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  11. 豊臣秀次

豊臣秀次

ジャパンナレッジで閲覧できる『豊臣秀次』の国史大辞典のサンプルページ

豊臣秀次
とよとみひでつぐ
一五六八 - 九五
安土桃山時代の武将。孫七郎。中納言、内大臣、関白、左大臣。号高厳寺(瑞泉院・善正寺)。永禄十一年(一五六八)生まれる。父は豊臣秀吉の近臣三好吉房、母は秀吉の実姉日秀で秀吉の甥にあたる。天正十二年(一五八四)の小牧・長久手の戦には八千人を率いて出陣したが、有力家臣を失い、秀吉から「無分別」と叱責された。しかし翌年閏八月に秀吉から近江を中心に四十三万石が与えられ八幡山に居城。織田信長の安土にならって城下町建設をはかり、楽市を令している。同十八年改易された織田信雄の旧領尾張と北伊勢五郡を与えられ、清洲城に入った。この折に秀次の家臣の多くは三河・遠江・駿河で知行を得、大名に成長した。同年の小田原攻めには先陣を承り、山中城・韮山城の攻略にあたり、翌年には奥州一揆鎮圧のため徳川家康とともに派遣され、検地や刀狩を実施している。嗣子鶴松の夭折により、同十九年十二月に秀吉から関白職を譲られ、聚楽第に入った。翌年に始まる朝鮮出兵には、国内にあって継舟・次飛脚の制度を定め、兵粮米の確保や独自の軍事編成によって京畿の警護にあたっている。文禄元年(一五九二)三月ころには人掃令を発し、全国一斉に家数・人数を調査し、夫役労働力の把握につとめた。この半年まえに当時の関白秀吉が行なった御前帳の徴収によって、全国の石高が調査されたが、これの集約も聚楽第の秀次のもとで行われていた。この二つの調査はいずれも関白の権能に基づいて、村―郡―国という律令制的な行政機構に則した形で実施された点に特色がみられる。しかし同二年秀吉に実子秀頼が誕生すると、秀吉との関係は徐々に悪化し、みずからの性格上の問題と相まって事態を深刻化させた。関白としての秀次の権限は天皇の意志を取り次ぐことにあり、国郡制的な統治原則に属することがらは、秀吉自身も、たとえ自己の身辺にかかわる事件でも、秀次を通すという形式を踏まなければ何もなしえなかった。一方で、秀次は尾張の個別領主という存在であったが、秀吉は尾張に検使を派遣して蔵入地にまで立ち入り、年貢の収納状況などを調べ上げた。また全国から陰陽師などを集め、荒地の開発を行なっているが、その間は国中の夫役を免除する代りに秀吉が代官となることを令している。これは秀次の領主権を著しく侵害するものであった。同四年七月、秀次は謀反を企てたという理由で関白・左大臣の職を解かれ、わずかの従者とともに高野山に追いやられ、十五日切腹させられた。二十八歳。八月二日子女・妻妾ら三十余人も京都三条河原で処刑され、多数の近臣も殺された。このような暴力的処断は豊臣政権の崩壊を早める結果となった。秀次の性格が残忍であるといった悪評は、宣教師の記録にも見出せるほどであるが、ことさら創られた面があることも考える必要があろう。古筆や芸能を好み、経典の補修などにも意を払っていた。京都市中京区の瑞泉寺は秀次の追善のために建立された寺院で、境内にその墓がある。→瑞泉寺(ずいせんじ)
[参考文献]
太田牛一『大かうさまくんきのうち』(『斯道文庫古典叢刊』三)、斎木一馬「関白秀次の謀叛」(『斎木一馬著作集』二所収)、岡田正之「豊臣秀次の事に就きて」(『史学雑誌』四ノ三八)
(三鬼 清一郎)
©Yoshikawa kobunkan Inc.
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豊臣秀次の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 345
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検索コンテンツ
1. 豊臣秀次 画像
日本大百科全書
安土(あづち)桃山時代の武将。豊臣秀吉の甥(おい)。通称孫七郎。三好一路(いちろ)の子、母は秀吉の姉瑞竜院日秀(ずいりゅういんにっしゅう)。1583年(天正11 ... ...
2. 豊臣秀次[百科マルチメディア]
日本大百科全書
「豊臣秀次画像 附収 雀部重政 虎岩玄隆 山本主殿 不破万作 山田三十良画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分) ©東京大学史料編纂所 ... ...
3. 豊臣秀次
世界大百科事典
1568-95(永禄11-文禄4) 安土桃山時代の武将。父は豊臣秀吉の近臣三好吉房,母は秀吉の実姉日秀。1585年(天正13)秀吉から近江で自分遣(つかい)20 ... ...
