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ジャパンナレッジの記事の内容サンプルです。
※実際の記事と若干異なる場合があります。
10月31日更新
ノーベル賞(日本大百科全書(ニッポニカ))
スウェーデンのアルフレッド・ノーベルの遺言で、彼の遺産を基金にした、世界でもっとも権威のある賞。賞の成立までノーベルは真からの人道主義者であり理想主義者であったにもかかわらず、破壊的なダイナマイトの発明で、生前の評判はけっして芳しいものではなかった。
イグノーベル賞(日本大百科全書(ニッポニカ))
ノーベル賞のパロディとして1991年に創設された、世界中の独創性に富んださまざまな研究や発明などに対して贈られる賞。イグノーベルIg Nobelという名称は、ノーベル賞と英語の「ignoble(あさましい、不名誉の)」を組み合わせたもの。接頭語としてのigには否定的な意味があり、「裏ノーベル賞」ともいわれる。
生理学(日本大百科全書(ニッポニカ))
生体の機能、すなわち生物の体の働きを研究する自然科学の一分野。生体の構造を研究対象とする形態学と対置されるが、両者は本来、不可分の関係にある。[高橋景一] [真島英信]生理学の対象。生命そのものは、自然科学の方法のみで完全に理解することはできない。しかし、心臓の拍動や呼吸など
オートファジー(日本大百科全書(ニッポニカ))
生物の細胞が、細胞内のタンパク質を分解し、自らの栄養源などとして再利用するシステム。autophagyは、ギリシア語のauto(自ら)、phagy(食べる)からきている。日本語では自食作用と表現される。一般的に、動物では「リソゾーム(リソソーム)」、植物や酵母では「液胞」という細胞内小器官がオートファジーを担う。
桐壺(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕帝の桐壺更衣(きりつぼのこうい)への御おぼえまばゆし帝(みかど)はどなたの御代(みよ)であったか、女御(にようご)や更衣(こうい)が大勢お仕えしておられた中に、最高の身分とはいえぬお方で、格別に帝のご寵愛(ちようあい)をこうむっていらっしゃるお方があった。
帚木(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕 「光源氏」と、その名だけは仰山(ぎようさん)にもてはやされており、それでも、あげつらい申すにははばかられるような過(あやま)ちが多いということだのに、そのうえさらに、こうした色恋沙汰(ざた)の数々を後々の世にも聞き伝えて、軽薄なお方との浮名(うきな)を流すことになりはせぬかと、ご自分では秘密にしていらっしゃった裏話までも語り伝えたという人の
空蝉(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕源氏、空蝉を断念せず、小君を責める〔一〕 お寝(やす)みになれぬままに、「わたしは、こうも人に憎まれたことはこれまでもなかったのに、今夜という今夜は、はじめて人の世がままならぬものと身にしみて分ったから、恥ずかしくて、もうこのまま生きてはおられそうもない気がする」などとおっしゃるので、小君は涙をさえこぼして横になっている。
夕顔(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕源氏、乳母を見舞い、女から扇を贈られる〔一〕 六条のあたりにお忍びでお通いになるころ、宮中からお出ましになる途中のお立寄り所として、大弐(だいに)の乳(めの)母(と)がひどくわずらって尼になっていたのを見舞おうとして、五条にあるその家を訪ねておいでになる。
