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  11. 金峯山寺

金峯山寺

ジャパンナレッジで閲覧できる『金峯山寺』の国史大辞典のサンプルページ

金峯山寺
きんぶせんじ
奈良県吉野郡吉野町吉野山にある寺院。「山上(山上ヶ岳)一体、山下(吉野山)三体」の蔵王権現を祀る金峯山修験本宗大本山。現在、「きんぷせん」寺といい、蔵王権現の巨像を祀る巨大な蔵王堂(国宝)や二王門(同)を中心とし、一山は天台・真言両系の修験道寺院(単立寺院)で構成されている。寺号として金輪王寺(金輪寺)の称もある。もともと金峯・勝手・水分(子守)の吉野三所明神の神山たる金峯山を承け、役行者の草創、聖宝僧正(理源大師)の中興が説かれる。早くに東大寺の支配に属したため行基の開山説も伝えられるし、なお聖宝のゆかりで修験道寺院化して天台宗聖護院門跡の配下となり、真言宗も加わり、諸院諸坊数十宇を数える。如意輪堂(現在は如意輪寺)・世尊寺もこれの一院であった。武力も蓄え、金峯神人の強訴が早くに始まるが、平安時代の後半期からは興福寺僧兵の武力弾圧をうけ、興福寺(のち一乗院門跡)の支配となった。興福寺は、金峯山寺が吉野郡の領主化し、なお宇智郡や高市郡に荘園を設定し、土豪を武力とした俗勢力を振るったため、これを把握しようとしたものであり、その教学には干渉しない。また興福寺の強訴には布留明神(石上社)とともに勝手明神の神宝を随行せしめることになったが、これは公家の金峯山信仰を利用したものといえる。当代、金峯山寺の神仏混淆の一山組織が完成した。なお、修験道の興隆で熊野山検校の聖護院、本地垂迹思想の発達で高野山の勢力も山内に及んできた。この高野山とは西吉野山地の境域争いから両山僧兵の激突も繰り返された。中世末に至るまで興福寺一乗院門跡が主として金峯山検校となり、執行少別当が一山の寺務にあたった。しかし、教務は一臈を学頭とする衆徒(寺僧)方(天台系)、山上導師を長とする禅徒(満堂)方(真言系)の両教団組織が遂行した。源頼政の残党や源義経の追捕を興福寺が命ぜられたり、後醍醐天皇が吉野山に遷幸せられたりしたのは検校の一乗院門跡が協力したことも一因であった。これには真言僧の小野文観僧正や現地の執行吉水院宗信の忠誠が語られる。貞和四年(一三四八)の高師直軍の吉野皇居焼掠で蔵王堂も焼亡、一山は滅亡の危機に瀕したが、一乗院門跡が吉野郡の領主として金峯山寺を保護するし、修験道の興隆で旧勢を回復した。やがて、一向宗本願寺や曹洞宗の吉野郡進出や地侍らの台頭で金峯山寺の領主的地位は動揺したが、住民の根強い金峯山信仰に支えられて戦国乱世を乗り切った。天文三年(一五三四)、一向宗徒の焼掠があるが、堂塔は残り、坊舎も三十六坊を存している。なお、当山の師檀組織の創成も徴証できるが、先達活動は熊野山に委ねられて活発化しない。この面では大峯山系の弥山(みせん)信仰を握る天川社の活動や熊野先達から自立した国中の修験道寺院が発達している。近世、豊臣秀吉の朱印領給付(徳川幕府もこれを承継、千十三石の朱印寺院となる)、堂塔修造寄進で新生の観を呈する。なお、醍醐寺三宝院門跡が修験道当山派を結集して「山上参り」を盛んにしたが、金峯山寺は一乗院門跡に代わって日光輪王寺宮門跡の支配をうけることになり、天台・真言の兼帯が見られる。なお、元禄の交に竹林院の高野山支配離脱のことがある。明治維新の神仏分離には社僧・神人らの活躍や蔵王権現の性格が論議をおこして紛糾、三所明神社は独立、執行坊の吉水院は吉水神社となった。しかし、明治十二年(一八七九)から東南院・竹林院・桜本坊が延暦寺末として相ついで復活し、また同十九年に山上の蔵王堂の復活が認められ、ついで同二十一年に喜蔵院が聖護院末として復活したのを機会に蔵王堂を中心とする天台宗延暦寺末の金峯山寺が再興せられた。昭和二十三年(一九四八)天台宗より離脱し、金峯山修験本宗を樹立した。ところで、山上蔵王堂(本堂)の所管は旧社寺領山林下戻しの申請のことから、吉野山四ヵ寺と洞川竜泉寺、および吉野山・洞川両区に属することとなり現在に至っている。なお、修験行場の吉野から熊野に至る峰筋左右八丁ずつも本堂所属となり、同じ所管となっている。
[参考文献]
『吉野町史』、「金峰山寺の神仏分離」(村上専精・辻善之助・鷲尾順敬編『(明治維新)神仏分離史料』下所収)
(永島 福太郎)
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金峯山寺の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 155
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検索コンテンツ
1. きんぶせん‐じ【金峯山寺】
日本国語大辞典
(「きんぷせんじ」とも)奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗の総本山。役小角(えんのおづの)の創建と伝えられ、天平年間(七二九〜七四九)行基が蔵王権現をまつっ ...
