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  11. 大久保利通(大久保一蔵)
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

国史大辞典
大久保利通
おおくぼとしみち
一八三〇 - 七八
明治維新の指導的政治家。諱は利済のち利通と改む。幼名は正袈裟、のちに正助・一蔵と称し、甲東(こうとう)と号す。天保元年(一八三〇)八月十日鹿児島藩士大久保次右衛門利世の長男として、鹿児島城下加治屋町に生まれる。母は同藩の蘭学者として名高い医師皆吉鳳徳の娘ふく子。家は城下士の下級、御小性組に属した。西郷隆盛の家とは同じ町内、同じ家格の父親同志は親しい仲であり、利通は三歳年上の西郷とあそび友達であった。父は、琉球館付役という卑職にあったが、鹿児島藩主島津斉興のあとつぎをめぐる御家騒動(高崎崩れ、またお由羅騒動と呼ばれる)には、斉彬を擁立しようとする高崎派に加わって、嘉永三年(一八五〇)鬼界島に流された。この事件が利通の政治思想に深い影響を与えた。同四年斉彬が藩主となると西郷・利通らの派は登用され、利通は安政四年(一八五七)西郷とともに徒目付となったが、安政の大獄直前の翌年七月に斉彬が病死し、藩内反対派がかつぐ忠義が藩主となり、その父久光が藩政をにぎると、西郷・利通らには不利となった。六年十一月利通は、岩下方平(まさひら)・伊地知正治・有馬新七ら四十数名と、精忠組と名づける尊王攘夷派を結成した。その領袖として、利通は、藩庁との抗争あるいは脱藩という方針をとらず、藩主をいだいての挙藩勤王の実現につとめた。彼が同志のなかの過激派の抑制にあたった功績が認められ、文久元年(一八六一)十一月三十二歳の時、異例の抜擢をうけ、勘定方小頭から小納戸役に昇進し、政務に参与することとなった。翌二年には、利通は久光の公武合体政策のため働いたが、翌年八月十八日の政変の後は、これまで久光の嫌忌をうけていた西郷が藩政に復帰したのとむすんで、次第に久光の意向をこえて藩の動向を反幕に傾けることに努めるようになった。慶応二年(一八六六)の第二回長州征伐には利通は西郷とともに反対し、四月家老岩下方平と相談し、藩主の名による出兵拒絶建白書を書き、これを幕府に提出した。同二年・三年彼は京坂にあり、岩倉具視とむすんで、倒幕のための朝廷工作にあたり、三年十月薩長両藩主父子あての討幕の密勅の実現のため暗躍した。ついで十二月の王政復古クーデターには、宮中に入って政変遂行の采配をふるった。明治元年(一八六八)正月以降の戊辰戦争には、西郷が幕軍追討の指揮をとって東国に転戦したのに対し、利通は京都で岩倉・木戸孝允とともに、天皇政府樹立の政略をめぐらした。この年正月の彼の浪華遷都の建白書は、在来の天皇のあり方を一変し「民の父母たる」実をあげるよう求めたもので、天皇制創始の職見をうかがうことができる。元年閏四月参与に任ぜられ、薩州派の首領として政務の中枢に参画した。同二年の版籍奉還、四年の廃藩置県にあたっては、積極論の木戸と慎重論の利通が協力することによって、中心的な役割を果たした。この間、利通は久光からも冷眼視され、藩士多数派からも支持を得られず孤立していたが、戊辰戦争凱旋後藩地にひきこもっていた西郷と久光・忠義父子を中央政局に引き出すために勅使の鹿児島派遣を請い、これによって廃藩置県の実現にこぎつけた。彼の政治勢力は、中央薩州閥の首領であること、官庁組織と官僚層を掌握することによって築かれた。四年六月大蔵卿となったが、この時民部省を廃してその主要業務を大蔵省に吸収し、財政・殖産興業・内政を一手ににぎる権限をもった。ついで廃藩置県直後、右大臣岩倉具視全権大使のもとで、参議木戸孝允とともに副使となり、十一月欧米巡回に出た。彼は欧米の文物を見学し、プロシアの宰相ビスマルクに感服したが、この洋行が、「宇内の大勢」を知るという政治指導者の箔をつけた。六年五月一行に先立って帰国したが、折から政府内では、参議西郷隆盛・同板垣退助らの征韓論が支配し、西郷を遣韓大使とする案が実現の寸前にあった。