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  11. 島原の乱(島原・天草一揆)
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

国史大辞典
島原の乱
しまばらのらん
江戸時代初期、松倉勝家領の肥前国島原と同国唐津寺沢堅高領の肥後国天草の領民が連帯し、少年益田(天草)四郎時貞を盟主に蜂起し、島原の原城にたてこもって幕府・諸藩兵と戦い、全員誅殺された大農民一揆。天草一揆ともいう。この一揆に対するこれまでの評価には、(一)当時の幕藩権力以来のキリシタン宗門一揆説、(二)当時は少数意見であったが、明治以降教会関係史家が首唱し、やがて一揆史研究の高まりの中でほぼ定説化した領主苛政に対する農民一揆説、(三)両説の融合論がある。

〔一揆の原因〕

島原・天草両地方ともに見るべき耕地はなく、古くから漁業・対外貿易・出稼ぎなど、東シナ海への依存度が高かった。島原藩は表高四万石のところ、有馬氏の内検で約七〇%が打ち出され、そのあと、元和二年(一六一六)入部した松倉重政は、有馬氏の日野江・原の両城を廃し、七年の歳月を費やして分不相応といわれた島原城を築き、寛永七年(一六三〇)の内検でさらに六四%を打ち出し、計十万石の草高として領民に課税し、幕府に対しても十万石の軍役を負担した。一方同地方は、旧主有馬晴信(プロタジオ)時代には日本カトリックの一大中心地で、その子直純の日向国延岡への転封時も随身せずに帰農する武士が多かったという土地柄だけに、重政の弾圧策は峻厳をきわめ、多くの殉教者を出しながら、多くは寛永初年までに棄教し、いわゆる転びキリシタンとなった。寛永八年重政の子の勝家が襲封したが、鎖国によって石高制外の収入源たる対外貿易を断たれ、また同十二年からは凶作が続いた。当時大村牢にあったポルトガル人イルマンのドアルテ=コレアや、オランダ平戸商館長クーケバッケルの報告によれば、あらゆる生産物や生活手段に課税し、未進の取立ての厳しさは言語に絶し、このための一揆だという。だが、たとえば貢租減免などの世俗的要求も信仰による抵抗と見なされ、キリシタン取締りを口実に誅求が正当化されるという特殊な条件が存在した。

〔一揆の経過〕

寛永十四年十月二十五日ごろ、島原南部の有馬地方で農民が代官を殺害して一斉に蜂起した。蜂起の契機は、十日ほど前から活発化していたキリシタン的動きの取締りとも、あこぎな年貢未進の取立てともいい、一揆勢のキリシタン的様態は、領主の苛政に関する幕府の検断を引き出すための策略という情報もあった。ともあれ、つぎつぎに寺社を焼き、二十七日には城下に放火して島原城を襲い、一揆は全藩域に拡大した。天草でも同二十七日ごろから益田四郎の出身地大矢野島を中心に蜂起し、応援の島原勢と合流した三、四千人は、十一月十四日本渡で富岡城代三宅藤兵衛重利を敗死させ、さらに天草ほぼ全域を一揆に巻き込みながら、同十九日から四日間にわたり藩権力の拠点富岡城を攻撃したが、ついに本丸を抜けず、それぞれの本拠に撤退した。これを境に、キリシタンになることを強制された「新きりしたん」の村々は一揆の戦列を離れ、島原でも西・北部では庄屋が切り崩されると村全体が藩側につく現象がみられた。これよりさき、一揆の報は折から参府中の両藩主を通じて幕府に達した。一方求援の使者が近隣藩に遣わされたが、諸藩では『武家諸法度』を守って自領境界にとどまり、指示を幕府に仰いだ。幕府は宗門一揆と規定し、両藩主を帰領させ、上使として板倉重昌を派遣し、これに佐賀・久留米・柳川・島原藩を付け、天草には熊本藩兵をあてることにした。上使・諸藩兵の島原到着は十二月五日で、その原城包囲前に、両領の一揆継続派は石垣だけの廃城に応急の手を加えてたてこもった。これは、個別領主に対する在郷の一揆から、将軍権力そのものとの対決、一切の世俗的妥協を排した宗門一揆への質的転換といえる。籠城者数は『稿本原城耶蘇乱記』の、天草勢を含め二万七千七百五十四人というのが実態に近いと思われる。上使重昌は、翌十五年元旦に四藩兵を督して二度目の総攻撃を敢行したが、大敗し戦死した。本来戦後処理の上使であった松平信綱は、正月四日に着陣すると戦術を変え、全九州の大名を動員し、仕寄り構築、投降勧告、オランダ商館長の参戦砲撃、長崎唐人や金掘りを使った爆破計画などで、城中の食糧欠乏を待ち、ついに二月二十八・二十九日の総攻撃で、「返忠(かえりちゅう)」の絵師山田右衛門作を除いて全員を殺害し乱は終った。一揆の全過程を通じて、庄屋層や帰農武士が中世的な「小村」を単位に和戦の指導権を握ったこと、クルス(十字架)を押し立てて結束の強化をはかり、両地方では教会破却後もキリシタンの組(講)が村落機構と併存したことから、前幕藩制的「初期一揆」の側面が強い。

