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  11. 千利休

千利休

ジャパンナレッジで閲覧できる『千利休』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
千利休
せんのりきゅう
一五二二 - 九一
室町時代末期・安土桃山時代に出た茶の湯の大成者。抛筌斎利休宗易居士。堺の納屋衆の一人千与兵衛の子として大永二年(一五二二)に生まれ与四郎と称し、天文四年(一五三五)十四歳の時にはすでに千家の当主となっていた。彼は当時堺の町衆の間に流行していた茶の湯に興味を抱き、十七歳の時、北向道陳について能阿弥流の書院の茶を習い、ついでその紹介で武野紹鴎について珠光流のわび茶を学んだ。松屋久政の茶会記の天文六年九月十三日の条に「京都与四郎殿」の茶会の記載があり、これに「宗易の事也」という傍註があるが一抹の疑問がある。茶人宗易の存在を示す確実で早い史料は、同じ久政の茶会記の天文十三年二月二十七日の記載で、久政が当時二十三歳の千宗易の茶会の客となったことが知られる。彼はこのころまでに、堺の茶人のならわしに随い、紹鴎の参禅の師である大徳寺派の大林宗套に就いて受戒し「宗易」という法諱を授かっていたのである。宗易は弘治元年(一五五五)正月六日に堺の代表的茶人津田宗達を正客として茶会を催し、その年十月三日には奈良に赴いて松屋久政とともに絹屋宗林の茶会によばれ、十二月二十二日には津田宗達の茶会に招かれていて、このころから宗易の茶境が向上し茶人としての名声のようやく高揚しつつあったことが察せられる。他方、従来主として京都・奈良・堺の町衆に荷担されていた茶の湯は、天文末年のころから三好三人衆や松永久秀ら畿内の大名らにも愛好され始めていたが、永禄十一年(一五六八)九月、足利義昭を奉じて入洛し、やがて覇権を確立した織田信長がこれに執心してから一段と興隆し、信長は政略的な意図もあって堺の今井宗久と津田宗及とをみずからの茶頭として召し抱えた。宗易がいつごろから信長に親近したか明確でないが、『今井宗久茶湯日記抜書』や『津田宗及茶湯日記』によると、天正元年(一五七三)十一月から翌二年の三月の間には、信長の茶頭の一人となっていたようである。ただし茶頭としての席次は宗久・宗及の下であった。その宗易がこの両先輩を抜いて天下一の茶匠の地位を確立したのは、同十年六月の本能寺の変で信長が死に、ついで豊臣秀吉が覇者となってからである。とりわけ同十三年三月、秀吉主催の大徳寺山内における大茶会を主宰し、その年九月「利休」居士号を勅賜され、秀吉の禁裏茶会においてその後見の役を勤めてからである。利休はこの後いよいよ秀吉の信任を得、豊臣秀長と提携して秀吉の側近政治に深く関与し、秀長が大友宗麟に向かって「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相(秀長)存じ侯故、ご心配に及ばぬ」と語っていることで察せられるように、政治・軍事上の機密にも通じ大きな勢力をもつに至った。