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三嶋大社

ジャパンナレッジで閲覧できる『三嶋大社』の日本歴史地名大系のサンプルページ

三嶋大社
みしまたいしや

[現]三島市大宮町二丁目

旧東海道(県道沼津―三島線)に南面して鎮座。祭神は大山祇神・事代主神の二神。旧官幣大社。古代は式内社、中世は伊豆国一宮として武士の崇敬を受け、近世は三島町の発展とともに庶民の信仰を集めた。本地仏は薬師仏(「新千載集」「北条記」など)であった。

〔古代〕

伊豆国三嶋神主家系図(筑波大学附属図書館蔵)によれば、大化五年(六四九)賀茂かも郡沖の海底火山の噴火によりおき(現三宅島か)が出現し、興島大明神が住着いたといい、慶雲元年(七〇四)には伊豆おお島が噴火したため、伊豆国守矢田部宿禰金築が三嶋宮惣神主職を承り、興島から大島に同宮を移し、さらに天平七年(七三五)神告により府中ふちゆうに移したという。また「三嶋大明神縁起」によれば、三嶋神は后の伊古奈比〓神とともに伊豆三宅みやけ島にあったが、推古天皇二年下田の白浜しらはま(古代は賀茂郡)へ飛来したという。はっきりしたことは不明であるが、後述するように一〇世紀初頭にはまだ賀茂郡に所在しているので、平安中期以降に田方たがた郡に移ったと考えられる。天平宝字二年(七五八)一〇月二日三嶋神に封戸九戸が、さらに一二月には四戸が授けられた(大同元年「牒」新抄格勅符抄)。天長九年(八三二)五月二二日三嶋神と伊古奈比〓神が名神に列せられた(釈日本紀)。「続日本後紀」承和七年(八四〇)九月二三日条に引用する伊豆国解に神津こうづ島にいる阿波神は三嶋大社の本后であるとみえ、この頃までに大社に列せられていた。嘉祥三年(八五〇)一〇月七日三嶋神が従五位上に叙せられ、仁寿二年(八五二)一二月一五日に「従四位ママ下」、斉衡元年(八五四)六月二六日には従四位下(以上「文徳実録」など)、貞観元年(八五九)一月二七日には従四位上(三代実録)、同六年二月五日正四位下(同書)、同一〇年七月二七日には従三位に昇叙されている(類聚国史)

「延喜式」主税寮によれば三嶋神料として二千束が下されており、同神名帳によれば「伊豆三しまの神社」は賀茂郡に所在する名神大社で、月次祭・新嘗祭に際しては朝廷から幣帛が奉献されることになっていた。なお「伊豆国神階帳」には正一位三嶋大明神とみえ、「大日本国一宮記」には三嶋大明神は伊豆国一宮で賀茂郡に所在し、祭神は大山祇命とある。寛仁元年(一〇一七)一〇月二日大祓が行われて当社など四八社に奉幣があり、金銅の鈴を入れた紫綾蓋などが寄進された(左経記)。康和五年(一一〇三)一一月伊豆宿禰国盛が三嶋宮司に補任され(「伊豆国司庁宣」矢田部文書)、嘉承三年(一一〇八)一月二五日国盛が三嶋大社司職に補任されたというが(「伊豆国司庁宣」同文書)、この二通の文書は検討の余地がある。

〔中世〕

「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)八月一七日条に「三嶋社」とみえ、挙兵を目前にした源頼朝は当社の神事が始まる以前に、安達藤九郎盛長を使者として戦勝祈願の奉幣をしている。佐々木兄弟の遅参で暁には挙兵できなかったが、同日夜三嶋神事のため人が衢に満ちている中、牛鍬うしくわ大路を通って平信遠を襲撃、ついで当社神事参拝のため郎従が多く出払っている隙をついて山木兼隆の館(現韮山町)を襲って兼隆らを討取った。同年一〇月平家軍を迎え撃つため西上する際にも、頼朝は足柄あしがら山を越えて伊豆国府に入り、三嶋大明神を伏し拝んだという(「源平盛衰記」巻二三畠山推参附大場降人の事)。この後当社は鎌倉鶴岡八幡宮や二所権現(伊豆山神社・箱根神社)と並んで鎌倉幕府の崇敬を受けることとなる。

〔将軍参詣と奉幣使の派遣〕

文治三年(一一八七)一二月二七日、源頼朝は明春の二所参詣のための供奉人を定め、翌四年一月二〇日に「伊豆・箱根・三嶋社」参詣のため源範頼・足利義兼ら随兵三〇〇騎を従えて鎌倉を立っている。このことから史料上には二所とのみあっても、参詣の際は当社も含まれていることは確実である。建久元年(一一九〇)一月一五日頼朝は二所参詣に出発したが、伊豆山(伊豆山神社)へ行く途中石橋いしばし(現神奈川県小田原市)で戦死した佐奈田義忠らの墳墓をみた頼朝が哀傷のあまりに落涙したため、参道においてはばかるべきであると先達が主張し、鎌倉に戻った同月二〇日、翌年よりの二所参詣の順路は当社および箱根権現(現神奈川県箱根町箱根神社)への奉幣を先とし、伊豆山より鎌倉へ戻ることと定められている。その後建保二年(一二一四)一月二九日に源実朝が参詣したのを始めとして、代々の将軍が当社に参詣している(以上「吾妻鏡」)

しかし最も多く当社に参詣したのは嘉禄二年(一二二六)一月に将軍となった藤原頼経であった。安貞二年(一二二八)一月一三日二所奉幣使として三浦義村が進発を命じられたが、その直後頼経の直参が決定され、二九日には延引となり義村に再び参詣が命じられた。しかし頼経はなお自らの参詣を希望していたらしいが、二月二日に起きた走湯権現(伊豆山神社)の火災により正式に頼経の参詣が中止され、一三日義村が二所奉幣使として進発している。嘉禎三年(一二三七)一一月九日、延応元年(一二三九)一月二五日、仁治元年(一二四〇)八月四日に頼経が当社に参詣し、また同年七月一三日には二所と当社に神馬を送っている。さらに頼経は同年八月五日参詣して延年舞におよび、一二月には二所・三嶋および大和春日社等において毎日神楽を行うことを立願したが、莫大な用途が必要となるので、所領一ヵ所の寄進が幕府の評定によって決議された。しかし寄進に適当な場所がないため功銭を定め毎月神楽を奉納することとなり、翌春一月一七日より開始された。寛元二年(一二四四)一月二三日頼経は当社に奉幣し、供奉の人々とともに千度詣をした後、管弦・詠歌などの遊びに及んでいる。しかし頼経は同年四月執権北条経時の強要により将軍職を子頼嗣に譲り、同三年鎌倉久遠寿量院で出家させられた。翌四年二月二二日、頼経は「殊御願」のため二所参詣の精進を七日間行い、二八日二所参詣に出発しているが、付き従ったのは名越光時・三浦光村ら数輩の側近のみであったという(以上「吾妻鏡」)。五月には執権北条時頼により光時ら側近は処断され、頼経も京都に追返された(「葉黄記」同年六月六日条など)。しかし頼経はその後も権力の回復に努めており、たびたびの三嶋社参詣の裏には執権北条氏との間で権力をめぐる確執があったと思われる。

