岸に位置し、規模は東西約八メートル、南北約九メートル、高さ〇・三メートルの方形の遺構である。祭壇の基底部は拳より少し大きい川原石を敷詰め、上部を褐色土で覆い被せて構築している。祭壇の上面で平安時代・江戸時代の祭祀跡を七カ所ほど明らかにしている。祭壇は平安時代に、旧奈良の小川で行う水辺の祭祀(官祭)のために作られたと考えられている。この遺構の南側でも、いずみ川に面した別の祭壇を明らかにしている。このほかにも境内の数ヵ所で祭祀跡を検出している。(「史跡賀茂御祖神社境内」京都市埋蔵文化財研究所・二〇〇三年)

〈平成一八年三月〉

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日本歴史地名大系
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18. いのくまのしょう【猪熊荘】
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19. いみずぐん【射水郡】富山県
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23. 宇治拾遺物語 373ページ
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24. うじべのしょう【氏部庄】香川県:坂出市
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25. おいだじんじゃ【多太神社】奈良県:御所市/大井田村
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26. おおのごうかもじんじゃ【多ノ郷賀茂神社】高知県:須崎市/多ノ郷村
日本歴史地名大系
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27. おおのごうむら【多ノ郷村】高知県:須崎市
日本歴史地名大系
書(古文叢)に「高岡郡津野庄多野郷」と記されていたといわれ、北の吾井郷村を中心に成立した京都下鴨神社領津野本庄に含まれた。康暦元年(一三七九)八月一日付の津野浄 ...
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38. かなめいし(仮名草子集) 78ページ
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神社亦若雷、名神大月次相嘗新嘗」とみえる。正式名称は賀茂別雷神社で、京都市左京区にある賀茂御祖神社を下鴨神社というのに対し、一般には上賀茂神社・上賀茂社という。 ...
40. かみぶんかもじんじゃ【上分賀茂神社】高知県:須崎市/上分村
日本歴史地名大系
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41. かみぶんむら【上分村】高知県:須崎市
日本歴史地名大系
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42. かも【賀茂】
全文全訳古語辞典
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43. かもいせき【鴨遺跡】滋賀県:高島郡/高島町/鴨村
日本歴史地名大系
にかけての一時期であること、また柵列や建物の方位が付近の条里地割と異なっていることから、京都下鴨神社の庄園遺跡と推定するほうが妥当である。柵列に囲まれた建物は庄 ...
44. かもがは【賀茂川(加茂川・鴨川)】
全文全訳古語辞典
[川名]京都の東を北から南へ流れる川。北山から下流して上賀茂神社の近くを流れ、大原から流れてくる高野川と下鴨神社の南で合流し、京都の東部を南へ縦断、南西に向かい ...
45. かもがわ【鴨川】京都市:総論地図
日本歴史地名大系
源は雲ヶ畑(現北区)で、桟敷ヶ嶽・貴船山の派流を合して南下し、上賀茂神社(現北区)の西寄りを東南に進んで、下鴨神社(現左京区)の南、出町付近で高野川と合流した後 ...
46. かもごう【賀茂郷】京都市:山城国(京都市域)郡郷/愛宕郡
日本歴史地名大系
仁二年十一月廿五日という官符(類聚符宣抄)が出されて、蓼倉・栗野・上粟田・出雲四郷が御祖社(下鴨神社、現左京区)領に、小野・錦部・大野郷とともに本郷が別雷社(上 ...
47. かもしゃ【加茂社】富山県:射水郡/小杉町/戸破村
日本歴史地名大系
。「越の下草」は「延喜式」神名帳の射水郡草岡神社にあてる。中世当地域一帯は京都賀茂御祖神社(下鴨神社)領倉垣庄に含まれており、庄内には多くの賀茂(加茂)社が勧請 ...
48. かもじんじゃ【加茂神社】富山県:射水郡/下村/下村
日本歴史地名大系
旧北陸街道の西方に福王寺と並んで鎮座。祭神は玉依姫命・賀茂建角身命・賀茂別雷命。京都賀茂御祖神社(下鴨神社)領倉垣庄の総社という。旧郷社。正徳二年(一七一二)の ...
49. かもじんじゃ【加茂神社】岐阜県:山県郡/高富町/梅原村
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創建年月不詳。寛治四年(一〇九〇)山城国の賀茂御祖社(下鴨神社)領公田四〇町歩が梅原庄にあったことから、その分霊を祀ったのではないかといわれるが、下鴨神社の祭神 ...
