京都市南区九条町にある寺。東寺真言(しんごん)宗の総本山。正しくは金光明(こんこうみょう)四天王教王護国寺秘密伝法院(略して教王護国寺)という。本尊は薬師如来(にょらい)。794年(延暦13)の平安遷都に伴い、王城鎮護のために羅城(らじょう)門の左右に2か寺が建立され、それぞれ東寺(左寺、左大寺とも)、西寺(さいじ)(右寺、右大寺)と称した。東西両寺の造営が開始されたのは796年ごろで、大納言(だいなごん)藤原伊勢人(いせんど)が造寺長官に任命された。しかし、そのうちの東寺が皇族・貴族から庶民に至る広い信仰を集めるようになったのは、823年(弘仁14)に嵯峨(さが)天皇が東寺を弘法大師(こうぼうだいし)空海に勅賜し、当寺が真言密教の根本道場となってからである。
空海は、806年(大同1)唐より帰国後、真言密教の布教に努め、819年から高野山(こうやさん)に伽藍(がらん)を建立、金剛峯寺(こんごうぶじ)を開いた。このころより比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)にあって顕教を説いていた最澄(さいちょう)と対立。嵯峨天皇はその調停として両者の教学を公認するとともに、空海に東寺を与えた。空海は、東寺の住僧に真言宗僧以外の僧を交えぬよう要請して認められた。それまでのあらゆる官寺は諸宗兼学を旨としており、一宗による官寺の独占は画期的なことであった。以後日本の仏教は官寺仏教から宗派仏教へと大きく変貌(へんぼう)していく。空海は東寺に五重塔や講堂を建立して寺観を整えたが、835年(承和2)空海の没後、真言宗の信仰と教学の中心は高野山に移り、東寺はやや衰えをみせる。それでも天皇家の国忌がたびたび修されるなど、官寺としての地位は他寺にぬきんでていた。平安時代末ごろになると、寺堂の荒廃が進み寺領荘園(しょうえん)の支配も緩みがちとなった。そこで勧進僧(かんじんそう)文覚(もんがく)(俗名遠藤盛遠(もりとお))は、空海由縁の京都高雄山(たかおさん)神護寺(じんごじ)の再興を果たした勢いで東寺再興を志した。その進言に応じて、後白河(ごしらかわ)院は1189年(文治5)に播磨(はりま)国(兵庫県)を修造料国にあて、また鎌倉開幕まもない将軍源頼朝(よりとも)も、文覚の諸国での勧進活動を大いに支援した。1197年(建久8)ごろまでに寺堂の再興事業はほぼ完成したが、1199年(正治1)の頼朝の死により文覚は失脚し、復興事業は中断された。
13世紀中ごろ以降、行遍(ぎょうへん)らの活躍で、全国にあった広大な寺領荘園の支配が好転し、その後1285年(弘安8)に五重塔の再興を果たした大勧進願行上人(がんぎょうしょうにん)憲静なども登場して、中世においては東寺は経済的にも大いに安定した。南北朝・室町時代は、たび重なる戦乱に巻き込まれて寺堂を焼亡することもあったが、公家(くげ)・武家および民衆の尽力でそのつど再興された。しかし、1486年(文明18)の京都徳政一揆(いっき)のとき、土一揆勢が当寺に立てこもって放火したため、金堂以下ほとんどの建物が灰燼(かいじん)に帰した。豊臣(とよとみ)秀吉は1591年(天正19)に山城(やましろ)国内の2000石余を寺領として安堵(あんど)。続く徳川幕府もそれを朱印寺領として認めるとともに、五重塔をはじめ諸堂を再興した。明治期には、神仏分離、廃仏棄釈によって多くの塔頭(たっちゅう)が廃された。明治初年に真言宗の総本山となったが、のち諸派と分離し、1974年(昭和49)東寺真言宗が結成され、その総本山となる。空海のときに始められた後七日御修法(ごしちにちのみしほ)は毎年1月8~14日に全真言宗合同のもとに厳修されている。東寺は官立護国寺、密教道場に加えて大師霊場でもある。空海の住房であった西院(さいいん)にはもと不動明王が祀(まつ)られていたが、鎌倉時代に前堂に空海の像が安置されると、大師堂、御影堂(みえいどう)とよばれるに至った。現在の建物は1380年(天授6・康暦2)の再建であるが、そのころから大師堂に空海の徳を慕う多くの人々が参詣(さんけい)するようになった。いまでも毎月21日の命日に大師堂で行われる御影供(みえく)(正御影供は4月21日)は「弘法さん」とよばれて大ぜいの参詣者でにぎわう。
