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豊臣秀吉

ジャパンナレッジで閲覧できる『豊臣秀吉』の日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)
豊臣秀吉
とよとみひでよし
[1537―1598]

安土(あづち)桃山時代の武将。小者から身をおこし、織田信長の後を継いで天下を統一し、近世封建社会の基礎を確立した。尾張(おわり)中村(名古屋市中村区)の百姓弥右衛門(やえもん)の子。母は尾張御器所(ごきそ)村(名古屋市昭和区)の生まれで、名はなか(後の大政所(おおまんどころ))。秀吉の生年については2説あり、土屋知貞(ともさだ)の『太閤素生記(たいこうすじょうき)』などには天文(てんぶん)5年申歳(さるどし)(1536)の正月元日生まれとし、秀吉が右筆(ゆうひつ)の大村由己(ゆうこ)に命じて書かせた『関白任官記』などには天文6年酉(とり)歳の2月6日とし、判然としないが、申歳生まれ説は、幼名の日吉丸(ひよしまる)説、日吉大権現(だいごんげん)の申し子説やその容貌(ようぼう)とも深く結び付いて生じたもののようで、今日では後者が有力視されている。なお、その容貌からであろう、幼時にはあだ名を小猿(こざる)、長じてからは猿とか、はげ鼠(ねずみ)と称された。
[橋本政宣]

▲出世一途

秀吉7歳のとき、父弥右衛門が病死し、母なかは織田信秀の茶同朋(ちゃどうぼう)筑阿弥(ちくあみ)に再嫁したので、秀吉も養父のもとで一時期を過ごしたが、やがて武家奉公を志して家を出て、遠江(とおとうみ)久能(くのう)の城主松平元綱に仕え、ついで1554年(天文23)18歳のとき、尾張清洲(きよす)の城主であった織田信長に小者として仕えた。その忠勤ぶりは、信長の草履(ぞうり)を懐中で温めていたというエピソードに象徴されるように抜群のものがあった。1561年(永禄4)、弓の衆浅野長勝の養女おね(杉原定利の女(むすめ)、後の北政所(きたのまんどころ))を娶(めと)り、このころから木下藤吉郎(とうきちろう)秀吉を名のり、その機敏な行動と才覚によっていよいよ頭角を現し、1566年には濃尾(のうび)国境に位置する墨俣(すのまた)(岐阜県大垣(おおがき)市)に築城し、美濃(みの)攻略の拠点を確保した功により部将に取り立てられ、1568年信長が足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛(じょうらく)すると、京都の奉行(ぶぎょう)の一人として活動した。1570年(元亀1)から始まる越前(えちぜん)朝倉氏、近江(おうみ)浅井氏との戦いでは、姉川の戦い、小谷(おだに)城の攻略などで戦功をたて、1573年(天正1)、浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となり、この年7月には、木下を改め羽柴(はしば)藤吉郎秀吉と名のる。
これより領主として北近江支配にあたり、今浜に居城を築き長浜と改めるとともに、信長の部将として各地に転戦し、1575年の越前一向一揆(いっこういっき)攻めには大いに活躍し、この年12月には筑前守(ちくぜんのかみ)に任じられた。やがて織田政権の本願寺との対決が重要課題となって中国経略が緊急性を帯びてくると、秀吉はその総大将に抜擢(ばってき)され、1577年播磨(はりま)に出陣して姫路城に本拠を置き、これより約5年の歳月を要して播磨・備前(びぜん)・美作(みまさか)・但馬(たじま)・因幡(いなば)の経略を行う。1582年備中(びっちゅう)に出兵し、清水宗治(しみずむねはる)の拠(よ)る高松城に迫って水攻めにし、毛利勢と対決すべく、信長の出馬を待ったが、信長はその西下の途中、明智光秀(あけちみつひで)のために本能寺の変で横死した。秀吉は変報に接するや、急遽(きゅうきょ)毛利氏と講和することに成功し、宗治の切腹を見届け、すさまじい強行軍で姫路城に帰着し、軍勢を整えて亡君の弔(とむらい)合戦に挑み、光秀を山崎の戦いで破った。本能寺の変後わずか11日目のことである。
[橋本政宣]

