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  11. 江島神社
日本歴史地名大系

江島神社
えのしまじんじや

[現]藤沢市江の島二丁目

相模湾に囲まれた江の島にある。江島弁才天とも称し、奥津おくつ(祭神多紀理毘売命)中津なかつ(祭神市寸島比売命)辺津へつ(祭神田寸津比売命)御窟おんいわや(祭神天照皇大神・須佐之男命)の総称。もとはもとの(古くは御窟が本宮)上之かみの(現中津宮)下之しもの(現辺津宮)の三宮であり、この三宮を弁天社と総称していた。旧県社。

江島縁起(江島神社蔵)は欽明天皇一三年創祀と伝える。寿永元年(一一八二)四月五日、文覚が江の島に弁才天を勧請、源頼朝も多勢の武士を供にして江の島を訪れ(吾妻鏡)、自らも石鳥居を奉納したと伝える。「吾妻鏡」によれば建仁元年(一二〇一)六月一日将軍頼家が参詣、建保四年(一二一六)正月一五日の当社託宣には鎌倉の僧俗が群参し、三浦義村が使者に立てられ、その様子を検分し、同三月一六日には将軍実朝夫人が参詣。安貞二年(一二二八)四月二二日将軍頼経が参詣するなど鎌倉将軍家や北条氏の信仰を集めていた。「海道記」は、江島明神の前を通過する下り船は上分(奉納物)を奉ること、昔、女の姿となって山麓の寺に経を聴聞に来た神竜が、僧に竜の姿を見られ、以来僧の参詣を嫌うことなどを記している。また「太平記」巻五(時政参籠榎島事)や謡曲「鱗形」は、北条氏と江島弁才天との結びつきを説いており、信仰の一端がうかがわれる。時代は下るが万里集九「梅花無尽蔵」には「日本三処弁才天之一也」とあり、「擁護八州弥万全」と記される。

応永二三年(一四一六)千南坊紹賢以来、弘範・尊仲・賢栄・賢深・賢仲・運瑜・慶範と、鎌倉鶴岡八幡宮の供僧千南院が江島明神の別当職を世襲していた(鶴岡八幡宮寺供僧次第)。応永二九年三月一〇日の権僧正弘範譲状写(県史三)によれば、代々相伝の江島明神別当職を尊仲に譲っている。

「関八州古戦録」は、康正二年(一四五六)太田道灌が武蔵荏原えばら郡の居館より参籠し、その帰路、瑞祥を得て江戸城を築くに至った由来を記す。古河公方や小田原北条氏の信仰もあつく、天正一六年(一五八八)三月一九日には北条氏直が祈願の報賽として上野館林たてばやし(現群馬県館林市)の地二千疋を寄進している(「北条家朱印状」県史三)。永禄四年(一五六一)三月四日、北条康成(氏繁)は江の島坊住に対し、島内は「公界所」であるので、その安全を図るよう指示している(「北条康成判物」同書)。天正一八年四月、豊臣秀吉の禁制が「江島寺」に下されている(江島神社文書)

慶安二年(一六四九)五月の朱印状下付願(藤沢市史一)によれば、幕府代官成瀬氏は寺社奉行宛に別当岩本いわもと院へ弁才天境内の山林竹木諸役を免除する旨の朱印状の発行を願い、八月に認められた(令条記)。慶長五年(一六〇〇)六月には徳川家康が参詣(相中留恩記略)、これを契機に将軍家代代の祈祷所となり、大奥や諸大名の信仰も集めた。ことに五代将軍綱吉は当社と関係の深い鍼術師の関東総検校杉山和一により病気が平癒した関係もあり、江島弁才天信仰に熱心であった(藤沢市史五)。江島弁才天信仰が庶民の間に広まるのは江戸の中期頃からで、寛延二年(一七四九)四月から七月まで江戸で最初の出開帳が行われ(武江年表)、以後五―一〇年ごとに開帳・出開帳が行われている。弁才天は福や音楽の神であり、伎芸上達の祈願も行われ、江戸の中村座や市村座、小道具屋が寄進した石灯籠が残されている。また各地の講中が立てた石造物も残されており、弁才天信仰が庶民の間に盛んであったことがわかる。江戸中期頃より江戸庶民をはじめ近国からの江の島参詣熱が高まり、十返舎一九「滑稽江之島土産」、銀鶏「江の島まうで浜のさざ波」などの案内書が刊行されたり、広重「相州江之島弁財天開帳参詣群集之図」などが描かれた。「東海道名所図会」には例祭の賑いぶりが記され、山下の旅館は朝網・夕網の鮮魚を料理に出し、宴じて帰路を忘れる者もあったという。大山、あるいは鎌倉と合せた江の島詣は、ことに江戸の庶民にとっては楽しみの一つであった。河東節、箏曲、長唄にも「江の島」が作曲されている。

〔三宮〕

本宮はもと御窟にあって、年二回の例祭の時に下之宮の御旅所(現奥津宮)に遷座した。このため後に御旅所を本宮と称するようになった(風土記稿)。「吾妻鏡」承元二年(一二〇八)六月一六日条は御窟を「龍穴」と記している。天文二〇年(一五五一)五月二六日、北条綱成は岩本坊宛に本宮御窟内での鳩の殺生を禁止している(「北条綱成禁制」県史三)。宝永三年(一七〇六)一〇月には幕府より片瀬かたせ村から社領一五石の朱印状を与えられ(相中留恩記略)、寛永六年(一六二九)には本宮旅所の鐘が鋳られ(風土記稿)、天保一三年(一八四二)には本宮御旅所本殿が再建されている(江島神社史料年表)