彼は同十五年正月の大坂城の大茶会ではその第一席を担当し、秀吉の九州征伐に随行して博多箱崎八幡社頭で宗及らとともに茶会を催し、その年十月の名高い北野の大茶湯では秀吉についで第二席を担当した(宗及が第三席、宗久が第四席)。利休が大林宗套に参じたことは先に見たが、その後、大林の法嗣の笑嶺宗©に参じ、さらに笑嶺の法嗣の古渓宗陳と意気投合して親交を結び、大徳寺派の禅にいよいよ深く帰依し、同十七年の正月には塔頭の聚光院に永代供養料を寄進して千家の墓所を営み、かつ念願の大徳寺山門の造営をなしとげた。翌十八年には秀吉の小田原征伐に随伴して箱根湯本などで茶事を担当し、伊達政宗を秀吉に取りなしたり、また銘「園城寺」の竹花筒を造ったりして八月に帰洛した。そして翌十九年閏正月までの間に『利休百会記』にみえるような茶会を頻繁に催し、平隠な生活を送っていた。ところが、この十九年正月二十二日に利休のよい理解者であり提携者であった豊臣秀長が病没したことは、彼にとって大きな打撃であった。すなわちこれを機会に石田三成らの利休排斥の策動が活溌となり、二月十三日秀吉から堺へ下り謹慎すべしとの命令が伝達された。利休は即日堺に下り、赦免運動などを拒否して身辺を整理し、その二十五日に「人生七十 力囗希咄(下略)」の辞世の偈を書きしたため、二十六日京都に護送されて葭屋町の自宅に入り、二月二十八日に従容として切腹し七十歳の生涯を閉じたのであった。利休の首は一条戻り橋で獄門にかけられ、その傍に罪状を記した高札が立てられたが、その罪状としては大徳寺山門楼上にみずからの木像を祀るという不遜僭上の行為のあったこと、秀吉の茶頭でありながら茶器の売買などに関与して不当の利得を得たことの二つが記された。しかし、これだけでは賜死の原因としては薄弱なため、その背後に伏在する事情について種々の推測がなされ諸説が提起されている。その主なものの一つは、利休の女で万代屋宗安に嫁して後家になったお吟を側室に出せとの秀吉の要請を、利休が頑強に拒否したため両者が不仲になったという説で、『千利休由緒書』にも出ており、この説は江戸時代初期にすでに巷間に流布していた。その二は利休が秀長と結んで秀吉の側近として大きな勢力をもち、同じく側近であった石田三成一派と勢力を争うようになり、その抗争が秀長の病没を機に一挙に表面化し、秀吉がついに三成らの策動に乗せられたという説で、これが真相に最も近いであろう。しかし社会史的また文化史的な視角からの解釈にも傾聴すべきものがある。利休の切腹は種々な事情の複合によるもので、今後さらに研究されるべきものである。なお、利休の墓は京都大徳寺本坊の方丈裏と塔頭聚光院、および大阪府堺市の南宗寺とにある。
[参考文献]
西堀一三『千利休研究序説』、桑田忠親『千利休』、堀口捨己『利休の茶』(『堀口捨己著作集』四)、唐木順三『千利休』(『筑摩叢書』六)、千宗左『表千家』、桑田忠親『利休の書簡』、芳賀幸四郎『千利休』(『人物叢書』一〇五)、杉本捷雄『千利休とその周辺』、熊倉功夫『千利休』(『日本を創った人びと』一五)、芳賀幸四郎『わび茶の研究』、村井康彦編『千利休』(『茶道聚錦』三)
(芳賀 幸四郎)
©Yoshikawa kobunkan Inc.