利通は内政整備の急を主張し岩倉・木戸・伊藤博文ら欧米巡回派とともに、これに反対し、十月には参議に就任して、閣議で西郷と対立した。太政大臣三条実美の病気を機会に、岩倉がその代理となって、征韓反対の方針を強行し、これを不満とする西郷・板垣ら征韓派五人の参議は辞職するに至った。これ以後、岩倉・大久保を中心として、政府の施政が行われた。六年十一月、新設の内務省の長官内務卿を兼任したが、この地位は警察から殖産興業にわたる内政を総括し、地方官を指揮する広汎な権限をもつものであり、世に大久保独裁といわれる時期を開いた。七年二月江藤新平・島義勇が佐賀の乱をおこすや、軍隊の指揮と反徒の処分の全権を委任されて佐賀に赴き、鎮定・処刑に冷徹果断の面目を発揮した。四月佐賀から帰京した利通は休む間もなく長崎に行き、台湾蕃地事務都督西郷従道と協議して、台湾出兵の実施を決断し、その跡始末のため八月全権弁理大臣として北京に赴き、わが出兵の「義挙」たることを清国に認めさせるのに成功した。八年に入ると、利通は、台湾出兵に反対して参議を辞していた木戸および征韓論で下野した板垣と妥協して政府の強化をはかり(大阪会議)、四月に漸次立憲制を立てるとの詔勅が出た。彼が立憲制を支持した考えは、六年十一月の意見書に表明されているが、その結論は、わが国の土地・風俗・時勢に従った独自の立憲制度を漸次順序を追って実施するというにあり、政府首脳の多数意見を代表していた。九年四月明治天皇は霞ヶ関に新築した利通の邸に行幸した。このことは、三条・岩倉の公卿に次ぐ元勲としての地位に立ったことを意味した。この年熊本の乱(神風連の乱)、秋月の乱、萩の乱と相つぐ士族暴動の鎮圧に苦心するとともに、他面茨城・三重の大農民一揆勃発の形勢にかんがみ、十二月地価百分の三の地祖を百分の二・五に引き下げる建言書を出し、翌年一月の詔勅でこれを実現し農民の慰撫をはかった。その上で、西郷の支配下にあった鹿児島県政に対する統制を強化し、反政府的な鹿児島私学校党に圧迫を加え、十年二月起った西南戦争に対しては、大阪にあって攻略の最高指揮をとった。この乱後、内政整備に施政の中心をおき、八月の内国勧業博覧会を主宰し、十一年三月「地方の体制等改正の儀」を建議し、その結果が七月の三新法公布として実った。しかし五月十四日、馬車で宮中に向かう途中、麹町清水谷で暴漢に襲われて死んだ。時に年四十九。特旨をもって右大臣正二位を贈られ、のち三十四年五月、従一位を追贈された。犯人は、大久保の独裁政治を憤る石川県士族島田一良ら六名であった。なお大久保の墓は東京都港区の青山墓地にある。大久保は、西郷隆盛・木戸孝允とともに、維新の三傑といわれた。彼は幕末には藩庁、維新後は中央政府と一貫して権力の座に連なり、ついに最高の実権者となった。この点で下野ないし反抗をくり返した木戸・西郷とちがっていた。西郷が悲劇の英雄として、生前も死後も郷党ひろく国民の敬愛をうけたのに対し、彼は冷徹な権力者と見なされ人気はなかった。しかし彼は、西郷・木戸の維新志士型の政治家と異なって、官僚組織を使って政策をたて実行する官僚政治家であり、日本的な近代政治家の原型を作った。
[参考文献]
勝田孫弥『大久保利通伝』、『大久保利通文書』(『日本史籍協会叢書』)、『大久保利通日記』(同)、立教大学日本史研究室編『大久保利通関係文書』
(遠山 茂樹)


日本大百科全書
大久保利通
おおくぼとしみち
[1830―1878]

幕末・明治前期の政治家。木戸孝允(きどたかよし)、西郷隆盛(さいごうたかもり)とともに「維新三傑」の一人。薩摩(さつま)藩下級武士の出身。正助、一蔵と称し、のちに利通と改め、また甲東(こうとう)と号した。その生涯は、幕末討幕派の下級武士から維新政府官僚に成長、転身する前半と、政府の最高の実権者として独裁体制を確立し、富国強兵のための開明的政策を順次施行した後半の2期に区分できよう。利通は文政(ぶんせい)13年8月10日鹿児島城下高麗(こうらい)町で生まれ、まもなく加治屋(かじや)町に移住。生家は西郷隆盛の家格と同じく、御小姓組(おこしょうぐみ)に属した。利通は17歳で記録所書役助に任ぜられたが、1849年(嘉永2)に起こった薩摩藩主の家督争いである「お由良(ゆら)騒動」(別に「高崎崩れ」ともいう)に巻き込まれ、父利世が流罪になったため、一家は困窮した。このとき利通は藩内の尊攘派(そんじょうは)下士たちと交わり、政治に開眼した。その後、同藩内の高崎派が支持する島津斉彬(しまづなりあきら)が家督を継いで藩の実権を握ると、父利世は赦免された。
