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  11. 方広寺鐘銘事件

方広寺鐘銘事件

ジャパンナレッジで閲覧できる『方広寺鐘銘事件』の国史大辞典のサンプルページ

方広寺鐘銘事件
ほうこうじしょうめいじけん
豊臣秀頼による方広寺大仏殿再興に際しひき起され、大坂冬の陣の原因の一つとなった事件。豊臣秀頼は、亡父秀吉追善供養のため、慶長七年(一六〇二)、方広寺大仏殿(東山大仏堂)の再建に着手したが、年末の失火で頓挫、あらためて片桐且元を奉行に七年後に事業を再開、同十五年六月十二日地鎮祭、八月二十二日立柱式にこぎつけた。大工事で出費も莫大なものであったが、最後に、慶長十九年四月十六日、高さ一丈七寸(三・二四メートル)、口径九尺五寸(二・八八メートル)、銅使用量一万七千貫(六三・七五トン)という巨鐘の鋳造をもって無事竣工した。五月二十一日、大仏開眼供養と堂供養とを併せて八月三日に行うことが決まり、駿府の徳川家康の了承も得て準備がすすめられた。ところが七月十八日に家康から開眼供養と堂供養の分離案が出され、ついで同二十六日、鐘銘と棟札の文章に疑義ありとして供養の延期を命ぜられた。特に、鐘銘の中の「国家安康」「君臣豊楽」の二句がヤリ玉にあげられ、安の一字で家康を分断した上、豊臣を君として楽しむとの底意が隠されていると難詰、銘文を草した禅僧文英清韓と且元が弁明のため八月十三日駿府へ赴いたが、全く耳をかさなかった。それのみか、大坂城への浪人雇用を責め、九月に入るとさらに豊臣氏に対し、国替えまたは淀殿か秀頼の江戸下向のいずれかに応ぜよと強要するに至り、ついには大坂冬の陣が勃発した。なお、この事件の原因となった巨大な梵鐘は、明治十七年(一八八四)建立の方広寺鐘楼に納められて現存している。→大坂の陣(おおさかのじん)
[参考文献]
『大日本史料』一二ノ一三・一四、岡本良一『大坂冬の陣夏の陣』(『創元新書』一六)
(渡辺 武)
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1. ほうこうじしょうめいじけん【方広寺鐘銘事件】
国史大辞典
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2. いしん-すうでん【以心崇伝】
日本人名大辞典
ち)院の靖叔徳林の法をつぎ,慶長10年(1605)同寺住持。徳川家康につかえ,外交事務,方広寺鐘銘事件や寺社行政,諸法度の起草,キリスト教の禁圧,紫衣(しえ)事 ...
3. いたくらかつしげ【板倉勝重】
国史大辞典
とに成功。また、豊臣氏や西国諸大名の動静は確実に家康に通報され、豊臣氏滅亡の原因となった方広寺鐘銘事件にも一役買ったらしい。大坂の陣では軍需品輸送の指揮に、秀忠 ...
4. 板倉重昌
世界大百科事典
江戸前期の譜代大名。三河国深溝城主。板倉勝重の三男。1603年(慶長8)徳川家康に仕え,近習出頭人として,方広寺鐘銘事件に関与するなど,家康に信任された。大坂冬 ...
5. いたくらしげまさ【板倉重昌】
国史大辞典
松平正綱・秋元泰朝とともに近習出頭人となった。これは家康の信任が厚かったことを示すものである。同十九年方広寺鐘銘事件がおきると、家康の命を受けて上洛し、五山の僧 ...
6. いたくら-しげまさ【板倉重昌】
日本人名大辞典
1588−1638 江戸時代前期の大名。天正(てんしょう)16年生まれ。板倉勝重の3男。徳川家康につかえ,方広寺鐘銘事件では問題の鐘銘箇所をしらべて家康に報告, ...
7. おおくらきょうのつぼね【大蔵卿局】
日本人名大辞典
?−1615 織豊-江戸時代前期,淀殿(よどどの)の乳母。大野治長の母。慶長19年京都方広寺鐘銘事件で,淀殿の使いとして,豊臣秀頼の陳謝使片桐且元(かつもと)に ...
8. おおさかのじん【大坂の陣】
国史大辞典
家康は早くから弾丸に用いる鉛を購入し、戦争に備えていたようであるが、露骨に戦争を挑発したのはいわゆる方広寺鐘銘事件であった。徳川氏は豊臣氏の財力削減のためしきり ...
9. 御伽物語(仮名草子集) 546ページ
日本古典文学全集
ただいつのけぶりのたねなりし身の、ながらへなんほどばかり物ぐるほしきなけれ。 慶長十九年(一六一四)方広寺鐘銘事件を端緒とする、十月初めの籠城から十二月二十日 ...
10. 片桐且元
世界大百科事典
れ,大坂冬の陣の直前に大坂城を去り徳川家康にくみした。戦後,大和国などで4万石を領した。方広寺鐘銘事件など大坂の陣前後の彼の行動は,さまざまな憶測を呼んでいるが ...
11. かたぎり-かつもと【片桐且元】
日本人名大辞典
秀頼の補佐役となる。慶長6年大和(奈良県)竜田(たつた)藩主片桐家初代。2万8000石。19年方広寺鐘銘事件で摂津茨木城にしりぞいた。大坂の陣では徳川方につき, ...
12. かたぎり-さだたか【片桐貞隆】
日本人名大辞典
秀吉没後は豊臣秀頼につかえる。慶長6年大和(奈良県)小泉藩主片桐家初代となる。1万石。19年方広寺鐘銘事件で大坂城をさった兄にしたがい,摂津茨木城にうつった。寛 ...
13. くげしゅうはっと【公家衆法度】
国史大辞典
圧を開始、十八年には大久保長安一族やその関係者を処罰、十九年には大久保忠隣を改易、ついで方広寺鐘銘事件をひきおこして豊臣氏を滅亡に追い込んだ。このような一連の事 ...
14. てんかい【天海】
日本架空伝承人名事典
近世天台宗中興の祖といわれる。一六〇八年家康に招かれて駿府に赴き、金地院崇伝・林羅山と謀った方広寺鐘銘事件(大坂の陣のきっかけ)は有名。家康の死去の際は、その遺 ...
15. とよとみ-ひでより【豊臣秀頼】
日本人名大辞典
関ケ原の戦いののち65万石余の一大名に転落。慶長8年内大臣となり徳川秀忠の娘千姫と結婚。10年右大臣。方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川軍とたたかうが,大坂夏の陣に ...
16. ふゆのじん【冬の陣】 : 大坂の陣
国史大辞典
家康は早くから弾丸に用いる鉛を購入し、戦争に備えていたようであるが、露骨に戦争を挑発したのはいわゆる方広寺鐘銘事件であった。徳川氏は豊臣氏の財力削減のためしきり ...
17. ほうこうじ【方広寺】
国史大辞典
つくり再び巨鐘(重要文化財)をかける。なお大仏殿の旧地に豊太閤塔があり、門前に朝鮮人耳塚がある。→方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん) [参考文献]小瀬 ...
18. ほうこうじ【方広寺】 : 方広寺/(一)
国史大辞典
つくり再び巨鐘(重要文化財)をかける。なお大仏殿の旧地に豊太閤塔があり、門前に朝鮮人耳塚がある。→方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)  ...
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