日本大百科全書
千利休
せんのりきゅう
[1522―1591]

安土(あづち)桃山時代の茶人。本姓は田中。千は通称、ただし子孫はこれを本姓とした。初名与四郎。宗易(そうえき)、利休と号す。与兵衛の子として堺(さかい)(大阪府)今市(いまいち)町に生まれたが、茶の湯を好み、初め北向道陳(きたむきどうちん)、ついで武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事した。1568年(永禄11)織田信長が上洛(じょうらく)し、堺に矢銭2万貫を課した際、和平派として信長に近づいた今井宗久(そうきゅう)、津田宗及(そうきゅう)と親しく、永禄(えいろく)末年から元亀(げんき)・天正(てんしょう)初年の間に、ともに信長の茶頭(さどう)となった。82年(天正10)6月、本能寺の変で信長横死後は秀吉に仕えたが、当初よりその言動には一介の茶頭の立場を超えるものがあった。子の道安(どうあん)や女婿(じょせい)の万代屋宗安(もずやそうあん)も茶頭となっている。86年4月上坂した豊後(ぶんご)の大友宗麟(そうりん)は、利休の印象を、国元への手紙のなかで「宗易ならでは関白様(秀吉)へ一言も申上ぐる人これ無しと見及び候」と述べている。秀吉が関白になった記念に催した85年10月の禁中茶会では、初めて利休の名で出席し秀吉を後見、以後この居士(こじ)号を用いるようになる。87年10月の北野大茶湯(おおちゃのゆ)には宗及・宗久とともに奉仕したが、中心になってこれを推進した。89年、亡父五十年忌のため大檀那(おおだんな)として大徳寺山門上層を増築し、暮れには完成したが、その際自分の木像を楼上に安置したことが、のちに賜死の一因とされた。90年、秀吉の小田原征伐に従い、勘責されて浪々の身であった、同じ茶頭の山上宗二(やまのうえそうじ)を秀吉に引き合わせたが、またまた勘気を被り、殺されるということがあった。利休自身も、帰洛(きらく)後の言動には不安定な点が看取される。明けて91年正月、よき理解者であった秀長(秀吉の異父弟)の病死がきっかけで利休処罰の動きが表面化し、2月13日堺へ下向、蟄居(ちっきょ)を命ぜられている。旬日を置いてふたたび上洛、28日聚楽(じゅらく)屋敷で自刃した。享年70歳。山門木像の件と、不当な高値で茶器を売買したことが表向きの罪状であるが、側近としての政治的言動が下剋上(げこくじょう)のふるまいとみなされ、これが秀吉部将間の対立のなかで死を招いたものと考えられる。「人生七十(じんせいしちじゅう) 力囲希咄(りきいきとつ) 吾這宝剣(わがこのほうけん) 祖仏共殺(そぶつともにころす)、提(ひっさぐ)る我得具足(わがえぐそく)の一太刀(ひとつたち)今此時(いまこのとき)ぞ天に抛(なげうつ)」が辞世であった。墓は大徳寺本坊方丈裏、同聚光院墓地にある。
茶の湯の面では、秀吉時代になって独自性を打ち出し、それまでの四畳半にかわる二畳、一畳半といった小間(こま)の茶室と、それにふさわしい茶法を創案した。山崎の妙喜庵待庵(みょうきあんたいあん)(二畳)は、1582年秀吉の命を受けて利休がつくったものとされる。茶陶についても、86年ころには、いわゆる宗易型茶碗(ちゃわん)を完成、その美意識は黒楽(くろらく)茶碗に結実している。利休が茶の湯の大成者とされるのは、身辺にある雑器を道具に取り上げるなど、茶の湯のもつ日常性を追求する一方、小間の茶室にみるような、茶の湯の非日常的な求道(ぐどう)性を追求し、茶の湯の限界を窮めたところにあったといえよう。利休七哲は、武門を中心とする利休の高弟たちのことをいい、慶長(けいちょう)初年にはその1人、古田織部(ふるたおりべ)が茶湯名人の称を得ている。千家の家督、利休の茶統は、後妻宗恩の連れ子少庵(しょうあん)(妻は利休の娘亀女)とその子宗旦(そうたん)へと受け継がれ、宗旦の子のとき三千家に分流した。なお、没後から利休回帰が進んだが、ことに百回忌にあたる1690年(元禄3)に向けて高揚し、茶聖化の傾向も現れている。
[村井康彦]



改訂新版・世界大百科事典
千利休
せんのりきゅう
1522-91(大永2-天正19)