 そのころ利通は、「名君」といわれた藩主斉彬のもとで西郷隆盛らと志を通じ、同藩の改革派下士層の中心として活躍を始めた。しかし、1858年(安政5)斉彬の死去、安政(あんせい)の大獄を契機に、利通は島津久光(ひさみつ)(斉彬の異母弟)のもとで藩の意見の統一を図り、公武合体運動を推進する方向で活躍した。久光の引き立てによって、利通は1860年(万延1)勘定方小頭(こがしら)、ついで御小納戸(おこなんど)頭取へ昇任し、藩政の中枢へ進出した。当時、彼は藩政指導層と下士層を結ぶかなめにあり、しだいに藩政の実権を掌握する立場に接近した。1866年(慶応2)、かねて西郷と提携して活躍していた利通は、長州藩士品川弥二郎(しながわやじろう)らとも結び、さらに討幕派公卿(くぎょう)の岩倉具視(いわくらともみ)をも引き入れ薩長同盟を締結するに及び、その立場は藩政の方針を超えて、公武合体から武力討幕へと転換するに至った。こうして利通らは、朝廷より薩摩藩あてに討幕の密勅を下賜させることに成功し、討幕派の有力者として王政復古の大号令発布を実現させ、明治維新の指導者となった。
 新政府の成立とともに、利通はその指導者の一人として、参与から徴士(ちょうし)そして参与内国事務局判事、さらに参議へ昇任して内政の中枢を握り、また木戸孝允らとともに、版籍奉還、ついで廃藩置県を断行した。当時、元討幕派公卿と薩長土肥などの旧西南雄藩出身者から構成される雄藩連合政権のもとで、大蔵省を拠点に木戸と結んでいた大蔵卿(きょう)大隈重信(おおくましげのぶ)の開明的姿勢と比べて、利通は保守的そして漸進的態度をとり、その政治勢力も木戸―大隈らのそれに一歩譲っていた。しかし廃藩置県の直前に、大蔵卿に就任すると、政府財政の基礎確立のため地租改正を提案し、のちに地租改正事務局総裁としてその事業にあたり、また富国強兵を目ざして、殖産興業政策を発足させることになる。それに先だって、1871年(明治4)、利通は、岩倉具視特命全権大使が率いる遣外使節団の米欧巡回に副使として加わり、米欧先進諸国を視察し、とくにイギリスでは工業と貿易の発展、プロイセンでは軍事力の拡充などに注目、強い衝撃を受けた。
 約1か年半余りの外遊から帰国した利通は、その対外経験から、国力充実の必要を説き、西郷らの征韓論を退け、彼らを下野させたのち、内政担当の中央官庁である内務省の新設を構想して、1873年にそれを発足させた。当時、同省は勧業、警保の2寮を中心に殖産行政と警察行政を担当、資本主義の育成と民衆運動に対する治安取締りにあたり、利通が参議内務卿として独裁支配を振るう基盤となった。いわゆる「大久保政権」とは、旧討幕派雄藩出身の政府官僚を中心に、一部の旧幕臣出身者などを含めて固めた内務省中心の大久保専制支配であり、最初の絶対主義統一政権であった。同省に依拠した彼は、一方で農林、牧畜部門などの在来産業に配慮した殖産興業改策を進め、そして他方で、西南戦争(1877)を通じて、旧盟友の西郷を支持する不平士族反乱軍を武力鎮圧するとともに、地租軽減の一時的譲歩で農民一揆(いっき)の高揚を回避し、1877年の政治危機を乗り越えた。
 幕末政争以来、利通の政治的行動は、終始権力の中枢に密着し、内務省開設以後は同省を基盤に独裁政治を進めた絶対主義官僚であったため、不平士族の島田一郎らに批判され、明治11年5月14日東京の紀尾井(きおい)坂で暗殺された。利通の政治的力量は、将来についての鋭い展望の能力と、現実に立脚した着実な漸進主義という点で、当時の政府官僚群のなかではもっとも優れていたが、反面、冷徹で非情な性格の持ち主でもあったといわれる。