若紫(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕源氏、瘧病(わらわやみ)をわずらい、北山の聖を訪れる〔一〕 源氏の君は、瘧病をおわずらいになって、あれこれと手を尽してまじないや加持などおさせになるけれども、効験がなくて、たびたび発作をお起しになったので、ある人が、「北山でございますが、何々寺という所に、すぐれた修行者がおります。
末摘花(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕源氏、亡き夕顔の面影を追い求める〔一〕 いかほど思いを寄せても、なおどこまでも愛着のそそられたあの女(ひと)が、夕顔の露のようにはかなく消えてしまった、その折の悲しさを、源氏の君は年を経てもお忘れでなく、このお方もあのお方も、気のおける方々ばかりで、もったいぶってみたり心用意の深さを見せようとしたり、そうした面で張り合われるという有様だから
紅葉賀(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕 朱雀院(すざくいん)への行幸(ぎようこう)は十月十日過ぎである。このたびは常のそれとちがって、さぞや感興も深かろうと思われるお催しだったので、女御(にようご)や更衣(こうい)など御方々は、ご見物になれぬことを残念に思っていらっしゃる。帝(みかど)も、藤壺の宮がごらんにならないのを物足りなくおぼしめすので、その試楽を清涼殿(せいりようでん)の前庭でお催させになる。 源氏の中将は、青海波をお舞いになるのだった。
花宴(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕花の宴に、源氏と頭中将、詩作し、舞う〔一〕 二月の二十日余りに、南殿(なでん)の桜の宴を催しあそばす。中宮と東宮の御座所を、玉座の左右にしつらえて、お二方それぞれがお上りになる。弘徽殿女御は、中宮がこうして時めいていらっしゃるのを、何か事あるごとに、快からぬお気持であるけれども、今日のように盛大な物見には、とてもじっとしてはいらっしゃれなくて、参上なさる。
葵(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕桐壺帝譲位後の源氏と藤壺の宮〔一〕 御代が改まってから後、源氏の君は、何かにつけてお気が進まず、それにご身分の尊さも加わったせいか、軽率なお忍び歩きもはばかられるので、こちらの女(ひと)もあちらの女(ひと)も君を待ち遠しく心もとない嘆きを重ねておられる、その報いであろうか、君ご自身としても、やはり自分につれないお方のお心をどこまでも恨めしくお嘆きになっていらっしゃる。
賢木(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕桐壺帝譲位後の源氏と藤壺の宮〔一〕 御代が改まってから後、源氏の君は、何かにつけてお気が進まず、それにご身分の尊さも加わったせいか、軽率なお忍び歩きもはばかられるので、こちらの女(ひと)もあちらの女(ひと)も君を待ち遠しく心もとない嘆きを重ねておられる、その報いであろうか、君ご自身としても、やはり自分につれないお方のお心をどこまでも恨めしくお嘆きになっていらっしゃる。
花散里(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕源氏、五月雨の晴れ間に花散里を訪れる〔一〕 人に知られぬ、我から求めての御物思わしさは、いつと限らぬことのようであるけれど、このように世間一般の動きにつけてまで厄介で、お心を労されることばかり増してゆくので、源氏の君はなんとなく心細く、世の中のすべてを厭(いと)わしく思わずにはいらっしゃれなくなるが、いざそれではとなるとさすがに振り捨てかねる絆(きずな)も多いのである。
