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  11. 西郷隆盛
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

国史大辞典
西郷隆盛
さいごうたかもり
一八二七 - 七七
明治維新の指導的政治家。文政十年(一八二七)十二月七日鹿児島城下加治屋町で、父吉兵衛隆盛・母マサの長男として生まれた。諱は隆永。維新後は隆盛と改めた。幼名小吉、のち吉之介・善兵衛・吉兵衛・吉之助と称し、号は止水、のち南洲とした。家格は城下士の下級の御小性組。安政元年(一八五四)正月中御小性となり、薩摩藩主島津斉彬の参勤に従って江戸に行き、庭方役として政界の裏面工作に従った。同四年徒目付となり、斉彬の意をうけて将軍徳川家定の継嗣に一橋慶喜を擁立する運動をし、越前藩士橋本左内とともに内勅降下を実現すべく京都で暗躍した。同五年、安政の大獄が始まると、同志僧月照を捕吏の手から保護するため鹿児島に帰ったが、斉彬死後の藩地の情況はこれを許さず、処置に窮して十一月月照と相抱いて鹿児島湾海中に投身したが、西郷だけは蘇生した。藩庁は菊池源吾と改名させて大島に潜居させた。幽囚生活三年。文久二年(一八六二)正月召還され、大島三右衛門と改名、徒目付、庭方兼務に復した。時に藩地でも京都でも尊攘派が進出したが、藩政の実権をにぎっていた藩主の父、島津久光は、藩内尊攘派をおさえながら、他面でその活動を利用して、朝廷・幕府に対する自藩の勢力を張ろうと企図し、このため対外折衝の経験をもつ西郷を必要とした。西郷は、久光が意図する上京は尊攘激派に乗ぜられるとして、その延期を建言したが、久光は拒否した。西郷は、下関で待てとの久光の命令を無視して上京し、諸藩の志士と交わった。彼の意図は激派の蜂起を慰撫するにあったが、久光は浪士を煽動していると見、主命に従わぬ罪をもって、六月徳之島、ついで沖永良部島へ流罪に処し、知行・家財を没収した。元治元年(一八六四)二月召還の命を受けた。三月上京して軍賦役・小納戸頭取となり、七月の禁門の変では、藩兵参謀として長州軍と戦った。この直後には、長州征討に積極的であったが、十月には長州処分を寛大にすべしとの論に変わった。大坂で幕府軍艦奉行勝海舟(義邦)と会い、雄藩連合論を説得されたためといわれている。このころ大島姓から西郷姓にもどった。彼は征長総督徳川慶勝の軍議に加わり、長州処分を委ねられ、みずから岩国にのりこみ、禁門の変の責任者として長州藩家老三人を切腹させ、戦闘なしに事態を収拾した。これ以後、急速に反幕の態度を明確にし、慶応元年(一八六五)、幕府の企てる長州再征に反対の藩論をまとめ、翌年正月、土佐藩脱藩士坂本竜馬の仲介によって、長州藩の木戸孝允との間で、倒幕の薩長盟約を結んだ。七月薩摩藩は、藩主父子の名で朝廷に長州再征反対と政体変革を建白し、藩主名で幕府に出兵拒否を通告したが、これは西郷と大久保利通の策謀にもとづいていた。慶応三年に入ると、西郷の活動は、公武合体策を持し西郷に好意をもたぬ久光をかかえて、策謀・かけひきをきわめる。六月には、大政奉還をもくろむ土佐藩の後藤象二郎らと盟約(薩土盟約)をむすぶ一方、十月には長州藩・芸州藩の倒幕派との間に討幕挙兵の盟約を交わし、大久保とともに岩倉具視とむすんで討幕の詔勅降下を工作した。この結果十月十四日前土佐藩主山内豊信の建白にもとづき将軍徳川慶喜の大政奉還の上表が朝廷に出された前日、薩摩藩主父子あての討幕の密勅が出た。十二月九日の王政復古の大号令が出た時は、このクーデター計画の主謀者西郷は諸藩兵を指揮して宮門警備にあたり、大久保は宮中にあって小御所会議での公卿・大名を監視威圧した。