頼経の跡を襲った頼嗣は、宝治二年(一二四八)四月二〇日当社奉納のための百番小笠懸を鎌倉由比ゆいガ浜で行っている。将軍と執権との確執は引続いてあり、建長二年(一二五〇)一一月一日頼嗣は当社参詣に際して、特別な宿願を理由に以前よりの参籠者以外の推参を禁止しているが、一方同年九月北条時頼が宿願を果すため当社に参詣している。同四年二月幕府は頼嗣を廃して宮将軍を迎えることを朝廷に奏請し、四月宗尊親王が将軍となった。翌五年から康元二年(一二五七)までは将軍の直参はなく北条氏が二所奉幣使として派遣された。正嘉元年(一二五七)一二月一六日には明春当社や伊豆・箱根への将軍参詣が行われることとなり供奉人数の注進が命じられているが、一八日全員に催促するよう将軍より命令があり、同二年三月宗尊は二所参詣に出発している(以上「吾妻鏡」)

文応元年(一二六〇)一一月宗尊親王は二所参詣のための供奉人の催促を北条時宗らに命じたが、時宗らは供奉人注文を返却、ついで供奉を了承していた後藤基親らが支障を申出るなど将軍参詣に対する抵抗が強まるなか、二九日宗尊親王は当社に参詣した。翌二年二月には参詣前の精進供奉の人数も不足する状態で、一一日北条時村が二所奉幣使として派遣された(以上「吾妻鏡」)。またこの月二所参詣随兵役の費用を百姓に充て課すことが禁止されている(「関東新制条々写」近衛家本式目追加条々)。弘長三年(一二六三)一月二〇日二所参詣の随行者の供奉総人数が注進されたが、所労や鹿や鳥を食したことなどを理由に故障を申立てるものが続出、二五日にはいったん延期となり鶏肉の摂取が注意されたが、その後の催促にも後藤基政らが支障を申立て、四月になってようやく参詣が実施された。文永二年(一二六五)二月七日宗尊親王が二所参詣に出発した際には供奉人が牆をなしたが、翌年二月五日には奉幣使が派遣され(以上「吾妻鏡」)、同年七月には宗尊親王が将軍の地位を追われた。その後、建治二年(一二七六)一月二〇日の北条時宗邸の火災により惟康将軍の二所参詣精進が延期されたのを最後として(鎌倉年代記裏書)、将軍の二所参詣の記事はみえなくなる。永仁三年(一二九五)二月二四日には北条貞時が二所参詣のための精進を始めており(永仁三年記)、正安四年(一三〇二)三月一九日には北条貞時が二所参詣を行った(鎌倉大日記裏書)。文保二年(一三一八)二月一七日と嘉暦二年(一三二七)三月五日北条高時も二所権現と当社に参詣している(鎌倉年代記裏書)。これは北条得宗が将軍に取って代わったことを象徴するものではなかろうか。

〔旅人の参詣と和歌等の奉納〕

東海道の本来の道は三島の直前で北上し足柄越をしたが、将軍が箱根権現、当社、走湯山の順に参詣する際箱根路を利用したことや、鎌倉幕府の成立に伴い鎌倉・京都間を往復する御家人らが箱根路を利用することが多かったため箱根路がしだいに整備され、京都から鎌倉へ下る文人貴族らの旅人も箱根越をするようになり、箱根路にかかる前に当社に参詣するものが増えていったと思われる。

仁治三年(一二四二)八月伊豆の国府に着いた「東関紀行」の作者は、三嶋社の「ミしめ」(御注連縄)を打ち拝み、「松の風、木くらくおとつれて、庭の気色も神さひわた」った様子をみて、この社は伊予国の三嶋大明神を移したと聞くが、能因が伊予守藤原実綱の命令によって歌を詠んだ所、炎干の天より雨がにわかに降り、枯れた稲の葉もたちまちに緑にかえったという現人神の名残であるとおそれおおく思い、「せきかけし苗代水の流きて又あまくたる神そこの神」と詠んで箱根に向かった。建治元年八月一〇日、肥後国の竹崎季長は戦功祈願のため鎌倉へ下る途中、三嶋大明神に参詣して一心に弓矢の祈りをしている(「蒙古襲来絵詞」上巻)。弘安二年(一二七九)一〇月二七日、訴訟のため鎌倉に下る途中箱根路を通ることとした阿仏尼(安嘉門院四条)は、宿に入る前に「三島の明神」へ詣り「あはれとやみしまの神の宮柱たゞこゝにしもめぐりきにけり」などと詠み(十六夜日記)、また同年当社に「たのもしな池の鏡をみしまなる神のちかひも万世のかけ」などの和歌を奉納している(夫木抄)

弘安三年飛鳥井雅有は鎌倉下向の途中伊豆国府に至り、伊予の三嶋(現愛媛県大三島町大山祇神社)は当社を本神といい、当社は伊予の三嶋を本社といっていることを聞いてその奥ゆかしさをめでたがっている。一〇首述懐歌を詠じて報恩しようと詠んでいたところ、この家の主が非常に占いを言当てる童巫がいるというので、神下ろしをさせて尋ねたところ、やがてかなう官達の訴訟があるが少し遅れるであろうなどと託宣があった(春のみやまち)。同五年七月一六日一遍が参詣し、当社の社官らがこれを忌むことなく結縁を願ったがまったく祟りはなかったという(一遍上人絵伝)。正応二年(一二八九)三月初旬頃後深草院二条は鎌倉へ赴く途中当社に参詣し、千早という衵のようなものを着た乙女子が三、四人入れ違いながら離れて舞う神楽を興味深く夜が明けるまで見ていた(とはずかたり)。同五年冷泉為相・公朝・京極為兼・飛鳥井雅有・二条為道・法眼慶融らによって和歌が奉納されている(夫木抄)。永仁元年一二月蓮愉(宇都宮景綱)は当社に奉納された北条貞時一〇首に寄せて、「神まつるこころにはあらぬさかきはにゆふしてかけてふれるしら雪」などと詠んでいる(沙弥蓮愉集)。元弘二年(一三三二)一〇月、元弘の乱の罪により下総に配流される途中の花山院師賢は「契有りてけふはみしまのみたらしにうき影うつすすみ染の袖」との和歌を奉納している(新葉集)