4. とよとみ‐ひでつぐ【豊臣秀次】
デジタル大辞泉
[1568〜1595]安土桃山時代の武将。秀吉の甥(おい)。天正19年(1591)秀吉の養子となり、ついで関白となった。秀頼誕生後は秀吉の寵を失い、高野山に追放 ... ...
5. とよとみ‐ひでつぐ【豊臣秀次】
日本国語大辞典
安土桃山時代の武将。秀吉の甥。賤ケ岳の戦い、四国・小田原征伐などで戦功をあげた。天正一九年(一五九一)秀吉の長男鶴松が死に、養子に迎えられて関白となったが、文祿 ... ...
6. とよとみひでつぐ【豊臣秀次】 画像
国史大辞典
『斯道文庫古典叢刊』三)、斎木一馬「関白秀次の謀叛」(『斎木一馬著作集』二所収)、岡田正之「豊臣秀次の事に就きて」(『史学雑誌』四ノ三八) (三鬼 清一郎) ... ...
7. 豊臣秀次
日本史年表
1591年〈天正19 辛卯①〉 12・28 豊臣秀次 ,関白となる(木下家文書)。 1595年〈文禄4 乙未〉 7・15 没。 ... ...
8. とよとみ-ひでつぐ【豊臣秀次】
日本人名大辞典
1568−1595 織豊時代の武将。永禄(えいろく)11年生まれ。三好吉房の子。母は豊臣秀吉の姉日秀尼。天正(てんしょう)13年羽柴姓を名のり,近江(おうみ)( ... ...
9. 豊臣秀次[文献目録]
日本人物文献目録
馬『正確なる史料に拠れる豊臣秀次と謡曲』藤田予州『殺生関白』幸田成友『豊臣関白の末路』内藤耻叟『豊臣秀次を回想して』粟野秀穂『豊臣秀次の事に就きて』岡田正之『豊 ... ...
10. 豊臣秀次印[図版] 画像
国史大辞典
秀次正道 豊臣秀次 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. ... ...
11. Toyotomi Hidetsugu 【豊臣秀次】
Encyclopedia of Japan
1568−1595 Also known as Toyotomi Hidetsugi. Nephew and adopted son of Toyotomi H ... ...
12. 豊臣秀次花押[図版] 画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc. ... ...
13. あいちぐん【愛知郡】愛知県
日本歴史地名大系
信雄は天正一二年(一五八四)徳川家康と結んで秀吉と小牧・長久手に戦った。同一八年、信雄は秀吉に追放され、豊臣秀次や福島正則がその跡を継ぐなど、領主はたびたび交代 ... ...
14. あかし-もととも【明石元知】
日本人名大辞典
小牧・長久手の戦いなどで功をたてる。但馬(たじま)(兵庫県)豊岡亀城主。文禄(ぶんろく)4年豊臣秀次事件に連座し,自刃(じじん)。播磨(はりま)(兵庫県)出身。 ... ...
15. あくぎゃく‐づか【悪逆塚】
日本国語大辞典
京都市中京区石屋町瑞泉寺にある塚。豊臣秀次とその妻子を葬ったもの。「秀次悪逆塚」の銘がある。*読本・雨月物語〔1776〕仏法僧「一日(あるひ)夢然三条の橋を過ぐ ... ...
16. あさのながまさ【浅野長政】 画像
国史大辞典
那須資晴・成田氏長らを与力とし、豊臣政権の奥羽・関東支配の一翼を担うこととなった。同四年関白豊臣秀次失脚事件の際は長継の連座により、一時不安定の地位にあったらし ... ...
17. 浅野幸長
世界大百科事典
豊臣秀吉に仕え1593年(文禄2)甲斐国内で16万石を領知,同年文禄の役で朝鮮に従軍,95年豊臣秀次事件に連座して能登に流されたが,前田利家らの救解で罪を免れ, ... ...
18. あさのよしなが【浅野幸長】 画像
国史大辞典
文禄二年(一五九三)十一月父とともに甲斐国を与えられ、十六万石を分領した。しかるに同四年の関白豊臣秀次の失脚事件に連座し、能登津向に流された。原因は流布の軍記類 ... ...
19. あさの-よしなが【浅野幸長】
日本人名大辞典
小田原攻め,朝鮮出兵に出陣。その功により父とともに甲斐(かい)(山梨県)1国をあたえられた。のち豊臣秀次事件に連座して,一時能登(のと)(石川県)に流される。関 ... ...
20. 足利学校
世界大百科事典
。7世九華のときが学校の最盛期で小田原後北条氏の厚い保護を受けた。9世三要は後北条氏の滅亡後豊臣秀次に従って学校の典籍類とともに京に移った。秀次の自害後徳川家康 ... ...
