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  11. 禁門の変(蛤御門の変)
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

国史大辞典
禁門の変
きんもんのへん
元治元年(一八六四)七月、京都での尊攘派の勢力挽回を策した長州軍と京都を守る会津・薩摩藩を中心とする公武合体派軍との軍事衝突。元治甲子の変または蛤御門の変ともいう。文久三年(一八六三)八月十八日の政変は、それまで京摂間で猛威を振るっていた尊攘派の勢力を一挙に京都から追放した。長州尊攘派に擁せられた三条実美以下七卿は長州に下り、京都では公武合体派が勢力をもり返した。そして、同年十二月から翌元治元年正月にかけては、将軍後見職一橋慶喜以下松平容保・松平慶永・山内豊信・伊達宗城・島津久光が参予に任じられ、いわゆる参予会議が成立した。この会議は長州藩の処分問題を論じ、その征討軍組織も内定した。一方、長州藩では、八月十八日の政変後、藩内は分裂し、これまで尊攘運動を推進していた「正義」派に対して、「宗祀の保全を謀る」ためには幕府に恭順せよという「俗論」派が台頭し始めた。しかし、長州藩家老井原主計の藩主雪冤の入京請願は朝廷側の長州藩への心事疑惑によって許可されなかったから、藩内には上下ともに反抗的気運が生じ、なかでも諸隊などは強硬な出兵論をとなえた。ところが、やがて参予会議は分裂し、公卿の一部や因幡・備前・加賀などの諸藩の間には、長州への同情の動きもみられ始めた。元治元年三月、水戸藩では武田耕雲斎・藤田小四郎らの天狗党が挙兵した。ついで六月、新撰組は、京都守護職・所司代の兵とともに、尊攘派の勢力挽回を画策していた長州藩士や志士たちを京都池田屋に襲った。この池田屋事件の報が長州に届くや、藩内は進発論に転じ、世子毛利定広および福原越後・国司信濃(くにししなの)・益田右衛門介の三家老の上京を決定した。その軍容は、「第一 浪士一達三百人、第二 福原越後三百人、第三 游撃軍四百人、国司信濃百人、第四 益田右衛門介三百人、讃岐守様二百人、第五 長門様并ニ御当家様と相聞候」(『吉川経幹周旋記』一)とあり、攘夷国是の嘆願、五卿(三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌)の冤罪哀訴、浪士の鎮静などを名目とした出兵であった。この出兵進発には宍戸九郎兵衛(左馬之介)や桂小五郎(木戸孝允)らは反対し、麻田公輔(周布政之助)や高杉晋作らは慎重論をとなえた。久坂玄瑞は当初慎重論だったが、遊撃軍を率いる来島又兵衛や真木和泉(久留米水天宮神官、在長州)らの強硬論におしきられた。出兵にあたり、遊撃軍をはじめとする忠勇・集義・八幡・義勇・宣徳・尚武の諸隊には、農民や商人に対して無理な取扱いをしない、田畠その他を荒らさないなどを含む厳しい軍令が出された。かくて、先発の福原軍は六月二十四日伏見に着陣、以後、山崎・嵯峨などに長州勢は屯集し、京都の包囲態勢をとった。また、七月に入ると、毛利定広および五卿も上京の途につき、京洛の地は不穏な空気がみなぎった。これに対し、朝廷および禁裏守衛総督一橋慶喜ら幕府当事者は、この対策に苦慮し、長州側からの嘆願の扱いなどを協議するかたわら、会津・桑名・薩摩以下の諸藩に命じて洛中洛外および宮門内外の警備にあたらせ、さらに東海道・中山道筋その他に長州藩出兵抑止の命を下した。この間、幕府側と福原越後をはじめとする長州側との交渉、真木・久坂らの陳情書の提出などが行われ、相対すること二十日余り、ついに七月十八日夜半から長州軍は行動をおこし、十九日早朝、京都守備軍との間に戦端が開かれた。伏見の福原勢は越後の負傷で入京できず、嵯峨の天竜寺に屯集していた国司・来島軍は二手に分かれて、国司軍が立売門を突破すれば、来島軍は蛤門に迫って激戦を展開、来島は狙撃されて戦死した。山崎にいた真木・久坂らは堺町門に向かい、福井・桑名・彦根をはじめ応援の薩摩・会津の諸藩兵と交戦、久坂・寺島忠三郎らは負傷して鷹司邸に至って自尽した。真木もまた傷を負って天王山に退き、切腹した。