[石塚裕道]

大久保利通[百科マルチメディア]
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岩倉使節団[百科マルチメディア]
大久保利通[百科マルチメディア]
全権岩倉具視(ともみ)と4人の副使。左から木戸孝允(たかよし)、山口尚芳(なおよし)、岩倉、伊藤博文(ひろぶみ)、大久保利通(としみち)。副使4人は断髪・洋服姿、岩倉は和服に洋靴を履く。サンフランシスコで撮影 ©小学館ライブラリー


改訂新版・世界大百科事典
大久保利通
おおくぼとしみち
1830-78(天保1-明治11)

幕末,明治初期の政治家。西郷隆盛,木戸孝允と並んで〈明治維新の三傑〉といわれる。薩摩藩士大久保利世の長男に出生。若年,開国後の緊迫した世情をうけて,薩摩藩尊王攘夷グループのリーダーとなり,1859年(安政6),大老井伊直弼(いいなおすけ)襲撃を計画したが未遂,しかし,これをきっかけに藩政実力者の島津久光の知遇を得て側近に抜擢(ばつてき)され,尊攘論から公武合体論に転向した。62年(文久2),久光の公武合体・幕政改革の運動に参画,一橋慶喜を将軍後見職に,松平慶永を政事総裁職につけるのに成功し,その名を広く天下に知られるようになった。64年(元治1),参預会議の決裂で幕薩関係が悪化すると,西郷隆盛と組んで,長州再征反対,徳川慶喜将軍職就任妨害,兵庫開港4侯会議画策など多面的な反幕政治活動を展開して幕府を追いつめた。68年(明治1)12月9日,岩倉具視と提携して王政復古クーデタを敢行,明治維新政府を発足させた。

 新政府の中枢にあって参与,内国事務掛,総裁局顧問,鎮将府参与を歴任し,政権の基礎固めにあたった。さらに木戸孝允らと版籍奉還を推進し,69年6月17日に実現,諸藩領有権を政府に統合した。同年,参議,従三位賞典禄1800石をうけた。ところが政府部内で木戸派と対立が激化,対抗して鹿児島にいた西郷を政府に迎え入れ,大蔵卿に転任,71年7月14日,西郷の指導力のもと廃藩置県が断行され,政府は名実ともに全日本を統治下におくことになった。廃藩後の重要課題は条約改正であったが,その実現に野心をもやす肥前派の参議大隈重信に外交上の実権が移るのを阻むねらいで,岩倉使節団を組織し全権副使に就任,11月,アメリカ,ヨーロッパ各国訪問に出発した。しかし,条約改正を実現できず,73年5月,失意のうちに帰国。勢力挽回をはかって,10月12日,参議に返り咲くと,宮廷陰謀を駆使して西郷大使朝鮮派遣計画を葬り,留守政府派参議の追い出しに成功した(明治6年政変)。11月,初代内務卿を兼任,これ以後,いわゆる大久保独裁(有司専制)の時期に入った。74年,佐賀の乱鎮定の全権を帯び,つづいて台湾出兵の後始末のため全権弁理大臣となって北京に赴き,清国側全権との間に〈日清両国間互換条款及互換憑単〉を締結,その結果,日本の琉球領有が国際的に承認されることになった。75年1月,大阪会議で木戸,板垣退助と妥協し,漸進的に立憲政治に移行する方針をうちだした。また,地租改正事務局総裁や内国勧業博覧会総裁などを兼ね,殖産興業にも心をかたむけた。76年,各地で士族反乱がおきると,地租を軽減して不平士族と農民のむすびつきを防ぎ,77年の西南戦争を積極的に鎮定した。78年5月14日,東京紀尾井坂で石川県士族島田一郎ら6名に暗殺された。
[毛利 敏彦]

[索引語]
明治6年10月の政変 有司専制 島田一良(郎)
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1. 大久保利通画像
日本大百科全書
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1830-78(天保1-明治11) 幕末,明治初期の政治家。西郷隆盛,木戸孝允と並んで〈明治維新の三傑〉といわれる。薩摩藩士大久保利世の長男に出生。若年,開国後 ...