〔一揆の影響〕

乱後、幕府は松倉勝家を改易(のち斬刑)して譜代の高力忠房を入れ、天草を没収(山崎家治の治世三年ののち天領化)し、軍紀違反の鍋島勝茂ほかを処罰する一方、松平信綱を増転封し、彼を中心に幕閣機構を確立した。キリシタン邪教観は意図的に増幅され、『武家諸法度』の解釈を、一揆には臨機応変に越境赴援して圧殺するよう改め、また大目付の宗門改役を設けた。寛永十六年にはこの乱を理由にポルトガル貿易を断絶し、鎖国を完成したとされる。

〔主要史料〕

一揆側自身の記録は皆無で、前掲ドアルテ=コレアとクーケバッケルの報告(『長崎県史』史料編三所収)を除き、他は投降者の証言・落首を含めて、すべて体制側の筆になる。これらを最も多く収録するのは林銑吉編『島原半島史』中巻(昭和二十九年(一九五四)刊)で、島原有馬町の『別当杢左衛門覚書』、『肥前国有馬古老物語』、『山田右衛門作口書写』や、松倉家士の『林小左衛門覚書』『佐野弥七左衛門覚書』、『島原原之城兵乱之記』『島原一揆松倉記』、唐津藩士の『並河太左衛門記』(抄)など乱後の現地人記録、大村藩士の『島原一乱家中前後日帳覚』、熊本藩士の『肥前国有馬戦記』、久留米藩士の『原陣温故録』、柳川藩主立花宗茂の『立斎島原戦覚書』、福岡藩の『黒田家出勢人数並手負討死聞書』、佐賀藩の『有馬記録』『有馬之役』、延岡藩の『有馬五郎左衛門記』『松竹吉左衛門筆記』などの近隣諸藩の従軍記録、松平信綱の臣長谷川源右衛門の留書『肥前国有馬高来郡一揆籠城之刻々日記』、後世の編纂史料である『高来郡一揆之記』、島原藩士川北重熹編『原城紀事』、村井昌弘『耶蘇天誅記』、金井俊行『稿本原城耶蘇乱記』などを収める。このほか『島原記』や、信綱の子輝綱の従軍日記『島原天草日記』(『続々群書類従』史伝部)があり、また村井一甫編『切支丹御退治記』五十冊(内閣文庫所蔵)は、幕末に幕府・諸大名家史料やそれまでの編纂物などの記事を日付順に配列集大成したものである。関係書翰・帳簿など、原文書が最も豊富に残っているのは熊本藩で、主として熊本大学附属図書館永青文庫に所蔵され、かなりのものが『熊本県史料』近世篇三巻、未刊の『細川家記』(東大史料編纂所所蔵、草稿本)などに収められている。佐賀藩の記録も多いがほとんど未刊で、佐賀県立図書館・佐賀大学・同県多久市立図書館など支藩や邑別に散在する。その他隣接諸藩もほぼ同様。史料としての絵図は、上記諸機関のほか、長崎県立図書館、同県南高来郡の南有馬町公民館、三重県桑名市の鎮国守国神社(柳川藩史料)、大阪市大淀区の南蛮文化館などにあるが、慶応義塾図書館所蔵「寛永十五年肥前島原陣之図」を第一に推したい。
→益田時貞(ますだときさだ)
[参考文献]
岡田章雄『天草時貞』(『人物叢書』五一)、助野健太郎『島原の乱』、中村質「島原の乱と鎖国」(『(岩波講座)日本歴史』九所収)、同「島原の乱と佐賀藩」(『九州文化史研究所紀要』二四)、鶴田八洲成「島原における一揆発端の事件の分析」(『熊本史学』三二)、深谷克己「「島原の乱」の歴史的意義」(『歴史評論』二〇一)
(中村 質)