流れ弾は御所内にも飛び、時の皇太子睦仁親王(のちの明治天皇)は気を失い、公卿中御門経之が水をふくませて息を吹きかえした、という。戦いは一日で終ったものの、京都の火災は二十一日まで続き、市中焼失の家屋は二万八千余戸に及び、罹災者・避難民の行列は延々と続いた。また、この火災で六角の獄中にあった志士たちは多く殺害された。長州三家老は敗兵を収めて帰藩し、定広も途中から引き返した。かくて、長州側にくみした宮・公卿は処罰され、七月二十三日には長州藩追討の令が出され、翌日には中国・四国・九州の二十一藩に出兵令が下され、第一次長州征伐の端緒となったのである。この禁門の変は、文久二年以降の尊攘運動に終止符をうち、朝廷・幕府にあっては公武合体派を分解させ、長州藩においては、四国連合艦隊の下関攻撃と相まって、元治の内戦を経て討幕派の成立を促した。
[参考文献]
末松謙澄『(修訂)防長回天史』四・五、山川浩『京都守護職始末』、維新史料編纂会編『維新史』三・四
(田中 彰)


日本大百科全書
蛤御門の変
はまぐりごもんのへん

1864年(元治1)7月、京都の長州藩兵と幕府側諸藩兵との戦い。禁門(きんもん)の変ともいう。前年の八月十八日の政変で京都を追われた長州藩では、1864年、京都の公武合体派諸侯の連携が破れ、しかも池田屋事件が起こるに及んで、木戸孝允(たかよし)や高杉晋作(しんさく)らの慎重論は、来島又兵衛(くるしままたべえ)らの進発出兵論を抑えられなくなった。福原越後(えちご)、国司信濃(くにししなの)、益田右衛門介(ますだうえもんすけ)の3家老と来島又兵衛、久坂玄瑞(げんずい)、真木和泉(まきいずみ)らは藩兵と諸藩浪士軍らを率いて上京し強訴したが拒絶され、久坂らの自重論も効なく、世子の率いる本隊が到着していないにもかかわらず、7月19日、伏見(ふしみ)、蛤御門、堺(さかい)町御門で戦闘に入った。来島らは蛤御門に迫ったが、会津、桑名、薩摩(さつま)らの藩兵に敗北、来島は戦死、久坂、真木らは自刃した。この戦いで京都は2万軒余の家が焼ける大火(どんどん焼け、鉄砲焼け)となった。またこれを機に幕府は第一次長州征伐の兵を起こし、長州藩兵の将、3家老7参謀は、その後切腹あるいは斬殺(ざんさつ)に処された。
[井上勝生]



改訂新版・世界大百科事典
禁門の変
きんもんのへん

1864年(元治1)7月19日,長州藩と朝廷を固める会津藩,薩摩藩らの諸藩の間で起きた戦闘。蛤(はまぐり)御門の変ともいう。これより前,尊王攘夷を主張する長州藩は,〈文久3年(1863)8月18日の政変〉で,公武合体派の会津藩や薩摩藩らの諸藩兵により京都から追われ,朝廷の九門の一つ,禁門警備の任を免じられ,藩主が処罰された。長州藩には,京都を脱走した七卿や真木和泉らの浪士も集結し,失地回復をめぐって進発論や持重論が渦巻いた。藩の指導者,周布政之助や高杉晋作らは,持重論により藩論をまとめていたが,翌64年3月になると,幕府と薩摩藩,会津藩,越前藩らの公武合体派は内部対立を起こし,有力大藩が帰国し,間隙が生じた。さらに6月に池田屋事件で志士が斬殺され,長州藩内で,一気に進発論が勝利を占めた。国司信濃・福原越後・益田弾正の3家老に,来島又兵衛・久坂玄瑞・真木和泉らが同行して先発し,世子毛利定広の本隊が後続した。先発隊は,山崎,伏見,嵯峨に分駐し,七卿や藩主の免罪などを上表したが入れられず,かえって幕府の征長令の発令工作が進んでいた。ついに先発隊は,本隊の到着を待たずに挙兵し,7月19日,京都内外で長州藩兵と会津・桑名・薩摩など諸藩兵が交戦した。長州は,一時,御所に迫ったが敗走し,来島ら多数が戦死し,久坂・真木らが自殺した。京都は,約3万戸が焼失し,7月24日,長州追討の朝命が下る。
[井上 勝生]

[索引語]
真木和泉 来島又兵衛 久坂玄瑞
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1. きんもん の 変(へん)
日本国語大辞典
元治元年(一八六四)に起きた戦い。その前年の文久三年八月一八日の政変で、京都での地位を失った長州藩は、勢力回復のために種々画策したが思うようにいかず、この年、藩 ...