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1830−1878 幕末-明治時代の政治家。文政13年8月10日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。島津久光に信任され小納戸役となる。西郷隆盛,岩倉具視(ともみ) ...
8. 大久保利通[文献目録]
日本人物文献目録
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9. おおくぼとしみちかんけいもんじょ【大久保利通関係文書】
国史大辞典
大久保利通宛の諸家書翰を発信者別に編集したもの。全五冊。立教大学日本史研究室編、昭和四十年(一九六五)―四十六年刊。大久保家所蔵のものを底本にし、原本が散逸し ...
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11. おおくぼとしみちにっき【大久保利通日記】
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13. おおくぼとしみちもんじょ【大久保利通文書】
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16. 青木周蔵自伝 34ページ
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規定の試験に応ずるの心算なりき。是れ(明治四年)恰も日本政府が岩倉具視公を正使となし、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳の諸氏を副使として米国に派遣し、条 ...
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日本歴史地名大系
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日本大百科全書
初めは青山墓地、1935年(昭和10)から霊園とよぶようになった。面積約27万平方メートル。霊園には大久保利通(としみち)、後藤新平、森有礼(ありのり)、犬養毅 ...
21. あおやま‐れいえん【青山霊園】地図
デジタル大辞泉
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22. あさい-としあつ【浅井寿篤】
日本人名大辞典
もと因幡(いなば)鳥取藩士の子。明治9年東京警視庁にはいり,西南戦争に従軍。戦後,免職となる。11年参議大久保利通(としみち)を,島田一良(いちろう)らと東京の ...
23. あさかそすい【安積疏水】福島県:郡山市
日本歴史地名大系
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24. アジア
世界大百科事典
を示す用語ではなく,きわめて政治的な意味をこめたものとして用いられた。振亜社(1877年,大久保利通らによって結成,80年に興亜会と改名,同人には中村正直,曾根 ...
25. アメリカ彦蔵自伝 2 130ページ
東洋文庫
  しかし倒幕派の運動はすさまじくつづ   けられた。そして岩倉具視と薩摩藩の代   表(大久保利通、西郷隆盛ら)は、ひそ   かに謀議をめぐらし、一八六八年一 ...
26. アメリカ彦蔵自伝 2 191ページ
東洋文庫
げた些細な奉仕を決して忘れていないようであった。 八月十八日。長州公〔毛利元徳〕が大蔵卿〔大久保利通〕を通じて私を晩餐に招待した。私は井上氏のところに行ってから ...
27. アメリカ彦蔵自伝 2 206ページ
東洋文庫
(副使は木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら)が、アメリカおよびヨーロッパに向かって出発したのは、 一八七一年十二月のことであった。そして一行は各国において、さきの ...
28. アメリカ彦蔵自伝 2 211ページ
東洋文庫
陸奥宗光を中心にしたものであった。陸奥は紀州藩士、明治政府に出仕して要職(大蔵少輔)に上ったが、大久保利通の施策に反対して七四年一月に辞職している。この時期は木 ...
29. あんどう-とうじ【安藤藤二】
日本人名大辞典
文政5年生まれ。肥前平戸藩(長崎県)藩士。元治(げんじ)元年大筒組頭。翌年京都におもむき,西郷隆盛,大久保利通らとまじわる。慶応4年軍制調懸となり,鳥羽・伏見の ...