幕府への武力行使をもくろむ西郷と大久保は、幕府側を挑発して、明治元年(一八六八)正月鳥羽・伏見の戦を惹起し、西郷は二月東征大総督府下参謀に任命されて東征軍を指揮し、三月旧幕府陸軍総裁勝海舟との腹芸的会談で江戸開城を無血のうちに実現した。十一月藩地に帰った彼は、王政復古の功臣第一として、翌明治二年六月賞典禄永世二千石を賜わり、九月正三位に叙せられた。明治三年二月参議大久保は西郷に朝廷出仕を促したが、西郷は断わり、執務役(大参事)として、凱旋藩兵の強く要求する門閥打破の藩政改革を久光派の反対を抑えて実施した。版籍奉還後の維新政府は、薩長協力の強化を企て、三年十二月勅使岩倉具視と大久保・山県有朋が鹿児島を訪れ、久光と西郷に上京の詔勅を伝えた。西郷は四年二月上京し、薩長土三藩からの親兵編成を提議して実現、六月参議に任ぜられ、七月の廃藩置県の断行に協力した。十月岩倉を全権とする遣外使節団が出発すると、留守政府の筆頭参議として、学制・徴兵制・地租改正の改革着手の最高責任者となった。この間五年七月参議兼陸軍元帥となり近衛都督に任ぜられ(六年五月元帥が廃止され陸軍大将となる)、徴兵制に不満をもつ士族出身軍人を慰撫統制する役割をもたされた。廃藩置県後の統一国家建設について主体的意見をもちえなかった彼は、政府の改革政策に不満をもつ藩地および全国の不平士族の動きに引きずられるようになった。六年六月、かねて政府が試みてきた朝鮮との国交樹立の交渉が暗礁にのりあげ征韓の議が閣議にのぼった時、非常な熱心さで自分を遣韓大使に任命してほしいと説いた。彼の真意は、あくまで交渉をつくして戦争を避けるにあったか、士族の不平を外にそらすための外征の名義を整えるにあったか、研究者の間に解釈の相違がある。八月十七日の閣議は、西郷の朝鮮派遣を決定、岩倉が帰朝したのちの十月十五日あらためてこれを決めたが、これに反対する木戸・大久保・大隈重信・大木喬任の諸参議は辞表を提出した。同月十八日策に窮した太政大臣三条実美は急病となり、岩倉がその代理となるや、二十三日天皇に上奏して遣使を無期延期とした。西郷は即日病を理由に辞職と位記返上を申し出た(参議・近衛都督の辞表は受理されたが、陸軍大将と正三位の位記はそのままとなる)。ついで副島種臣・後藤象二郎・板垣退助・江藤新平の征韓派も参議を辞し野に下った。西郷は鹿児島に帰り、七年六月私学校をつくり士族子弟の教育にあたり、また農耕と狩猟に悠々自適の生活を送っているが、内外政局にどう対処しようとしていたかを説明する史料は欠けている。十年一月西郷が薫陶した私学校生徒が鹿児島の陸軍省火薬庫を襲うや、西郷は二月県令大山綱良に、政府へ尋問のため上京するとの届け出をし、士族子弟一万五千の兵を率いて熊本城攻撃に出発した。しかし戦いに敗れ、九月鹿児島にのがれ帰り、同月二十四日城山で負傷し自刃した。五十一歳。鹿児島の浄光明寺跡(鹿児島市上竜尾町、南洲墓地)に葬られた。彼は朝敵の汚名をうけたが、その死の直後、福沢諭吉は、専制権力に対する西郷の抵抗精神をたたえる「明治十年丁丑公論」を書き、内村鑑三も、日清戦争の最中の著書『代表的日本人』で、武士の最大なものと賞揚した。明治二十二年二月憲法発布の大赦で正三位を追贈され、三十一年高村光雲作の銅像が東京上野に建てられ、三十五年六月嗣子寅太郎は侯爵を授けられた。大陸政策の先駆者として、あるいは名利を求めぬ悲劇の英雄として、国民の中に信奉者を集めた。死後も再三にわたって、その生存説が世に流布され、いわゆる「西郷伝説」を生んだが、とりわけ明治二十四年ロシア皇太子の来日に際して、ロシアに逃れた西郷がロシア皇太子の一行とともに日本に帰ってくるという噂話がささやかれたことは有名である。書簡・漢詩・遺訓・関係文書・年譜などを収める『西郷隆盛全集』全六巻がある。→征韓論問題(せいかんろんもんだい),→西南戦争(せいなんせんそう)