▲天下統一

信長死後の事態の収拾策を織田家の重臣が協議した清洲会議において、秀吉は丹羽長秀(にわながひで)・池田恒興(つねおき)などを味方につけ宿老柴田(しばた)勝家の主張を抑え、実質的な信長後継者としての道を踏み出す。1583年、秀吉打倒を策する信長の三男信孝(のぶたか)、滝川一益(かずます)に対し、その機先を制して美濃・伊勢(いせ)に出兵して攻め、ついでこれに呼応して越前より近江に出兵してきた勝家を賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで破り、越前に攻め入って北庄(きたのしょう)城(福井市)の柴田氏を滅ぼし、さらに加賀・越中(えっちゅう)を平定し、ついで信長の次男信雄(のぶかつ)に働きかけて信孝を自殺させるとともに、一益を降(くだ)して尾張・伊勢を支配下に入れる。中国の雄毛利氏もまた好(よしみ)を通じてくる。このように信長の後を受けて全国覇者となる確固たる道を歩むなかで、それにふさわしい城として、商品流通・水陸交通の要地でもある大坂に築城の工を起こした。翌1584年、信雄・徳川家康の連合軍と争った小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いでは、軍事的には手痛い打撃を受けたものの、政治的手段を弄(ろう)して信雄を懐柔し、有利な条件で和議を結び、1585年、信雄・家康に呼応して蜂起(ほうき)した紀伊根来(ねごろ)・雑賀(さいか)の一揆を討伐し、ついで四国征伐を行って長宗我部(ちょうそがべ)氏を降した。そして家康に対しては、実妹(旭(あさひ)姫)を嫁がせるなどの種々の方策をとって上洛を促し、1586年、家康を臣従させた。この間、1584年11月、従三位(じゅさんみ)・権大納言(ごんだいなごん)となり、1585年3月、正二位・内大臣となり、同年7月、摂家間で関白職をめぐって争っていたのに乗じ、近衛龍山(このえりゅうざん)の猶子(ゆうし)として関白・従一位となり、古代的な権威を借りて身分制社会の頂点にたち、1586年12月には太政(だいじょう)大臣となり、豊臣の姓を賜った。関白となった秀吉は、1588年、関白政権の政庁として京都内野に新築なった聚楽第(じゅらくだい)に後陽成(ごようぜい)天皇の行幸を仰ぎ、徳川家康をはじめとする列席の諸大名に天皇への忠誠とともに秀吉への忠誠を誓わせ、朝廷の伝統的権威を背景にして天下に号令することを示した。国内平定においても、まず勅諚(ちょくじょう)をかざして停戦や講和を命じ、これに応じないときには勅命に背くとして征伐した。1587年には九州征伐を行って島津氏を降し、九州の国割りを行うとともに、博多(はかた)・長崎を直轄化し、キリシタン禁令を発し、貿易の独占を図った。1590年、小田原征伐を行って北条氏を滅ぼし、さらに奥州を平定して、ここに天下統一を成し遂げた。
この統一事業に並行して、秀吉は連年のごとく検地を実施してきたが、文禄(ぶんろく)年間(1592~1596)にもっとも盛んに行い全国的に及ぼした。天正(てんしょう)の石直(こくなお)しとも、太閤検地ともいい、中世の複雑に重層した土地関係を整理し、一地一作人制を確立し石高(こくだか)制を実施し、兵農分離を促進した。太閤検地と並ぶ秀吉の重要施策に刀狩(かたながり)がある。農民から武器を没収することは、1576年(天正4)に柴田勝家が加賀国で行った例があるが、秀吉はまず1585年になお根強い力をもっていた寺院の武装を解除するため、高野山(こうやさん)、多武峰(とうのみね)などの刀狩を行い、ついで西日本を平定した時機をねらって、1588年には全国的に刀狩令を出した。諸国の百姓が刀・脇差(わきざし)・弓・鑓(やり)・鉄炮(てっぽう)その他の武器をもつことを禁じ、これを没収することを命じたこの法令は、農村の武器廃絶令ではなく百姓の武具所持禁令というべきもので、身分制的な規制であって、兵農分離の促進を意図したものであった。なお、この刀狩と同時に、海賊禁止令を出している。ついで小田原征伐の翌年、3か条の定書(さだめがき)を出し、侍身分の者が町人や百姓になること、百姓が町人や職人になることを禁じ、武士・百姓・町人・職人の身分の固定化を図った。江戸時代の士農工商の身分秩序は実にこの定書に濫觴(らんしょう)している。
[橋本政宣]

▲夢のまた夢

天下統一を成し遂げた翌1591年(天正19)、側室淀殿(よどどの)との間にもうけた愛児鶴丸(つるまる)を喪(うしな)った秀吉は、血縁による政権の維持を図るため、関白職を甥(おい)の秀次(ひでつぐ)に譲り、自らは太閤と称し、豊臣政権の総力をあげて国内統一の延長線上に朝鮮出兵を敢行していく。当時「唐(から)入り」と称されたごとく、まず朝鮮を従え明(みん)国を服属させるという「仮道入明(かどうにゅうみん)」を目的としたものであるが、秀吉がこの計画を明らかにしたのは、関白任官の直後にあたる1585年9月であった。その動機については諸説があり、中国・朝鮮との貿易回復をねらったもの、「佳名を三国にのこす」考えから出たもの、などといわれているが、唐入りは国内統一の過程のなかで標榜(ひょうぼう)され、戦争意欲をあおり領主層の領土拡張の欲望を大陸に向け放出させることに大きな意味をもたされてきた以上、天下統一が唐入りに連ならざるをえなかった。
出兵にあたり秀吉は、これを支える物質的基盤を調査するため、1591年全国に御前帳を作成して提出することを命じて、国ごとの石高の把握をなし、1592年(文禄1)、関白秀次により人掃(ひとばらい)令が出され、全国の家数・人数の調査が行われた。そして秀吉は全国の諸大名に朝鮮出兵の軍令を下して征明軍16万人を編成し、自らも肥前名護屋(なごや)の本陣に赴いて、総指揮にあたった。小西行長・加藤清正を先鋒(せんぽう)とする大軍は釜山(ふざん)に上陸し、わずか20日のうちに朝鮮の首都を陥落させ、この緒戦の勝利に気をよくした秀吉は、日本、中国、朝鮮にまたがる三国国割り計画を打ち出し、秀吉自身は、まず北京(ペキン)に入り、ついで寧波(ニンポー)に居所を定め、進んで天竺(てんじく)(インド)を征服するという遠大な構想をも吐露している。これはまさに大局的判断を欠いた空想にすぎないものであったが、これをまじめに考えていたところに秀吉の悲劇があった。やがて明の大軍の到着、朝鮮兵の立ち直り、義兵民の蜂起(ほうき)などによって、戦局は進展せず、明との和議交渉に入ったが、互いの思惑は相いれるはずもなく、やがて決裂し、1596年(慶長1)ふたたび朝鮮出兵となるが、戦意も盛り上がらず、秀吉の病死によって撤兵命令が出されるまで、延々と戦争が続けられた。これを文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役というが、これは豊臣政権にとって大きな痛手となり命取りとなった。
しかも、政権内部においても、太閤と関白秀次との間に統治権的なあり方からの矛盾が顕在化し、これは淀殿所生の秀頼(ひでより)の継嗣(けいし)問題とも絡んで、秀次事件へと発展し、秀次を切腹させることで秀頼の将来の安泰を図ったが、諸大名に豊臣家の行く末と政権の維持を依頼しなければならない状況を招いた。五奉行・五大老の制が整備されるのは秀吉晩年に至ってのことで、1598年の春に盛大に醍醐(だいご)の花見を行ったのが最後の豪遊となり、死期の迫るのを悟った秀吉は、8月5日五大老に幼い秀頼の将来のことをせつせつと訴えた遺言状を認(したた)め、同18日に波瀾(はらん)に富んだ62歳の生涯を閉じた。「つゆとをちつゆときへにしわがみかな 難波(なにわ)の事もゆめの又ゆめ」が辞世の和歌であった。
[橋本政宣]