上之宮は中央の山上にあり、仁寿三年(八五三)の創立といい、天文一八年七月二三日北条氏康が「江島上下之宮」の造営の資として白糸二〇斤を寄進(「北条氏康判物写」県史三)。宝永三年片瀬村から社領一〇石の朱印を与えられている(相中留恩記略)。元禄二年(一六八九)社殿を再建し(江島神社史料年表)、宝永七年には鐘を鋳造(風土記稿)、さらに文久元年(一八六一)不老門を再建している。下之宮は島の北側の石段を登りつめたところにあり、「風土記稿」によれば建永元年(一二〇六)良真が実朝に請い願って建立したという。寛永一四年鐘が鋳られ、延宝三年(一六七五)本殿再建、元禄五年幕府より社領一〇石八斗余(猟師町)の朱印状が与えられた。また同年には関東総検校杉山和一が若い頃修行したとして社殿を改修し、護摩堂を建て、同七年には三重塔を造立した。

〔別当〕

三宮の別当には岩本院(古くは中之坊、中世は岩本坊)・上之坊・下之坊があり、寛延三年の寺院明細書上(岩本院文書)によると、岩本院は江島本宮岩屋宮殿を掌握し、慶安二年弁才天境内の山林竹木などの諸役免除を受け、御師は祈祷所一〇〇軒余を抱えている。また上之坊は上之宮を掌握し、御師は祈祷所一〇〇軒を抱える。下之坊は下之宮を掌握、御師は祈祷所二五〇軒を抱えている。享禄四年(一五三一)五月一四日の北条氏綱判物(県史三)では退転した上之坊跡の兼帯が岩本坊に命じられ、天文一二年二月二八日の蜷川康親神馬寄進状(同書)では、岩本坊宛に弁才天への神馬とそれに伴う人馬が寄進されるなど、岩本坊は江島神社の管理にとりわけ強い力をもっていた。

〔本末争論〕

近世になると寛永一七年五月、上之坊との争論があり、岩本院はそれまでの慣例により上之坊を末寺に組入れようとしたが上之坊はこれに反発した(「本末争論一件」岩本院文書)。慶安二年三月には岩本院は京都御室仁和寺の末寺となり(「仁和寺末寺召加之事」藤沢市史一)、同年八月上之坊に対する政治的優位を得た。三坊は江の島における旅宿や札配りの営業権を独占していたが、この頃島民の中に旅宿を営む者が現れ、島民との対立が表面化し争論となった。慶安三年九月幕府の裁許が下り島民の旅宿経営は禁止され、札配りは認められたが、弁才天への奉公を岩本院の指示に従って行うよう義務づけられた(「覚書之事」藤沢市史一)。これにより岩本院の島内における権限はいっそう強化された。

寛文五年(一六六五)三月には再び上之坊は「関東真言宗古義本末帳」をたてに岩本院の末寺でないことを主張した(「本末規式之事」藤沢市史一)が、岩本院は先の朱印状などを論拠に本寺権を主張し、六月上之坊の主張は退けられた(「上之坊と相論証文」同書)。また延宝三年一二月の口上(本末規式之事)によれば下之坊は岩本院から離脱を図り、仁和寺に訴訟したが、岩本院の反対で成功しなかった(同四年二月「差上申一札之事」同書)。さらに宝永年間の争論では下之坊の院号使用や鉄砲改などについて岩本院が訴訟を起こし、結果的に下之坊は院号を使用せず、岩本院の支配に従うと誓っている(「下之坊訴訟一件」岩本院文書)。岩本院の江の島および上之坊・下之坊に対する支配権が正式に確立するのは正徳二年(一七一二)で、同年七月岩本院から提出した七ヵ条書付(岩本院文書)によって本末関係が明らかになり、上之坊・下之坊は代替りごとにその誓約書を提出することになった。岩本院は一山の総別当を称し、江ノ島寺と号した。

明治元年(一八六八)神仏分離により別当寺を廃し、同四年江島社領は神奈川県所轄となる。境内社は八坂神社・秋葉社がある。

〔祭礼・文化財〕

辺津宮の例祭は四月初巳の日。八坂神社の例祭である神輿の海上渡が七月一四日に行われる。神輿を海にかつぎ入れ、陸で奏でる天王囃子にのり、海を浮きつ沈みつ進み、弁天橋口の鳥居の傍らから上陸し、対岸の鎌倉市腰越の小動こしごえのこゆるぎ神社に赴き行合祭を行う。神社の社殿として奥津宮が本殿・拝殿、中津宮が本殿・幣殿・拝殿、辺津宮が本殿・幣殿・拝殿・奉安殿・神輿庫・社務所がある。県指定文化財の木造彩色八臂弁財天坐像は鎌倉期の寄木造で、永正一〇年(一五一三)の胎内墨書補修銘がある。同じく県指定文化財の正保四年(一六四七)銘の太刀は鍋島甲斐守の奉納と伝える。なお岩本院文書(中世文書三六通、近世文書三七〇通)も県指定文化財。

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