[現]桜井市大字多武峰
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
国指定重要文化財。三間一三重の塔婆で檜皮葺。棟札によれば享禄五年(一五三二)の再建で、寛永一八年(一六四一)に大修理が行われた。二重の基壇に立つ塔の初重の屋根は他の層に比してかなり高さもあり、とくに大きく造られている。他の層は屋根を積重ねたように相接し、頂には青銅の七輪の相輪を載せる。木造十三重塔では唯一の遺品で、塔内には文殊菩薩像が安置されていた。現在は神廟とよばれている。
旧多武峯寺講堂。国指定重要文化財。桁行五間・梁間四間、一重・入母屋造、背面下屋付属で檜皮葺。十三重塔婆の拝所。棟札によれば現在の建物は寛文八年(一六六八)の建立。内部には低い須弥壇があり、来迎壁を設け、格天井になっている。講堂に安置されていた釈迦三尊像は桜井市の
旧多武峯寺聖霊院。三間社隅木入春日造で檜皮葺。付属の瑞垣一棟は折曲り延長二五間、門一所付。他に彩色雛形七枚、漆塗手板八枚があり、いずれも国指定重要文化財。外部は朱塗の上に飾金具を付け、極彩色の文様を施すが、内部は素木造。棟札によれば嘉永三年(一八五〇)に大改修が加えられた。中央に藤原鎌足木像(大織冠神像)、左に定慧、右に藤原不比等を祀る。
旧多武峯寺常行三昧堂。国指定重要文化財。桁行五間・梁間五間、一重・入母屋造・正面向拝付で檜皮葺。旧内陣の須弥壇にはかつて阿弥陀五尊が安置されていた。永正三年(一五〇六)の焼失後に再建されたもので、室町末期の様式をもつが、江戸時代に完成したもので、須弥壇の擬宝珠に元和五年(一六一九)の銘がある。現在は本殿修理の際に神像を奉安する仮本殿として使われる。
旧多武峯寺護国院。国指定重要文化財。永正一七年に建てられ、寛文八年に再建。拝殿から本殿へ至る東透廊・西透廊のほか楼門・東宝庫・西宝庫があり、いずれも国指定重要文化財。
旧多武峯寺如法堂(別名本願堂・定慧堂)。国指定重要文化財。三間社隅木入春日造で檜皮葺。かつては如意輪観音を安置し、定慧を祀っていた。嘉永三年に大修理が行われ、明治維新後に不比等を合祀。
国指定重要文化財。桁行一間・梁間一間、一重・入母屋造で柿葺。内部に石組みの井戸があり石敷。昭和五三年(一九七八)の解体修理で元和年間の造営時の姿に復原された。
本殿は三間社隅木入春日造で銅板葺。付属の瑞垣は折曲り延長一七間、門一所付。拝殿は桁行一間・梁間三間、一重・入母屋造・妻入、前後軒唐破風付で銅板葺。左右の突出部は各桁行二間、梁間二間、一重・両端入母屋造で銅板葺。以上いずれも国指定重要文化財。
一間社流造、正面千鳥破風および軒唐破風付で檜皮葺。寛文八年の再興棟札一枚、嘉永三年の修理棟札三枚とともに国指定重要文化財。
多武峯寺への表参道にあたる東路は「多武峯略記」に「東椋橋五十二町、率都婆有五十二位名」とみえるが、石造一ノ鳥居(県指定文化財)のある
以上のほかにも数多くの宝物があり、絹本著色大威徳明王像、紺紙金銀泥法華経宝塔曼荼羅図、応安七年(一三七四)備州長船義景銘の脇差、来国俊銘の短刀、成縄銘の短刀、吉平銘の太刀、備中国住平忠(以下切)銘の短刀、一銘の薙刀、金沃懸地平文太刀、談山神社本殿造営図並所用具図(附朱漆机一基)は国指定重要文化財。また旧