2. きんぶせんじ【金峯山寺】
国史大辞典
したが、一乗院門跡が吉野郡の領主として金峯山寺を保護するし、修験道の興隆で旧勢を回復した。やがて、一向宗本願寺や曹洞宗の吉野郡進出や地侍らの台頭で金峯山寺の領主 ...
3. きんぶせんじ【金峯山寺】奈良県:吉野郡/吉野町/吉野町
日本歴史地名大系
わが国修験道の根本道場であった。現在大峯山寺(現奈良県天川村)とよぶ山上本堂は金峯山寺の山上蔵王堂であり、吉野山にある本堂は金峯山寺の山下蔵王堂である。「塵添 nbsp;...
4. 金峯山寺
日本史年表
970年〈天禄元(3・25) 庚午〉 9・8 金峯山寺 焼亡(紀略・興福寺略年代記)。  ...
5. 金峯山寺(きんぶせんじ)[大和]【篇】
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 1307ページ ...
6. 金峯山寺
日本大百科全書
吉野山から山上ヶ岳(さんじょうがたけ)までの山並みをさし、吉野山上にある本堂は金峯山寺の山下蔵王堂であり、山上ヶ岳にある本堂は金峯山寺の山上蔵王堂で、大峯山寺と ...
7. 金峯山寺
世界大百科事典
奈良県吉野郡吉野町にある修験道金峯山派の本山。吉野山にある本堂蔵王堂は東大寺大仏殿につぐ木造建築物として有名である。寺伝では役小角(えんのおづぬ)の開基とするが ...
8. 金峯山(きんぷせん)寺
デジタル大辞泉プラス
奈良県吉野郡吉野町にある寺院。7世紀後半の創建とされる。金峯山修験本宗総本山、本尊は蔵王権現。本堂は国宝に指定。「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの ...
9. きんぷせん‐じ【金峰山寺】地図
デジタル大辞泉
奈良県吉野山にある金峰山修験本宗の総本山。院号は蔵王堂院。役(えん)の小角(おづの)の草創と伝え、聖宝僧正(理源大師)の中興と伝える。蔵王堂・二王門(ともに国宝 ...
10. あきづきのしょう【秋月庄】徳島県:阿波郡
日本歴史地名大系
」とあり、大檀那として梵光寺守恪・右京大夫(細川)頼元・兵部少輔義之がみえる。現奈良県吉野町金峯山寺蔵の同一〇年八月一五日の安禅寺愛染明王鰐口銘に「阿州秋月八幡 ...
11. あきづきはちまんぐう【秋月八幡宮】徳島県:阿波郡/市場町/八幡町
日本歴史地名大系
寺所蔵一切経奥書)。永享一〇年(一四三八)八月一五日の大和安禅寺愛染明王鰐口(現奈良県吉野町金峯山寺蔵)銘には「阿州秋月八幡宮常住也」とある。寛永一七年(一六四 ...
12. あだのしょう【阿〓庄】奈良県:五條市/西阿〓
日本歴史地名大系
えよう。その後、保元三年(一一五八)の官宣旨案(色川本栄山寺文書)では、宿院(→宿院負田)と金峯山寺の阿〓条二里二坪・三坪、四里四 ...