30. あんどう-なかたろう【安藤仲太郎】
日本人名大辞典
29年黒田清輝(せいき)らと白馬会を結成。大正元年12月11日死去。52歳。江戸出身。作品に「大久保利通(としみち)像」など。 ...
31. アーネスト・サトウ伝 184ページ
東洋文庫
前に商を開く人、外国外交官など多くの関係者が滞在し輻輳していた。天皇の大坂行幸は、維新官僚大久保利通(この当時新政府の総裁局顧問)らの大坂遷都策が朝廷に反対され ...
32. イギリス画像
日本大百科全書
岩倉使節団の派遣であった。正使岩倉具視(いわくらともみ)をはじめ木戸孝允(きどたかよし)、大久保利通(おおくぼとしみち)、伊藤博文など明治新政府の中心人物を網羅 ...
33. いしん の 三傑(さんけつ)
日本国語大辞典
明治維新の元勲、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の三人をいう。*東京日日新聞‐明治二一年〔1888〕六月二三日「維新の三傑と尊ばれたる方々にて、西郷翁は其終を全く ...
34. いしん‐の‐さんけつ【維新の三傑】
デジタル大辞泉
明治維新に功績の大きかった、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允(きどたかよし)の三人。  ...
35. いじゅういん-ひこきち【伊集院彦吉】
日本人名大辞典
1864−1924 明治-大正時代の外交官。元治元年6月19日生まれ。妻の芳は大久保利通の長女。釜山領事,天津総領事などをつとめ,明治41年清(しん)国(中国) ...
36. いずみてらまち【泉寺町】石川県:金沢市/金沢城下/第一連区
日本歴史地名大系
を公称とした(稿本金沢市史)。鶴来往来沿いには曹洞宗竜淵寺、もと加賀藩士で、明治一一年参議大久保利通を暗殺した島田一良らが本拠とした浄土宗三光寺、地蔵が並び立つ ...
37. いせい‐せいめい【為政清明】
デジタル大辞泉
大久保利通の言葉から》政(まつりごと)を行うには、心も態度も清く明るくなければならない。国政に参画する者の、当時の信条を表現したもの。  ...
38. 板垣退助
世界大百科事典
維新後は藩の大参事を経て,71年(明治4)新政府の参議に就任。73年10月征韓論をめぐって大久保利通らと対立し,西郷隆盛らとともに辞職。翌年1月ともに下野した江 ...
39. いたがきたいすけ【板垣退助】
国史大辞典
同年勲功により永世禄千石を受けた。翌三年藩大参事として大いに藩政改革を行い、ついで薩の西郷隆盛・大久保利通、長の木戸孝允らと廃藩置県計画を議し、高知藩兵を親兵と ...
40. いたがき-たいすけ【板垣退助】画像
日本人名大辞典
土佐高知藩士。戊辰(ぼしん)戦争で総督府参謀をつとめ,明治4年新政府の参議となる。6年征韓論をめぐって大久保利通らと対立し,西郷隆盛らとともに辞職。翌年民選議院 ...
41. いとう-きねたろう【伊東甲子太郎】
日本人名大辞典
にはいり参謀となったが,長州攻めをめぐって土方歳三(ひじかた-としぞう)らと対立して脱隊。大久保利通ら薩長の藩士に親近し,慶応3年11月18日近藤勇(いさみ)に ...
42. 伊藤博文画像
日本大百科全書
翌年の金本位制の採用、新貨条例の公布に導いた。1871年岩倉使節団の副使として米欧に出張、その間に大久保利通(おおくぼとしみち)の信任を得ることになった。187 ...
43. 伊藤博文
世界大百科事典
推進した。さらに71年には遣外大使岩倉具視の副使となって米欧に出張(岩倉使節団),その間に同行した大久保利通の信任をえた。73年帰国,政府内で問題化していた征韓 ...
44. いとう-ひろぶみ【伊藤博文】画像
日本人名大辞典
文久3年渡英。帰国後は開国をとなえ倒幕運動に活躍。明治4年岩倉遣欧使節団の全権副使となる。大久保利通の没後,内務卿となり,14年の政変で政府の実権をにぎる。内閣 ...