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国史大辞典
豊臣秀吉
とよとみひでよし
一五三七 - 九八
安土桃山時代の武将。天文六年(一五三七)生まれる。『太閤素生記』によれば尾張国愛知郡中村(名古屋市)の木下弥右衛門の子という。弥右衛門は織田信秀の足軽であったが負傷して村に帰り百姓となった。秀吉の母なか(大政所、天瑞院)は弥右衛門との間に、姉とも(瑞竜院日秀)と秀吉を生み、弥右衛門死後おなじく織田家の同朋であった竹(筑)阿弥に嫁し、一男一女をあげた。すなわち、秀長と旭姫(南明院)である。秀吉の幼名は猿、日吉丸とも伝える。十六歳のとき父の遺したわずかな永楽銭を持って中村を出、清須で木綿針にかえ、針を商いつつ流浪するところを遠江久能の城主松下加兵衛(之綱)に拾われ家来となったが、同輩の妬みにあい出奔、やがて織田信長に仕えることとなった。信長のもとで草履取から次第に出世した次第は小瀬甫庵『太閤記』に詳しく、そこには清須城の割普請や美濃墨俣(すのまた)築城においてみせた迅速な成功、薪奉行としての算勘の巧みさなど、秀吉の手腕を示す挿話が描かれている。しかし、確実な古文書の上でかれが姿を現わすのは、永禄八年(一五六五)十一月信長が美濃の坪内利定らに与えた知行充行状にそえた添状で、木下藤吉郎秀吉の署名がある。そのころからしばらく信長の奉行衆として、丹羽長秀などとともに活動していた。木下の姓については、正室ねい(北政所、高台院)の兄家定が木下を名のっているところから、入聟によって妻の実家の姓を借りたとみる説がある。天正元年(一五七三)七月木下姓を改め、羽柴姓に替えた。丹羽長秀と柴田勝家にあやかったものと伝える。時期的には信長による足利義昭の追放、室町幕府の滅亡と一致していた。筑前守の受領名もこのころから名のったと思われる。信長入京以後秀吉は京都周辺の政務を奉行していたが、天正元年九月浅井氏滅亡後の江北に大名として封ぜられ、今浜(長浜)に築城した。天正五年十月信長の命をうけて中国平定に出陣、播磨・但馬の経略に従事、三木城主別所長治の反乱を鎮定し、備前の宇喜多直家と結び、八年因幡・美作に入り、九年十月吉川(きっかわ)経家の籠る鳥取城を陥落させ、伯耆に進出、転じて淡路を押え、十年三月備中に向かい、五月高松城に清水宗治を囲んだ。六月二日本能寺の変に信長が斃れると、その報を秘して高松城救援の毛利輝元と講和を結び、宗治を自殺させて反転、十三日山城山崎に明智光秀と戦いこれを破った。光秀は敗走の途中土民に討たれ、秀吉によって首を本能寺に梟(きょう)された。秀吉は柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興らと尾張清須に会議し、信長の長男信忠の子三法師(秀信)を織田氏の後継者と定め、分国を再編、江北を勝家に譲り、みずからは山崎に拠った。以後、信長死後の主導権をめぐる闘争となったが、秀吉は天正十一年四月柴田勝家を近江賤ヶ岳に破り、勝家を本城越前北荘(福井)に攻めて自殺させ、勝家と結んだ信長の三男信孝も自殺、滝川一益らは降伏して、覇権の基礎を固めた。五月池田恒興を美濃に移し、秀吉は摂津大坂城に入り、八月畿内・近国の検地と知行割を実施、大坂城の大規模な築造に着手、ここを本城とした。この時期、秀吉は三法師を擁し、信長の五男御次丸(秀勝)を養子にした地位を活用し、信長の葬儀や一周忌の法要を行い、平秀吉を名のるなど、信長の正統の後継者であることを前面に押し出していた。のちまで用いることになった朱印も使用し始めている。天正十二年信長の次男信雄は徳川家康と結び、秀吉と対立した。秀吉は犬山城に入り小牧山に陣した家康に対したが、四月配下の甥秀次・池田恒興・森長可らは家康の本拠三河を衝こうとして尾張長久手の戦に家康に敗れ、恒興・長可以下が戦死した。十一月秀吉は信雄と講和、ついで家康もこれに従った。小牧・長久手の戦は、東国を平定して征夷大将軍の職につこうとした秀吉の権力構想(信長の継承)に転換を余儀なくさせた。十一月かれは従三位権大納言に昇任、公卿への道をふみだす。従来、秀吉は天正十年十月従五位下左近衛権少将、十一年五月従四位下参議に叙任したとされているが、ともに十二年十月以降遡及して叙任されたもので、文書はあるがその時点の事実ではない。天正十三年三月正二位内大臣、七月従一位関白となった。関白は古来摂家の者に限られた職であったが、秀吉は近衛前久の養子となり、藤原秀吉としてこの職についた。このころ弟秀長を将として四国を平定、ついで北国に進み越中・越後・飛騨から信濃に勢力を伸ばした。十四年五月妹旭姫を家康に嫁させ、十月母大政所を岡崎に質として送り、家康をして入京、臣従の礼をとらせることに成功、十一月信長以来の課題であった正親町天皇の譲位を実現、陽光院(誠仁親王)第一王子で十六歳の和仁(周仁)親王を後陽成天皇として即位させた。秀吉は太政大臣となり(十二月)、藤原氏を改め、豊臣姓を名のり、近衛前久の女前子を養子とし、新天皇の女御として入内せしめ、外戚の地位についた。このころ大村由己に書かせた『任官之事』には、秀吉の祖父を萩中納言という架空の公家とし、皇胤を匂わせる創作がなされている。天正十五年五月島津義久を降伏させて九州を平定、六月キリシタンの統制にかかわる二つの法令を発し、大名の自由な入信と大名による領民へのキリスト教入信の強制とを禁じ、人身売買を禁止するとともに、日本を「きりしたん国」に対置される「神国」と認識し、宣教師の追放を命じた。明の衰退とヨーロッパ勢力の進出という東アジアの新しい情勢のもとで、近世的な国家意識を表明したものといえる。