須磨(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕源氏、須磨に退去を決意 人々との別れ〔一〕 世の中の形勢が、源氏の君にとってまことにわずらわしく、居心地のわるいことばかり多くなってゆくので、自分としては、しいて素知らぬ顔でやり過していても、あるいはこれ以上に恐ろしい事態になるかもしれない、という思いになられた。 あの須磨は、昔こそ人の住いなどもあったのだったが、今はまったく人里離れてもの寂しく
明石(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕風雨やまず、京より紫の上の使者来る〔一〕 依然として雨風がやまず、雷のおさまらぬままに幾日にもなった。源氏の君は、いよいよやりきれないことが数限りなく起ってきて、来し方行く末悲しい御身の上なので、もうとても強気でいることもおできにならず、「どうしたものだろう、こうしたことがあったからとて、都に帰ろうものなら、それもまだ世間に許されぬ身であってみれば、なおさらもの笑いになるばかりだろう。
澪標(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕故院追善の御八講と源氏の政界復帰〔一〕 夢にありありとそのお姿がお見えになってからというものは、源氏の君は、故院の御事をお心におかけになって、どうかして、あの世の悪道でお苦しみあそばす罪障を、お救い申しあげる追善供養(ついぜんくよう)をしてさしあげたいものとお心を痛めていらっしゃるのだったが、こうして都にご帰還になってからは、まずそのご準備をなさる。
蓬生(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕源氏謫居(たつきよ)の間、人々ひそかに嘆き悲しむ〔一〕 源氏の君が、須磨の浦で「藻塩(もしお)たれつつ」悲境に沈んでいらっしゃったころ、都でも、さまざまに嘆き悲しんでおられる人が多かったが、それにしても、ご自分の身に頼りどころのある方々は、ただ君を恋い慕うという点では堪えがたそうな有様であったが――二条院の紫の上などもお暮しにご不自由がないので
行基菩薩学仏法導人語第二(今昔物語)(新編 日本古典文学全集)
二〔今は昔、わが国に〕行基菩薩(ぎようぎぼさつ)と申し上げる聖(ひじり)がおいでになった。和泉国大鳥(いずみのくにおおとりの)〔郡(こおり)の人である。その出生の〕時、胞衣(えな)に包まれて生れたので、父がこれを見て〔忌まわしく思い、木の枝の上に載せておいたところ、数日たって見ると、胞衣から出てものを言った。〕それで父母は取り下ろして養育することになった。
役優婆塞誦持呪駈鬼神語第三(今昔物語)(新編 日本古典文学全集)
の寺を〔建立〕し、不便な場所には道を作り、深い川には橋をおかけになった。文殊(もんじゆ)の化身としてお生れになったのだ、とこう語り伝えているということだ。三 今は昔、本朝、〔文武(もんむ)〕天皇(てんのう)の御代(みよ)に役(え)の優婆塞(うばそく)と申し上げる聖人(しようにん)がおいでになった。
道照和尚亘唐伝法相還来語第四(今昔物語)(新編 日本古典文学全集)
朝廷を恐れはばかって配所にそっといるが、夜には駿河国(するがのくに)の富士山に行って修行する。そしてひたすらこの罪の許されるように願い祈っていた。三年たって、朝廷は優婆塞に罪がないとおわかりになって召し帰され(以下、原文欠脱)四 今は昔、本朝、天智天皇の御代(みよ)に道照和尚(どうしようわじよう)という聖(ひじり)がおいでになった。
道慈亘唐伝三論帰来神叡在朝試語第五(今昔物語)(新編 日本古典文学全集)
の光が見えるか、どうだ」と言う。弟子が、「見えます」と答えると、道照は、「このことを言い広めるなよ」と言われた。その後、夜になってその光が部屋から出て、寺の庭の植木を輝かせた。しばらく輝いてから、光は西をさして飛んでいく。弟子たちはこれを見てひどく恐れおののいた。
