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  11. 本多忠勝

本多忠勝

ジャパンナレッジで閲覧できる『本多忠勝』の国史大辞典のサンプルページ

本多忠勝
ほんだただかつ
一五四八 - 一六一〇
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた武将。江戸時代前期の有力譜代大名。幼名は鍋之助。通称平八郎。中務大輔。天文十七年(一五四八)三河国に生まれる。父は岡崎城主松平広忠の家臣本多平八郎忠高、母は植村新六郎氏義の娘。父忠高が天文十八年安城の城攻めで討死したため、幼時より徳川家康に仕えた。永禄三年(一五六〇)尾張国大高城攻めが初陣。以後永禄六年の三河一向一揆、元亀元年(一五七〇)姉川の戦、天正三年(一五七五)長篠の戦、同十二年小牧・長久手の戦などで抜群の戦功をあげた。特に天正十一年京坂遊歴の途中、本能寺の変の情報を得て去就に迷う家康に進言して三河帰国を決定させた話や、翌年の小牧・長久手の戦のとき、長久手に救援に向かう豊臣秀吉の数万の大軍と、わずか三百の兵で対決しようとした話は有名である。これよりさき永禄九年、都筑惣左衛門秀綱・本多三弥左衛門正重など騎馬の士五十余人を付属せしめられ家臣団を形成しつつあったが、天正十八年八月家康の関東転封直後、上総国大多喜城城主十万石に封ぜられた。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦では、井伊直政とともに小山(おやま)より西上する福島正則ら豊臣諸大名の軍監として活躍した。同六年所領を伊勢国桑名・員弁(いなべ)・朝明(あさけ)・三重四郡のうちに移し、桑名城を与えられた。これよりさき五万石加増の命はあったが固辞したので、旧領大多喜の城地五万石は次男忠朝に与えられた。幕府創業期忠勝は酒井忠次・榊原康政・井伊直政とならび、徳川四天王と称され、武功派の宿老として徳川氏の覇権確立に尽くしたが、家康の駿府隠退後は、本多正信・正純父子ら吏僚派によって政権の中枢から遠ざけられ、慶長十五年(一六一〇)十月十八日桑名において没した。六十三歳。法号は長誉良信西岸寺。墓所は桑名の浄土寺。忠勝は若年より軍に赴くこと五十余度に及んだが、いまだかつて創(きず)をうけたことはなかったという。
[参考文献]
『大日本史料』一二ノ七 慶長十五年十月十八日条、『寛政重修諸家譜』六八一、藤野保『新訂幕藩体制史の研究』、北島正元編『江戸幕府』上
(所 理喜夫)
©Yoshikawa kobunkan Inc.
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検索コンテンツ
1. 本多忠勝 画像
日本大百科全書
徳川家康に仕えた武将。松平氏発祥のころからの譜代(ふだい)の家柄で、三河(愛知県)の生まれ。代々平八郎を通称。父忠高(ただたか)は織田信広(おだのぶひろ)を安城 ... ...
2. 本多忠勝[百科マルチメディア]
日本大百科全書
「本多忠勝画像(武装)」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分) ©東京大学史料編纂所 ... ...
3. 本多忠勝
世界大百科事典
1548-1610(天文17-慶長15) 戦国末期~江戸初期に徳川家康に仕えた武将。酒井忠次,榊原康政,井伊直政とともに徳川四天王と呼ばれ,徳川氏譜代家臣団の最 ... ...
4. ほんだ‐ただかつ【本多忠勝】 画像
デジタル大辞泉
[1548〜1610]江戸初期の大名。伊勢の桑名城主。三河の人。通称、平八郎。徳川家康に仕え、武勇をもって知られた。徳川四天王の一人。 ... ...
5. ほんだ‐ただかつ【本多忠勝】
日本国語大辞典
江戸初期の大名。家康に従い五十余度の合戦に活躍。徳川氏創業の功臣として、江戸入府のとき上総国大多喜城を与えられ、のち伊勢国桑名城の城主となる。井伊直政・酒井忠次 ... ...
6. ほんだただかつ【本多忠勝】 画像
国史大辞典
一五四八―一六一〇 戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた武将。江戸時代前期の有力譜代大名。幼名は鍋之助。通称平八郎。中務大輔。天文十七年(一五四八 ... ...