2. 禁門の変
世界大百科事典
1864年(元治1)7月19日,長州藩と朝廷を固める会津藩,薩摩藩らの諸藩の間で起きた戦闘。蛤(はまぐり)御門の変ともいう。これより前,尊王攘夷を主張する長州藩 ...
3. きんもんのへん【禁門の変】
国史大辞典
翌日には中国・四国・九州の二十一藩に出兵令が下され、第一次長州征伐の端緒となったのである。この禁門の変は、文久二年以降の尊攘運動に終止符をうち、朝廷・幕府にあっ ...
4. 禁門の変
日本史年表
7・19( 8・20 ) 萩藩兵、御所諸門を襲撃し、会津・鹿児島両藩兵などの幕府軍に敗れる( 禁門の変 )(維新史料綱要)。  ...
5. 禁門の変
日本大百科全書
→蛤御門の変 ...
6. きんもん‐の‐へん【禁門の変】
デジタル大辞泉
⇒蛤御門(はまぐりごもん)の変  ...
7. あおき-しんざぶろう【青木新三郎】
日本人名大辞典
たがって京都にいき,七卿(しちきょう)と長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩のためにつくす。禁門の変ののち,陰謀にくわわったとして元治(げんじ)元年10月19日 ...
8. あおき-よさぶろう【青木与三郎】
日本人名大辞典
にすみ,藩士となる。文久4年1月脱藩して,長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士とまじわり,禁門の変のとき萩藩士とともに京都にはいり,元治(げんじ)元年7月19 ...
9. あおやま-ただゆき【青山忠敏】
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青山忠良(ただなが)の次男。文久2年丹波篠山(ささやま)藩(兵庫県)藩主青山家6代となる。八月十八日の政変や禁門の変では幕府軍にくわわる。元治(げんじ)2年奏者 ...
10. あおやま-のりつぐ【青山悳次】
日本人名大辞典
はかる。藩が禁裏警固を命じられると京都におもむき公武合体のためにつくす。元治(げんじ)元年の禁門の変ののち免職となった。明治26年4月27日死去。62歳。通称は ...
11. あかぞなえ【赤備】
国史大辞典
えた岡本宣就も井伊家に迎えられて、その軍配に参加しており、井伊の赤備は元治元年(一八六四)の禁門の変にも著名な存在と伝えられている。→赤具足(あかぐそく) (鈴 ...
12. あきた-ふみお【秋田文雄】
日本人名大辞典
林(たてばやし)藩の家老。藩主秋元志朝(ゆきとも)をたすけて公武の斡旋(あっせん)につとめ,禁門の変後は職を免じられる。のち復職し,藩主秋元礼朝(ひろとも)につ ...
13. あさい-つねじろう【浅井常次郎】
日本人名大辞典
幕末の武士。天保(てんぽう)11年生まれ。越前(えちぜん)福井藩士。元治(げんじ)元年7月19日の禁門の変の際,守衛側として長州軍に突入,奮闘して戦死した。25 ...
14. あさくら-ちかよし【朝倉集義】
日本人名大辞典
世子前田慶寧(よしやす)にしたがい,京都で長門(ながと)萩藩士とまじわる。元治(げんじ)元年禁門の変で藩の尊攘派が弾圧されたとき閉門になった。明治2年金沢藩大属 ...