[参考文献]
勝田孫弥『西郷隆盛伝』、井上清『西郷隆盛』(『中公新書』二二三・二二八)、毛利敏彦『明治六年政変の研究』
(遠山 茂樹)


日本大百科全書
西郷隆盛
さいごうたかもり
[1827―1877]

幕末・明治初期の政治家。文政(ぶんせい)10年12月7日薩摩(さつま)国鹿児島城下の下加治屋(しもかじや)町に生まれる。薩摩藩士西郷吉兵衛隆盛(きちべえたかもり)の長男。幼名は小吉(こきち)、吉之介(きちのすけ)。父の死後吉兵衛を継ぎのち吉之助と改め、名を隆永、明治以後は父と同じ隆盛を称した。少年時代を貧苦のなかに過ごし、友人に大久保利通(おおくぼとしみち)、伊地知正治(いじちまさはる)らがいた。1844年(弘化1)18歳で郡方書役助(こおりかたかきやくすけ)、ついで書役となり27歳まで勤め、その間、農政改革を求める意見書で藩主島津斉彬(なりあきら)にみいだされた。
 ペリー来航後の1854年(安政1)庭方役(にわかたやく)に抜擢(ばってき)され、斉彬の片腕となって、江戸や京都で一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を将軍継嗣(けいし)に擁立する運動を推進した。その過程で藤田東湖(ふじたとうこ)や橋本左内(はしもとさない)を知り、志士として天下に広く知られるようになった。1858年、反対派(紀州派)の井伊(いい)大老の登場と斉彬の急死で情勢が逆転し、幕府の追及で窮地にたった西郷は、11月同志僧月照(げっしょう)と鹿児島湾に投身自殺を試み、西郷のみ命を取り留めた。この事件で彼は天命を悟ったといわれる。彼の有名な「敬天愛人(けいてんあいじん)」の思想もこのあたりに胚胎(はいたい)したといえよう。幕府をはばかった藩庁は、西郷を菊池源吾(きくちげんご)と変名させ奄美(あまみ)大島に隠した。彼は島民のよき相談相手となって慕われた。
 1862年(文久2)島津久光(ひさみつ)が亡兄斉彬の遺志を継いで公武合体運動に着手するにあたって召還され、このとき大島三右衛門(おおしまさんえもん)と改名した。彼は久光の計画が杜撰(ずさん)であると批判的であり、また京坂(けいはん)の尊攘派(そんじょうは)鎮撫(ちんぶ)のため独断上坂したので久光の怒りに触れ、今度は罪人として徳之島ついで沖永良部(おきのえらぶ)島に流された。島での生活の辛苦は彼の人物を鍛えたといわれる。
 1864年(元治1)参予会議の失敗で薩藩公武合体運動が行き詰まると、ふたたび召還され藩勢の回復にあたることになった。彼は軍賦役(いくさくばりやく)に任命され京都での政治工作に従事、蛤御門(はまぐりごもん)の変で薩軍を指揮して快勝、薩藩の地位を向上させた。同年側役(そばやく)に昇進、西郷吉之助と名のった。まもなく始まった第一次長州征伐において、征長軍の参謀に任じられて長州藩の無血降伏を実現し天下に名をあげた。その後幕薩関係が悪化すると、今度は第二次征長の阻止に動き、1866年(慶応2)木戸孝允(きどたかよし)との間で薩長盟約を結んだ。1867年になると倒幕を決意し、大久保とともに藩をその方向にまとめ、土佐藩、安芸(あき)藩と提携し、徳川慶喜が大政奉還の挙に出ると、その逆をついて王政復古のクーデターに持ち込み、明治維新政府の誕生に大きな功績をたてた。1867年12月参与に任命され、1868年(慶応4)戊辰(ぼしん)戦争では東征大総督府参謀となり、勝海舟(かつかいしゅう)との会談で江戸城無血開城に成功、ついで庄内(しょうない)藩討伐にあたり寛大な処置で庄内士民に敬慕された。戦功により賞典禄(しょうてんろく)2000石。戦後は鹿児島に引退したが、やがて藩主島津忠義(ただよし)に請われて藩の参政のち大参事に就任、門閥打破の藩政改革を指導した。