桃山時代の町衆茶人,茶道の大成者。通称与四郎。法諱宗易。抛筌斎と号し,利休は居士号。堺今市に魚問屋を営む千与兵衛の子として生まれた。千という姓は祖父の田中千阿弥に由来すると伝えられる。利休は若くして,当時の堺町衆に流行していた茶の湯に親しみ,武野紹鷗について茶を学んだ。また堺南宗寺に住した大林宗套に参禅し法諱を与えられるなど,禅の影響を強く受けた。確かな記録にみえる最初の利休の茶会は,1544年(天文13)に奈良の塗師松屋久政を招いた茶会で,当時23歳であった。名物の香炉を飾り,村田珠光ゆかりの茶碗で茶をたてており,早くも相当の実力があったと思われる。65年(永禄8)には戦国武将,松永久秀の茶会に招かれ,すでに茶の宗匠として今井宗久,津田宗及などとともに名高い存在であった。

73年(天正1),天下統一をめざす織田信長は京都妙覚寺に茶会を開き,堺の町衆として利休も招かれた。さらに75年には信長の茶会で利休は点茶の役をつとめている。ほぼこのころには利休は信長に茶頭として仕えていたのであろう。82年の本能寺の変後,信長政権を継承した豊臣秀吉も茶の湯を好み,利休を重用して3000石の知行を与えたという。85年10月7日秀吉は関白就任のお礼に禁中で茶会を開き,正親町天皇に献茶した。利休も秀吉とともに名物道具を中心に台子(だいす)の茶を披露し,利休居士号を天皇から与えられた。秀吉は利休を単なる茶頭の役にとどめず,弟の秀長とともに秀吉政権を支える政治的に重要な役割をになわせた。87年10月1日秀吉は京都北野天満宮境内において,全国統一の完成を誇示すべくいわゆる〈北野大茶湯〉を開いた。高札を立てて全国の茶人に茶会への参加をよびかけ,身分をこえた各階層の人々が800席以上(一説には1500席)の茶席を境内にしつらえ,秀吉は所蔵の名物道具を見物させ,利休たちとともにみずから茶をふるまった。しかしこの茶会の事実上の推進者は利休と思われ,秀吉の権力を背景に利休の実力が大いに発揮され,茶の湯の最盛期を現出させたといえよう。

89年利休は父親の50回忌法要のために大徳寺山門の修築を企て,同年12月5日に落成した。しかし山門完成後,寄進者の利休木像を山門楼上に置いたことが,その2年後,利休の罪科として問題化した。そして91年2月28日,秀吉の命により利休は京都で切腹した。70歳であった。利休切腹の直接の理由は山門の木像問題であるが,その政治的背景を考えると,全国統一に成功し,次に朝鮮半島をねらう秀吉にとってその拠点となる博多の重要性が増し,逆に堺の勢力をバックとする利休の政治的立場が弱まった点があり,また秀吉政権内部の対立が秀長の死によって表面化し,その抗争に利休がまきこまれた面があろう。その他,切腹の理由に秀吉が利休の娘に横恋慕したとも,また利休が道具の不正な売買をしたともいうが,確認はできない。利休の息子には先妻との間に生まれた道安(千道安),後妻宗恩の連れ子少庵があり,少庵(千少庵)とその子宗旦(千宗旦)の家系に,利休死後数年を経て千家の再興が許され,今日の千家の茶道の源流となった。

利休の茶の湯は町衆の間に発達したわび茶の伝統をうけつぎ,茶会と点前(てまえ)形式の完成,独創的な茶室と道具の創造,茶道の精神性の深化という面で,現代の茶道の型を定立した。まず,従来の茶会が饗宴的な遊興性が強かったのに対し,懐石といわれる料理の簡素化をはかり,茶会の趣向にわびの美意識を貫いた。また茶室では山崎妙喜庵の待庵にみられる2畳敷という極小の茶室を造り,土壁や皮付丸太の柱など今日の和風住宅に大きな影響を与えた茶室の構成と意匠を創造した(数寄屋造)。道具では,1586年(天正14)の茶会で〈宗易型〉の茶碗が登場し,楽長次郎の陶芸を指導したように,茶碗,釜その他茶道具のデザインにも独創的な試みを企て,従来の名物中心の茶に対し,新作あるいは無名の道具を積極的にとりあげた。すでに1563年(永禄6)の茶会で圜悟(えんご)の墨跡を用いたように,利休は禅の墨跡を掛物の中心にすえ,また古渓宗陳,春屋宗園らの禅僧と親交を持ち,禅の枯淡閑寂の精神を茶の湯に求めた。しかしその茶風は戦国時代の下剋上の精神に似て,既成の名物観や茶の湯の権威を打ち破り,自由で新しい試みを創造するものであったから,利休の弟子の山上宗二によれば,利休の茶は山を谷,西を東といいなすような茶で,名人なればこそ許される特異な茶であったという(《山上宗二記》)。いわば,世間の常識を破る利休の茶は,秀吉によって下剋上の時代が終結されると同時にその存在が許されなくなる性格であり,したがって文化史的に利休の死をみれば,戦国時代文化から近世文化への転換を象徴するものともいえよう。