貞治三年(一三六四)三嶋大明神に藤原友行より太刀が奉納され(三嶋大社旧蔵太刀銘)、応永五年(一三九八)八月には善凝らによって法華経方便品が奉納された(「妙法蓮華経方便品跋文」光長寺蔵)。同七年六月一五日、鎌倉公方足利満兼は上杉憲定の諫言に従って挙兵を諦めた旨の願文を納めている(「鎌倉公方足利満兼願文」三嶋大社文書。以下断らない限り同文書)。正長元年(一四二八)七月当宮に参籠していた良海らは「日本書紀」三巻を書写して施入し(同書第一奥書)、同年九月八日には酉楠御子らより「中臣祓訓解」が施入されている(同書奥書)。長禄元年(一四五七)一二月二四日足利政知が鎌倉公方として下向する途中に神前において元服した際、冷泉持為の門弟で無双の歌人であったという木戸孝範は「我が君の初もとゆひの黒髪にちよふる霜のしらかなる迄」と詠じて献上し、政知の運を祈ったという(鎌倉大草紙)。文明一八年(一四八六)一〇月箱根に参詣した聖護院道興は引続き当社に参詣し、軍陣へ出る武士が矢立の杉という大木に矢を射たてて吉凶をみることを聞いて、「ものゝふのためしにひける梓弓やたての杉やしるし成らん」などと詠んでいる(廻国雑記)。天文一四年(一五四五)二月宗牧は関東歴覧に赴く途中当社に参詣し、えも言われぬ水の流れは神の御心も汲みしられたるような潔さであるとし、八ヵ国の鎮守であるということを聞き、行く末の無事を祈念し小神楽を奉納した(東国紀行)

〔祈願と奇瑞〕

前述のように治承四年源頼朝は挙兵の直前に当社に奉幣、一〇月には平家軍を迎え撃つため伊豆国府に入り三嶋大明神を伏拝んでおり、いずれも戦勝祈願であった。また文治元年五月捕虜となった平宗盛が鎌倉に護送される途中において、当社で能因が「天くたるあら人神の神ならは雨下し給へ天くたる神」と詠んだところ、にわかに雨が降ったという(「源平盛衰記」巻四五内大臣関東下向附池田宿遊君歌の事)

鎌倉時代には病気平癒がおもに祈願されている。文治三年七月一八日江尻渡で船が転覆し、当社に参詣途中の新田忠常の妻のみが溺死した。同年一月夫の病を救うため自らの命を縮めて欲しいと当社に願書を捧げており、三嶋明神が誓願を納受して船を覆したのであろうかと噂されている(吾妻鏡)。建久五年頼朝は娘大姫の病気平癒祈願のため神馬を奉納(同書一一月一〇日条)、建仁三年(一二〇三)頼家の病悩祈願のため自ら書写した般若心経(三嶋大社蔵)を奉納、安貞元年一一月二四日には将軍藤原頼経の病気平癒祈願のため当社のほか走湯山・箱根権現に剣が奉納されている(吾妻鏡)。寛元二年将軍藤原頼嗣の病気平癒のため当社などに神馬が奉納され(五月二九日条)、建長四年(一二五二)八月一七日には宗尊親王の病気平癒を祈願して当社などに神馬が、二五日にはさらに剣・馬、また当社と二所にて大般若経転読と神楽が奉納されている。弘長三年には北条時頼の病気平癒祈願のため尊海が等身薬師画像を帯びて七日間参籠のため当社に赴いている(一一月八日条)。建仁三年一〇月一四日幕府は世上静穏を報謝して、当社をはじめ鶴岡八幡宮・走湯・箱根権現など関東の諸社に神馬を奉納している。なお、建長三年二月より当社壇で起請していた隆弁に夢告があり、そのとおり五月一五日に男子(北条時宗)が誕生したというが(以上、同書)、これは時宗の誕生を神秘化する「吾妻鏡」編纂者の意図的な寓話であると考えられる。弘安一〇年六月一〇日、当社南門付近にあった小社の戸が南西の角に向き、七月二九日に元にもどるということがあったという(鎌倉年代記裏書)

〔戦乱と祈〓

南北朝の内乱期になると当社への祈願は圧倒的に戦勝祈願が多くなる。まず建武二年(一三三五)一一月二六日、足利氏討伐のため東海道を下ってくる新田義貞軍を迎え撃つ足利直義より祈祷を命じられ(足利直義御教書)、同四年八月九日にはおそらく霊山りようぜん(現福島県霊山町)から上洛を目指して西上する北畠顕家ら南朝方退治の祈祷が命じられ(足利直義御教書)、同五年一月七日には逆に顕家から天下泰平・所願成就のため安久やすひさ郷が寄進されている(延元三年正月七日北畠顕家寄進状)。暦応三年(一三四〇)三月彗星などの変異により当宮大夫に対し供僧を催しての大般若経真読が命じられ、七ヵ日神楽・祈祷・真読大般若経などを行っている(同月一〇日繁隆奉書など)。貞和六年(一三五〇)三月二四日当社怪異により宮大夫が供僧・神官らを率い祈祷を命じられている(散位某奉書)。観応の擾乱に際しては、観応二年(一三五一)八月九日足利義詮より当社神主に凶徒(叔父直義)退治のための祈祷が命じられ(足利義詮御教書)、同年一一月九日には、南朝方と和睦して東国静謐(直義攻撃)のため下向することにした足利尊氏より当社東大夫に祈祷が命じられ(正平六年一一月九日足利尊氏御判御教書写)、同三年閏二月には尊氏より当社東大夫に凶徒(直義方)退治の祈祷が命じられている(正平七年閏二月二五日足利尊氏御判御教書写)