日本大百科全書
島原・天草一揆
しまばらあまくさいっき

天草一揆、島原の乱などともいう。1637年(寛永14)10月下旬から翌年2月下旬にかけて、九州の島原半島南部と天草諸島のキリシタン農民が主体となり、キリシタン信仰の復活、租税の重圧からの解放を意図して、幕藩権力に抗戦した一揆。
[煎本増夫]

一揆の発端と原因

1637年10月末、肥前国(ひぜんのくに)(長崎県)島原領で、ふたたびキリシタンとなった農民が、城下と周辺村々に放火、島原城を包囲し、天草(熊本県)でも大矢野島(おおやのしま)、上津浦(こうつうら)で同様の蜂起(ほうき)があった。ことの起こりについては異説がある。一つは、島原領有馬(ありま)村で棄教したはずのキリシタン農民が、キリストの絵像を掲げて礼拝を行っていたところに、代官が踏み込み絵像を引き破ったため、これを殺害したことによるとする説。他は代官殺害を、キリシタンの行為ではなく、年貢未納の農民に対する島原藩の誅求(ちゅうきゅう)(水牢(みずろう)、「ミノ踊り」などの拷問)がきっかけであるとする説である。従来の定説は後者で、キリシタン弾圧に対決する宗教一揆の外被をかぶっているものの、本質は幕藩領主階級による収奪に対する百姓一揆で、形態としては土豪一揆(最近では惣百姓(そうびゃくしょう)一揆説が有力)とする。しかし乱の発端から終結への経過をみると、信仰上の結束を単に外被とする見方だけでは乱の本質を解明できず、近時、宗教一揆面の内容を見直す説が出されている。
[煎本増夫]

一揆の背景

一揆の起こった島原・天草地方は日本のキリシタンの中心地であった。とくに豊臣秀吉(とよとみひでよし)の宣教師追放後、国内の宣教師が当地に入り込むことによりキリシタン人口が増大した。追放令前の2万人のキリシタンが7万人に達し、修道院、司祭館、神学校が置かれたという。これには、島原半島南部を領有したキリシタン大名有馬晴信(ありまはるのぶ)の保護政策があった。晴信は、イエズス会と一体的関係にあったポルトガル貿易の条件として、自領内での布教を許可したのである。この傾向は天草氏など天草諸島の領主においても同様である。宣教師追放令後の島原・天草地方は皮肉にもキリシタン王国化の様相をもつに至ったのである。ところがこの状況は江戸幕府の鎖国実施のなかで一変した。幕府は慶長(けいちょう)(1596~1615)末年から元和(げんな)年間(1615~1624)にかけてキリシタン禁制を強化し、3代将軍家光(いえみつ)はいっそう厳しい弾圧を行った。当然、キリシタンの中心地の島原・天草では、島原藩主松倉重政(まつくらしげまさ)と唐津(からつ)藩主寺沢堅高(てらさわかたたか)によってすさまじい拷問がキリシタンに課せられた。これにより1633年(寛永10)前後までに多数のキリシタン農民が棄教し、一揆前の段階では、表面的にはキリシタン信仰が消滅したかにみえた。一方、寛永(かんえい)10年代に入って、島原領では大風雨、日照りで凶作が続き飢饉(ききん)となった。これを印象づけるかのように、朝焼け、夕焼けがとくに鮮やかに見え、桜が狂い咲く天変地異現象が伝えられている。それにもかかわらず、島原藩は租税を軽減することなく年貢納入を促進した。同藩は1636年(寛永13)の江戸城公儀普請(こうぎふしん)、さらに参勤交代、江戸在府中の出費が重なって財源が逼迫(ひっぱく)していた。キリシタン狩りをする一方、租税を高く課し、未進米の収取を強化せざるをえない状況にあった。島原領民は宗教面で弾圧され、生活面では飢え死にの一歩前にあった。天草においても同じ状態であったと考えられる。
[煎本増夫]