[金岡秀友]
建造物には創建当初のものはないが、南大門から金堂、講堂、食堂(じきどう)と一直線に並ぶ伽藍(がらん)配置は奈良の諸大寺の伝統を受け継いでいる。五重塔(国宝)は総高約55メートル、日本の塔のうち最高最大のものである。現在の塔は1644年(寛永21)徳川家光(いえみつ)の寄進により再建されたもので、初層内部の板壁には真言八祖像、天井には花文が極彩色で描かれている。そのほか建造物では金堂(桃山時代)、大師堂(室町時代)、蓮華(れんげ)門(鎌倉時代)が国宝に、講堂(室町時代)、灌頂(かんじょう)院(江戸時代)などが国重要文化財に指定されている。寺宝は、空海が唐から持ち帰った多くの遺品をはじめ、平安時代以来の彫刻、絵画、工芸、文書などおびただしい数に上り、国宝、国重要文化財も非常に多く、仏教美術の宝庫といわれる。講堂内には中央に五如来(にょらい)像、東方に五大菩薩(ぼさつ)像、西方に五大明王(みょうおう)像、東西に梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)像、四隅に四天王像(以上すべて国宝)の計21尊を安置。その配置は空海が密教の理想を具現しようとしたものとされ、また諸像は密教彫刻最古の傑作として重んじられている。大師堂には不動明王像、僧形八幡(はちまん)神像、女神像、神像(以上国宝)など、食堂には唐から請来(しょうらい)された兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)像(国宝)などの名品を安置している。絵画では五大尊像、真言七祖像、両界曼荼羅(まんだら)図、十二天屏風(びょうぶ)など、工芸品には海賦蒔絵袈裟(かいふまきえけさ)箱、陀穀糸(けんだこくし)袈裟、紫檀(したん)塗螺鈿(らでん)装舎利輦(しゃりれん)のほか、密教法具(金剛盤(こんごうばん)、五鈷鈴(ごこれい)、五鈷杵(ごこしょ))など、書では「風信帖(じょう)」の名で知られる弘法大師筆尺牘(せきとく)、最澄筆「弘法大師請来目録」などが国宝に指定されている。また、東寺の寺史『東宝記(とうぼうき)』(国宝)や、かつて東寺が所蔵していた2万点余の文書「東寺百合文書(ひゃくごうもんじょ)」は古代・中世史研究に不可欠の史料として重視されている。「東寺百合文書」は2015年(平成27)、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産(現、世界の記憶)に登録された。
なお、塔頭の観智(かんち)院は後宇多(ごうだ)天皇により創立されたもので、桃山建築の客殿は国宝である。東寺は、1994年(平成6)世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。
[金岡秀友]
東寺に対して年貢、公事(くじ)、雑役(ぞうやく)などを負担する末寺、荘園、散在所領、造営料国、散所(さんじょ)などをさす。
末寺には、金剛峯寺、弘福寺(ぐふくじ)、珍皇寺(ちんのうじ)、善通寺(ぜんつうじ)、曼荼羅寺(まんだらじ)、法雲寺(ほううんじ)などがあり、東寺の法会(ほうえ)の供物や饗料(きょうりょう)を勤仕していた。