7. ほんだ-ただかつ【本多忠勝】
日本人名大辞典
1548−1610 織豊-江戸時代前期の武将,大名。天文(てんぶん)17年生まれ。本多忠高の長男。徳川家康につかえる。五十数回の戦いにでて一度も傷をうけなかった ... ...
8. 本多忠勝[文献目録]
日本人物文献目録
田太良次郎『本多平八忠勝伝』鈴木治郎蔵(編)『江戸幕府その実力者たち 』北島正元『本多忠勝』植村清二『本多忠勝画像について』- ... ...
9. 本多忠勝儉約 (見出し語:本多忠勝)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 72ページ ... ...
10. 本多忠勝沈勇 (見出し語:本多忠勝)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 118ページ ... ...
11. 本多忠勝花押[図版] 画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc. ... ...
12. あんらくじ【安楽寺】岐阜県:大垣市/旧多藝郡・不破郡地区/赤坂村
日本歴史地名大系
ばここを訪れ、俗に岡山御所と称したともいう。慶長五年(一六〇〇)のものと推測される九月六日の本多忠勝・井伊直政連署状(安楽寺文書)に「赤坂岡山之安楽寺」とみえ、 ... ...
13. 井伊直政
世界大百科事典
り立てられた。82年弱冠22歳で旗本一手役(ひとてやく)の長となった。この部署には三河譜代の本多忠勝,榊原康政がおり,後世,直政を加えて三傑と称せられた。直政の ... ...
14. いいなおまさ【井伊直政】 画像
国史大辞典
勤め城の普請を司った。慶長三年(一五九八)箕輪から城を和田に移し高崎と名付けた。同五年関ヶ原の戦には本多忠勝とともに東海道方面諸軍の監軍となり、関ヶ原の戦場では ... ...
15. いすみ(市) 画像
日本大百科全書
12年(応永19)土岐時政が万喜(まんぎ)城を築城。同城は1590年(天正18)徳川氏の家臣本多忠勝に攻められ落城した。江戸初期、旗本堀氏が国吉苅谷(くによしか ... ...
16. いすみぐん【夷隅郡】
国史大辞典
。天正十八年(一五九〇)里見氏は上総を豊臣秀吉に召し上げられ、安房一国を領有。徳川家康の功臣本多忠勝が大多喜城主(十万石)となった。その後大多喜藩主は阿部・青山 ... ...
17. いすみぐん【夷隅郡】千葉県
日本歴史地名大系
戦国期まで伊北庄・伊南庄として推移した。〔近世〕天正一八年(一五九〇)徳川家康の関東入部に伴い、大多喜には本多忠勝が一〇万石で、勝浦には旗本植村泰忠が三千石で配 ... ...
18. 伊勢国 画像
日本大百科全書
とものぶ)を配し、信長色を一掃し、検地を実施した。大名の移動は徳川政権下も続いた。桑名藩には本多忠勝(ただかつ)が1601年(慶長6)に入ったが、移封がしばしば ... ...
19. 伊勢国
世界大百科事典
行った。除封・廃藩になったのが井生・雲出・竹原の3藩,除封・新領主入封となったのが桑名(氏家氏→本多忠勝),亀山(岡本氏→関一政),神戸(滝川氏→一柳直盛)の3 ... ...
20. いせのくに【伊勢国】三重県
日本歴史地名大系
〔桑名藩〕文禄四年(一五九五)以来桑名城主であった氏家行広が関ヶ原合戦に西軍に属して没落したあと、慶長六年に本多忠勝が城主として入封した。石高は一〇万石といわれ ... ...
21. 一閑張
世界大百科事典
花蝶蒔絵念珠箱(金剛峯寺),13世紀の紙胎彩絵華籠(万徳寺),紙胎塗箱(安国寺),16世紀の本多忠勝所用冑の鹿角飾などがあり,とくに念珠箱は和紙を12~13枚重 ... ...
22. いなべぐん【員弁郡】
国史大辞典
治田七ヵ村(北勢町)は治田銀山があったので美濃笠松郡代の支配となった。元和元年(一六一五)治田七ヵ村は桑名藩主本多忠勝に嫁した千姫の化粧料となり、同七年の姫路転 ... ...
23. いなべぐん【員弁郡】三重県
日本歴史地名大系
その後、豊臣政権期の織田信雄・豊臣秀次らの支配を経て、慶長六年(一六〇一)大部分が桑名藩領(藩主本多忠勝)となり、治田鉱山を含む治田郷八ヵ村(現北勢町)は幕府領 ... ...