21. あつまりむら【集村】滋賀県:草津市
日本歴史地名大系
元亀三年(一五七二)集村惣代は一向一揆に内通しない旨の起請文を出している(→草津市)。天正二〇年(一五九二)の豊臣秀次知行宛行状(真田文書)では「駒井の内あつま ... ...
22. 安土城
世界大百科事典
しかし82年,本能寺の変で信長は死に,この際の混乱で城は焼失した。以後,織田氏はふるわず,85年豊臣秀次が近江八幡に築城したので廃城となり,町も八幡に移された。 ... ...
23. 安土桃山時代
世界大百科事典
具体的日程にのぼせたことが,さらに一つの区切りになる。(4)豊臣政権後期 全国統一の達成と,関白の地位を甥の豊臣秀次に譲ってみずからは太閤となった91年から,関 ... ...
24. 安土桃山時代(年表)
日本大百科全書
明使に和議七か条を示す1594(文禄3)12月行長の使者、明皇帝に和議を約す1595(文禄4)7月秀吉、豊臣秀次に切腹を命ずる1596(慶長1)9月秀吉、明使を ... ...
25. あま 画像 地図
デジタル大辞泉
愛知県西部にある市。名古屋市の西に隣接しベッドタウン化が進む。戦国期には蜂須賀正勝・福島正則・豊臣秀次らを輩出した。七宝焼き工芸が盛ん。平成22年(2010)に ... ...
26. あまぐん【海部郡】愛知県
日本歴史地名大系
海上より引入れて、吉良・石橋・斯波義銀と連合して謀反を計画している(同書)。文禄四年(一五九五)豊臣秀次の死後は福島正則が清須城主として領した。〔近世〕慶長五年 ... ...
27. あやじょうあと【綾城跡】宮崎県:東諸県郡/綾町/北俣村
日本歴史地名大系
綾から島津義久居城への移送のため人足一〇〇人と乗懸馬一三疋の調達が都城の北郷氏に指示された(「豊臣秀次朱印状写」都城島津家文書)。近衛信輔は同年五月二日タカラ部 ... ...
28. あらき-もときよ【荒木元清】
日本人名大辞典
荒木村重の一族。摂津花熊城(兵庫県)城主。落城後,豊臣秀吉につかえるが,文禄(ぶんろく)4年の豊臣秀次(ひでつぐ)事件に連座して追放される。斎藤好玄(よしはる) ... ...
29. ありこやまじょうあと【有子山城跡】兵庫県:出石郡/出石町/出石城下
日本歴史地名大系
、前野長康が但馬七郡七万五〇〇石を与えられて当城主となった。しかし長康は文禄四年(一五九五)豊臣秀次事件に連座して息子景定とともに切腹、前野家は断絶となった(武 ... ...
30. あわの-ひでもち【粟野秀用】
日本人名大辞典
のがれて豊臣秀吉につかえる。秀吉の四国攻めにしたがい,伊予(いよ)(愛媛県)柾木(まさき)城主となる。のち豊臣秀次(ひでつぐ)につかえ,秀吉による秀次の高野山へ ... ...
31. 池田恒興
日本大百科全書
山に陣をしき、秀吉と対立。秀吉方に属した恒興は、家康を挟撃する岡崎攻略作戦を献策し用いられ、豊臣秀次を総大将として進軍するが、家康軍の奇襲で秀次軍が崩壊し、恒興 ... ...
32. いこまそうどう【生駒騒動】
国史大辞典
これが生駒騒動におけるお為方。一方、逆意派の中心人物前野助左衛門(江戸家老、禄五千石)・石崎若狭は、いずれも豊臣秀次の老臣前野但馬守長康の一門であった。この二人 ... ...
33. いこま-なおかつ【生駒直勝】
日本人名大辞典
?−1614 織豊-江戸時代前期の武士。京都の人。織田信長,ついで豊臣秀次につかえ,伊勢(いせ)の代官をつとめる。のち織田信雄,加藤嘉明(よしあき)の家臣をへて ... ...
34. 石田三成
世界大百科事典
支持し,93年明の講和使を伴って帰還した。しかし朝鮮での行動は一部武断派諸将の反感を高めた。95年関白豊臣秀次が失脚自殺し,やがて五大老五奉行制が敷かれると三成 ... ...
35. いずしぐん【出石郡】兵庫県
日本歴史地名大系
同一三年前野長康(長泰)が当郡を含む但馬七郡七万石余を与えられて同城主となるが、長康は文禄四年(一五九五)豊臣秀次事件に連座して切腹、同年小出吉政が長康旧領のう ... ...