13. あちがのしょう【阿智我庄】奈良県:吉野郡/下市町/阿知賀村
日本歴史地名大系
のぼるもので、太政官と民部省の認可によって設定される荘園をいう。おそらく金峯山寺領として設定されたものであろう。金峯山寺は永承四年(一〇四九)に興福寺僧円縁が金 ...
14. あなしのしょう【穴師庄】奈良県:桜井市/三輪・纏向地区/備後村・初利村
日本歴史地名大系
平忠盛が、保延六年(一一四〇)金峯山寺に寄進したと考えられる梵鐘に穴師庄がみえ「保延六年十二月三日 右京大夫兼播磨 守平朝臣忠盛奉 施入熟銅廿□三□ 在大和国城 ...
15. あなしむら【穴師村】奈良県:桜井市/三輪・纏向地区
日本歴史地名大系
山葛せよ」とある。我妹子は巻向の地名音から転訛したともいわれる。ちなみに保延六年(一一四〇)の吉野山金峯山寺梵鐘銘には「大和国城上郡内穴師庄」と刻み、「経覚私要 ...
16. いだにのしょう【井足庄】奈良県:宇陀郡/榛原町/上井足村・下井足村
日本歴史地名大系
東金堂」とある。これらによると、室町期には興福寺一乗院領となっており、春日社・興福寺東金堂・金峯山寺の得分もあったと考えられる。現大字山辺三の在地武士と考えられ ...
17. 一乗院
世界大百科事典
如来,阿弥陀仏像を安置していた。定昭は法相教学を仁斅(にんこう)に,寛空に灌頂をうけ,吉野の金峯山寺検校,東寺長者にもなり,970年(天禄1)に興福寺別当に補任 ...
18. いちじょういん【一乗院】 : 興福寺
国史大辞典
が同門跡を管領(家門という)、特に近衛家が主となった。南北両朝対立に際し、門主覚実はその末寺金峯山寺検校の職に在ったため、後醍醐天皇を吉野山に迎え、宮方となって ...
19. いちじよういんあと【一乗院跡】奈良県:奈良市/奈良公園地区/興福寺
日本歴史地名大系
備前国家浦荘、日向国・薩摩国・大隅国の島津荘などがあった。また京都大覚寺以下数十の末寺をもち、のちには金峯山寺(現奈良県吉野町)を加えた。南都には一乗院郷があり ...
20. いわくらせんげんあと【岩倉千軒跡】奈良県:吉野郡/吉野町/吉野町
日本歴史地名大系
」「同院宝塔院、白河院御願、承和三年被立之、承暦三年十二月二十六日供養(下略)」などとある。金峯山寺一山の学頭職の住寺がもつような重要寺堂もあり、白河上皇発願の ...
21. うののしょう【宇野庄】奈良県:五條市/宇野村
日本歴史地名大系
而称本寺課役繁多由、忽寄与金峯山、両寺合戦」とある。これによれば、頼俊外孫が私領を興福寺に寄進、課役が重いので金峯山寺にも寄進したところ、両寺の合戦になったこと ...
22. えいさんじりょう【栄山寺領】奈良県:五條市
日本歴史地名大系
書)には雑事二ヵ条があげられているが、その一は「応令停止栄山寺領宇智郡内金峯山寺并宿院妨坪坪事」と記されている。金峯山寺や宿院の押領(→阿 ...
23. おおみねさんじ【大峯山寺】奈良県:吉野郡/天川村/洞川村
日本歴史地名大系
今残寺六箇也」となった。その後、金峯山寺塔頭小松院の勧進僧快元が本堂の荒廃を嘆き、元和二年(一六一六)勅許を得て諸国を勧進大修理を行った(「再興縁起」金峯山寺蔵 ...
24. 鬼火
日本大百科全書
焼杭(やけぐい)や灰を魔除(まよ)けに使うことなど、すべて小正月の火祭と同様である。別に、奈良県吉野の金峯山寺(きんぷせんじ)では、節分に鬼火という行事がある。 ...