15. あさひこしんのうにっき【朝彦親王日記】
国史大辞典
二十九日に終り、この間元治元年十一月・十二月の二ヵ月間の記事を欠いている。同元年七月十九日の禁門の変に先立つこと四日前に始まり、慶応三年十月十四日の討幕の密勅降 ...
16. あさみ-やすのじょう【浅見安之丞】
日本人名大辞典
文久3年親兵にえらばれ,京都で尊攘(そんじょう)運動につくす。帰藩して世子の近侍となったが,禁門の変後,恭順派に捕らえられ,元治(げんじ)2年1月14日に殺され ...
17. あざがみ-しょうぞう【阿座上庄蔵】
日本人名大辞典
はぎ)藩士。吉田松陰にまなぶ。文久3年下関での外国船砲撃にくわわる。元治(げんじ)元年京都で禁門の変に従軍し,重傷を負って7月19日自害した。19歳。名は正光。 ...
18. あべ-ごういつ【阿部豪逸】
日本人名大辞典
う)運動家。天保(てんぽう)5年生まれ。豊前(ぶぜん)英彦山(ひこさん)(福岡県)の修験者。禁門の変にくわわるが敗れて長門(ながと)(山口県)にかえり,第2次幕 ...
19. アメリカ彦蔵自伝 2 24ページ
東洋文庫
このとき長州勢が御所を攻撃したというのは、ヒコの誤聞である。おそらく翌年(元治元年)七月における禁門の変と混同したものであろう。したがって、孝明天皇が御所を出て ...
20. アメリカ彦蔵自伝 2 30ページ
東洋文庫
すべて事実に反する。もっとも京都の市中での交戦のことは、前掲の注(二四ページ)でも触れたように、翌年の「禁門の変」でのできごとと混同しているのかも知れぬ。 とこ ...
21. アメリカ彦蔵自伝 2 76ページ
東洋文庫
そ    の死去は明治四十二年、八十一歳であっ    た。                  禁門の変 八月二十六日。ちょうどいま聞いたことであるが、京都では二 ...
22. アメリカ彦蔵自伝 2 283ページ
東洋文庫
「文久三年秋菊月、 播州彦蔵しるす」の序あり。 ◇いわゆる八・一八の政変に関するヒコ の記述は、明年の禁門の変と混同したら しい形迹あり、誤りが多い。◇横浜の鎖 ...
23. アメリカ彦蔵自伝 2 284ページ
東洋文庫
〈六◇     八.七〇イギリスと長州藩との談判決裂。  〈七〇〉     八.一一。○京都にて禁門の変。        〈七六〉     九.五〇四国連合艦隊 ...
24. ありかわ-つねづち【有川恒槌】
日本人名大辞典
精兵隊を組織。長門萩(はぎ)藩士久坂玄瑞(げんずい)にしたがい,元治(げんじ)元年7月19日禁門の変で戦死。19歳。名は紀綱。 ...
25. 有栖川宮熾仁親王
日本大百科全書
動を支持。1864年(元治1)国事御用掛に任ぜられたが、同年の蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)で長州藩士に荷担したゆえをもって謹慎を命ぜられた。1867 ...
26. ありすがわのみや-たるひとしんのう【有栖川宮熾仁親王】画像
日本人名大辞典
。天保(てんぽう)6年2月19日生まれ。国事御用掛となるが,尊攘(そんじょう)運動を支持し,禁門の変ののち失脚。王政復古後新政府の総裁となり,戊辰(ぼしん)戦争 ...
27. ありよし-くまじろう【有吉熊次郎】
日本人名大辞典
吉田松陰にまなぶ。文久2年高杉晋作らとイギリス公使館焼き討ちに参加。元治(げんじ)元年脱藩し,京都で禁門の変にくわわり同年7月19日自刃(じじん)した。23歳。 ...
28. あわじのくに【淡路国】兵庫県
日本歴史地名大系
文久三年(一八六三)の天誅組の挙兵には津井村の古東領左衛門ら二名が参加した。洲本城代稲田氏は禁門の変から戊辰戦争にかけて、徳島本藩とは別に朝廷側について勤皇の功 ...
29. あわや-またすけ【粟屋亦助】
日本人名大辞典
1835−1864 幕末の武士。天保(てんぽう)6年生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。禁門の変で家老福原越後にしたがって京都にむかう途中,藤森の戦 ...