36. いちのだい【一の台】
日本人名大辞典
?−1595 織豊時代,豊臣秀次(ひでつぐ)の妻。今出川晴季(はるすえ)の娘。文禄(ぶんろく)4年秀次が謀反のかどで関白職を解かれ切腹後,同年8月2日秀次の子女 ... ...
37. いつかいちむら【五日市村】岐阜県:養老郡/養老町
日本歴史地名大系
九里半街道が通り、「新撰美濃志」は「むかし月毎の五日に市のたちし里」と記す。文禄三年(一五九四)の豊臣秀次朱印知行目録(寺西文書)に「濃州滝郡五日市村」とあり、 ... ...
38. 伊藤惣十郎
日本大百科全書
両国における役銭の徴収や他国商人の監督にあたった。以後、織田信忠(のぶただ)・信雄(のぶかつ)、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)、徳川(松平)忠吉(ただよし)からも ... ...
39. いなべぐん【員弁郡】
国史大辞典
天正四年(一五七六)織田信長が北勢に入り、長島城の滝川一益に与えて以来、織田信雄・丹羽代次・豊臣秀次・氏家行広が支配した。文禄三年(一五九四)の検地に六十一ヵ村 ... ...
40. いなべぐん【員弁郡】三重県
日本歴史地名大系
国人の多くは降伏・没落し、当郡は滝川一益の支配するところとなった。その後、豊臣政権期の織田信雄・豊臣秀次らの支配を経て、慶長六年(一六〇一)大部分が桑名藩領(藩 ... ...
41. いまでがわはるすえ【今出川晴季】 画像
国史大辞典
周旋につとめた。したがって朝廷において権勢も得たが、文禄四年(一五九五)八月、女婿である関白豊臣秀次の事件に坐して越後に配流され、失脚の憂き目を見るに至った。し ... ...
42. いまでがわ-はるすえ【今出川晴季】
日本人名大辞典
天正(てんしょう)13年従一位,右大臣となり,豊臣秀吉の関白就任に尽力。文禄(ぶんろく)4年娘婿の豊臣秀次の事件にかかわり越後(えちご)に流される。翌慶長元年ゆ ... ...
43. いまぼりむら【今堀村】滋賀県:八日市市
日本歴史地名大系
吉馬廻衆平井金十郎分、残る二八〇石余は豊臣氏代官支配地となっていた。なお代官支配地の前給人は豊臣秀次家臣田中吉政で、吉政の入封以前天正一三年は加藤源蔵領であった ... ...
44. いわやじ【岩屋寺】愛知県:知多郡/南知多町/岩屋寺村
日本歴史地名大系
山岩屋寺略縁起」)。永享一〇年(一四三八)に兵火により焼失したが再建。天正一八年(一五九〇)豊臣秀次の臣田中角助らにより寺領三二〇石を没収され寺運が衰え七坊が廃 ... ...
45. 印西派
日本大百科全書
をたて指導にあたっていた業茂(なりもち)を師として修業したのち、印西派を創始した。印西は関白豊臣秀次(とよとみひでつぐ)や結城秀康(ゆうきひでやす)(徳川家康の ... ...
46. 印章 25[別刷図版] 画像
国史大辞典
明智光秀 豊臣秀吉 豊臣秀吉 「豊臣」 豊臣秀次 「秀次正道」 豊臣秀次 「豊臣秀次」 小早川秀秋 「秀龝」 小早川秀秋 豊臣秀頼 「秀頼」 豊臣秀長 「羽柴秀 ... ...
47. 雨月物語
日本大百科全書
参籠(さんろう)した夢然(むぜん)父子が、修羅道(しゅらどう)に落ちた殺生(せっしょう)関白豊臣秀次(とよとみひでつぐ)一行に出会う話。(6)『吉備津の釜』 井 ... ...
48. 雨月物語 336ページ
日本古典文学全集
正しくは「つらむ」。秋成の特殊語法。「つ」はここでは強意で、「らめ」は推量の助動詞。木村常陸介重茲。豊臣秀次の重臣。文禄四年(一五九五)秀次高野山自刃の時、摂津 ... ...
49. 雨月物語 339ページ
日本古典文学全集
催していられるのですか。なんとも不審なことでございます」と言った。法師は答えて、「殿下と申し上げるのは、関白豊臣秀次公でいらっしゃる。他の方々は、木村常陸介、雀 ... ...
50. うすいとうげ【碓氷峠】群馬県:碓氷郡/松井田町
日本歴史地名大系
道から大軍を発し、上野方面へは前田利家の率いる北国勢が臼井峠を越えて進撃した(同年三月八日「豊臣秀次書状」真田家文書)。中山道の整備後も坂本宿までの険阻な道筋は ... ...
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