24. いわせはん【岩瀬藩】
国史大辞典
滅亡後は、伊達・蒲生・上杉諸氏の領有となり、独立の藩は存在しなかった。天和二年(一六八二)、本多忠勝の次子忠朝の孫政利(譜代)が、播州明石六万石から、岩瀬郡内一 ... ...
25. いわとみはん【岩富藩】
国史大辞典
同年四月二十八日繁広(氏繁の子、氏勝の養子)とともに家康の陣営に赴いた。かくて彼は浅野長政・木村重高・本多忠勝らの関東諸城の攻略をたすけた。家康は関東に入国する ... ...
26. いわぬまむら【岩沼村】千葉県:長生郡/長生村 地図
日本歴史地名大系
文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一五三石。慶長六年(一六〇一)大多喜城(現大多喜町)城主本多忠勝の所領が拝領一〇万石より三七〇石ほど不足である ... ...
27. うえむら-やすかつ【植村泰勝】
日本人名大辞典
江戸時代前期の武将。天正(てんしょう)6年生まれ。植村泰忠の子。徳川家康の家臣。関ケ原の戦いのとき,本多忠勝にしたがい西軍の岐阜城を攻める。大坂夏の陣では本多忠 ... ...
28. うえむら-やすただ【植村泰忠(1)】
日本人名大辞典
もと三河(愛知県)鳳来寺で安養院と号した僧。三方原の戦いより徳川家康にしたがう。小田原攻めでは本多忠勝らとともに武蔵(むさし)岩槻城(埼玉県)を攻めおとし,その ... ...
29. うめがしまごう【梅島郷】静岡県:静岡市/旧安倍郡地区/梅ヶ島村
日本歴史地名大系
上納するように小泉勘解由左衛門と百姓中に命じている(「武田家朱印状写」同文書)。天正一六年(一五八八)閏五月、本多忠勝は「梅嶋村」の金掘に対して五三ヵ条の金掘に ... ...
30. うんちょう【雲潮】
国史大辞典
徳川家康に胤栄の助命を乞い、同年家康から境内の禁制と寺領の安堵を受け、その家臣上総大多喜城主本多忠勝の要請で城下に桜谷寺を創建した。宗義について『二蔵義序』と『 ... ...
31. 江戸繁昌記 2 50ページ
東洋文庫
各自の好尚によって相異があり、多くの種類があった。またこの型は江戸中期の代表的な型でもあった。本多忠勝家中の武士の風に起原する、といわれている。髭の根元を元結で ... ...
32. おうだむら【麻生田村】三重県:員弁郡/北勢町
日本歴史地名大系
合祀され麻生神社(祭神天照大御神ほか)となった。万笑院は慶長六年(一六〇一)入部した桑名藩主本多忠勝の帰依があつかったという。また村の南方に古城跡がある。築城の ... ...
33. おおうらむら【大浦村】岐阜県:羽島市
日本歴史地名大系
砦とし、秀勝を置いた。五月初めには秀吉もこの砦に駐屯している(武徳編年集成)。一方、徳川家臣本多忠勝の五月一六日付蘆田時直宛書状(案、神田孝平氏所蔵文書)は「濃 ... ...
34. 大多喜(町) 画像
日本大百科全書
ごや)(根小屋)城を築いたが、のち正木氏に引き継がれた。1590年(天正18)徳川家康の家臣本多忠勝(ただかつ)が10万石で入封し、大多喜城を築いた。その後領主 ... ...
35. 大多喜開運切符
デジタル大辞泉プラス
いすみ鉄道が発売する電車の一日乗車券。上総大多喜藩の初代藩主、本多忠勝をあしらったもの。 2012年02月 ... ...
36. おおたきじょうか【大多喜城下】千葉県:夷隅郡/大多喜町 地図
日本歴史地名大系
天正一八年(一五九〇)に本多忠勝が一〇万石で入封し、戦国期の小田喜城下を継承して形成した大多喜城の城下町。城はその後無主・廃城になった時期があるが、元禄一六年( ... ...
37. 大多喜藩
日本大百科全書
夷隅(いすみ)郡大多喜に藩庁を置いた譜代(ふだい)藩。1590年(天正18)徳川四天王の一人本多忠勝(ほんだただかつ)が10万石を領有し大多喜城主になったのが藩 ... ...