一揆の構成と展開

一揆に参加したのは島原・天草の居住民すべてではない。島原領で一揆に参加したキリシタンの多くは、従来キリシタン信仰のもっとも盛んな島原半島南部の海岸沿いの「南目(みなみめ)」の村々であった。一揆勢のなかには「むりなり(無理成)のもの」――藩側からみて一揆方が強制的に組み入れた者がいたという。天草一揆勢は大矢野島・上津浦の元キリシタン農民が主体で、一揆拡大のなかで周辺農民を巻き込み勢力を発展させた。一揆を終始指導したのは大矢野島に本拠をもつ天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)とその一味で、合戦など作戦の指揮者は四郎の父益田甚兵衛(ますだじんべえ)といわれる。四郎一味は島原・天草の元キリシタンの大庄屋(おおじょうや)・庄屋にキリスト教の復活を策動し一揆の蜂起を工作したのである。原城籠城(ろうじょう)時の一揆軍の総勢は男女あわせて3万7000人、そのうち実戦参加者は1万3000人、浪人が40人といい、浪人の年齢は50~60歳で出身は不明という。一揆軍の主体は農民であった。一揆勢は村単位に各城郭に配置され、大庄屋・庄屋が「惣頭(そうがしら)」としてこれを統率した。一揆軍は軍事的に編成されていたのである。島原一揆勢は幕府の鎮圧軍の出動を予想して、原城に集結する間に、領内の藩庫から食糧などを略奪して抗戦に備えた。天草一揆勢を指導した四郎一味は、当初、島原一揆勢と合流して長崎を占拠する計画であったが、唐津藩兵の出撃によってこれと対戦し、島原一揆勢の応援もあって、富岡城代三宅藤兵衛(みやけとうべえ)を敗死せしめ、富岡城を包囲するに至った。唐津藩兵は軍船を本国に帰すなど背水の陣で防戦するうちに、一揆勢は弾薬も少なくなり退散した。そして唐津藩の反撃、肥後細川藩の出兵を目の前にして、大矢野・上津浦一揆衆は海路、原城に入城し島原一揆勢と合流した。
[煎本増夫]

原城落城

幕府は島原・天草一揆蜂起の通報で初めは板倉重昌(いたくらしげまさ)を、続いて老中松平信綱(まつだいらのぶつな)を上使として派遣した。九州の諸大名は武家諸法度(ぶけしょはっと)によりかってに軍を出動させることができず、幕府の指示を待っていた。一揆鎮圧遅延のゆえんである。重昌は1638年(寛永15)1月1日の総攻撃で戦死。信綱はオランダ船からの艦砲射撃など奇策を行ったが、基本的には「干殺(ひごろ)し」(兵糧攻め)作戦をとり、一揆勢の食糧欠乏の状況をみて、同年2月27日総攻撃をかけた。一揆民は老人、女子、子供に至る非戦闘員まで大半が殺され、翌28日落城した。戦後、島原城には譜代大名高力忠房(こうりきただふさ)が入部、松倉勝家(重政の子)は斬罪(ざんざい)に処せられ、寺沢堅高は天草4万石を没収された。幕府は改めて大名・旗本領におけるキリシタン改めの強化を指示し、鎖国を祖法とする決意を固めたのである。
[煎本増夫]