天正十六年四月、秀吉は京都内野に新築した聚楽第に天皇を迎え、二十九名の大名から起請文をとって政権の基盤を固めた。信長によって追放された足利義昭もこれを機に帰京、剃髪して秀吉の知行を受け、室町将軍家は消滅した。七月秀吉は刀狩令と海賊取締令を発し、百姓の武装解除と耕作専念義務を定め、海民の掌握につとめた。関白政権による天下統合はこれ以後加速度を増したが、その手段は、大名ごとの領域支配を支援・確立して一揆を制圧し、領域内外の紛争は関白の裁定によって停止、裁定違犯者は関白によって編成された軍勢によって制裁するというかたちをとった。北条氏政・氏直父子の討伐はその典型例である。天正十五年暮関東・奥羽に発せられた惣無事令は両地域における武力紛争の全面的停止を命じたものであるが、北条氏は真田氏との係争地である上野沼田領に関する秀吉の裁定を侵犯し、公儀の名による「誅伐」を受けることになった。天正十八年秀吉は諸大名を動員して小田原城を攻め、七月北条氏を滅ぼし、八月会津城に入り、関東・奥羽の大名領知を確定、同時に徳川家康の江戸転封に代表される大規模な大名の移封・除封を実施し、天下統合を終えた。十九年八月、家臣団下層を構成する奉公人・侍・中間・小者らが町人・百姓となること、百姓が商売・賃仕事に出ることを禁じ、身分の社会的流動化に歯止めをかけ、その統制を強めた。同年暮関白の職を甥秀次に譲り、みずからは太閤として実権を握り、翌文禄元年(一五九二)諸大名に命じて朝鮮出兵を実行した(文禄の役)。秀吉の大陸侵略構想は関白就任直後からあり、国内における惣無事令と表裏をなしていた。九州平定後朝鮮の入貢と明への案内を朝鮮国王に求め、それに応じなかったことを理由に出兵したもので、秀吉は肥前名護屋に城を築いて本営とした。日本軍は緒戦で朝鮮二王子を捕え明の国境まで進出したが、義軍の蜂起と明軍の介入により戦線は膠着状態となり、文禄二年六月いったん講和となった。同三年八月側室淀殿との間に次男(秀頼)が生まれた。秀吉は正室との間に実子に恵まれず、秀勝死後も秀秋(三好のち小早川)・秀家(宇喜多)・智仁(六宮のち八条宮)を養嗣子とし、天正十七年淀殿が長男鶴松を生んだときは欣喜したが、十九年の鶴松夭折に落胆、秀次を豊臣家の継嗣とした。秀頼誕生を機に秀吉は隠居城であった山城伏見城を諸大名に命じ大拡張し、天下統合の中枢とし、城下に町屋敷を建設せしめた。こうした動きは国制の頂点にある秀次との間の矛盾を表面化させ、ついに文禄四年七月秀次は謀叛の罪により自殺、諸大名は秀頼への忠誠を誓約させられるに至った。八月大名・寺社以下の統制を主眼とした天下支配の掟および掟追加が徳川家康・毛利輝元ら有力大名の連署によって発せられた。大名相互の自主的な盟約を停止したことに象徴されるように、戦国時代が法制的に終幕を告げたものといえる。有力大名と直臣の奉行によって構成される権力機構はこの時点で成立し、慶長三年(一五九八)七月の五大老・五奉行の職制として整備された。慶長元年九月来日した明使楊方亨を大坂城に引見した秀吉は意に反した表文にその無礼を怒り、使節を追い返すとともに再度の朝鮮出兵を命じた(慶長の役)。このたびは秀吉は伏見城に居り、諸軍も朝鮮南半部の沿岸地帯確保に努めるうち、三年八月十八日秀吉が死去(六十二歳)、やがて全軍撤退となった。秀吉の辞世は「つゆとをちつゆときへにしわかみかななにわの事もゆめの又ゆめ」であった。四年四月洛東阿弥陀ヶ峰西麓(京都市東山区)に営まれた廟所に埋葬され、朝廷は豊国大明神の神号を贈り、豊国社が設立された。秀吉は信長の政策を継承し、中世社会に形成されつつあった町と村を社会制度の基礎単位として公認し、特に天正十二年以降の検地において三百歩=一段制と京枡使用という統一基準による土地丈量により石高制を創出、町村ごとに町人・百姓の土地保有を認定した。それは職能による身分編成への動きとともに近世社会の骨格をつくりだしたものであった。秀吉は百姓の境遇から身を起し、社会の頂点に立ち、大名領主権力による近世国家の創始者となった。新井白石もいうように「かかる事、我朝にしては希なる」ことであり、死後江戸時代前期にかけて多くの伝記が作成された。小瀬甫庵『太閤記』・竹中重門『豊鑑』・林羅山『豊臣秀吉譜』などが代表的で、甫庵のように儒教的立場から論評を加えたものがある。その後江戸幕府のもと豊臣時代の史実究明が禁圧されるなかで、江戸時代中期以降身分制社会の流動化に伴い、武内確斎『絵本太閤記』・栗原柳庵『真書太閤記』などの大衆的文芸作品が民衆の身分上昇への憧憬と結びついて愛好され、広汎な読者を得た。今日でも秀吉の生涯は勤勉・工夫・奇略などを含む日本人の好む出世物語の典型とされている。→織豊政権(しょくほうせいけん)
[参考文献]
三鬼清一郎編『織田・豊臣政権研究文献目録(一九八三年十二月現在)』、『大日本史料』一〇編・一一編、大村由己『天正記』、『太閤素生記』(『(改定)史籍集覧』一三)、小瀬甫庵『太閤記』(『岩波文庫』)、太田牛一『大かうさまくんきのうち』、桑田忠親『豊臣秀吉研究』、同『豊太閤伝記物語の研究』、渡辺世祐『豊太閤の私的生活』、安良城盛昭『幕藩体制社会の成立と構造』、藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』、田中義成『豊臣時代史』、朝尾直弘『天下一統』(『大系日本の歴史』八)、同「豊臣政権論」(『(岩波講座)日本歴史』九所収)、宮地直一「豊太閤と豊国大明神」(『神祇と国史』所収)、染谷光広「木下秀吉の文書についての補説」(『日本歴史』三〇〇)
(朝尾 直弘)


