NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1700冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 日本史
  8. >
  9. 縄文時代
  10. >
  11. 三内丸山遺跡

三内丸山遺跡

ジャパンナレッジで閲覧できる『三内丸山遺跡』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
三内丸山遺跡
さんないまるやまいせき
青森市三内字丸山に所在する縄文時代の遺跡。沖館川右岸の河岸段丘上にあり、標高は約二〇メートル。範囲は約三八ヘクタールと推定。江戸時代から知られ、山崎立朴の『永禄日記』や菅江真澄の『栖家の山』にも遺物発見の記載がある。これまでの発掘調査により縄文時代前期中葉から中期末葉にかけて長期間定住生活を営んだ巨大集落跡であることが判明。特に中期の集落跡は居住域・墓域・高床倉庫群・廃棄場所などが整然と配置され、空間利用を規制し継続した計画的な村づくりをしていたと考えられる。大量に出土した遺物は当時の活発な生産活動を、またヒョウタン・マメ類・エゴマ・アカザ・ゴボウなどの種子の発見は栽培により食料を得ていたことを示し、野生のヒエも食べていたと思われる。さらに翡翠・琥珀・アスファルト・黒曜石などが出土し、他地域との交流・交易も盛んであったことがわかる。
[参考文献]
青森県教育委員会編『三内丸山(2)遺跡』三(『青森県埋蔵文化財調査報告書』三三)、岡田康博「円筒土器文化の巨大集落」(『(季刊)考古学』五〇)
(岡田 康博)


日本大百科全書
三内丸山遺跡
さんないまるやまいせき

青森県青森市、JR青森駅の南西3キロメートル、小高い台地上の縄文時代集落遺跡。北西に陸奥(むつ)湾、南には八甲田山が望める。1992年(平成4)、県営野球場建設に先だつ発掘調査で遺跡の重要性が判明、保存が決定した。遺跡はその範囲35ヘクタールという大規模なもの。集落の各施設−住居・墓・倉・残滓(ざんし)廃棄場が定められた地に、長期間整然と用益されている実態が明瞭となった。発掘資料から推察すると、集落の存続期間は縄文時代前期の末から中期末まで1500年間にも及ぶ、まれにみる長期間にわたることが判明、加えて発見された土器などの量はリンゴ用段ボール箱で約4万箱、既調査地面積は5ヘクタール、全掘すれば約25万箱と予測される膨大な量。しかも、質高く・多種多様・話題にこと欠かぬ豊富さ。遺跡規模・遺跡存続期間・遺跡包蔵物量ともに他の諸遺跡を圧倒・凌駕する大遺跡であると評価されるに至った。三内丸山遺跡のもつ個々の情報−計画的な集落設計、道路と墓列、大規模な造成、埋葬と墓地、祭祀や供養、栗栽培、巨大木柱、朱漆やアスファルトなどが刻々と報道され、「縄文都市」という冠辞が三内丸山遺跡に与えられるに至った。現在、本遺跡をめぐっては考古学、文化人類学をはじめ諸学の援助をうけ生態系、環境系、食料栽培など広汎(こうはん)な分析が進捗しており、まさに「縄文学最前線」の観がある。三内丸山遺跡を熟視することで「都市」の概念を与えることの可否・長期間の連続性・膨大とされる遺物量の解釈がいっそう深められ、はじめて本遺跡の価値は定着するであろう。1997年国の史跡に、2000年特別史跡に指定。
[水野正好]


三内丸山遺跡[百科マルチメディア]
三内丸山遺跡[百科マルチメディア]
復原された大型掘立柱建物(左)と大型竪穴住居(右)。国指定特別史跡 青森県青森市 ©青森県


改訂新版・世界大百科事典
三内丸山遺跡
さんないまるやまいせき

青森市の中央部を流れて青森湾に注ぐ沖館川の右岸台地上に営まれた,縄文時代前期中ごろから中期末までを中心とした大規模な集落跡。1992年から県運動公園の整備に伴う大規模な事前発掘が実施され,94年7月になって重要性が認識され,遺跡の保存が決定した。2000年に特別史跡に指定された。

東北北部から北海道南部に発達した縄文時代前・中期の文化の内容と変遷を良好に示す。大規模な土木工事を伴う集落の造成,大型の掘立柱建物,計画的に配置された集落構成,クリの栽培など植物利用が主体の安定した経済と長期にわたる定住,木製・骨角器を含めた道具の全体像,遠隔地との交流の実態など,近年急速に解明の進んでいた縄文文化の実像を大規模な発掘によって総合的かつ具体的に示した。
[編集部]