島原・天草一揆(島原半島・天草諸島要図)[百科マルチメディア]
島原・天草一揆(島原半島・天草諸島要図)[百科マルチメディア]
©小学館ライブラリー


改訂新版・世界大百科事典
島原の乱
しまばらのらん

江戸初期の1637-38年(寛永14-15)に肥前島原藩と同国唐津藩の飛地肥後天草の農民が,益田時貞(天草四郎)を首領に,キリシタン信仰を旗印としておこした百姓一揆。天草の乱ともいう。領主松倉・寺沢両氏の重税は有名であるが,年貢減免等の世俗的要求でも,かつてキリシタンの中心地であったがゆえに,信仰による抵抗にすりかえ,さらなる弾圧と収奪が正当化されたところに〈苛政〉の特質があった。加えて相つぐ凶作のため,終末観念や救世者出現の期待は急速に広まった。10月25日島原半島南部に端を発した一揆は,翌26日島原城を猛攻して落城の危機に追い込んだ。藩では急を参府中の藩主松倉勝家に報ずるとともに,近隣諸藩に救援を求めた。しかし諸藩は幕府の指示を待って動かず,一揆は4万石の藩全域に及んだ。27日には有明海をはさんだ天草大矢野島でも蜂起し,やがて島原勢と合流して城代三宅藤兵衛を敗死させ,天草4万石のほぼ半ばを席巻して富岡城を囲み(11月19~23日)落城寸前にまで追いつめた。一揆の報が江戸に達すると,キリシタン一揆として事態を重視した幕府は,板倉重昌を上使とし,佐賀,久留米,柳河の3藩に出動を命じた。彼らが島原に到着する12月5日の直前,かなりの村々は領主側に転じたが,島原南部諸村と天草の一部の老幼男女2万数千人は,石垣だけの廃城となっていた旧領主有馬氏の原城にたてこもり,12月10日以降一揆の第2段階をむかえた。つまり居村を根城にした個別領主との農民一揆から,幕府権力そのものと対決する宗門一揆への転換である。

 板倉重昌は,重ねての上使として老中松平信綱の派遣を知ると,その到着前に落城させるべく38年元旦に強引な総攻撃を命じ,みずからは討死した。1月4日に着陣した信綱は,十分な陣地構築と兵粮攻めに転じ,九州全域の藩主自身と備後福山の水野勝成が参戦し,総勢十数万,中国,四国の諸藩にも出動準備が命ぜられた。また平戸のオランダ商館長に命じて船砲を打ち込ませ,長崎在住の明人や町人の参戦,矢文や捕われの四郎の縁者等による投降勧告も続けられた。しかし城内の結束は固く,ついに食糧等が尽き果てた2月27,28日の総攻撃で全員殺害された。一方幕府側も攻城の期間を通じて死者2000余,負傷1万以上をかぞえ,抵抗の激しさを物語っている。この乱を乗り切った幕府は,信綱を中心に幕閣機構を確立し,松倉勝家に斬罪,寺沢堅高に天草没収,軍紀違反の大名・旗本に閉門を科す一方,禁教の強化をてこに農民統制を強め,ポルトガル貿易禁止にふみ切り(1639)鎖国政策を大きく前進させた。今日,宗門一揆説より農民一揆説が有力であるが,蜂起当初諸藩が探った情報によると,転びキリシタンの〈立上り〉とする宗門一揆説のほか,領主の苛政原因説,さらに信仰を掲げるのは上使の下向を引き出して領主の失政を越訴する策謀であるとする偽装宗門一揆説もあった。
[中村 質]