30. あわや-りょうのすけ【粟屋良之助】
日本人名大辞典
県)萩(はぎ)藩の岡村簣斎(きさい)にまなぶ。のち脱藩し,尊攘(そんじょう)運動にくわわる。禁門の変に参加して,元治(げんじ)元年7月19日戦死した。24歳。名 ...
31. あんどう-かまじ【安藤鎌次】
日本人名大辞典
天保(てんぽう)13年3月生まれ。土佐高知藩士。京都の藩邸につとめ,尊攘(そんじょう)運動に参加。禁門の変後,幕府が三条橋畔にたてた長門(ながと)(山口県)萩( ...
32. あんどう-しんのすけ【安藤真之助】
日本人名大辞典
土佐勤王党にくわわり,文久3年脱藩して長州におもむく。松山正夫の忠勇隊に属して元治(げんじ)元年京都の禁門の変でたたかい,同年7月21日自刃(じじん)。22歳。 ...
33. あんどう-てつま【安東鉄馬】
日本人名大辞典
京都で尊攘運動に奔走し,元治(げんじ)元年池田屋でおそわれたが難をまぬかれる(池田屋事件)。禁門の変では真木和泉の隊に属してたたかい,同年7月19日鷹司(たかつ ...
34. アーネスト・サトウ伝 178ページ
東洋文庫
八六三年(文久三年)に京都を追われ(いわゆる七卿落ち)、翌年同藩は蛤御門で幕軍と戦って破れ(禁門の変)、ついで幕府は西国二十一藩に長州出兵を命じた(征長の役)。 ...
35. いいだ-うたこ【飯田歌子】
日本人名大辞典
。天保(てんぽう)2年生まれ。初代飯田新七の長女。夫の2代新七とともに「たかしまや」を経営。禁門の変により家屋を焼失したが,商いを再開し,明治3年店舗を新築。夫 ...
36. いけ-くらた【池内蔵太】
日本人名大辞典
(山口県)萩(はぎ)藩にいき,外国艦船砲撃に際し遊撃隊参謀となる。天誅(てんちゅう)組の変,禁門の変に参加。長崎の亀山(かめやま)社中にくわわり,慶応2年5月2 ...
37. いけじり-もしろう【池尻茂四郎】
日本人名大辞典
藩内の尊攘派勢力の回復に失敗し,脱藩して長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩にいく。元治(げんじ)元年禁門の変で敗れ,7月21日真木和泉(まき-いずみ)らと天王 ...
38. 池田屋事件
世界大百科事典
が捕殺された。この事件に憤激した長州藩は,激派を中心にして挙兵上京することになり,同年7月に禁門の変をひきおこした。高木 俊輔 新撰(選)組 宮部鼎蔵 古高俊太 ...
39. いけだやじけん【池田屋事件】
国史大辞典
萩藩士ならびに他国の志士を憤激させ、来島又兵衛・福原越後・久坂玄瑞・真木和泉らが兵を率いて上京し、禁門の変の原因になっていった。 [参考文献]子母沢寛『新撰組始 ...
40. いしんし【維新史】
国史大辞典
・第十一編尊攘運動の展開・第十二編公武合体運動の進展の四編から成っている。第四巻は、第十三編禁門の変及び第一回征長の役・第十四編外交の転機・第十五編第二回征長の ...
41. いたみ-みきのすけ【伊丹造酒之助】
日本人名大辞典
安政3年町奉行となり,文久3年勅旨奉行の件で長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩におもむく。元治(げんじ)元年禁門の変では御所の守備にあたったが,佐幕派の策謀で ...
42. いちき-かんべえ【市来勘兵衛】
日本人名大辞典
1839−1868 幕末の武士。天保(てんぽう)10年生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。元治(げんじ)元年禁門の変に斥候(せっこう)長として活躍した。鳥羽・伏見 ...
43. いちはし-ながよし【市橋長義】
日本人名大辞典
西洋砲術とオランダ語をまなぶ。文久2年仁正寺の地(藩)名を西大路(にしおおじ)とあらためた。禁門の変では京都御所を守護。明治15年1月17日死去。62歳。初名は ...