上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


三内丸山遺跡の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 25
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. 三内丸山遺跡
日本大百科全書
遺跡規模・遺跡存続期間・遺跡包蔵物量ともに他の諸遺跡を圧倒・凌駕する大遺跡であると評価されるに至った。三内丸山遺跡のもつ個々の情報−計画的な集落設計、道路と墓列 ...
2. 三内丸山遺跡[百科マルチメディア]
日本大百科全書
復原された大型掘立柱建物(左)と大型竪穴住居(右)。国指定特別史跡 青森県青森市 〓青森県 ...
3. 三内丸山遺跡
世界大百科事典
青森市の中央部を流れて青森湾に注ぐ沖館川の右岸台地上に営まれた,縄文時代前期中ごろから中期末までを中心とした大規模な集落跡。1992年から県運動公園の整備に伴う ...
4. さんないまるやま‐いせき[‥ヰセキ]【三内丸山遺跡】
日本国語大辞典
青森県青森市にある縄文前期から中期の遺跡。大規模な竪穴住居、掘立柱建物、墓地跡が確認され、多数の木製品、漆器、骨角器などが出土。また、各地の翡翠、黒曜石などの出 ...
5. さんないまるやまいせき【三内丸山遺跡】
国史大辞典
青森市三内字丸山に所在する縄文時代の遺跡。沖館川右岸の河岸段丘上にあり、標高は約二〇メートル。範囲は約三八ヘクタールと推定。江戸時代から知られ、山崎立朴の『永 ...
6. さんないまるやまいせき【三内丸山遺跡】青森県:青森市/三内村
日本歴史地名大系
どの土器類に加えて、布引・釣針・鎌・鍬・刀子などの鉄製品も多数発見されている。昭和四五年「三内丸山遺跡調査概報」、同五三年「青森市三内遺跡」などが出ている。〔刊 ...
7. 三内丸山遺跡
日本史年表
1993年〈平成5 癸酉〉 9・13 青森市の 三内丸山遺跡 で大量の木の実を発見。 1995年〈平成7 乙亥〉 10・31 青森 三内丸山遺跡 で、縄文中期の ...
8. 三内丸山(さんないまるやま)遺跡[考古学]
イミダス 2017
青森県青森市の、八甲田山から陸奥湾にのびる丘陵の先端(標高約20メートル)にある縄紋時代前期中ごろ~中期末(5500~4000年前ごろ)を中心とする集落・埋葬 ...
9. The じょうもん検定[イミダス編 文化・スポーツ]
イミダス 2017
縄文時代の文化、環境、生活などに関する知識を幅広く問うご当地検定。青森県の「三内丸山遺跡」をはじめ縄文の魅力を発信するNPO法人「三内丸山縄文発信の会」の主催 ...
10. 青森(県)
日本大百科全書
1992年(平成4)に青森市三内丸山遺跡が発見されて日本最大の縄文集落として注目されるようになった。そのほかは津軽、南部の両藩が内政確立を図ったころからのものが ...
11. 青森[市]
世界大百科事典
るとともに,ねぶた祭は東北四大夏祭の一つとして多くの観光客を集めている。市域中西部に特史の三内丸山遺跡がある。横山 弘 青森湊 1624年津軽藩は寒村善知鳥(う ...
12. 青森県立美術館[建築]
イミダス 2017
市松模様のパターンを効果的に使うルイ・ヴィトンの店舗デザインなどで知られる。青森県立美術館では、三内丸山遺跡が隣接することから、発掘現場の雰囲気を延長し、地面を ...
13. あおもりし【青森市】青森県
日本歴史地名大系
までの土器その他、歴史時代の土師器・須恵器・擦文土器などが出土した三内遺跡、縄文時代中期の三内丸山遺跡、縄文時代早期から後期の土器・石器や竪穴住居跡などが出土し ...
14. 加曾利貝塚
日本史年表
前3000年 この頃 東日本で人口が急増する.巨大な貝塚や環状集落が造営される(青森県 三内丸山遺跡 ・千葉県 加曾利貝塚 など)。糸魚川産硬玉が大珠に加工さ ...
15. 境A遺跡
日本史年表
前3000年 この頃 東日本で人口が急増する.巨大な貝塚や環状集落が造営される(青森県 三内丸山遺跡 ・千葉県 加曾利貝塚 など)。糸魚川産硬玉が大珠に加工さ ...
16. 佐藤洋一郎[DNA考古学で濱田青陵賞を受賞]
イミダス 2017
国立遺伝学研究所助手、静岡大学農学部助教授を経て国立総合地球環境学研究所教授。佐藤教授は青森県三内丸山遺跡などで出土したクリが完全な野生種ではなく、人が手をかけ ...
17. 長者ヶ原遺跡
日本史年表
前3000年 この頃 東日本で人口が急増する.巨大な貝塚や環状集落が造営される(青森県 三内丸山遺跡 ・千葉県 加曾利貝塚 など)。糸魚川産硬玉が大珠に加工さ ...
18. トリップアドバイザー[レジャー/旅行]
イミダス 2017
(2)インスタントラーメン発明記念館(大阪府)、(3)航空自衛隊浜松広報館(静岡県)、(4)三内丸山遺跡(青森県)、(5)ホテル椿山荘東京庭園(東京都)。ほかに ...
19. 1993年〈平成5 癸酉〉
日本史年表
茨城県三和町町長大山真弘を受託収賄容疑で逮捕(23日、茨城県知事竹内藤男を逮捕)。 9・13 青森市の 三内丸山遺跡 で大量の木の実を発見。 9・21 プロ ...
20. 1995年〈平成7 乙亥〉
日本史年表
10・28 水俣病被害者・弁護団全国連絡会議、政府解決案受け入れ決定。 10・31 青森 三内丸山遺跡 で、縄文中期の東西210メートルの墓を確認。 11・ ...
21. 前3000年
日本史年表
【日本】 この頃 東日本で人口が急増する.巨大な貝塚や環状集落が造営される(青森県 三内丸山遺跡 ・千葉県 加曾利貝塚 など)。糸魚川産硬玉が大珠に加工され ...
22. 書評 読書日記 精神の連続として読む 目からウロコの日本史=町田康
週刊エコノミスト 2016-17
章立てに即して具体的に言うと、火炎土器、土偶、写経、阿修羅(あしゅら)像と鑑真和上像、仏師・運慶。そして、三内丸山遺跡、銅鐸(どうたく)、古墳、仏教の受容、最澄 ...
「三内丸山遺跡」の情報だけではなく、「三内丸山遺跡」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