25. かさまのしょう【笠間庄】奈良県:宇陀郡/榛原町/笠間村
日本歴史地名大系
領」とみえる。これらによると、笠間庄は興福寺一乗院領と多武峯寺領とが一応考えられる。前者には金峯山寺の得分もあった。後者については、護国院御神殿造営銭日記(談山 ...
26. かってじんじゃ【勝手神社】
国史大辞典
天孫降臨に従った三十二神中の愛鬘神(うけのりかみ)命と伝えている。創建年代は明らかでないが、金峯山寺の興隆に伴い、金峯神社、子守神社(吉野水分神社)などとともに ...
27. かわずとび の 神事(じんじ)
日本国語大辞典
(1)奈良県吉野郡金峯山寺(きんぶせんじ)蔵王堂で、七月七日(古くは六月九日)に行なわれる神事。若者が扮する大蛙が、僧の行法によってついに、人間の姿をとりもどす ...
28. 川渡甚太夫一代記 北前船頭の幕末自叙伝 226ページ
東洋文庫
七、八世紀の頃、大和国葛城山にいた呪術者。修験道の祖といわれ、大峯山を開き、蔵王堂を ふくむ金峯山寺を開創したとされる。(㎜) 和歌山県にあり、空海創建の真言 ...
29. 川渡甚太夫一代記 北前船頭の幕末自叙伝 227ページ
東洋文庫
報恩院は近世においてもっとも力をもっていた。(mm) 小篠の大護摩。小篠は大峰山中の靡(宿)のひとつ。金峯山寺中興の祖理源大師の大師堂、役行者堂が あり、山上 ...
30. かんしんじのしょう【観心寺庄】大阪府:河内長野市/観心寺村
日本歴史地名大系
寿永元年(一一八二)八月二八日付高野山僧鏡尋解(石山寺所蔵聖教目録裏文書)に初見。この解は、当庄を吉野金峯山寺に寄進しようと計った庄民則安らを訴えた鏡尋に対し、 ...
31. 感身学正記 1 西大寺叡尊の自伝 117ページ
東洋文庫
叡尊の弟子となって戒を受けたとい う。この吉野執行も覚如のことであろう。宮坂敏和氏によれば、吉野山執行は金峯山寺の 塔頭吉水院の住僧から出た(宮坂敏和『吉野その ...
32. きいのくに【紀伊国】和歌山県
日本歴史地名大系
え、紀ノ川流域に集中し、南にいくに従って少なくなっている。これらは高野山領・石清水八幡宮領・金峯山寺領が多いが、後にはさらにこれら権門社寺への集中化が進んでいく ...
33. きぞういん【喜蔵院】奈良県:吉野郡/吉野町/吉野町
日本歴史地名大系
本山修験宗、聖護院門跡別院別格本山。本尊は役行者で蔵王権現・不動尊を祀る。境内四六五坪。かつて金峯山寺の一院で、承和年間(八三四―八四八)円珍の入峯に際し創立、 ...
34. きたざおうむら【北蔵王村】滋賀県:蒲生郡/日野町
日本歴史地名大系
神社)に由来(輿地志略)。同社は中世まで栄えた綿向山修験に関連し、延慶元年(一三〇八)に大和金峯山寺(現奈良県吉野郡吉野町)で祀る蔵王大権現の分霊を勧請したもの ...
35. きんぶさん【金峯山】奈良県:吉野郡
日本歴史地名大系
金峯山は修験の一大宗教的霊域となった。金峯山内一円の修験寺院は一括して金峯山寺と総称、門前町への入口にある黒門を金峯山寺総門といい、地主神を祀る神社を金峯神社と ...
36. きんぶ‐しょうじん[‥シャウジン]【金峯精進】
日本国語大辞典
〔名〕奈良県の金峯山寺(きんぶせんじ)に参詣する人が、出発前に身をきよめること。御岳精進(みたけそうじ)。キンブショージン ...
37. 金峰山(奈良県)
日本大百科全書
どう)が隆盛となり、山上ヶ岳および吉野山の蔵王(ざおう)堂を中心に立ち並ぶ修験寺院を一括して金峯山寺(きんぷせんじ)、地主神を祀(まつ)る神社を金峯(きんぶ)神 ...