44. いで-まごたろう【井手孫太郎】
日本人名大辞典
萩(はぎ)藩一門家老の周防(すおう)(山口県)大野領主毛利煕頼(ひろより)の家臣。元治(げんじ)元年禁門の変に従軍。第二奇兵隊の書記となるが,藩内抗争で慶応2年 ...
45. いとい-かんすけ【糸井勘助】
日本人名大辞典
廻船業のかたわら奥州からの生糸をもとめて絹問屋を経営。丹後屋の屋号で白縮緬(ちりめん)をあつかう。禁門の変の火災で店舗をうしなう。明治6年生糸改(あらため)会社 ...
46. いとう-けいぞう【伊藤敬蔵】
日本人名大辞典
ぎ)藩士。文久3年同藩の桜井慎平らと集義隊を編成し砲隊長となる。元治(げんじ)元年7月19日禁門の変で戦死。48歳。周防(すおう)(山口県)出身。名は正直。 ...
47. いとう-こうのすけ【伊藤甲之助】
日本人名大辞典
り,八月十八日の政変後の七卿落ちに随行。元治(げんじ)元年脱藩して松山正夫の忠勇隊にはいり,禁門の変で負傷,7月21日自刃(じじん)した。21歳。名は和義。著作 ...
48. いとう-じゅうぞう【伊藤十蔵】
日本人名大辞典
藩の中間(ちゅうげん)伊藤直右衛門の養子となる。文久元年京都にでて藩邸の会計事務をつとめる。禁門の変で萩藩が敗れ,帰藩後南園隊に属した。明治29年3月19日死去 ...
49. いのうえ-しょうすけ【井上奨輔】
日本人名大辞典
天保(てんぽう)14年生まれ。長門(ながと)(山口県)萩藩士。奇兵隊にくわわり,元治(げんじ)元年禁門の変で負傷。幕長戦争では慶応2年石見(いわみ)(島根県)の ...
50. いのうえ-ただいち【井上唯一】
日本人名大辞典
。文久2年京都で尊攘運動にくわわる。3年七卿(しちきょう)を護衛して山口にいき奇兵隊に入隊。禁門の変ののち藩の恭順派にとらえられ,元治(げんじ)元年10月24日 ...
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寛文九年(一六六九)、蝦夷(えぞ)地(北海道)で松前藩の不公平な交易方針に反対するアイヌの首長シャクシャインが起こした反松前・反和人の戦い。全北海道に広がったが、鉄砲を持つ松前藩が優勢となり、和議の席でシャクシャインは殺された。以後、松前藩のアイヌ搾取が強められた。
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方広寺鐘銘事件(国史大辞典)
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関ヶ原の戦い(日本大百科全書(ニッポニカ))
1600年(慶長5)9月、徳川家康の率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍によって、美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)で行われた「天下分け目」の戦い。 [岡本良一]三成挙兵 1598年(慶長3)豊臣秀吉が死ぬと、豊臣政権はたちまち内部分裂の兆しをみせ始めた。秀吉は生前から、家康の
島原の乱(島原・天草一揆)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
江戸時代初期、松倉勝家領の肥前国島原と同国唐津寺沢堅高領の肥後国天草の領民が連帯し、少年益田(天草)四郎時貞を盟主に蜂起し、島原の原城にたてこもって幕府・諸藩兵と戦い、全員誅殺された大農民一揆。天草一揆ともいう。この一揆に対する
生田万の乱(国史大辞典・日本大百科全書)
天保八年(一八三七)六月一日の明け方、平田篤胤の元塾頭生田万らが桑名藩領柏崎陣屋(新潟県柏崎市)に乱入した事件。柏崎騒動ともいう。柏崎陣屋は桑名藩の越後領四郡六万石の総支配所で、大役所・預役所・刈羽会所の三役所があり、郡代以下五十数名で領政を担当していた。
大塩平八郎の乱(日本大百科全書(ニッポニカ))
江戸後期、大坂で大塩平八郎らが救民のため挙兵した反乱。1828年(文政11)の九州大洪水より、断続的に天災による諸国異作が続き、36年(天保7)は未曽有の大飢饉であった。この打ち続く凶作・飢饉により米価高騰し、大坂市中には飢餓による死者が続出する。
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