文和二年(一三五三)三月一〇日義詮は当社東大夫よりの祈祷巻数を受取っている(「足利義詮御教書」保阪潤治氏所蔵文書)。同年八月七日京都へ向かう途中の尊氏より当宮盛実・盛倫に祈祷が命じられている(足利尊氏御判御教書)。同四年一月八日当社正神主盛実よりの祈祷巻数が受取られている(修理亮某奉書写)。同月一七日盛実は尊氏より前日に入京した凶徒(南朝方桃井直常)退治の祈祷を(足利尊氏御判御教書)、同年四月三日には足利義詮より天下静謐の祈祷を命じられている(足利義詮御教書)。応安三年(一三七〇)六月一五日当宮神主盛直は鎌倉府より天下安全の祈祷を命じられている(「関東管領上杉能憲奉書」矢田部文書)。同年一一月当宮東大夫は鎌倉公方足利氏満の病気平癒の願文を神前で敬白するように依頼された(同月一三日「関東管領上杉能憲書状」同文書)。応永一六年三月より病にふせっていた鎌倉公方足利満兼のため、当社など関東の諸社に祈祷が命じられている(足利治乱記)。文明三年三月二七日には飯尾宗祇が東常縁の子息の病気平癒祈願のため連歌千句を奉納している(「連歌百韻千句集」など)。永正元年(一五〇四)一〇月二五日より三日間、宗長は今川氏親の関東戦勝報賽のため連歌千句を奉納している(「新三島千句」静嘉堂文庫蔵)。同一三年七月二一日伊勢長氏(北条早雲)は相模制圧を謝して指刀を奉納した(伊勢長氏判物)。またこれ以前長氏は当社へ参籠し、鎌倉幕府執権北条氏を継いで関東の権を取ることを一心に祈り、翌年一月二日大平原にある大杉二本を食い折った鼠が虎となった夢をみて、両上杉氏を滅ぼし子孫が東国の主になる夢だと悦び種々の捧げ物を奉納したという(「北条記」三嶋参籠付霊夢の事)。同年九月一日には同年八月の今川氏親による遠江国制圧と前年七月の自らによる相模制圧を謝して、長さ三丈の唐錦小袖五など十二単を奉納している(「伊勢長氏奉納物注文案」矢田部文書)

〔祭礼と社領〕

行事は四月一六日の神事(「吾妻鏡」建暦元年四月一三日条)、六月二〇日の臨時祭、八月二六日の二宮八幡宮放生会(同書文治元年四月二〇日条など)、放生会と同日の流鏑馬(同書寛元元年八月二六日条)、一一月の大歳の祭礼(至徳四年一〇月一〇日関東管領上杉憲方奉書)などがあり、北条氏は伊豆国の在庁官人として一宮である当社の四月と一一月の神事に参加している(「吾妻鏡」建久五年一一月一日条など)。なお、「吾妻鏡」文治元年(一一八五)四月二〇日条にみえる二宮八幡宮については、源頼朝が当社の祭礼にあたって糠田ぬかだ(現韮山町)を寄進し、これ以前の寄進地と合せて四ヵ所になったので、川原谷かわはらがや三薗みそのを六月二〇日の臨時祭料所として神主東大夫盛方に、糠田・長崎ながさき(現韮山町)を八月の二宮八幡宮放生会料所として神主西大夫盛成に付したものであるが、この記事は検討の余地があると考えられる。

社領としては、田方郡内に玉河たまがわ郷・北中村きたなかむら安富やすとみ鶴喰つるはみ宮倉みやぐら安久やすひさ郷、郡宅ぐんたく郷・同郷内市原いちがはら在家、矢田やた郷・御薗みその郷・中村・長溝ながみぞ、三島東分ひがしわけ・西分、川原谷、長浜ながはま(現沼津市)、糠田・長崎郷、南条なんじよう郷内浮橋うきはし村・狩野かの三福みふく(現大仁町)、賀茂郡内に蒲屋かばや御厨のうち多牛とうじ村、愛玉あいたま郷・稲梓いなずさ郷愛玉村・同下村(以上現下田市)那賀なか郡内に仁科にしな庄のうち那賀郷(現松崎町)と、大半が伊豆国内にある。このほか所在地不明の神護・東経所料田(大般若免六町・法花免六町、地名不明)・安居上分麦(地名不明、三嶋宮経所国分寺、国司寄進)も伊豆国内にあったと思われる。このほか一宮として伊豆国内の庄園・国衙領に池掃除人夫役(応永二九年閏一〇月四日伊豆守護代寺尾憲清書状)、材木運送のための人夫役(同三二年九月二六日「上杉家奉行人連署奉書」浄光明寺文書)、大歳役(文安五年九月二七日上杉家奉行人連署奉書)、遷宮費用(七月二六日「済賢書状写」矢田部文書)、八月朔幣費用(大永三年七月二日「清水綱吉判物」伊達文書)、お囃子役(天正一一年八月一日「安藤良整奉書写」伝矢田部文書)、祭礼銭(同一四年一〇月一八日北条家朱印状)、神事銭(同一五年四月二日「北条家朱印状」旧伊豆在庁文書)などを賦課することが出来た。前掲応永三二年の上杉家奉行人連署奉書には三嶋宮末社八幡宮がみえる。材木を運送するための人夫役を浄光明じようこうみよう(現神奈川県鎌倉市)三津みと庄内の平沢ひらさわ立保たちぼ葦保あしぼ久料くりよう(現沼津市)の四ヵ村に賦課したのは八幡宮で、浄光明寺より諸役を免除されていると訴えられ、この日人夫役の催促が止められている。伊豆国外としては近接した駿河国土狩とがり(現長泉町)のほか、相模国東郡実田(現不明)、武蔵国末吉すえよし(現神奈川県横浜市鶴見区)小栗おぐり(現埼玉県美里町)大豆戸まめど(現埼玉県鳩山町)・上野国館林たてばやし(現群馬県館林市)などに社領があった。なお現存する資料にみえる寄進主体は、源頼朝・北条時宗・北畠顕家・足利尊氏・鎌倉公方足利基氏・同満兼・同持氏・上杉憲基・北条氏政・同氏直など有力武将ばかりで、当社近辺の在地有力武士や庶民の寄進はほとんどみられない。