[索引語]
益田時貞 天草四郎 天草の乱 キリシタン 松倉勝家 板倉重昌 原城 松平信綱
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島原の乱(島原・天草一揆)の関連キーワードで検索すると・・・
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1. しまばら の 乱(らん)
日本国語大辞典
寛永一四年(一六三七)一一月から翌年二月にかけて、肥前国高来郡島原の原城に籠ってキリシタン教徒と農民が反乱した一揆。幕府のキリシタン弾圧と島原藩主松倉勝家の執政 ...
2. 島原の乱
世界大百科事典
江戸初期の1637-38年(寛永14-15)に肥前島原藩と同国唐津藩の飛地肥後天草の農民が,益田時貞(天草四郎)を首領に,キリシタン信仰を旗印としておこした百姓 ...
3. しまばらのらん【島原の乱】
国史大辞典
[参考文献]岡田章雄『天草時貞』(『人物叢書』五一)、助野健太郎『島原の乱』、中村質「島原の乱と鎖国」(『(岩波講座)日本歴史』九所収)、同「島原の乱と佐賀藩」 ...
4. 島原の乱
日本史年表
1637年〈寛永14 丁丑③〉 10・25 島原の乱 起こる(実紀)。 1637年〈寛永14 丁丑③〉 11・9 幕府、 島原の乱 鎮圧のため、 板倉重昌 ・ ...
5. 島原の乱
日本大百科全書
→島原・天草一揆 ...
6. しまばら‐の‐らん【島原の乱】
デジタル大辞泉
⇒島原天草一揆  ...
7. 柳生十兵衛七番勝負 島原の乱
デジタル大辞泉プラス
日本のテレビドラマ。放映はNHK(2006年4月~5月)。時代劇。全7回。2005年に同局で放映された『柳生十兵衛七番勝負』の続編。脚本:池田政之。音楽:梅林茂 ...
8. あいぜんいん【愛染院】熊本県:熊本市/熊本城下/京町懸
日本歴史地名大系
忠利より預かった弘法大師真筆の愛染明王の絵像一幅を所持すると伝える(国誌)。境内には住職・国友家や島原の乱で戦死した松岡久左衛門の墓など、寛永期(一六二四―四四 ...
9. あいつむら【合津村】熊本県:天草郡/松島町
日本歴史地名大系
圏内にあり、そのコンフラリヤ(信徒の講)に属したと推定できる。寛永一四年(一六三七)の天草・島原の乱には村民のほとんどが一揆に加わり、同年一一月六日の天草にて切 ...
10. あいつむら【愛津村】長崎県:南高来郡/愛野町
日本歴史地名大系
江戸時代は島原藩領の北目筋に属する。慶長国絵図に「会津」とみえ、高五五〇石余。寛永一四年(一六三七)の島原の乱では千々石村(現千々石町)庄屋から状況の注進を受け ...
11. あいづ-げんさつ【会津玄察】
日本人名大辞典
1611−1638? 江戸時代前期の医師。慶長16年生まれ。小西家につかえ,のち天草大矢野(熊本県)にすむ。島原の乱では蘆塚忠右衛門らとともに軍奉行となり,幕府 ...
12. アイヌ【Ainu】画像
国史大辞典
抱く者であった。遠地の者はかえってこれによって交易が絶えるのをおそれ、友好的な態度さえ示した。この乱は島原の乱以来の事件で、世の注目を蝦夷地に集める契機となった ...
13. あかさきむら【赤崎村】熊本県:天草郡/有明町
日本歴史地名大系
端の村。村名は海に向かってそびえる赤肌の断崖にちなむという。慶長国絵図に村名がみえる。天草・島原の乱時には全村民が一揆に加わり、乱後無人の亡所と化した。栖本組に ...
14. あかぼし-ないぜん【赤星内膳】
日本人名大辞典
関ケ原の戦いに敗れて改易となった織田信長の孫織田秀信(ひでのぶ)の遺臣。寛永14年(1637)島原の乱に参加,幕府軍とたたかったという。 ...
15. あきづきはん【秋月藩】
国史大辞典
十三石が、本藩領穂波郡二ヵ村・夜須郡一ヵ村千七百七十三石と「御内証替」になった。同十五年正月島原の乱に出陣。その二百年祭に藩主長元が命じて画かせた島原陣屏風は著 ...
16. あきづきはん【秋月藩】 : 秋月藩/(一)
国史大辞典
十三石が、本藩領穂波郡二ヵ村・夜須郡一ヵ村千七百七十三石と「御内証替」になった。同十五年正月島原の乱に出陣。その二百年祭に藩主長元が命じて画かせた島原陣屏風は著 ...
17. あさいむら【浅井村】福岡県:久留米市/旧山本郡地区
日本歴史地名大系
余、開高五斗余・物成高一斗余(「本地開本免帳」中村家文書)。旧高旧領取調帳では高二〇四石余。島原の乱に際し、百姓三人が参陣した(上野家文書)。宝暦三年(一七五三 ...
18. あさひやま【朝日山】佐賀県:鳥栖市/村田村