世界大百科事典
豊臣秀吉
とよとみひでよし
1536-98(天文5-慶長3)

安土桃山時代の武将。天文6年出生説もある。織田信秀に仕えた足軽木下弥右衛門を父として尾張中村に生まれた。はじめ木下藤吉郎を名のる。

天下統一まで

秀吉は遠江の松下之綱(ゆきつな)に仕えたのち織田信長の家臣となり,戦功と才覚によって頭角をあらわした。1573年浅井氏の滅亡後に近江を与えられ,長浜に居城して領域的支配をつよめた。このころ筑前守に任ぜられ羽柴姓を称し,奉行人としての地歩を固めた。77年の中国征伐には明智光秀とともに先鋒をつとめ,播磨三木城の別所長治を討ち,81年には吉川(きつかわ)経家が守備する因幡鳥取城を陥落させ,翌年備中高松城を包囲し毛利氏との決戦を目前にしていた。このおりに信長暗殺の報に接し,直ちに毛利氏と講和を結んで兵をかえし,山崎の戦で明智光秀を破った。その直後に清須会議で信忠(信長の長男)の遺児三法師(秀信)を織田家の跡目に据え,みずから後見人となった。この強引な措置に反対する宿老の柴田勝家と83年近江賤ヶ岳に戦い,越前北ノ庄で滅ぼした。また織田信孝(信長の三男)を尾張内海に自殺させ,主導権を握った。同年かつての石山本願寺跡に大坂城を築き,畿内先進地帯を権力的に掌握し,全国制覇にのり出した。翌年織田信雄(のぶかつ)(信長の次男)・徳川家康の連合軍と小牧・長久手に戦い,外交的手段で家康を臣従させた。85年関白に任官し,古代的な権威をかりて身分制社会の頂点に立ち,翌年太政大臣となり豊臣姓をうけた。みずから京都に造営した聚楽第(じゆらくだい)に88年後陽成天皇を迎えるなど朝廷に接近し,延暦寺や春日社の復興に力をかして仏法の庇護者を自認する態度をとった。他方では紀伊の根来(ねごろ),雑賀(さいか)一揆を鎮圧し僧侶の武器を没収し,公家・寺社の荘園を改めて所領の確認を行った。四国の長宗我部氏を下したのち,87年九州の島津氏を平定し,新たな国分(くにわけ)を行った。90年小田原の後北条氏を滅亡させ,さらに奥羽の諸大名も服属させ,全国統一を達成した。