38. きんぶせんきょうづか【金峯山経〓
国史大辞典
経箱は五口発見されているが、そのうち花鳥唐草を毛彫した銅製魚々子地金銀鍍金の経箱(金銀鍍双鳥宝相華文経箱、金峯山寺蔵、国宝)は、工芸的に特に優れた遺品である。経 ...
39. きんぶせんめんでん【金峯山免田】奈良県:北葛城郡
日本歴史地名大系
金峯山寺領。康和三年(一一〇一)の定林寺妙安寺所司等解(法隆寺文書)に「新免田」として「金峯山」とあるので、摂関家領平田庄内に存在したものである(→平田庄)。免 ...
40. きんぷじんじゃ【金峯神社】鳥取県:岩美郡/岩美町/牧谷村
日本歴史地名大系
。祭神は天水分神・国水分神・勾大兄神で、旧郷社。創建年代は未詳だが、社伝によれば大和国吉野郡金峯山寺(現奈良県吉野町)から蔵王権現を勧請したと伝える。江戸時代に ...
41. きんぼうさん【金峯山】山形県:鶴岡市
日本歴史地名大系
山腹には各僧坊付属の末社堂一五宇が点在(延享五年「庄内寺院録」鶴岡市郷土資料館蔵)。慶応二年(一八六六)の金峯山寺中宗門改帳(金峯神社文書)によれば、僧坊一六ヵ ...
42. きんぽうさん【金峰山】鹿児島県:日置郡/金峰町
日本歴史地名大系
に錫をとどめ、推古天皇二年に従三位兼大宰大弐蔵人頭高橋卿が勅使として大和吉野(現奈良県吉野町金峯山寺)の金剛蔵王を勧請したと記す。観音寺は保延四年(一一三八)に ...
43. きんりんのうじあと【金輪王寺跡】奈良県:吉野郡/吉野町/吉野町
日本歴史地名大系
その後復旧されたが、徳川家康は大坂在陣の時、南光坊天海を金峯山寺学頭に任じて、当寺の寺号を日光に移し、もとの実城寺に改称した。以後江戸末期までは金峯山寺学頭坊で ...
44. くろだのしょう【黒田庄】三重県:名張市
日本歴史地名大系
めぐる両者の利害は鋭く対立したと思われる。そこで興福寺は、すでに寛治六年(一〇九二)に起こった藤原保房と金峯山寺(現奈良県吉野町)の矢川・中村の私領をめぐる争い ...
45. けん‐ぎょう【〓〓
日本国語大辞典
はげしく口論、抗議すること。けんぐ。けんぐう。*高野山文書‐永治二年〔1142〕二月一五日・金峯山寺牒(大日本古文書二・五五六)「然則件村出 ...
46. 康俊
世界大百科事典
報恩院の文観と関係が深く,般若寺文殊菩薩像(1324)は文観の発願になる。彼の子康成も吉野の金峯山寺に金剛力士,薬師如来像を造るなど,康俊父子は同時代の七条西仏 ...
47. こうののしょう【神野庄】和歌山県:海草郡/美里町
日本歴史地名大系
。またこの間、少なくとも寿永元年(一一八二)までは高野山と従来の関係を保ち続けており、吉野の金峯山寺とも承安五年(一一七五)から少なくとも寿永元年に至るまで何ら ...
48. こうふくじ【興福寺】
国史大辞典
が同門跡を管領(家門という)、特に近衛家が主となった。南北両朝対立に際し、門主覚実はその末寺金峯山寺検校の職に在ったため、後醍醐天皇を吉野山に迎え、宮方となって ...
49. 木葉衣・鈴懸衣・踏雲録事 修験道史料1 29ページ
東洋文庫
を紹介している。 吉野はまだ金峯山寺や竹林院、桜本坊、喜蔵院等に史料をのこしており、『日雄寺継統記』をはじめ、『当山年中行事条々』『吉野山衆徒中年中行事』『金峯 ...
50. 木葉衣・鈴懸衣・踏雲録事 修験道史料1 161ページ
東洋文庫
発心門は「死の世界」(他界鷲あの世)への入口ということになる。置 吉水院 いま神社となっているが、もと金峯山寺の一繭が住持した住宅式の寺であった。源義経は文治元 ...
「金峯山寺」の情報だけではなく、「金峯山寺」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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