→茶道(ちゃどう)
[熊倉 功夫]

[索引語]
千宗易 抛筌斎 豊臣秀吉 北野大茶湯 千家 侘茶 待庵
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1. 千利休(せんのりきゅう)
日本大百科全書
安土(あづち)桃山時代の茶人。本姓は田中。千は通称、ただし子孫はこれを本姓とした。初名与四郎。宗易(そうえき)、利休と号す。与兵衛の子として堺(さかい)(大阪府 ... ...
2. 千利休
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1522-91(大永2-天正19) 桃山時代の町衆茶人,茶道の大成者。通称与四郎。法諱宗易。抛筌斎と号し,利休は居士号。堺今市に魚問屋を営む千与兵衛の子として生 ... ...
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デジタル大辞泉
[1522〜1591]安土桃山時代の茶人。堺の人。名は与四郎。宗易(そうえき)と号す。侘茶(わびちゃ)の大成者で、千家流の開祖。茶の湯を武野紹鴎(たけのじょうお ... ...
4. せん‐の‐りきゅう【千利休】
日本国語大辞典
安土桃山時代の茶人。千家流茶道の祖。幼名与四郎。法諱は宗易。号は抛筌斎。堺の人。能阿彌派と珠光派の茶法を究め、千家流をおこす。織田信長、豊臣秀吉に仕えたが、のち ... ...
5. せんのりきゅう【千利休】 画像
国史大辞典
』、芳賀幸四郎『千利休』(『人物叢書』一〇五)、杉本捷雄『千利休とその周辺』、熊倉功夫『千利休』(『日本を創った人びと』一五)、芳賀幸四郎『わび茶の研究』、村井 ... ...
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日本人名大辞典
1522−1591 戦国-織豊時代の茶人。大永(たいえい)2年生まれ。堺(さかい)の商人。茶を武野紹鴎(たけの-じょうおう)にまなび,織田信長,豊臣秀吉の茶頭( ... ...
7. せんのりきゅう【千利休】
日本架空伝承人名事典
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9. 千利休(せんりきゅう)
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遊戲部 洋巻 第1巻 603ページ ... ...
10. 千利休 本覺坊遺文
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1989年公開の日本映画。英題《The Death of a Tea Master》。監督:能井啓、原作:井上靖、脚本:依田義賢。出演:奥田瑛二、三船敏郎、萬屋 ... ...
11. Sen no Rikyū 【千利休】
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1522−1591 Tea master of the Azuchi-Momoyama period (1568−1600); founder of the S ... ...
12. 千利休(せんりきゅう)
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13. 千利休門弟 (見出し語:千利休)
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遊戲部 洋巻 第1巻 596ページ ... ...
14. 千利休花押[図版] 画像
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15. 千利休・謎の殺人事件
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山村美紗の長編ミステリー。1990年刊行。アメリカ副大統領令嬢・キャサリンシリーズ。 2012年12月 ... ...