統一権力としての性格

秀吉の全国統一は武力による征服であることはもちろんだが,綸旨(りんじ)による停戦命令など天皇の権威を十分に利用する点に特徴がみられる。また主要都市や鉱山を直轄下におき貨幣を鋳造し,諸国の座や関を整理するなど商工業の把握につとめた。方広寺大仏殿の造営のため職人を動員し,百姓から武具を取り上げる刀狩令の口実とするなど,新たな身分編成につとめている。九州征伐の直後にキリシタン宣教師の追放を指令し(伴天連(バテレン)追放令),布教の手段となっていた南蛮貿易を自己の統制下におき,武具など先進技術や生糸輸入の独占をはかった。山崎の戦の直後から始まった太閤検地は,征服地を拡大するにつれて全国に及び,石高制に基づいた年貢収取体制の確立により兵農分離を促進させた。91年の身分統制令によって武家奉公人がかってに百姓町人に戻ることは禁止され,身分の固定化をもたらした。

晩年の秀吉

検地の竿と鉄砲隊の威力によって進められてきた秀吉の全国支配は,天下統一によって新たに獲得すべき領地がなくなり,家臣へ恩賞として与えることが不可能となった。1592年(文禄1)かねてから服属を求めていた明国を討つため朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を令し,全国の大名を肥前名護屋(なごや)に集結させた。すでに関白職は甥の秀次に譲り,みずからは太閤として外征に専念し朝鮮へも渡るつもりでいた。緒戦の勝利に気をよくした秀吉は,後陽成天皇を北京に移し,その関白職に秀次をつけ,日本の帝位は若宮(皇子良仁親王)か八条宮(皇弟智仁(としひと)親王)に継がせ,その関白には羽柴秀保か宇喜多秀家をあてるといった,日本・中国・朝鮮にまたがる三国国割(くにわり)計画を呈示した。これは大局的判断を欠いた空想にすぎないものであるが,秀吉の描いた構想を如実に物語っており,やがてインドまでを含めたものに発展していく。しかしこの計画は朝鮮民衆の義兵組織によって砕かれ,明の援軍の到着によって補給路が絶たれた。明との和議交渉に際し,秀吉は朝鮮の南半分の割譲や勘合貿易復活,明の皇女を天皇の后とすることなどを要求した。この交渉は決裂し,97年(慶長2)再び朝鮮へ兵を送った。この間,秀吉に実子秀頼が誕生したことなどから秀次との関係が不和となり,95年秀次は高野山で切腹させられた。戦局の膠着化にともない大名間の対立は深刻化し,農民は兵粮米調達のため過重な負担を強いられるなど,国内は重苦しい雰囲気につつまれた。98年醍醐で華やかな花見が催されたが,秀吉は心身の衰えが激しくなり,8月に幼少の秀頼の前途を案じながら,五大老,五奉行に遺言を残して世を去った。

太閤伝説の成立

秀吉の出生はなぞにつつまれており,自己宣伝的要素と重なって忠実を無視した物語が作られた。すなわち,秀吉の母(大政所,天瑞院)は萩中納言という貴族の娘で,尾張に配流されていたが,許されて上洛して宮中に仕え,再び尾張に帰ってすぐに秀吉を生んだと,天皇の落胤であることを暗示するものである。これは大村由己(ゆうこ)の《関白任官記》にも記され,ひろく流布した。同じような趣旨は外交文書にも盛られ,1590年(天正18)の朝鮮,93年(文禄2)の高山国(台湾)へ送った国書では,自分が生まれるとき母は太陽が懐中に入る夢を見,その夜は日光が室中に輝いたと述べている。自己を神秘化し天皇との関係を強調する,まったく虚妄の物語が作られることは,一面では豊臣政権の性格を暗示するものといえよう。

秀吉の出自が無名の名主百姓層であることは,専制権力者という面を見失わせ,江戸時代においても庶民の間に〈豊太閤(ほうたいこう)出世物語〉として素朴な共感を抱かせるもととなったが,明治以後はそれが増幅して作り変えられ,英雄崇拝の観念と結びついていった。とくに戦前では〈大東亜共栄圏の先駆者〉として賞賛するような風潮もあったことを考える必要があろう。
[三鬼 清一郎]