三内丸山遺跡と同じ縄文時代カテゴリの記事
縄文時代(国史大辞典)
弥生時代以前の日本列島で土器が出現し使用された時代全体を縄文時代とする広義の見解と、その編年区分のうち最古の細隆線文土器・爪形文土器などが作られ使用された草創期は縄文土器文化以前の土器文化と考え、これを晩期旧石器時代・更新世最終末とする見解とがある。
縄文海進(世界大百科事典・日本大百科全書・岩波 生物学辞典)
関東平野では縄文時代の貝塚が台地周縁ぞいに,かなり内陸まで分布していることが注目されていて,そのような古海岸線を残した海進は縄文海進とよばれるようになった。ヨーロッパでも〈新石器時代汀線Neolithic beach〉とよばれる同じような海進がみられる。
鳥浜貝塚(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
福井県三方上中郡若狭町鳥浜にある縄文時代前期から草創期にかけての貝層を伴う低湿地遺跡。1962年(昭和37)から10年間にわたり、若狭考古学研究会のメンバーを中心に発掘が行われ、多大の成果を収めた。また、自然科学の各分野の研究者が参加協力し、共同研究の実をあげた。
三内丸山遺跡(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
青森市三内字丸山に所在する縄文時代の遺跡。沖館川右岸の河岸段丘上にあり、標高は約二〇メートル。範囲は約三八ヘクタールと推定。江戸時代から知られ、山崎立朴の『永禄日記』や菅江真澄の『栖家の山』にも遺物発見の記載がある
縄文土器(日本国語大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
縄文文化の土器の総称。縄や蓆でつけたような文様があるので、はじめ縄蓆文土器とも称されたが、昭和初期にこの名称に統一された。明治一〇年(一八七七)、大森貝塚を発掘したE=S=モースが、その土器をCord marked pottery と呼んだのが起源
縄文時代と同じカテゴリの記事をもっと見る


「三内丸山遺跡」は日本の歴史に関連のある記事です。
その他の日本の歴史に関連する記事
長篠の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正三年(一五七五)五月二十一日織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を三河国設楽原(したらがはら、愛知県新城(しんしろ)市)で破った合戦。天正元年四月武田信玄が没し武田軍の上洛遠征が中断されると、徳川家康は再び北三河の奪回を図り、七月二十一日長篠城
姉川の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
平成(国史大辞典)
現在の天皇の年号(一九八九―)。昭和六十四年一月七日天皇(昭和天皇)の崩御、皇太子明仁親王の皇位継承に伴い、元号法の規定により元号(年号)を平成と改める政令が公布され、翌一月八日より施行された。これは、日本国憲法のもとでの最初の改元であった。出典は
河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
日本の歴史に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1700冊以上(総額750万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