玄昉僧正亘唐伝法相語第六(今昔物語)(新編 日本古典文学全集)
六 今は昔、聖武天皇(しようむてんのう)の御代(みよ)に、玄昉(げんぼう)という僧がおった。俗姓(ぞくしよう)は阿刀氏(あとのうじ)、大和国(やまとのくに)□□郡(こおり)の人である。幼いころ□□という人に従って出家し、仏法を学んだが非常に理解が早かった。 □□□□□□を持ち帰り、仏法をも広く学ぼうと思い、霊(れい)〔亀(き)二年、唐に渡り、〕知周(ちしゆう)法師という人を師として
婆羅門僧正為値行基従天竺来朝語第七(今昔物語)(新編 日本古典文学全集)
七 今は昔、聖武天皇(しようむてんのう)が東大寺を建立し開眼供養(かいげんくよう)をなさろうとされた。そのころ、行基(ぎようぎ)という人がおった。その人を講師(こうじ)に任じられたが、行基は、「わたくしはその任に不相応でございます。やがて外国から講師を勤めうる人が参りましょう」と申し上げ、その講師を出迎えるために、天皇に奏上して、百人の僧をひきつれ
鑑真和尚従震旦渡朝戒律語第八(今昔物語)(新編 日本古典文学全集)
途中、一人の老翁に出会った。その翁が菩提に、「文殊は日本国の衆生(しゆじよう)を済度(さいど)するために、その国に誕生なさいましたよ」と告げた。菩提はこれをお聞きになり、素志(そし)を遂げようと思い、この国に渡来なさったのである。その文殊がこの国に誕生されたというのは、行基菩薩その方である。
弘法大師渡宋伝真言教帰来語第九(今昔物語)(新編 日本古典文学全集)
九 今は昔、弘法大師(こうぼうだいし)と申す聖(ひじり)がおいでになった。俗姓(ぞくしよう)は佐伯氏(さえきのうじ)、讃岐国(さぬきのくに)多度郡屏(たどのこおりびよう)風浦(ぶのうら)の人である。母は阿刀氏(あとのうじ)の出であるが、聖人(しようにん)が来て胎内に入るという夢を見て懐妊し、お生れになったのである。
伝教大師亘宋伝天台宗帰来語第十(今昔物語)(新編 日本古典文学全集)
い出て真言宗(しんごんしゆう)をうちたて、世に広めた。するとその時、諸宗の多くの学者たちが、この宗の即身成仏の教義に疑問をもち論難する。そこで大師は、その疑問を断とうがために、清涼殿において、南に向い、大日如来の入定(にゆうじよう)の印(いん)を結び深く念じ入ると、顔の色が黄金のようになり、体から黄金の光を放った。
帰来語第十一(今昔物語)(新編 日本古典文学全集)
唐の絹を濃い紫色に染め、綿を厚く□た小袖(こそで)である。これをいただいて礼拝して出た。その後、帰って比叡山を建立したが、その清浄な衣を着て、みずから薬師像を造り奉った。 また、春日(かすが)神社(じんじや)に参拝し、神の御前において『法華経』を講ずると、紫の雲が山の峰の上から立ちのぼり、経を講じている場所一面をおおった。
智證大師亘宋伝顕蜜法帰来語第十二(今昔物語)(新編 日本古典文学全集)
って来て、人知れず聞いてみると、会昌天子はお亡くなりになり、他の天皇が即位されたので、仏法を滅すことはとりやめになっていた。 大師はかねての希望どおり、〔青竜(しようりゆう)〕寺(じ)の義操(ぎそう)という人を師として密教を学び伝え、承和十四年という年に帰朝して、顕密の教えをお広めになった、とこう語り伝えているということだ。
聖武天皇始造東大寺語第十三(今昔物語)(新編 日本古典文学全集)
の御もとに届けられた。その時はじめて、あの香水をとって持ってきた僧は、「和尚が香水をまかれたのはこのことだったのだ」と気がつき驚いて、他の僧たちにこの話をして和尚を尊んだのであった。「ここにおいでになりながら、宋のことが暗(そら)におわかりになるとは、和尚さまはまことに仏の化身でいらっしゃるにちがいない」と言って
淡海公始造山階寺語第十四(今昔物語)(新編 日本古典文学全集)