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「だんざんじんじゃ」とも。奈良県桜井市多武峰(とうのみね)に鎮座。藤原鎌足(かまたり)を祀(まつ)る。678年(天武天皇7)に鎌足の長子、僧定恵(じょうえ)が、父の遺骸(いがい)を大和(やまと)国多武峰に改葬し、十三重塔(国重要文化財)を建て、翌年には堂舎を建立して、妙楽寺と号したのがその初めであるという。なお現在の十三重塔は1532年(天文1)の再建である。701年(大宝1)に聖霊殿を設け鎌足像を安置した。のち醍醐(だいご)天皇から「談山権現(ごんげん)」、後花園(ごはなぞの)天皇から「談山大明神(だいみょうじん)」の号を賜り、つねに国家を鎮護する神として大きな崇敬を得た。江戸幕府から寄進された朱印領は3000石。明治の神仏分離政策により山内の多くの寺院は破却された。1874年(明治7)別格官幣社に列格。例祭は11月17日。和銅(わどう)8年(715)の銘がある三重塔伏鉢(ふくばち)は国宝に、絹本着色大威徳明王(だいいとくみょうおう)像や刀剣類6振、石灯籠(いしどうろう)などが国の重要文化財に指定されている。
[熊谷保孝]
奈良県桜井市多武峰(とうのみね)に鎮座。藤原鎌足をまつる。大織冠(たいしよくかん)社,多武峯社ともいった。669年(天智8)没した鎌足は摂津国阿(安)威山(現,大阪府茨木市)に葬られたが,入唐中の長男定慧(恵)が帰朝後,弟の不比等と相談して多武峰に改葬,十三重塔を建てた。ついで堂を建て妙楽寺と称したのを草創とし,701年(大宝1)近江の彫匠高男丸の造った鎌足の木像を安置する殿舎を建て,聖霊院と号し,両者を多武峯寺と総称した。以後藤原氏一門のみならず朝野の崇敬をうけたが,妙楽寺と聖霊院の対立を防ぐため,926年(延長4)醍醐天皇より談峰権現の神号を,のち後花園天皇より談山明神の神号を賜った。当社の神威として,神像破裂,山上鳴動のことがある。すなわち,天下に事がおころうとするとき,鎌足の神像が破裂し,山上が鳴動,898年(昌泰1)より1607年(慶長12)までに37度それがあったとするが,そのつど,朝廷より勅使が遣わされて奉幣,祈謝し,それにより神像は復旧,事なきを得たと伝える。947年(天暦1)実性が多武峯座主となってより延暦寺との関係が深くなり,大きな勢力をもったため興福寺などと対立した。また兵火による全山焼失などのこともあったが,近世には3000石の朱印寺領を有し,多くの堂坊を擁して栄えた。1869年(明治2)神仏分離により衆徒は復餝還俗,堂舎のうち聖霊院を本殿,護国院を拝殿として談山神社となった。旧別格官幣社。11月17日の例祭のほか,10月11日嘉吉祭などがあり,建造物,宝物等に往時をしのばせる。
→多武峰
境内東部に南面して立つ本殿,その前方にたつ懸造(かけづくり)の拝殿,これらを囲む透廊(すきろう)や楼門,近くにたつ宝殿などを中心とした一郭がある。現在の姿は江戸時代初期の1619年(元和5)の造替によるものである。ただ,本殿はその後に数回造替され,現在のものは1850年(嘉永3)建立の三間社隅木入り春日造。これまでに造替された旧本殿のうち1619年,1668年(寛文8)のものが,移築されて摂社として境内に鎮座する。本殿を中心とした社殿の西に,檜皮葺き朱塗の木造十三重塔(神廟,1532),権殿(かりどの)(旧常行堂,室町後期),神廟拝所(旧講堂,1668),閼伽井屋(江戸前期)などがたつ。なおこの神社には,1566年(永禄9)の本殿の平面,断面や調度の図面が保存されており,この種の本格的な図面では最も古い。
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