〔神職と諸施設〕

三嶋社の職掌としては、東大夫(矢田部氏)が務める正神主職(「吾妻鏡」文治元年四月二〇日条)、同神主が兼帯する御師職(貞治六年七月二〇日足利義詮御教書)、同神主が補任する色掌人(治承七年三月一七日源頼朝下文)である戸帳と鎰取(元久二年二月二九日北条時政御教書)などのほか、西大夫が務める二宮八幡宮神主職(「吾妻鏡」文治元年四月二〇日条)などがあった。別当寺の心経しんきよう寺のほか護摩堂・本地堂などがあった(永禄一二年六月二四日「北条家朱印状」矢田部文書)。このほかに東西読経所があり(至徳二年六月一日鎌倉府奉行人連署奉書)、経所(神宮寺)には国分寺供僧らが止住し(弘長元年六月六日得宗家公文所奉書)、のち神宮寺は国分寺と称されるようになった(暦応元年一一月九日「民部丞某奉書」矢田部文書)。そのほか塔婆、塔に隣接してあった摂社塔本八幡宮のほか三昧堂があり、これらは供僧の支配下にあった(前掲鎌倉府奉行人連署奉書)。また西大夫を神主とする二宮八幡宮があった(「吾妻鏡」文治元年四月二〇日条)。なお正安元年に作成された「一遍上人絵伝」巻六には、犬防に取囲まれた神域に一の鳥居、神池と橋、二の鳥居、築地が取付けられた楼門・拝殿・楼門(神門)・幣殿、そして本殿およびその裏に摂社が描かれている。この絵巻は当時の様子が忠実に描かれていると考えられてきたが、建築史の立場から絵巻全体の建築物の描写に対する忠実性に疑義が出されている。

〔護摩堂〕

永正一七年五月六日北条氏綱によって三嶋社護摩堂への横合いの義が停止され飛脚役が免除されている(「北条氏綱判物」小出文書)。享禄二年(一五二九)五月一二日陣僧・飛脚などの諸役が免除され、茶園・竹木等に対する違乱が禁止された(「北条氏時判物」同文書)。天文一一年七月二七日には不法行為が禁止され飛脚役が免除されている(「北条氏康判物」同文書)。同一二年一二月一日護摩堂祈祷料一〇貫文を東大夫分より出すこととされた(「北条氏康判物」同文書)。同一四年と推定される一〇月四日護摩堂本坊に陣を取ることが禁じられている(「北条家禁制写」諸国文書)。永禄二年(一五五九)頃には岩崎いわさき加古かこのうちに護摩堂の所領一〇貫文があった(北条氏所領役帳)。同一〇年四月父武田信玄によって甲斐で幽閉されていた義信が死去すると、今川義元は北条氏を仲介として義信に嫁していた娘の帰国を申入れた。同一一年二月二一日護摩堂が義元の娘の宿に定められ、清水康英が普請の監督に赴くよう命じられている(「北条氏政書状」小出文書など)。同一二年一〇月二九日竹木伐採と築地の石盗み取りが禁止されている(「笠原綱信禁制」同文書)。天正八年八月二二日、護摩堂は北条幻庵より社領中から毎日馬七匹分の山手徴収を許可されている(「北条宗哲朱印状写」日本大学文理学部所蔵伊豆文書)。同一八年四月地下人・百姓らに還住が命じられ、その家などに相模小田原城攻撃に赴く豊臣勢が陣取ること、土民・百姓に非分の要求を申し懸けたり麦を刈取ることが禁止されている(「豊臣秀吉掟書」屋代本文書)

〔回禄と造営〕

元久二年(一二〇五)五月一八日幕府は当社などの修理をしているが(吾妻鏡)、文永五年二月(「鎌倉大日記裏書」同月二日条)、永仁四年三月八日(鎌倉年代記裏書)、康永四年(一三四五)回禄している(「園太暦」貞和元年二月三日条)。翌貞和二年頃当社造営役などが走湯山密厳みつごん院領に賦課されており(年月日未詳「伊豆山密厳院雑掌澄宣申状案」醍醐寺文書)、造営・修理は幕府(南北朝期以降は鎌倉府)より社領および伊豆国内の庄園・国衙領にその費用が賦課されて行われた。その後も延文二年(一三五七)(異本塔寺長帳)、応安六年一〇月(花営三代記)、応永四年一一月当社が炎上し(妙法寺記)、同一三年当社遷宮が行われている(同書)。大永四年頃にも造宮勧進が行われているが(「両部曼荼羅私抄奥書」叡山文庫所蔵)、同年一〇月二三日の夜在家の小屋から出火し強い西風のため当社の社頭も炎上した(「詠五十首和歌」天理図書館蔵)。翌五年六月二八日橘宗近は再建のため造営大工および料材、総費用一千六〇〇貫文の注文を作成し、造営奉行である小田原北条氏家臣清水氏に提出している(「三嶋社大工・料材注文」井口文書)。同六年九月八日には、北条氏綱が当社造営のための諸国勧進を当社人中に認め(北条氏綱判物)、翌七年一一月二〇日には北条家が当社の梵鐘を鋳造する鋳物師に三島東西より人足を出させている(「北条家朱印状写」真継文書)。この頃の造営は小田原北条氏の支援のもとに行われていたらしく、天文四年以前の北条氏綱の代になって当社の造営が終了している(快元僧都記)

永禄一一年末に駿甲相の三国同盟が破綻すると、当社付近は小田原北条氏にとって対武田氏との最前線基地となり、しばしば武田氏の攻撃を受けたと思われる。元亀二年(一五七一)一月一一日、当社神主は北条氏政から深沢ふかざわ(現御殿場市)救援に成功した場合には当年中に当社を再建することを約束されており(北条氏政判物)、永禄一二年六月の信玄による三嶋攻撃の際に焼失したと思われる。元亀四年三月晦日北条家は今回は余裕がないので帰路するが、旧規をよく調査したうえで同年秋より合戦の手があき次第に当社造営に取掛かると神主に約束しており(「北条家朱印状」矢田部文書)、武田氏との戦闘に明け暮れる北条氏にとって当社の造営は負担になっていたと思われる。天正一〇年(一五八二)三月二八日、北条氏政は武田氏攻撃に向かう織田信長と昵懇となれば関東八州が子息氏直の手に入ったのも歴然であるから、当社建立を氏直に助言することを神主に約束しているが(北条氏政判物)、同一八年の豊臣秀吉による小田原城攻めにより北条氏は滅亡した。