45. いとうひろぶみもんじょ【伊藤博文文書】
国史大辞典
十一年、二十四冊として刊行された。(三)諸家の来翰は、皇族・岩倉具視・三条実美・木戸孝允・大久保利通らの重要人物のものは巻子仕立てとなっており、その他は未表装の ...
46. いのうえかおるもんじょ【井上馨文書】
国史大辞典
関係書類千三百点余からなる幕末・明治・大正期の政治史料である。書翰は三条実美・岩倉具視・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山県有朋ら明治政府の重要政治家のものを網 ...
47. 井上毅画像
日本大百科全書
中心に国法学の修得と法制の調査に従事した。1873年に帰国するや、盛んに政府首脳部に対して献策し、しだいに大久保利通(おおくぼとしみち)、岩倉具視(いわくらとも ...
48. 井上毅
世界大百科事典
なり,翌年司法省に出仕,72-73年渡欧し,主としてフランスで司法制度を調査した。帰国後,大久保利通,岩倉具視,続いて伊藤博文に協力して,枢機に関与した。とくに ...
49. いのうえこわし【井上毅】画像
国史大辞典
を命ぜられ、江藤は中止したが、井上らは渡仏し、さらにベルリンに赴いて六年九月帰朝した。七年大久保利通の清国派遣にあたって意見書を提出して随員に加えられ、諸文案の ...
50. いのうえ-こわし【井上毅】画像
日本人名大辞典
天保(てんぽう)14年12月18日生まれ。司法省につとめ,明治5年渡欧して司法制度をまなぶ。大久保利通に登用されて頭角をあらわし,岩倉具視(ともみ)の側近として ...
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真田幸村(真田信繁)(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代の武将。本名信繁。昌幸の次男。1586年(天正14)豊臣秀吉の臣となり、94年(文禄3)豊臣信繁の名で従五位下左衛門佐に叙任した。妻は秀吉の奉行大谷吉継の女。のち父昌幸、兄信之とともに徳川家康に臣従したが、関ヶ原の戦いには
徳川家康(日本大百科全書(ニッポニカ))
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として、高知城下本町(高知市本丁筋一丁目)に生まれる
織田信長(日本大百科全書(ニッポニカ))
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
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西郷隆盛(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八二七 - 七七 明治維新の指導的政治家。文政十年(一八二七)十二月七日鹿児島城下加治屋町で、父吉兵衛隆盛・母マサの長男として生まれた。諱は隆永。維新後は隆盛と改めた。幼名小吉、のち吉之介・善兵衛・吉兵衛・吉之助と称し、号は止水、のち南洲とした。家格は城下士の下級の
村田新八(国史大辞典)
一八三六-七七 幕末・維新期の薩摩藩士。西南戦争の西郷軍幹部。諱は経麿、のち経満。天保七年(一八三六)十一月三日薩摩国鹿児島城下高見馬場において薩摩藩士高橋良中の三男に出生、同藩士村田経典の養子となる。文久二年(一八六二)西郷隆盛の徳之島流罪に連座して鬼界ヶ島に流され
大山綱良(大山格之助)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八二五 - 七七 幕末・維新期の薩摩国鹿児島藩士。初代鹿児島県令。通称は格之助、角右衛門ともいう。文政八年(一八二五)十一月六日、鹿児島藩士樺山善之進の次子として鹿児島に生まれ、のち大山四郎助の養子となった。家禄百三十六石。
大久保利通(大久保一蔵)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八三〇 - 七八 明治維新の指導的政治家。諱は利済のち利通と改む。幼名は正袈裟、のちに正助・一蔵と称し、甲東と号す。天保元年(一八三〇)八月十日鹿児島藩士大久保次右衛門利世の長男として、鹿児島城下加治屋町に生まれる。
天璋院(篤姫)(日本大百科全書(ニッポニカ))
徳川13代将軍家定の正室。名は篤子、のち敬子。通称篤姫。幼名は於一。幕府の消滅に立会い、徳川本家廃絶・江戸城武力攻略の回避に力を尽くし、明治期には徳川本家の家格・家名の維持を目ざした。父、島津忠剛は島津家家臣のうち最上級とされる「一門家(四つの分家)」の一つ、今和泉
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