16. 千利休木像 (見出し語:木像)
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17. あい‐ばしら[あひ:]【間柱】
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18. 秋野文琳[イミダス編 文化・スポーツ]
イミダス 2015
中国伝来の唐物(からもの)茶入で、中国南部の窯(かま)で作られ、13~14世紀ころ、日本に渡来したとみられる。千利休の弟子、日野輝資(1555~1623年)、幕 ... ...
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日本国語大辞典
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20. 安土桃山時代
日本大百科全書
今井宗久(そうきゅう)、博多(はかた)町人の神谷宗湛(かみやそうたん)ら多くの茶人を輩出した。ことに堺の千利休(せんのりきゅう)は従来の趣味的な茶の湯を生活芸術 ... ...
21. 安土桃山時代
世界大百科事典
茶会は社交の域を超えて政治的折衝の場となり,茶の作法は大名たちの必須の教養となった。堺の町人で秀吉側近の千利休によってわび数寄の茶が大成し,今井宗久,島井宗室, ... ...
22. 安土桃山時代(年表)
日本大百科全書
京都所司代となる1590(天正18)6月遣欧少年使節帰国、印刷機伝わる1591(天正19)2月千利休自殺(71)。3月禁中修理完成1592(文禄1)7月秀吉生母 ... ...
23. 安土桃山時代美術 画像
世界大百科事典
侘茶(わびちや)の美術が深化をとげたのも桃山前期美術の特色である。その推進の役を果たしたのが千利休であった。利休の設計になる妙喜庵の茶室待庵は,利休好みの楽茶碗 ... ...
24. あと‐がま【後窯】
日本国語大辞典
模様を焼き付けすること。釉上彩色着画のこと。(2)茶人の間でいわれていた茶入れの窯分けの名。千利休、古田織部、小堀遠州にわたる時代に、瀬戸または京都で作られた瀬 ... ...
25. あまのや-そうや【天野屋宗也】
日本人名大辞典
?−? 織豊時代の茶人。千利休(1522-91)の門下で,大坂にすむ。 ... ...
26. あみだ‐どう【阿弥陀堂】 画像
デジタル大辞泉
阿弥陀仏を本尊として安置する堂。 2 利休好みの茶の湯釜の一。豊臣秀吉の供で有馬温泉へ出かけた千利休が、阿弥陀堂で大きな湯釜を見つけ、それをかたどり作らせたとい ... ...
27. 荒木村重
世界大百科事典
78年信長にそむき,翌年敗れて尾道に逃れ,剃髪して道薫と号した。82年信長死後は豊臣秀吉に近侍した。茶を千利休に学び茶人としても著名で,後世七哲の一人に加える書 ... ...
28. あらきむらしげ【荒木村重】
国史大辞典
に亡命した。その後剃髪し、道薫と号して尾道にひそみ、信長の死後堺に居住した。村重はかねてから千利休に茶湯を学び、茶湯の道で秀吉に仕え、数寄の道を愉しんで、天正十 ... ...
29. ありまおんせん【有馬温泉】
国史大辞典
秀吉はしばしば有馬温泉を訪れたが、天正十八年小田原征伐から凱旋して有馬に湯治したときは、阿弥陀堂で千利休や津田宗及を招いて茶の湯を催した。江戸時代に入って有馬温 ... ...
30. ありまおんせん【有馬温泉】兵庫県:神戸市/北区/湯山町
日本歴史地名大系
浅野文書など)。秀吉は同年八月の入湯(「宇野主水日記」同月一九日条)以来、妻・側室をはじめ、千利休・津田宗及・今井宗久らの茶頭を伴ってたびたび有馬に入湯し、徳川 ... ...
31. あわたぐちぜんぽう【粟田口善法】
国史大辞典
行きかう人々に一碗の茶をすすめ、老後の楽しみとしていた。のちに豊臣秀吉が、それを聞き伝え、これを慕って、千利休に命じ、その手取釜のありかを探させたが、わからず、 ... ...