〔近世の社領と社殿〕

文禄三年(一五九四)二月社領三三〇石を田方郡内に寄進された(「徳川家康社領寄付黒印状写」矢田部文書)。地割は神主一〇〇石・護摩堂二五石・刑部大夫二〇石・在庁免二五石・惣社人五五石などであった(同年一〇月一二日「徳川家康寄進神領地割帳」同文書)。慶長九年(一六〇四)には二〇〇石が加えられ(「内田全阿書状」同文書)、内訳は沢地さわじのうち一町田九八石余、幸原こうばらのうち一〇一石余(「井出正次神領打渡手形」同文書)。元和三年(一六一七)継目安堵の朱印状を得ている(「徳川秀忠社領継目安堵朱印状写」同文書)。貞享五年(一六八八)五〇石の新田改出があり、物成を寛文一一年(一六七一)以来の修復料に加えることとなった(寛政五年「日記用留」)。国立史料館本元禄郷帳によると社領は社家しやけ村・沢地村(一部)壱町田いつちようだ村・幸原村・川原かわはら(一部)にあり、旧高旧領取調帳では社家村四二四石余・壱町田村一〇五石余。寛永一一年(一六三四)の三代将軍家光造営三嶋大社境内図(社蔵)によると、総門(南大門)を入って左右の池の間を進み、右に五重塔・経蔵・飯酒社、左に八幡社・鐘楼、小楠・見目の両社、中門は回廊に続き、中央に舞殿・拝殿・本殿が配置される。東方の林中には護摩堂などがみえる。嘉永七年(一八五四)の安政地震で社殿などが倒壊したが、沼津藩水野氏、韮山代官江川氏、相模小田原藩大久保氏らの協力を得て、慶応三年(一八六七)再興された(三島市誌)

〔文化財と祭礼〕

本殿・幣殿・拝殿は国指定重要文化財。境内のキンモクセイは国指定天然記念物。社蔵の伝北条政子奉納の梅蒔絵手箱は国宝。太刀(銘宗忠)・脇指(銘相模国住秋義伊豆三島大明神奉拝佐藤松千代貞成)・短刀、紙本墨書般若心経・三嶋大社矢田部家文書は国指定重要文化財。「日本書紀」並びに具書は県指定文化財。例大祭は中秋の時期に行われてきたが、現在は八月一五―一七日。一月七日の田祭、一七日の奉射祭などの特殊神事がある。八月の例大祭では一〇台ほどの山車が出て三島囃子が演奏される(三島囃子保存会の継承する囃子は県指定無形民俗文化財)。一月四日に行われるお田打は県指定無形民俗文化財。