日本歴史地名大系
日山―筑後国御笠郡の日尾―四王寺山(大宰府裏)火の尾へと継いでいたもののようである。近世では島原の乱当時に使用されたらしく、幕末には文化五年(一八〇八)英艦フェ ...
19. あしきたぐん【葦北郡】熊本県
日本歴史地名大系
いたが、下級役人化した彼らと違い、葦北地侍は国境警備のため武備を整え特権も守り抜いた。郡筒は島原の乱後葦北郡のみに残された制度である。彼らは新田開発や道路・水路 ...
20. あしづかちゅうえもん【蘆〓忠右衛門】
国史大辞典
?―一六三八 島原の乱の指導者の一人。生年は明確でないが、一説では天正十六年(一五八八)に生まれ、小西行長の奉公人であったともいうが、有馬修理大夫晴信の旧臣で ...
21. あしづか-ちゅうえもん【蘆塚忠右衛門】
日本人名大辞典
キリシタン大名有馬晴信(はるのぶ)の旧臣。小西行長につかえたともいう。寛永14年(1637)島原の乱がおこると,農民軍指導者のひとりとして原城への籠城(ろうじょ ...
22. あだちやま【足立山】福岡県:北九州市(旧豊前域)/小倉北区
日本歴史地名大系
り、長州側へは火の山(現山口県下関市)につなぐ定であった(小倉市誌)。寛永一五年(一六三八)島原の乱に派遣された老中松平信綱が「足立山」で鹿狩を行った(「忠真公 ...
23. 阿部氏画像
日本大百科全書
大久保忠隣(おおくぼただちか)らとともに、旗本や5か国に在住する家臣団を管掌する任にあたった。嫡子正次は島原の乱時の大坂城代で、適切な処置により賞せられた。その ...
24. 天草[市]
世界大百科事典
漁は有名で,タイ,ハマチ,クルマエビの養殖が盛ん。南西部の大島子(おおしまご),小島子一帯は島原の乱の際の殉教戦発端の地である。町内にはキリシタン遺跡が多い。  ...
25. あまくさ‐いっき【天草一揆】
日本国語大辞典
首領とする、天草・島原のキリシタンが起こした乱。一時幕府勢は苦戦したが、同一五年鎮圧。天草の乱。島原の乱。*仮名草子・浮世物語〔1665頃〕一・五「肥前の天草一 ...
26. あまくさいっき【天草一揆】
国史大辞典
島原の乱(しまばらのらん)  ...
27. あまくさぐん【天草郡】
国史大辞典
圧が始まり、慶長八年(一六〇三)から天草を支配するようになった唐津城主寺沢氏のもとで、有名な島原の乱が起った。乱後は幕府の天領となり、初代の代官は鈴木重成で代官 ...
28. あまくさぐん【天草郡】熊本県
日本歴史地名大系
当時天草の生産力は推定二万石程度と目され、実態をはるかに上回るこの石高格付がのちに寛永一四年(一六三七)天草・島原の乱の一因となるのである。なお「島鏡」によれば ...
29. あまくさけん【天草県】画像
国史大辞典
明治時代初期、肥後国(熊本県)天草地域に置かれた県。天草地域は島原の乱以後、寛文四年(一六六四)から十一年までの七年間を除き幕府領であった。明治維新によって明 ...
30. 天草下島
世界大百科事典
16世紀にキリスト教が伝わり,旧河浦町に1592年(文禄1)天草学林が建てられキリシタン布教の中心となった。島原の乱には幕府軍と信徒との間に富岡城攻防の激戦があ ...
31. 天草諸島
世界大百科事典
2万石として過大に評価し,高い課税で島民を苦しめ,後の大乱の原因をつくった。1637年(寛永14)に起こった島原の乱で島は荒廃し人口は激減した。その後天草は一時 ...
32. あまくさ‐しょとう[‥ショタウ]【天草諸島】
日本国語大辞典
熊本県南西部の島々。上島、下島、大矢野島ほか、一二〇余の島々から成る。室町時代末以後キリスト教が広がり、島原の乱の後は幕府直轄地となる。雲仙天草国立公園の一部。 ...
33. あまくさ-しろう【天草四郎】
日本人名大辞典
?−1638 江戸時代前期,島原の乱の首領。天草甚兵衛の子。寛永14年圧政とキリシタンの弾圧に対して島原と天草に一揆(いっき)がおこると,小西行長の遺臣らにおさ ...
34. あまくさしろう【天草四郎】
日本架空伝承人名事典
益田時貞。江戸初期、島原の乱の首領とされる少年。居住地から江辺四郎、大矢野四郎、一揆の首領として天草四郎太夫時貞、天の四郎秀綱などと呼ばれ、洗礼名はジェロニモと ...
35. あまくさしろうせいどうあと【天草四郎聖堂跡】熊本県:天草郡/大矢野町/中村
日本歴史地名大系
[現]大矢野町中 西に有明海を望む字宮津にある。寛永一四年(一六三七)天草・島原の乱時、天草四郎(益田四郎時貞)は当聖堂を根拠に天草各所へ往来し、キリシタンへの ...