 1871年(明治4)政府強化を期す岩倉具視(いわくらともみ)、大久保らの求めに応じて政府に入り、薩長土3藩から招致した軍隊による御親兵の設置に尽力し、6月参議に就任、7月の廃藩置県に主導的役割を果たした。11月岩倉使節団の米欧巡遊出発後、筆頭参議兼大蔵省御用掛として、留守政府が推進した急進的改革政策を指導、1872年明治天皇の中四国九州巡幸に随行し、帰京後、陸軍元帥兼参議、近衛都督(このえととく)。1873年陸軍大将兼参議。同年5月、朝鮮釜山(ふざん)の大日本公館をめぐって日朝間にトラブルが発生し、閣議で参議板垣退助(いたがきたいすけ)は出兵論を主張したが、西郷は反対し、自ら使節となって朝鮮に渡り平和的交渉によって日朝間の国交の正常化を実現したい旨を論じた。8月、閣議は西郷の要望をいれ朝鮮派遣使節に内定した。ところが太政大臣(だじょうだいじん)三条実美(さんじょうさねとみ)は西郷の平和的交渉論を征韓論と誤解し、9月に帰国した右大臣岩倉具視と謀って西郷派遣の延期を求めたが西郷に断られた。10月15日の閣議で西郷の朝鮮派遣が正式に決定され、三条は苦悩のあまり人事不省に陥り執務不能となった。そこで岩倉が太政大臣代理となり、大久保利通、伊藤博文(いとうひろぶみ)と組んで、天皇に閣議決定を裁可しないように求めて、西郷使節派遣を葬った。23日西郷はこの処置に抗議の辞表を出し、翌24日板垣退助、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)、江藤新平(えとうしんぺい)、副島種臣(そえじまたねおみ)の各参議も抗議辞職して政府は大分裂した。この政変は、通説では西郷が征韓論に敗れて辞職したものとされているが、真相は以上のとおりであり、西郷は征韓論に反対し、平和的道義的交渉による日朝国交の正常化を求め、朝鮮使節を切望したのである。
 西郷は帰郷引退し鹿児島で子弟の訓育にあたった。しかし、1877年私学校派士族が政府に挑発されて反乱(西南戦争)を起こすと、心ならずも擁せられ、9月24日鹿児島城山(しろやま)で戦死した。
[毛利敏彦]

西郷隆盛[百科マルチメディア]
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改訂新版・世界大百科事典
西郷隆盛
さいごうたかもり
1827-77(文政10-明治10)

幕末・明治期の政治家。大久保利通,木戸孝允とともに明治維新の三傑と称される。薩摩国鹿児島城下で下級藩士の子に生まれた。幼名は小吉,吉之介,吉兵衛,吉之助,名は隆永のち隆盛,号は南洲。1844年(弘化1)郡方書役助ついで郡方書役となり,その間,農政に関する意見書で藩主島津斉彬に見いだされて側近に抜擢され,一橋慶喜将軍継嗣問題で活躍,天下に広く知られるようになった。しかし,58年(安政5)大老井伊直弼の登場と斉彬の急死で窮地に陥り,同志僧月照と鹿児島湾に投身自殺を試みたが西郷のみ蘇生。そこで,菊池源吾と変名して奄美大島に潜居を余儀なくされた。62年(文久2)島津久光の公武合体運動着手にあたり召還されたが,尊攘派対策をめぐって久光と衝突,徳之島さらに沖永良部島に流された。しかし,64年(元治1)ふたたび召還され,軍賦役に復帰,禁門の変で薩軍を指揮して尊攘派長州軍の撃退に貢献,側役に昇進。まもなく第1次長州征伐の参謀に起用され,長州藩を無血降伏にみちびき,その手腕をうたわれた。やがて,幕薩関係が悪化すると,薩長同盟など反幕勢力の結集をはかり,67年(慶応3)には倒幕にふみきって王政復古クーデタに成功,江戸幕府打倒に大きな功績をあげた。