十四 今は昔、大織冠(だいしよくかん)(藤原鎌足(ふじわらのかまたり))がまだ内大臣になられず、一臣下でおありなさったころのこと、それは皇極天皇(こうぎよくてんのう)と申し上げた女帝の御代(みよ)で、その皇子で後に天皇(天智天皇)になられた方がまだ皇太子でおいでになり、この大織冠と心を合せて蘇我入鹿(そがのいるか)を誅罰(ちゆうばつ)しようとなさった。
聖武天皇始造元興寺語第十五(今昔物語)(新編 日本古典文学全集)
所はかわったが寺名を山階寺というのである。また興福寺(こうぶくじ)というのはこの寺のことであるということだ。十五 今は昔、元明天皇(げんみようてんのう)が奈良の都飛鳥(あすか)の郷(さと)に元興寺(がんごうじ)を建立なさった。堂や塔をお建てになり、金堂(こんどう)には□丈の弥勒菩薩(みろくぼさつ)の像を安置(あんじ)なさる。
代々天皇造大安寺所々語第十六(今昔物語)(新編 日本古典文学全集)
多くの僧が東大寺に移った。そのうち、何かにつけてこの両寺は不和となり、にわかに合戦となった。戦(いくさ)は老僧のなすべきふるまいでないにもかかわらず、いつか悪にひかれて鎧兜(よろいかぶと)をつけ、諸経典も手にせず、あちこちの堂に捨てたまま四方八方に逃げてしまった。
群書類従(改訂新版・世界大百科事典)
塙保己一編の叢書。正編1270種530巻666冊,続編2103種1150巻1185冊からなる日本最大の叢書。正編は,1779年(安永8)に保己一がその編纂・出版のため,天満宮に心経百万巻読誦の誓願をしてから,1819年(文政2)に全冊の刊行を終えるまで,実に41年の歳月を費やした
杉原千畝(日本大百科全書(ニッポニカ))
外交官。1900年(明治33)生まれ、岐阜県出身。1940年(昭和15)にバルト海に面したリトアニアの日本領事館領事代理。当時、ナチスの迫害を逃れようとするユダヤ系ポーランド人がリトアニアに殺到し日本領事館で日本通過の査証(ビザ)を得ようとした。
海水浴(日本大百科全書(ニッポニカ))
健康増進、避暑、レクリエーションとして海岸で水につかることである。現在では海で水泳をすることを海水浴というようになっているが、もとは健康回復や健康増進を目的として世界各国で昔から行われていた原始的な自然療法であった。日本でも古くから潮浴(しおあみ)、潮湯治(しおとうじ)などの名で医療のための海水浴が行われていた。
松平定信(国史大辞典)
一七五八-一八二九。江戸時代後期の将軍補佐兼老中。幼名は賢丸、字は貞卿、号は旭峯・楽翁・風月翁・花月翁など。徳川(田安)宗武の第三子(八代将軍徳川吉宗の孫)。宝暦八年(一七五八)十二月二十七日江戸田安邸に生まる。田安家血統の絶える恐れがあるにもかかわらず安永三年(一七七四)白河藩松平定邦の養子を命じられた。
パラリンピック(日本大百科全書(ニッポニカ))
パ国際パラリンピック委員会(IPC)が主催する、障害者(聴覚障害者を除く)とその補助者が参加する、最高峰の国際スポーツ大会。4年に一度オリンピック開催地で開かれる。夏季大会には160以上の国と地域、4000人以上の選手が参加する巨大イベントである。
一条戻橋(日本歴史地名大系)
[現]上京区堀川下之町堀川の一条大路に架かる橋。古代・中世を通じて京域の境とされ、また橋占を行う場所として多くの伝承を生んだ。「権記」長徳四年(九九八)一二月二五日条に「自〓上東門〓東行、至〓万里路〓更北行、自〓戻橋路〓、出〓鴨下御社西堤下〓」とあるのが初見。
宮沢賢治(日本大百科全書(ニッポニカ))
詩人、童話作家、農芸化学者。農村指導者、宗教思想家。明治29年8月27日岩手県稗貫(ひえぬき)郡花巻町(現花巻市)に、父政次郎(まさじろう)(質・古着商)、母イチの長男として生まれ、父祖伝来の濃密な仏教信仰のなかで育った。
太平記(日本大百科全書(ニッポニカ))