[索引語]
木下弥右衛門 木下藤吉郎 中国征伐 方広寺(京都) 豊臣秀次 太閤伝説 大政所 天瑞院 豊太閤
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1. 木下藤吉郎・羽柴秀吉・豊臣秀吉
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3. 豊臣秀吉[百科マルチメディア]
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「豊臣秀吉画像 南化玄興賛」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分) ©東京大学史料編纂所 ... ...
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5. とよとみ‐ひでよし【豊臣秀吉】
デジタル大辞泉
[1536〜1598]安土桃山時代の武将。尾張の人。幼名、日吉丸。初名、木下藤吉郎。織田信長に仕え、戦功をたて、羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝 ... ...
6. とよとみ‐ひでよし【豊臣秀吉】
日本国語大辞典
安土桃山時代の武将。幼名日吉丸、初名木下藤吉郎。尾張国(愛知県)の人。初め松下之綱に仕えたが、のち織田信長のもとで戦功をたて、重用されて、苗字を羽柴に改める。中 ... ...
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8. とよとみ-ひでよし【豊臣秀吉】
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9. とよとみひでよし【豊臣秀吉】
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12. 豊臣秀吉印[図版] 画像
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13. 豊臣秀吉花押[百科マルチメディア]
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15. 豊臣秀吉の指物と馬印[百科マルチメディア]
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右から、幟(のぼり)、馬印(うまじるし)、母衣(ほろ)、番指物(ばんさしもの)、大馬印、番指物。『御馬印』 巻4 寛永年間(1624~1644) ... ...
16. Ro・dri・gues 音声
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17. San Fe・li・pe 音声
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日本歴史地名大系
「京内まいり」(宝永五年)などによれば今出川通以北、寺町通以東の地一帯は、文禄年中(一五九二―九六)豊臣秀吉の命で四条櫛笥(現中京区)から移建された日蓮宗立本寺 ... ...
19. 愛知[県] 画像
世界大百科事典
農業技術の発展に伴う農業生産力の飛躍的増大によるところが大きい。戦国時代に出現した織田信長,豊臣秀吉,徳川家康が天下統一を成し遂げるに至った要因としても,京に近 ... ...
20. あいちぐん【愛知郡】愛知県
日本歴史地名大系
が、最後は織田信秀の手に帰した(信長公記)。その子信長は天文三年(一五三四)この城内で、また豊臣秀吉も二年後に程近い中村に生れたといわれる。信長の後は、長子信忠 ... ...
21. あいづせいばつ【会津征伐】
国史大辞典
動員して香刺(こうざし)に新城を取り立て、家康の上洛の要請に応じなかったことにあった。しかし家康の真意は豊臣秀吉死後の政局を有利に展開し、かつ石田三成一党を挑発 ... ...
22. あいづにしかいどう【会津西街道】栃木県:総論
日本歴史地名大系
奥州と関東を結ぶこの谷筋は要衝であった。同一八年八月会津黒川(会津若松)で奥州仕置をすませた豊臣秀吉は、帰途はこの道を通っている。寛永二〇年(一六四三)会津藩主 ... ...
23. あいづはん【会津藩】
国史大辞典
まさに「奥羽の王者」にふさわしい強大な大名となった。政宗は黒川を拠点として関東進出の野望をもっていたが、豊臣秀吉の忌諱にふれ、わずか一年余で会津は没収され、蒲生 ... ...
24. あいづわかまつし【会津若松市】福島県
日本歴史地名大系
白鬚水とよぶ。〔近世〕天正一八年六月、伊達政宗は会津蘆名氏攻略の罪と小田原参戦の遅参をとがめられ、豊臣秀吉から会津一円と岩瀬・安積両郡を没収され、同年九月五日蒲 ... ...
25. あいのうらむら【相之浦村】長崎県:南松浦郡/奈留町
日本歴史地名大系
・古巣・下り松・相ノ浦が点在する。文禄元年(一五九二)肥前名護屋(現佐賀県鎮西町)に在陣中の豊臣秀吉は五島に猪瀬彦作(湯野瀬孫作)を派遣して材木を求めたが、相ノ ... ...
26. あいのまち【愛野町】長崎県:南高来郡
日本歴史地名大系
島津氏と連合して天正一二年(一五八四)龍造寺隆信を沖田畷(現島原市)で敗死させ、再び旧領を回復、豊臣秀吉による九州仕置を迎える。江戸時代には天保郷帳に記される野 ... ...
27. あいのまちどおり【間之町通】京都市:中京区
日本歴史地名大系
天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉の都市改造に際して開かれた通りで、現在の中・下京区を南北に貫通し、高倉通の西に位置する。姉小路通と高辻通間、松原通と万寿寺通間は中 ... ...
28. あいのまち‐どおり【間之町通り】 地図
デジタル大辞泉
京都市街地を南北に走る道路の呼び名。北の丸太町通りから南の七条通りに至る。全長約2キロ。豊臣秀吉によって新設されたといわれる。 ... ...
29. あいのやま【間山】三重県:伊勢市
日本歴史地名大系