 明治新政府発足とともに参与に就任,東征大総督府参謀となって戊辰戦争を指導,勝海舟との会談で江戸無血開城に成功した。戦後,藩の参政,大参事として藩政改革を指導。1871年(明治4)政府に入り,御親兵の設置に尽力,参議に就任,廃藩置県を断行した。同年末,特命全権大使岩倉具視一行が米欧諸国巡遊に出発後,いわゆる留守政府の中心となり,地租改正,徴兵制,学制,身分制解消,秩禄処分方針,司法制度整備,鉄道敷設など開明的政策を推進した。72年陸軍元帥,近衛都督。73年陸軍大将。同年,朝鮮国交問題の解決をもとめて使節就任を志願,閣議で決定したにもかかわらず,岩倉,大久保らの陰謀に阻止されて下野(明治6年の政変)。鹿児島に引退して子弟の教育につとめた。しかし,77年政府に挑発された私学校党が反乱(西南戦争)をおこすと,擁立されて九州各地を転戦,9月24日城山で自刃した。

西郷伝説

西郷は近代日本でもっとも人気のある政治家の一人である。彼の清廉潔白で無欲恬淡(てんたん)な人格,波乱万丈の生涯,悲劇的な最期などはひろく民衆のこころをとらえ,西郷崇拝熱を燃えあがらせた。それは,現実政治への不満や英雄待望の心理と結合した幾多の西郷生存説(西郷伝説)を生みだした。代表的なのは1891年に全国を風靡した噂,つまり,西郷は城山で死なずにシベリアへ渡り,ロシア軍の訓練に従事していたが,この年来日予定のロシア皇太子に同行して帰国,政界粛正を断行する云々との風聞である。この噂は朝野を刺激し,来日したロシア皇太子ニコライを巡査津田三蔵が傷つけた事件(大津事件)の一因にもなったといわれる。
[毛利 敏彦]

[索引語]
明治維新の三傑 西郷吉之介 南洲 月照 菊池源吾 西郷伝説
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1976-80年刊行(未完)。1964年、1969-77年刊行の同名作品、1985年刊行の「史伝西郷隆盛」とは別物。 2013年05月 ...
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22. あかさかくいちがいのへん【赤坂〓違の変】
国史大辞典
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26. あざんざきみなと【阿丹崎湊】鹿児島県:大島郡/龍郷町/久場村
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国史大辞典
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日本歴史地名大系
神山のウボツ山の麓に公道神社がある。公道とは当シマのシマ建加那志といわれるクドウフッシュに由来するという。西郷隆盛が徳之島に配流された途次、船の故障から当地に二 ...
29. あべしんぞう【阿部真造】
国史大辞典
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30. あまぎし【甘木市】福岡県
日本歴史地名大系
懲役・除族などに処された。同乱では秋月小学校で副戸長江藤良一らが殺害されている。翌一〇年には西郷隆盛に呼応して挙兵した福岡士族が秋月まで逃れてきたが、捕縛されて ...
31. あまみ【奄美】鹿児島県:総論
日本歴史地名大系
南島雑話」として結晶しており、多くの知識を現在に残している。名越左源太と対照的な流人の一人が西郷隆盛である。僧月照との入水自殺に失敗した西郷は大島へ配流されたが ...