東寺草創期の荘園所領は、伊勢大国(いせおおくに)荘・川合(かわい)荘、摂津垂水(せっつたるみ)荘、丹波大山(たんばおおやま)荘、東寺寺辺水田などで、のち尾張大成(おわりおおなり)荘を加えて、これらの荘園は平安時代末期には長者渡領(ちょうじゃわたりりょう)となり、その後、荘務権は執行(しぎょう)そして供僧(ぐそう)へと移っている。ついで中世における寺領増加の動きは次の三つに分けられる。第一は、仁和寺菩提院(にんなじぼだいいん)行遍(ぎょうへん)の働きかけによる宣陽門院(せんようもんいん)、仁和寺御室(おむろ)の所領寄進である。大和平野殿(やまとひらのどの)荘、伊与弓削島(いよゆげしま)荘、安芸新勅旨田(あきしんちょくしでん)、備前(びぜん)鳥取荘(のち丹波野口荘にかわる)、若狭太良(わかさたら)荘などが供僧料荘にあてられ、それによって十八口(じゅうはっく)供僧の基礎となる衆会(しゅうえ)組織が発足した。第二は、鎌倉後期から南北朝期にかけての公家・武家による供僧・学衆の新たな設置とその料荘の寄進である。後宇多(ごうだ)院は廿一口(にじゅういっく)供僧・学衆の新補とあわせて、山城拝師(やましろはいし)荘・上桂(かみかつら)荘・八条院町(はちじょういんのちょう)、播磨矢野(はりまやの)荘、常陸信太(ひたちしだ)荘を寄進、後醍醐(ごだいご)天皇は勧学会衆に宝荘厳院執務職(ほうそうごんいんしつむしき)を、講堂・灌頂院(かんじょういん)護摩供僧に最勝光院(さいしょうこういん)執務職を、不動堂不断護摩供僧に大山・太良・備中新見(びっちゅうにいみ)各荘地頭(じとう)職をあてた。両執務職に伴うおもな荘園は、宝荘厳院が近江三村(おうみみむら)荘・速水(はやみ)荘、丹波葛野(かどの)荘、遠江初倉(とおとうみはつくら)荘、阿波(あわ)大野荘、最勝光院が備中新見荘、周防美和(みわ)荘、肥前松浦(ひぜんまつら)荘、肥後神倉(ひごかみくら)荘、遠江原田(はらだ)荘・村櫛(むらくし)荘、京都柳原(やなぎはら)などである。南北朝期に入って足利尊氏(あしかがたかうじ)が鎮守八幡宮(はちまんぐう)に山城久世上下(くぜかみしも)荘地頭職を、大勝金剛供・千手供供僧に河内新開(かわちしんがい)荘(のち備後因島(びんごいんのしま)荘、摂津美作(みまさか)荘にかわる)を寄せ、足利義詮(よしあきら)が山城植松(うえまつ)荘地頭職を寄進している。第三は、鎌倉後期に始まり室町期に盛行した、大師信仰に基づく御影堂(みえいどう)への京都および山城散在所領の寄進である。
このように主として供僧・学衆料所を中心に形成されてきた中世東寺の荘園所領は、供僧・学衆が組織する十八口方、廿一口方、学衆方、最勝光院方、宝荘厳院方、鎮守八幡宮方、不動堂方、植松荘方などの機構によって支配されていた。そのほかにも、造営方の管領する巷所(こうしょ)・東西九条女御田(とうざいくじょうにょごでん)、三河山中郷などの造営料所や若干の長者・執行管領所領があった。これら諸荘には寄進後まもなく不知行(ふちぎょう)になったものもあるが、久世荘など畿内(きない)膝下(しっか)荘園所領は戦国期に至るまで経営が続けられた。
造営料国としては、鎌倉時代初期以来、播磨、肥後、丹後、佐渡、下野(しもつけ)、常陸(ひたち)などが寄せられたが、永代料国となったのは安芸国である。また、淀津(よどのつ)やそれにかわる近江湖上船木(ふなき)関の関銭も造営料として寄進されている。
散所については、1318年(文保2)後宇多院が、供僧・学衆に掃除料として散所法師(さんじょほうし)15人を寄進しており、以後も寺内の掃除・警衛などの雑役を勤めた。
[伊藤敏子]
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