32. あんこくじ【安国寺】熊本県:熊本市/熊本城下/高麗門外
日本歴史地名大系
太鼓形水盤は加藤清正が朝鮮から持帰ったものと伝えるが、かの地の産とは思われない。嘉永三年(一八五〇)に千利休を追慕して城下の茶人たちが建てた利休居士塔がある。細 ... ...
33. いえはら-じぜん【家原自全】
日本人名大辞典
煕(このえ-いえひろ)の「槐記(かいき)」では,蒔絵の目利(めきき)として並びなき者とする。千利休作「園城寺(おんじょうじ)花入れ」を所持した茶人家原自仙と同一 ... ...
34. 家元
世界大百科事典
名を家元が与えることがある。本来は禅寺より在家修行者に許された法諱に由来するものであろうが,千利休が宗易と称したので,その1字をもらって茶名としているのである。 ... ...
35. いけばな 画像
世界大百科事典
定めず自由なかたちにいれるものとされていた〈なげいれはな〉は,安土桃山期に茶の湯のいけばな,茶花として千利休によって確かな地位が与えられた。元禄期の町人たちのあ ... ...
36. いけばな
国史大辞典
それにふさわしく立花は豪華をきわめた。それと対照的に、茶湯の流行とともに簡素な「茶花」があらわれた。千利休は「花ハ野にあるように」といって一種類か、二種類の草花 ... ...
37. いしがきやまじょうあと【石垣山城跡】神奈川県:小田原市/早川村 地図
日本歴史地名大系
昼夜兼行で京都聚楽第や大坂城に劣らぬ築城を命じている(同月四日「豊臣秀吉朱印状案」県史三)。秀吉に随軍した千利休は六月二〇日の古田織部宛書状(東京国立博物館蔵) ... ...
38. いしばし-りょうしつ【石橋良叱】
日本人名大辞典
?−? 織豊時代の茶人。堺(さかい)の人。千利休の門人で,利休の娘婿となる。「津田宗及茶湯日記」によれば,天正(てんしょう)10年(1582)山上宗二と宗及を茶 ... ...
39. いずみさのし【泉佐野市】大阪府 地図
日本歴史地名大系
わらず経済の発展は著しく、まず佐野には中世末には魚・塩など海産物を扱う問屋が発達し、堺の茶匠千利休がその佐野問屋に対する支配権をもっていた。浦の発展は近世も同様 ... ...
40. いた‐ふろ【板風炉】
日本国語大辞典
上面の中央に丸い穴をあけ、五徳がなくても釜をかけることができるようにしてあるもの。豊臣秀吉の小田原征伐の時、千利休が小田原陣中で創案したと伝えられるところから、 ... ...
41. いたべおかこうせつ【板部岡江雪】
国史大辞典
正十七年二月、北条氏の使者として上洛の折、当時秀吉に追われて北条氏に身を寄せていた山上宗二(千利休の高弟、もと秀吉の茶頭)に懇望して口伝秘事を授けられている。『 ... ...
42. いたみや-じょうむ【伊丹屋紹無】
日本人名大辞典
?−? 織豊時代の茶人。堺(さかい)の人。千利休(1552-91)にまなぶ。富裕な商人で,「尺八」の銘がある利休作の花入れなどおおくの名器を所蔵した。号は心甫庵 ... ...
43. いちご‐いちえ[:イチヱ]【一期一会】
日本国語大辞典
〔名〕(安土桃山時代の茶人で、千利休の弟子であった宗二の著「山上宗二記‐茶湯者覚悟十体」にある「一期に一度の会」から)一生に一度会うこと。また、一生に一度限りで ... ...
44. いちご‐いちえ【一期一会】
仏教語大辞典
千利休の弟子であった宗二の著『山上宗二記‐茶湯者覚悟十体』にある「一期に一度の会」から 一生に一度会うこと。また、一生に一度限りであること。 茶湯一会集 「抑 ... ...