32. あまみおおしま【奄美大島】鹿児島県:大島郡
日本歴史地名大系
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33. アメリカ彦蔵自伝 2 130ページ
東洋文庫
しかし倒幕派の運動はすさまじくつづ   けられた。そして岩倉具視と薩摩藩の代   表(大久保利通、西郷隆盛ら)は、ひそ   かに謀議をめぐらし、一八六八年一月三 ...
34. アメリカ彦蔵自伝 2 240ページ
東洋文庫
最初の攻撃の目標とし、二月二十二日〔二十日〕までには近郊に進出していた。 このころになって、西郷隆盛が公然と反徒たちの主張を支持し、行動の指揮を取っていること、 ...
35. アメリカ彦蔵自伝 2 271ページ
東洋文庫
ついては、本書の最後に述べられているQ    ところでロシア皇太子の来朝に先だって、    西郷隆盛の生還説が流れた。西郷らは城    山で死なずに、鹿児島から ...
36. アメリカ彦蔵自伝 2 288ページ
東洋文庫
。   〈…一 ◇『自伝』には、内外の諸事件に関する 記述がくわしい。◇十月、征韓論が敗れ、西郷隆盛ら退官。 ◇佐賀の乱、台湾出兵に関する『自伝』 の記述も、き ...
37. アメリカ彦蔵自伝 2 289ページ
東洋文庫
一八七七 一一.一 ○西南戦争が勃発。        〈一三九  〔明一〇〕      九・茜 ○西郷隆盛ら自決し、戦乱おわる。 金園      一  ○このこ ...
38. アメリカ彦蔵自伝 2 291ページ
東洋文庫
〈二七一  一八九一 一.一6 0国会議事堂が焼失した。  〔明二四〕       曇= ○西郷隆盛の生存説が流れている。       五.コ ○秩父の製 ...
39. ありま-そうじゅうろう【有馬荘十郎】
日本人名大辞典
幕末-明治時代の武士。薩摩(さつま)鹿児島藩士。西南戦争に際し,島津家と進退をともにする考えで西郷隆盛らの挙兵にくわわらなかった。その影響で従軍を拒否する者もお ...
40. ありま-とうた【有馬藤太】
日本人名大辞典
。戊辰(ぼしん)戦争に従軍,近藤勇をくだすなど功をたて,東京府参事となる。のち征韓論に敗れた西郷隆盛にしたがい辞職,西南戦争で投獄される。出獄後は満州(中国東北 ...
41. あんどう-しょう【安藤照】
日本人名大辞典
15年「大空に」で帝国美術院賞。昭和6年塊人社を結成,重量感にとむ作品を制作した。鹿児島市の「西郷隆盛銅像」の作者。昭和20年5月25日東京で戦災死。54歳。鹿 ...
42. あんどう-とうじ【安藤藤二】
日本人名大辞典
幕末の武士。文政5年生まれ。肥前平戸藩(長崎県)藩士。元治(げんじ)元年大筒組頭。翌年京都におもむき,西郷隆盛,大久保利通らとまじわる。慶応4年軍制調懸となり, ...
43. アーネスト・サトウ伝 73ページ
東洋文庫
将軍と天皇の相互の政治的権限との二項目を協議する諸侯会議の性格を持つ一制度を開設するよう準備した。 西郷隆盛から情報を収集 かくして新しい局面へと展開することが ...
44. アーネスト・サトウ伝 111ページ
東洋文庫
後の抵抗として、一八七七年薩摩藩主〔最後の藩主島津茂久は維新後新政府の要職に就任した。ここは西郷隆盛が正しい〕は反乱軍を率いて藩都鹿児島を出陣し東京を目指した。 ...
45. アーネスト・サトウ伝 181ページ
東洋文庫
んでサトウの信頼が最も篤かった一人である。(21) サトウと西郷 サトウはこの時兵庫で薩摩の西郷隆盛と会見し、慶喜の将軍宣下と諸侯会議の不成立という二つの重要か ...