36. あまくさちょう【天草町】福井県:福井市/福井城下
日本歴史地名大系
福井城の東方郭内、鷹匠町の南方、奥平門内南にあり、東西に走る通りに沿った町。寛永一四年(一六三七)島原の乱に派遣された藩士一二名が帰還して賜った屋敷町。当町の東 ...
37. あむら【阿村】熊本県:天草郡/松島町
日本歴史地名大系
東・西・南を囲まれ、北は阿村港を隔てて大矢野島と相対している。寛永一四年(一六三七)の天草・島原の乱には村民のほとんどが一揆に加わり、同年一一月六日の天草にて切 ...
38. あらまきみょう【荒牧名】長崎県:南高来郡/南串山町/南串山村
日本歴史地名大系
・三六メートル)に「里阿ん」、切妻蓋石型墓碑に同年銘、扁平蓋石型墓碑に同一七年銘が刻まれる。島原の乱後に平戸から竹下氏が門山に、大村より森下氏が白頭に移住したほ ...
39. ありあけまち【有明町】熊本県:天草郡
日本歴史地名大系
中世上津浦氏が割拠し、キリシタン全盛期には南蛮寺が建てられた。寛永一四年(一六三七)の天草・島原の乱時、天草における初戦が展開され、乱後、移民によって各村を再建 ...
40. ありえ【有家】
国史大辞典
ミナリヨ、また豊後府内のコレジヨが一時この地に移されたこともある。のち寛永十四年(一六三七)島原の乱勃発の際には農民蜂起の中心となった。 (岡田 章雄)  ...
41. ありえまちむら【有家町村】長崎県:南高来郡/有家町
日本歴史地名大系
陰刻した二基のキリシタン墓碑(県指定史跡)がある。小川の榎田には入母屋式のキリシタン墓碑(県指定史跡)がある。島原の乱後には小川の熊野神社などが復興されている。 ...
42. ありえむら【有家村】長崎県:南高来郡/有家町
日本歴史地名大系
「ありまの内有江村」生れで、元和四年長崎五島町に来住し、同時代に改宗したという。寛永一四年の島原の乱の直前、南目筋の諸村の庄屋らが有家村の庄屋甚右衛門の家に集ま ...
43. ありたむら【有田村】長崎県:南高来郡/有家町
日本歴史地名大系
十四日類子」と刻まれる平形墓碑など二基がある(うち一基は県指定史跡)。類子はルイスであろう。島原の乱後に山川の温泉神社などが復興されている。江戸時代は島原藩領の ...
44. ありま【有馬】
国史大辞典
は信徒の弾圧迫害が繰り返された。寛永十四年(一六三七)重政の子勝家の誅求に堪えかねて勃発した島原の乱の発端はこの地に起った農民の蜂起であった。 (岡田 章雄)  ...
45. ありまころうものがたり【有馬古老物語】
国史大辞典
沈めたこと(マードレ=デ=デウス号事件、慶長十四年の誤り)、同十六年日向転封のこと、寛永十四年(一六三七)の島原の乱、同十五年松倉家の滅亡に至るまで三十一年間の ...
46. ありま-ただより【有馬忠頼】
日本人名大辞典
1603−1655 江戸時代前期の大名。慶長8年生まれ。有馬豊氏の次男。島原の乱に出陣,功をたてる。寛永19年父の跡をつぎ,筑後(ちくご)(福岡県)久留米(くる ...
47. ありまとようじ【有馬豊氏】
国史大辞典
丹波福知山六万石を得た。家康の養女を妻とし、元和六年(一六二〇)久留米二十一万石に移された。島原の乱に出征し、寛永十九年(一六四二)九月三十日久留米に没した。七 ...
48. 有馬直純
世界大百科事典
強化し,殉教者を多く出す。14年日向国県5万3000石に転封。そのとき,家臣を多く残したが,島原の乱で旧領民を攻めた。森山 恒雄 有馬晴信 ...
49. ありまなおずみ【有馬直純】
国史大辞典
松平伊豆守信綱に従って功労をたてた。寛永十八年(一六四一)四月二十五日、大坂にて没す。五十六歳。→島原の乱(しまばらのらん) [参考文献]『有馬晴信記』、『駿府 ...
50. ありま-なおずみ【有馬直純】
日本人名大辞典
馬家初代となった。5万3000石。幼時洗礼をうけたが幕府の禁令にしたがい棄教,旧領でおこった島原の乱で功をたてる。寛永18年4月25日死去。56歳。洗礼名はミゲ ...
「島原の乱(島原・天草一揆)」の情報だけではなく、「島原の乱(島原・天草一揆)」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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禁門の変(蛤御門の変)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
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