45. いちじょうもどりばし【一条戻橋】京都市:上京区/聚楽学区/堀川下之町 地図
日本歴史地名大系
しいことを記す。またこの橋の近辺は罪人をさらす所でもあった。天正一九年(一五九一)豊臣秀吉が千利休の木像を磔とし、その首をさらしたのも一条戻橋である。江戸時代に ... ...
46. いとや-そうゆう【糸屋宗有】
日本人名大辞典
?−? 織豊時代の茶人。和泉(いずみ)(大坂府)堺(さかい)の町人で千利休(1522-91)の門人。糸屋裂(ぎれ)という名物裂を所持していたという。 ... ...
47. 今井宗久
日本大百科全書
歓待されている。これ以後、武器、火薬の調達、生野(いくの)銀山の開発など、政商として活躍する一方、宗及や千利休(せんのりきゅう)らとともに信長の茶頭(さどう)と ... ...
48. 今井宗久
世界大百科事典
権を与えられ,堺町人の随一として信長の政権に関与した。そのうえ信長の茶頭ともなって津田宗及,千利休の参仕をもはからっている。また秀吉の時代になっても同様の力をも ... ...
49. いまい‐そうきゅう【今井宗久】
デジタル大辞泉
に茶を学ぶ。織田信長に近づいて堺対策に協力し、多くの利権を握る。のち、豊臣秀吉の茶頭となり、千利休・津田宗及とともに三大宗匠と称された。「今井宗久茶湯日記抜書」 ... ...
50. いまい‐そうきゅう【今井宗久】
日本国語大辞典
宗久と号す。武野紹鴎に茶を学び、その女婿となる。一五代将軍足利義昭、織田信長、豊臣秀吉に仕え、千利休、津田宗及とともに三宗匠と称された。永正一七〜文祿二年(一五 ... ...
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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明石掃部(明石全登/あかしてるずみ)(日本人名大辞典・世界大百科事典・国史大辞典)
織豊-江戸時代前期の武将。宇喜多秀家につかえ,関ケ原の戦いで西軍に属して敗れ筑前(福岡県)秋月にすんだ。大坂の陣では豊臣秀頼の招きに応じ,真田幸村らと活躍したが,慶長20年(1615)大坂落城の際に死んだとも,逃亡して元和4年に病死したともいう。
長宗我部盛親(国史大辞典)
一五七五-一六一五。安土桃山時代の武将。土佐国の大名。幼名千熊丸、右衛門太郎(増田右衛門尉長盛を烏帽子親として右衛門、盛親を名乗る)、土佐守。天正三年(一五七五)岡豊(おこう)城(高知県南国市)に生まる。長宗我部元親の四男、母は斎藤氏。
毛利勝永(日本人名大辞典)
織豊-江戸時代前期の武将。毛利勝信の子。関ケ原の戦いで西軍に属し,敗れて父とともに土佐高知藩主山内一豊(かずとよ)にあずけられる。慶長19年子の勝家と脱走して大坂城にはいり
後藤基次(後藤又兵衛)(改訂新版・世界大百科事典)
織豊政権期の武将。通称又兵衛。氏房,政次ともいう。播磨三木城主別所氏に仕えた新左衛門の子。豊前黒田氏に養われ,孝高・長政父子に仕えた。長政に従って豊臣秀吉の九州征伐,文禄・慶長の役に従軍,関ヶ原の戦にも戦功をあげる。
豊臣秀頼(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五九三-一六一五。豊臣秀吉の第二子。文禄二年(一五九三)八月三日大坂城内に生まれた。母は側室浅井氏(茶々、淀殿)。秀吉は実子に恵まれず、浅井氏との間に鶴松を得たが三歳にして死別した。このため秀頼誕生の喜びは大きく、みずから肥前名護屋の陣中より正室北政所に書状を送り
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