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三嶋大社の関連キーワードで検索すると・・・
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1. 三嶋大社
日本大百科全書
静岡県三島市大宮町に鎮座。当地は東海道三島宿の中心であるとともに、古くは伊豆国の国府の所在地であり、現在も伊豆半島方面への入口となる交通の要衝である。『延喜式( ...
2. 三嶋大社[百科マルチメディア]
日本大百科全書
奈良・平安時代の古書にもその名が記されている由緒ある神社。中世以降は、源頼朝(みなもとのよりとも)をはじめ、多くの武将が崇敬したという。写真は1866年(慶応2 ...
3. 三嶋大社
世界大百科事典
静岡県三島市大宮町に鎮座。事代主(ことしろぬし)神,大山祇(おおやまつみ)神をまつる。創建年代不詳。《延喜式》には賀茂郡に鎮座とあり,もと伊古奈比咩命神社(下田 ...
4. みしま‐たいしゃ【三嶋大社】地図
デジタル大辞泉
静岡県三島市にある神社。旧官幣大社。主祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)・事代主命(ことしろぬしのみこと)。伊豆国一の宮。三島神社。  ...
5. みしまたいしゃ【三嶋大社】
国史大辞典
静岡県三島市大宮町に鎮座。旧官幣大社。祭神は、現在は大山祇神・事代主神の二神であるが、以前は大山祇説と事代主説とが行われた。前者は鎌倉時代の『東関紀行』をはじ ...
6. みしまたいしゃ【三嶋大社】静岡県:三島市/三島町
日本歴史地名大系
本紀)。「続日本後紀」承和七年(八四〇)九月二三日条に引用する伊豆国解に神津島にいる阿波神は三嶋大社の本后であるとみえ、この頃までに大社に列せられていた。嘉祥三 ...
7. 三嶋大社
デジタル大辞泉プラス
静岡県三島市にある神社。創祀不明。祭神は三嶋大明神(大山祇命(おおやまつみのみこと)、積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ))。伊豆国一之宮。源頼朝の ...
8. あいぜんいんあと【愛染院跡】静岡県:三島市/三島町
日本歴史地名大系
[現]三島市一番町 明治初期まで存在した三嶋社(三嶋大社)の子院。同社の北西方水上に露頭した溶岩がみられ、周辺を整備して溶岩から流れ落ちる水流(愛染の滝)を造る ...
9. あいたまごう【愛玉郷】静岡県:下田市/相玉村
日本歴史地名大系
遺称地とする中世の郷。応永七年(一四〇〇)一二月九日の鎌倉府政所執事奉書(三嶋大社文書)に愛玉村がみえ、海老名備中の跡地とあり、三嶋社(三嶋大社)二季祭礼神宝料 ...
10. あかとり【垢取】
国史大辞典
猪の剛毛や銀の針金をたばねて造った束子(たわし)をいう。図は『類聚雑要抄』四にみえ、遺品は伊豆の三嶋大社や熊野の速玉大社にあり、銀の針金の束の中央に銀の筒金を入 ...
11. あかとり【垢取】 : 垢取/(一)
国史大辞典
猪の剛毛や銀の針金をたばねて造った束子(たわし)をいう。図は『類聚雑要抄』四にみえ、遺品は伊豆の三嶋大社や熊野の速玉大社にあり、銀の針金の束の中央に銀の筒金を入 ...
12. あさまじんじゃ【浅間神社】
国史大辞典
一方武将の崇敬としては源頼朝・北条義時・同泰時、下っては足利・武田・今川らの武将の庇護をうけ、この地方では三嶋大社と並ぶ著名社となった。江戸時代に入ると徳川氏の ...
13. あさまじんじゃ【浅間神社】 : 浅間神社/(一)
国史大辞典
一方武将の崇敬としては源頼朝・北条義時・同泰時、下っては足利・武田・今川らの武将の庇護をうけ、この地方では三嶋大社と並ぶ著名社となった。江戸時代に入ると徳川氏の ...
14. あたみし【熱海市】静岡県
日本歴史地名大系
(伊豆山・箱根両権現詣)を行い、それ以後将軍の二所詣は慣例となり、それに伊豆国一宮の三嶋社(三嶋大社)も加えられた。三代将軍源実朝は「走湯山」参詣の時に「わたつ ...
15. 沃懸地
日本大百科全書
松平不昧(ふまい)公旧蔵(現東京国立博物館蔵)の片輪車螺鈿手箱(かたわぐるまらでんてばこ)、三嶋大社の梅蒔絵手箱など代表的遺例が数多く伝世している。郷家忠臣 ...
16. いこなひめのみことじんじゃ【伊古奈比〓命神社】静岡県:下田市/白浜村
日本歴史地名大系
三島神は年代は不詳だが、国府の置かれた三島に移ったため当社を古宮とも称したと伝える(三島市の→三嶋大社)。当社は「延喜式」神名帳に載る賀茂郡の伊古奈比 ...
17. いずこくふ・いずふちゅう【伊豆国府・伊豆府中】静岡県:三島市
日本歴史地名大系
のちに三島市内に移転したという説、小浜池の南側に比定する説(国府)、市内鷹部屋付近にあったが、のち三嶋社(三嶋大社)の西方で伊豆国分寺の東側である長谷付近に移転 ...
18. いずこくぶんじあと【伊豆国分寺跡】静岡県:三島市/三島町/蓮行寺町
日本歴史地名大系
奉行人連署奉書」三嶋大社文書)。文亀元年(一五〇一)当寺の僧慈運は山城国愛宕寺(現京都市)で「役行者本記」を書写している(「役行者本記」奥書)。明治時代には当地 ...
19. いずさんじんじゃ【伊豆山神社】静岡県:熱海市/伊豆山村
日本歴史地名大系
同四年一月二〇日、頼朝は鎌倉を立ち、源範頼・足利義兼以下三〇〇騎を従え、二所(伊豆山・箱根山)に三嶋社(三嶋大社)を加えて参詣し、二六日に帰着した(同書)。同年 ...
20. 伊豆国
日本大百科全書
中世以来の金山も江戸初期には産出量が多かったことで知られる。寺社では、頼朝の帰依以来武家の信仰の厚い三嶋大社、熱海(あたみ)の伊豆山権現(ごんげん)、修禅寺、国 ...
21. 伊豆国
世界大百科事典
東海道に属する下国(《延喜式》)。田方,那賀(仲とも),賀茂の3郡からなり,国府は田方郡に置かれ,三島市の三嶋大社付近にあったといわれている。《国造本紀》の伊豆 ...
22. いずのくに【伊豆国】
国史大辞典
竹村茂雄(君沢郡熊坂村)の国学運動や三嶋大社矢田部家を中心とする社家社人の国学運動が基調となって、草莽隊伊豆伊吹隊が結成され、官軍の先導を務めた。また三嶋大社は ...
23. いずのくに【伊豆国】静岡県
日本歴史地名大系
所在するとあり、国府は初め現大仁町田京付近にあり、のちに三島市の三嶋大社周辺に移動したという説があったが、近年は当初から三嶋大社付近に置かれていたとする説が有力 ...
24. 伊豆国神階帳[文献解題]静岡県
日本歴史地名大系
一冊 成立 康永二年 写本 伊達家 解説 伊豆国の国内神名帳。康永二年の書写本で、三嶋社(三嶋大社)在庁の伊達家に伝来する。冒頭に「伊豆国三ケ郡内神明帳事 ...
25. いちがはらざいけ【市原在家】静岡県:三島市
日本歴史地名大系
の鎌倉公方足利氏満御教書(三嶋大社文書)に「郡宅郷内市原在家佐介上野介跡」とみえる。佐介上野介跡は延文六年(一三六一)六月二五日に鎌倉公方足利基氏より三嶋社(三 ...
26. いちがはらちょう【市ヶ原町】静岡県:三島市/三島町
日本歴史地名大系
三嶋明神(三嶋大社)鳥居前からまっすぐ南に延びる下田街道に沿う門前町。町名は中世以来市が立ったことによると伝える。地名は永徳二年(一三八二)九月二五日の鎌倉公方 ...
27. いちがはらはいじ【市ヶ原廃寺】静岡県:三島市/三島町/市ヶ原町
日本歴史地名大系
[現]三島市大社町 三嶋大社と旧東海道(主要地方道沼津―三島線)を挟んだ南側に位置する。祐泉寺裏手に寺域が考えられているが、すでに周辺は住宅地となっており、寺院 ...
28. いっちょうだむら【壱町田村】静岡県:三島市