隠宇治岡©」とある。豊臣秀吉は天正年中(一五七三―九二)この地の奉行でもあった田丸城主稲葉道通に命じて道を通じさせた。以後民家が並び ... ...
30. あいはらにしむら【鮎原西村】兵庫県:津名郡/五色町
日本歴史地名大系
った。毘沙門堂には大坂大仏師宮内法橋作の金剛界大日如来がある。境内には春日神社がある。西方に豊臣秀吉の白巣城攻めにゆかりがあるといわれる幟立がある。 ... ...
31. あいらごう【姶良郷】鹿児島県:肝属郡/吾平町
日本歴史地名大系
(「上井覚兼日記」同月七日条)。同一五年島津氏が豊臣秀吉に降ったのちは姶良を含む肝属郡は伊集院幸侃(忠棟)へ宛行われた(同年五月二五日「豊臣秀吉朱印状」島津家文 ... ...
32. あいらちょう【吾平町】鹿児島県:肝属郡
日本歴史地名大系
残して所領を没収され、伊地知伯耆守重秀が姶良に地頭として配された。伊地知氏と、同一五年島津氏が豊臣秀吉に降伏したのち肝属郡を領した伊集院幸侃(忠棟)の下で、麓の ... ...
33. あい-りょうさ【安威了佐】
日本人名大辞典
?−? 織豊-江戸時代前期の武士。豊臣秀吉の右筆(ゆうひつ)。天正(てんしょう)14年(1586)大坂城でのイエズス会準管区長コエリョと秀吉との会見の仲立ちをし ... ...
34. あおき[あをき]【青木】
日本国語大辞典
その一族とする説がある。〔二〕近世の摂津国麻田藩主。初代の重直は美濃に住し、土岐氏・斎藤道三・織田信長、ついで豊臣秀吉に仕え、摂津国豊島郡に千四百石の地を宛行な ... ...
35. 青木氏
世界大百科事典
近世大名。美濃国の出身。一重はもと今川氏に仕え,一時徳川家康に属したが,その後父重直とともに豊臣秀吉に仕えて1万石を領した。1615年(元和1)豊臣氏滅亡後,再 ... ...
36. あおきうら【青木浦】香川県:丸亀市
日本歴史地名大系
は家数七八・人数三八九、船数一九のうち二八〇―九〇〇石船七(「塩飽諸訳手鑑」藤井家蔵)。山は豊臣秀吉の大坂城築城の際積出された青木石の産地。明治以降当地は青木石 ... ...
37. あおきかずしげ【青木一重】
国史大辞典
徳川家康の家人のとき姉川の戦に参陣、勇名をはせたが、元亀三年(一五七二)丹羽長秀に属し、ついで豊臣秀吉に仕え、使番・黄母衣衆となり、天正十三年(一五八五)摂津国 ... ...
38. あおき-かずしげ【青木一重】
日本人名大辞典
1551−1628 織豊-江戸時代前期の大名。天文(てんぶん)20年生まれ。青木重直の長男。徳川家康,のち豊臣秀吉・秀頼につかえる。大坂落城後出家して宗佐と号し ... ...
39. あおきし【青木氏】 画像
国史大辞典
青木重直が土岐頼芸・斎藤道三・織田信長に仕え、豊臣秀吉の時、摂津国豊島郡・兎原郡で千七百六十石余を知行した。その子一重は、今川氏・徳川家康・豊臣秀吉に仕え、豊島 ... ...
40. あおき-しげなお【青木重直】
日本人名大辞典
享禄(きょうろく)元年生まれ。土岐頼芸(とき-よりなり),斎藤道三(どうさん),織田信長につかえたのち,豊臣秀吉の伽衆(とぎしゅう)となる。文禄(ぶんろく)3年 ... ...
41. あおき-ひでもち【青木秀以】
日本人名大辞典
?−1600 織豊時代の武将。豊臣秀吉の一族。天正(てんしょう)11年賤ケ岳(しずがたけ)の戦いに従軍,13年紀伊(きい)入山(にゅうやま)城主。のち播磨(はり ... ...
42. あおきむら【青木村】岐阜県:大垣市/旧安八郡地区
日本歴史地名大系
「新撰美濃志」によれば、青木刑部卿法印浄憲の先祖は当村出身で、浄憲は土岐・斎藤両氏に仕え、のち織田信長・豊臣秀吉に従ったが、慶長一八年(一六一三)に「大坂の城に ... ...
43. あおきむら【青木村】静岡県:三島市
日本歴史地名大系
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44. あおつか【青塚】愛知県:西春日井郡/豊山町/豊場村
日本歴史地名大系
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45. あおはかむら【青墓村】岐阜県:大垣市/旧多藝郡・不破郡地区
日本歴史地名大系
天正一四年(一五八六)九月二一日、大谷村の一八八貫六八〇文の地が那波和泉守に安堵されている(「豊臣秀吉朱印知行目録写」名和文書)。慶長郷帳には大谷村とみえ、村高 ... ...
46. あおばらむら【青原村】島根県:鹿足郡/日原町
日本歴史地名大系
集落西の尾中山城跡(標高二〇〇メートル)は吉見氏の部将中屋氏の居城跡。中屋善四郎は文禄二年(一五九三)豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍し、京城の西三里の所で討死した(朝 ... ...
47. あおむら【阿保村】大阪府:松原市 地図
日本歴史地名大系
。丹北郡に属する。文禄三年(一五九四)一二月二日、豊臣秀吉は代官末吉勘兵衛利方に「安保村」八〇八石余を支配させ、年貢の徴収を命じた(「豊臣秀吉朱印状」末吉文書) ... ...
48. あおやなぎむら【青柳村】岐阜県:揖斐郡/池田町
日本歴史地名大系
ねて安堵している。安国寺は小寺にある臨済宗妙心寺派寺院。天正一七年(一五八九)一一月二一日付豊臣秀吉の美濃国御蔵入目録(内閣文庫蔵)に青柳一六一石余とみえる。慶 ... ...
49. あおやまはちまんぐう【青山八幡宮】静岡県:藤枝市/八幡村
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が伝えられ、また名請人として神主のほか社僧の真言宗青山寺などがみえる。同一八年一二月二八日、豊臣秀吉は神主三郎左衛門(石橋氏)に宛てて青山八幡領として八幡領一七 ... ...
50. あおやまむら【青山村】滋賀県:愛知郡/愛東町
日本歴史地名大系
山の内」とみえ、同人宛に外村・青山村のうち四〇〇石が宛行われている。天正一九年一〇月二一日の豊臣秀吉朱印宛行状(同文書)によれば、「おくらとの」へ青山村のうち五 ... ...
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