46. アーネスト・サトウ伝 183ページ
東洋文庫
ドを政局の中心である大坂と兵庫に派遣した。彼らは幕府の大坂奉行、兵庫奉行、外国奉行や、薩摩の西郷隆盛、土佐の後藤象二郎、長州の伊藤俊輔らと会って情報を収集し、倒 ...
47. アーネスト・サトウ伝 2ページ
東洋文庫
97五榜の高札 99小村寿太郎 163五稜郭の戦 95コンタアラー号 48コンノート公アーサー 164さ西郷隆盛 74,111三枝蕩 99三国干渉 136サンダ ...
48. いくしま【幾島】
日本人名大辞典
軍夫人付老女として江戸城大奥にはいる。将軍継嗣問題がおきたとき徳川慶喜(よしのぶ)を擁立する西郷隆盛と天璋院との間を斡旋(あっせん)した。 ...
49. いけがみほんもんじ【池上本門寺】東京都:大田区/池上村地図
日本歴史地名大系
境内墓地に徳川吉宗室の墓、山内寺院の南之院墓地に将軍家御用絵師狩野探幽の墓がある。江戸開城前に西郷隆盛(南洲)と勝海舟が会見したという松濤園も保存されている。ま ...
50. いけのうえ-しろう【池上四郎】
日本人名大辞典
年生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。戊辰(ぼしん)戦争に参加。明治4年陸軍少佐となるが,6年西郷隆盛にしたがい帰郷。10年の西南戦争で西郷軍に加わり,熊本城攻撃 ...
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真田幸村(真田信繁)(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代の武将。本名信繁。昌幸の次男。1586年(天正14)豊臣秀吉の臣となり、94年(文禄3)豊臣信繁の名で従五位下左衛門佐に叙任した。妻は秀吉の奉行大谷吉継の女。のち父昌幸、兄信之とともに徳川家康に臣従したが、関ヶ原の戦いには
徳川家康(日本大百科全書(ニッポニカ))
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として、高知城下本町(高知市本丁筋一丁目)に生まれる
織田信長(日本大百科全書(ニッポニカ))
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
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西郷隆盛(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八二七 - 七七 明治維新の指導的政治家。文政十年(一八二七)十二月七日鹿児島城下加治屋町で、父吉兵衛隆盛・母マサの長男として生まれた。諱は隆永。維新後は隆盛と改めた。幼名小吉、のち吉之介・善兵衛・吉兵衛・吉之助と称し、号は止水、のち南洲とした。家格は城下士の下級の
村田新八(国史大辞典)
一八三六-七七 幕末・維新期の薩摩藩士。西南戦争の西郷軍幹部。諱は経麿、のち経満。天保七年(一八三六)十一月三日薩摩国鹿児島城下高見馬場において薩摩藩士高橋良中の三男に出生、同藩士村田経典の養子となる。文久二年(一八六二)西郷隆盛の徳之島流罪に連座して鬼界ヶ島に流され
大山綱良(大山格之助)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八二五 - 七七 幕末・維新期の薩摩国鹿児島藩士。初代鹿児島県令。通称は格之助、角右衛門ともいう。文政八年(一八二五)十一月六日、鹿児島藩士樺山善之進の次子として鹿児島に生まれ、のち大山四郎助の養子となった。家禄百三十六石。
大久保利通(大久保一蔵)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八三〇 - 七八 明治維新の指導的政治家。諱は利済のち利通と改む。幼名は正袈裟、のちに正助・一蔵と称し、甲東と号す。天保元年(一八三〇)八月十日鹿児島藩士大久保次右衛門利世の長男として、鹿児島城下加治屋町に生まれる。
天璋院(篤姫)(日本大百科全書(ニッポニカ))
徳川13代将軍家定の正室。名は篤子、のち敬子。通称篤姫。幼名は於一。幕府の消滅に立会い、徳川本家廃絶・江戸城武力攻略の回避に力を尽くし、明治期には徳川本家の家格・家名の維持を目ざした。父、島津忠剛は島津家家臣のうち最上級とされる「一門家(四つの分家)」の一つ、今和泉
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