日本歴史地名大系
〇月一八日の井出正次神領打渡手形(矢田部文書)に「沢地之内一町田」九八石余とみえ、三嶋明神(三嶋大社)領となって壱町田村と称されるようになったと考えられる。幕末 ...
29. いなずさごう【稲梓郷】静岡県:下田市
日本歴史地名大系
現相玉・横川一帯に比定される中世の郷。応永八年(一四〇一)正月二二日の道康打渡状(三嶋大社文書)に「稲梓郷愛玉下村御料所方」とみえ、三嶋社(三嶋大社)神主盛平に ...
30. いなとりむら【稲取村】静岡県:賀茂郡/東伊豆町
日本歴史地名大系
鍛冶や大工が居住していた。永禄一二年(一五六九)閏五月四日、稲取・片瀬の代官・百姓中に対し三嶋社(三嶋大社)神事銭の納入が命じられているが、これは稲取郷が他国衆 ...
31. うきはしむら【浮橋村】静岡県:田方郡/大仁町
日本歴史地名大系
応永二四年(一四一七)五月一八日には守護上杉憲基が南条郷内山下彦八跡浮橋村を三嶋社(三嶋大社)に寄進し(三嶋大社文書)、同二二日守護代寺尾憲清が神主に沙汰付けし ...
32. うめなむら【梅名村】静岡県:三島市
日本歴史地名大系
ので、氏子はウナギを食さなかったという伝えがある。東対岸の中島村左内神社とともに、三嶋明神(三嶋大社)の守護神として下田街道の両側に鎮座していた。田植終了後に疾 ...
33. うらちょう【裏町】静岡県:三島市/三島町
日本歴史地名大系
[現]三島市中央町 東海道に沿う久保町の北側に位置する町。三嶋明神(三嶋大社)の西側を流れる祓所川(現桜川)西側の祓所町、久保町の西端近くから北に入る問屋小路と ...
34. おおしま【大島】東京都:大島支庁/大島町地図
日本歴史地名大系
慶雲元年(七〇四)大島が噴火したことから、興島(三宅島のことか)に祀っていた三島宮(現静岡県三島市三嶋大社)を大島に移したという。三島宮は天平七年(七三五)伊豆 ...
35. おおなかじまちょう【大中島町】静岡県:三島市/三島町
日本歴史地名大系
札には正一位火防三石稲荷大明神とある。文久年間(一八六一―六四)に炎上したとされ、三嶋明神(三嶋大社)神主矢田部式部盛治の日記によると同三年普請が完成して遷宮し ...
36. おおひとちょう【大仁町】静岡県:田方郡
日本歴史地名大系
当地域への火葬の導入などに新たな問題を提起した。建武元年(一三三四)祐禅が狩野庄三福郷内の地を三嶋宮(三嶋大社)に打渡したのが町内の地名の初見である。南北朝期は ...
37. おがわごう【小河郷】静岡県:伊豆国/田方郡
日本歴史地名大系
、河川の水源となっていることによる。現三島市壱町田から同市中心部、清水町湯川付近に比定され、三嶋大社も鎮座する。なお「吾妻鏡」文治元年(一一八五)七月二六日条に ...
38. おたうえまつり【御田植祭】
国史大辞典
の田遊は、いずれも苗代から田植、刈入れと次第に行う。もと正月行事であった。静岡県では三島市の三嶋大社正月三日のお田打をはじめ、磐田郡水窪町西浦の観音堂の田楽は旧 ...
39. かいぶもよう【海浦文様】
国史大辞典
筥、海浦をうちいでて蓬莱など例のことなれど」とみえ、法隆寺伝来の衲袈裟筥には唐様の蓬莱文様、三嶋大社や日光輪王寺の手箱の蓋裏には和様の海浦文様を示している。この ...
40. かきさきむら【柿崎村】静岡県:下田市
日本歴史地名大系
須崎・柿崎」とみえる。天正一四年(一五八六)一〇月一八日の北条家朱印状(三嶋大社文書)によれば、北条氏は三嶋社(三嶋大社)祭銭を未進している柿崎など一〇ヵ所に対 ...
41. かきだむら【柿田村】静岡県:駿東郡/清水町
日本歴史地名大系
、北条氏は柿田郷および川原ヶ谷・谷田・大場・梅名の各郷(現三島市)の代官・百姓中に、三嶋社(三嶋大社)の八朔祭礼の囃子を勤めるよう命じている(「安藤良整奉書写」 ...
42. かたせむら【片瀬村】静岡県:賀茂郡/東伊豆町
日本歴史地名大系
島古文書)によると、毛利丹後守(北条高広)の所領である片瀬・稲取の代官・百姓中に対し三嶋社(三嶋大社)神事銭の納入が命じられている。その後も天正四年(一五七六) ...
43. かながい【金貝】
国史大辞典
異にするという説もあるが、平文は和名、平脱は唐名と考えられる。この平文が鎌倉時代以降蒔絵と併用され、たとえば三嶋大社蔵梅蒔絵手箱(国宝)のように梅花を銀の金貝で ...
44. かなやちょう【金谷町】静岡県:三島市/三島町
日本歴史地名大系
[現]三島市大社町・日の出町 三嶋明神(三嶋大社)の東側の町。金屋町とも。地名は天正九年(一五八一)と推定される九月一七日の北条家朱印状写(真継文書)に「金谷」 ...
45. かののしょう【狩野庄】静岡県:田方郡
日本歴史地名大系
(一一六四)建立された。立庄は保元の乱の頃と考えられる。室町時代の八月一〇日付力石右知書状(三嶋大社文書)に「三福郷事、狩野庄六郷」とみえ、当時庄内には少なくと ...
46. かばやのみくりや【蒲屋御厨】静岡県:賀茂郡/南伊豆町
日本歴史地名大系
暦応三年(一三四〇)一一月一九日の執事高師直奉書(三嶋大社文書)によると、宇都宮九郎左衛門尉跡の「蒲原御厨内多牛村」が前年七月一六日の寄付状にまかせて三嶋社(三 ...
47. 鎌倉時代美術
世界大百科事典
籬菊螺鈿蒔絵硯箱にはまだ前代の気風がのこっているが,奈良西大寺の銅透彫舎利塔や梅双鶴鏡,伊豆三嶋大社の梅蒔絵手箱,永青文庫の時雨螺鈿鞍などは当代の技巧を代表する ...
48. かまくらふ【鎌倉府】
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募って、反義満の動きをみせたが、義弘の敗死と、関東管領上杉朝宗らの諫言とによって思いとどまった。三嶋大社にある満兼の願文には「満兼誤以〓小量 ...
49. かもぐん【賀茂郡】静岡県
日本歴史地名大系
雄命の後裔で物部氏系統の矢田部造の可能性が高い。また、三島郷・稲梓郷に分布する占部は三嶋社(三嶋大社)の祭祀とかかわりが深く、壱岐・対馬の占部とともに中央に出仕 ...
50. からかさのもん【傘紋】
国史大辞典
『見聞諸家紋』には笠氏出自の牟久氏の三本傘が描かれている。伝北条政子所用の化粧箱(梅蒔絵手箱、三嶋大社蔵、国宝)の典型的な三本傘は名越氏の所用かも知れない。披き ...
「三嶋大社」の情報だけではなく、「三嶋大社」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳(しょうとく)宗総本山。斑鳩寺(鵤寺、伊可留我寺とも書く)、法隆学問寺などの異称がある。南都七大寺の一つ。草創の由来は、金堂の薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)光背銘によると、用明(ようめい)天皇が病気平癒を念じ
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神社で、一定の年数を定めて、新殿を造営し、旧殿の御神体をここに遷すこと。そしてこの新殿の造営を式年造営といい、また仮殿遷宮と対称して正遷宮とも称せられる。伊勢神宮の例が著明である。伊勢神宮に式年遷宮の制が立てられた年次については
長谷寺(日本大百科全書(ニッポニカ))
奈良県桜井市初瀬にある寺。真言宗豊山派総本山。豊山神楽院長谷寺と号する。初瀬寺とも書かれ、豊山寺、長谷観音とも称する。本尊は十一面観音。西国三十三所第8番札所。686年(朱鳥1)弘福寺(川原寺)の道明上人が天武天皇の病気平癒祈願のため、法華説相図銅板(千仏多宝塔を鋳出)
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