50. かもじんじゃ【加茂神社】佐賀県:東松浦郡/七山村/滝川村
日本歴史地名大系
滝川の右岸の丘陵にある。旧村社。安元二年(一一七六)賀茂県主久基(加茂義賢)が、滝川に館を構えて土着し、京都の下鴨神社の分霊を勧請したという(→滝川村)。のち、 ...
「下鴨神社」の情報だけではなく、「下鴨神社」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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奈良市登大路町にある法相宗大本山。南都七大寺の一つ。寺伝では「こうぶくじ」という。縁起によると、天智天皇八年(六六九)藤原鎌足の死去に際し、妻の鏡女王が鎌足の念持仏の釈迦丈六像などを祀る伽藍をその山階(山科)邸に設けたのに始まり(山階寺)、その子不比等によって藤原京の厩坂に移遷(厩坂寺)
東大寺(国史大辞典)
奈良市雑司町にある華厳宗の総本山。大華厳寺・金光明四天王護国寺・総国分寺などの別称がある。南都七大寺・十三大寺・十五大寺の一つ。東大寺の寺号は平城京の東方にある大寺を意味し、『正倉院文書』の天平二十年(七四八)五月の「東大寺写経所解案」に初見するが
法隆寺(日本大百科全書・世界大百科事典)
奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳(しょうとく)宗総本山。斑鳩寺(鵤寺、伊可留我寺とも書く)、法隆学問寺などの異称がある。南都七大寺の一つ。草創の由来は、金堂の薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)光背銘によると、用明(ようめい)天皇が病気平癒を念じ
渭伊神社(日本歴史地名大系)
[現]引佐町井伊谷。井伊谷(いいのや)の北西端に鎮座する。社域西側を神宮寺(じんぐうじ)川が半円を描いて流れ、杉・檜・楠の古木が社叢をなす。祭神は品陀和気命・息気長足姫命・玉依姫命。旧郷社。「延喜式」神名帳にみえる引佐郡六座のうちの「渭伊(イイノ)神社」に比定される。
天竜寺(日本大百科全書(ニッポニカ))
京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町にある臨済宗天竜寺派の大本山。霊亀山天竜資聖禅寺と号する。本尊は釈迦如来。京都五山の第一。1339年(延元4・暦応2)、後醍醐天皇が吉野行宮で崩御するや、足利尊氏・直義の兄弟が夢窓疎石の勧めによって、後醍醐天皇の冥福を祈るために創建した寺であり
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浜松城(国史大辞典・日本大百科全書・日本歴史地名大系)
静岡県浜松市元城町にあった城。平山城。三方原洪積台地の最東南端に徳川家康が築城し、浜松城と称え、この地を引馬から浜松に改称した。引馬旧城主飯尾連竜は今川氏真に謀殺され、その留守を預かる老臣間の内紛を平定した家康が、元亀元年(一五七〇)、遠江経営と武田
鶴岡八幡宮(国史大辞典・日本歴史地名大系)
神奈川県鎌倉市雪ノ下に鎮座。旧国幣中社。源氏の氏神であり、鎌倉の町の中心として存在してきた社で、明治の神仏分離までは鶴岡八幡新宮若宮(いまみやわかみや)・鶴岡八幡宮寺とも称した。大分県の宇佐、京都府の石清水(いわしみず)両宮とともに全国の八幡宮を代表
恭仁京(世界大百科事典・日本大百科全)
奈良時代中ごろの都城。現在の京都府南部の木津川市に営まれた。740年(天平12),九州で藤原広嗣の乱が起こったのを契機に平城京を離れた聖武天皇は,伊勢,美濃,近江をめぐった後,12月15日山背国南端の久仁郷の地に至り恭仁京の造営に着手した。翌年11月
遷宮(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
神社で、一定の年数を定めて、新殿を造営し、旧殿の御神体をここに遷すこと。そしてこの新殿の造営を式年造営といい、また仮殿遷宮と対称して正遷宮とも称せられる。伊勢神宮の例が著明である。伊勢神宮に式年遷宮の制が立てられた年次については
長谷寺(日本大百科全書(ニッポニカ))
奈良県桜井市初瀬にある寺。真言宗豊山派総本山。豊山神楽院長谷寺と号する。初瀬寺とも書かれ、豊山寺、長谷観音とも称する。本尊は十一面観音。西国三十三所第8番札所。686年(朱鳥1)弘福寺(川原寺)の道明上人が天武天皇の病気平癒祈願のため、法華説相図銅板(千仏多宝塔を鋳出)
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