38. おおたきはん【大多喜藩】
国史大辞典
上総国(千葉県)大多喜を藩庁とした藩。藩主はいずれも譜代。城は大多喜にあり、石高は本多忠勝の時が最大で十万石であった。この地は『和名類聚抄』夷 ... ...
39. おおたきまち【大多喜町】千葉県:夷隅郡 地図
日本歴史地名大系
)小田原北条氏の滅亡時まで在城した。同年八月の徳川家康の関東入部に伴い、小田喜(大多喜)には本多忠勝が一〇万石で入り、城を改築し、城下町を建設した。その後大多喜 ... ...
40. おおのじょうあと【大野城跡】千葉県:夷隅郡/夷隅町/大野村 地図
日本歴史地名大系
もにみえる伊北城は当城をさすと思われる(房総治乱記)。城の埋立は天正一八年(一五九〇)八月の本多忠勝の小田喜入城後であろう。一帯に中城・外城・神城寺・駒形・宿屋 ... ...
41. おおひらこじょうあと【大平古城跡】愛知県:岡崎市/西大平村
日本歴史地名大系
近といわれる。子重利は、松平七代清康に、その子重信は八代広忠・家康に出仕した。重倍は永禄九年本多忠勝に付属せられ、元亀三年(一五七二)の三方ヶ原戦に戦死した。本 ... ...
42. おかざきじょう【岡崎城】愛知県:岡崎市/岡崎城下
日本歴史地名大系
かれ、康生町となった。同二〇年一月の戸数四二五である。菅生曲輪内に、後本多に付属して来住した本多忠勝菩提のため建てられた浄土宗西岸寺をはじめとして、観音寺・慶雲 ... ...
43. おかばやしむら【乙ヶ林村】愛知県:西加茂郡/小原村
日本歴史地名大系
明治一八年の戸口は五三戸・二〇八人で、特有物産として紙類六五〇斤がある。永禄年間(一五五八―七〇)本多忠勝の臣三宅利兵衛道清が勧請したと伝える白山社のほかに御鍬 ... ...
44. 奥平忠昌
世界大百科事典
1608-68(慶長13-寛文8) 江戸前期の譜代大名。奥平宇都宮藩2代藩主。奥平大膳大夫家昌の嫡男。母は本多忠勝の娘。幼名は千福,通称九八郎。1614年(慶長 ... ...
45. おだきじょうあと・おおたきじょうあと【小田喜城跡・大多喜城跡】千葉県:夷隅郡/大多喜町/大多喜城下 地図
日本歴史地名大系
近世の城は大多喜(大田喜)城のほか大滝城とも記される。従来中世の小田喜城を泉水地区の城跡に比定し、近世に入って本多忠勝が中世の城の南方に新たに築城したと考えられ ... ...
46. おゆみごう【生実郷】千葉県:千葉市/中央区 地図
日本歴史地名大系
扁額には大鷲神社とある。村の西部小字戦場・一本松に県指定天然記念物の斥候の松があった。天正一八年本多忠勝が房総攻略のとき応戦した生実城主原胤栄の家臣がこの樹に登 ... ...
47. 家訓集 294ページ
東洋文庫
「権現様」は徳川家康の尊称。「井伊、本多」は家康に仕えた"徳川四天 王"として知られる井伊直政と本多忠勝を指すものであろう。(14) 「売買の簾をつらね」は.売 ... ...
48. かけむら【欠村】愛知県:岡崎市
日本歴史地名大系
リ」と記し、さらに「柴田氏墓、三河古墳記ニ曰、柴田一統墓欠村太子堂西ニアリ」という。欠城は、本多忠勝の叔父本多忠真が居城したと伝える。また字古屋敷と称する所があ ... ...
49. 上総国
世界大百科事典
家康に与えられた。小笠原 長和 近世 家康の関東入国直後に当国に配置された万石以上の諸将は,本多忠勝(大多喜,10万石),大須賀忠政(久留里,3万石),石川康通 ... ...
50. かずさのくに【上総国】 画像
国史大辞典
これが秀吉の怒りを買い、義康は上総を没収され、他の関東諸領とともに徳川家康に与えられた。家康は本多忠勝を夷隅郡大多喜に、植村泰忠を夷隅郡勝浦に、本多重次を周准( ... ...
「本多忠勝」の情報だけではなく、「本多忠勝」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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