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  11. 粉河産土神社
日本歴史地名大系

粉河産土神社
こかわうぶすなじんじや

[現]粉河町粉河 六社壇

粉河寺本堂後方の小高い地に鎮座する。祭神は丹生にう大明神・若一王子権現。旧村社。たのもしの宮とも称する。「続風土記」に、粉河寺を創建した大伴孔子古の子船主が、延暦年中(七八二―八〇六)に当社北東の上丹生谷かみにうや(現粉河町)の丹生神社から勧請したと伝え、保延四年(一一三八)三月二五日の藤原公能寄進状(粉河寺御池坊文書)に「又丹生之霊社者、当寺之鎮護也、然其宝前奉読長日大般若経、香華薫修」とあり、平安時代末期には鎮座していたことが知られる。

鎮座地を六社壇ろくしやだんと称するように、当社はもともと六社が祀られており、すでに平維盛が粉河寺に参詣した時には「伏テ案レハ神則霊験無双之六廟祠、飜〓垂跡〓〓本地於遮那覚海之浦〓(延慶本「平家物語」維盛粉河へ詣給事)と記され、霊験無双の六廟祠として知られていたものと思われる。六社とは丹生大明神・若一王子・伊勢大神宮・熊野権現・吉野三十八所・三百余社であったという(寛文五年「御上様江書上候控」方衆座文書)。このうち若一王子社は丹生明神とほぼ同時に東野ひがしの(現粉河町)の王子神社を勧請したともいう。

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔祭礼〕

粉河祭(県指定無形民俗文化財)は六月一八日(現在は七月末の土・日曜)で、古くは六月会とよばれた。康永三年(一三四四)二月二日の円阿弥陀仏山地寄進状(王子神社文書)に「東村之谷垣内小者、円阿弥陀仏相伝之地也、而粉河寺之六月会ノ馬頭、草木之頭ノ方ニ、此山ヲ東村ヲトナノ御中エ、并村堂エ造(営)為ニキシム(寄進)申候」とある。祭礼の中心は「栗栖の一つ物」「五位・弓鉾」「右馬頭・弓鉾」「随兵」「御幣・児」「禰宜」などを主役とするお渡りで、栗栖くるす(現和歌山市)、上丹生谷・下丹生谷・西川原にしかわばら松井まつい中津川なかつがわ・粉河・中山なかやま藤井ふじい(現粉河町)の九ヵ村が中世以来の宮座組織をもって担当していた。「五位・弓鉾」は上下丹生谷村と西川原村、「右馬頭・弓鉾」は松井村と中津川村、「随兵」は粉河寺、「御幣・児」は中山村と藤井村、「禰宜」は中津川村が担当し、元和九年(一六二三)に徳川頼宣から祭料として米五石を下されたことが方衆座文書にみえている。

行列次第は、寛文五年(一六六五)の御上様江書上候控に詳しいが、江戸時代末期には若干の変更があり、「紀伊国名所図会」の祭礼図をみると、寛文年間に加わっていた馬付・走り衆・高野聖の姿は消え、代りに御池坊・一山大衆一老・一山大衆七僧らの粉河寺衆徒が加わり、また絹を商う荷を背負った行商人姿の連尺、伯市座に所属する粉河村役人・粉河随兵、その一座の集団が入っている。お渡りの先頭に立つ「栗栖の一つ物」について「紀伊国名所図会」は松屋翁(小山田与清)の祭礼を観る記を引用して次のように記している。

扨最初にねり出るは、童を馬にのせ、菅笠やうの物に紙のしできりかけ、山鳥の尾二十一節あるを一本いたゞきさしたり。面も体も、彼しでもて包みぬれば少も見えず、たゞ幣帛を馬に積たるが如し、口とり其外ずさども多く従ひたり。栗栖の一物といふ。栗栖此里よりは五里ばかりあり。宿よりまうできて、坊に宿り居るを、七度半の使をやりて後に出来るならはしなりとぞ。
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