南北朝時代の軍記物語。40巻。 [山下宏明]成立。足利(あしかが)氏の一支族で九州探題として足利政権の確立に貢献した今川貞世(いまがわさだよ)(了俊(りょうしゅん))の著『難太平記(なんたいへいき)』によれば、暦応(りゃくおう)(1338~42)、康永(こうえい)(1342~45)のころ、法勝寺(ほっしょうじ)
宝登山(日本歴史地名大系)
町境にそびえ、標高四九七・一メートル。山麓には宝登山神社・玉泉(ぎよくせん)寺、山頂には宝登山神社奥宮があり、古くから信仰の山であった。山名の由来は、弘法大師が山頂に宝珠の翻るのをみて名付けたとか、凹地・窪地をあらわすホドに因むなどといわれる。
やま‐せ【山背】(日本国語大辞典)
山を越えて吹いてくる風。また、夏、東北地方の太平洋岸に吹く冷涼な北東風。《季・夏》(1)本来、山の向こうから吹いてくる風のことで、山背の漢字表記がなされ、語源説では「セ」を風とみるものが多い。(2)地方によって風向や付随する意味も様々である。この語が風名の中でも比較的有名なのは、方言の分布地域の広さのほか
再結晶(改訂新版・世界大百科事典)
溶解度の差を利用して結晶性物質を精製すること。すなわち精製しようとする固体を,適当な溶媒に加熱して溶かすか,あるいは濃縮して飽和溶液とし,これを徐々に冷却すると一般に溶質の溶解度が減少して再び結晶として析出してくる。この沈殿をろ過することによって,成分を結晶として精製することができる。
(日本大百科全書(ニッポニカ))
能は日本の伝統芸能の一つで、狂言とともに南北朝時代から現代に演じ継がれ、世界でもっとも長い演劇生命と伝統をもっている。独自の様式をもつ能舞台に、能面を用い、世阿弥(ぜあみ)が「舞歌二道」と指示したように、舞(まい)に高められ抽象化された演技と、謡(うたい)と囃子(はやし)による音楽要素の融合された演劇である。
磯崎新(日本大百科全書(ニッポニカ))
建築家。大分県に生まれる。1954年(昭和29)東京大学工学部建築学科を卒業、同大学院に進み、丹下健三に師事、1961年博士課程修了。カリフォルニア大学、ハーバード大学、エール大学、コロンビア大学などの客員教授を務める。1963年磯崎新アトリエを創設。40年以上の活動において、建築の形式や引用に注目し、多様な表現を展開
枕草子(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・国史大辞典)
平安中期の随筆。清少納言(せいしょうなごん)の作。跋文(ばつぶん)によると、清少納言が仕える一条(いちじょう)天皇の中宮定子(ていし)に、正暦(しょうりゃく)5年、長徳(ちょうとく)元年(994、995)のころに、中宮の兄藤原伊周(これちか)が紙を献上したことがあり
森鴎外(日本大百科全書(ニッポニカ))
文学者、軍医。本名林太郎。文久(ぶんきゅう)2年1月19日、石見(いわみ)国(島根県)津和野横堀に生まれる。[磯貝英夫]生涯。森家は、津和野藩代々の御典医の家柄で、父は静男(静泰(せいたい))、母は峰子。鴎外は長男で、2弟、1妹があった。7歳より藩校養老館で漢学を学び、また、父についてオランダ文典をも学んだ。
集合組織(改訂新版・世界大百科事典)
金属などの多結晶材料中に存在する各結晶粒の結晶格子の向き(結晶方位)の分布状態のことで,厳密には結晶集合組織という。ある結晶方位の結晶粒が統計的に多いならば,〈この集合組織には優先方位がある〉という。慣用的には同じ意味で,〈この材料には集合組織がある〉ということが多い。
金々先生栄花夢(日本大百科全書・国史大辞典)
黄表紙。2巻2冊。恋川春町(こいかわはるまち)作・画。1775年(安永4)刊。「金々先生」とは当時の流行語で、流行の先端をいく金持ちの粋人を意味する。江戸でひともうけしようとする田舎者(いなかもの)金村屋金兵衛は、目黒不動で名物の粟餅(あわもち)を食べようとし
宇治拾遺物語(改訂新版・世界大百科事典)
鎌倉時代の説話集。15巻15冊。ただし,巻を立てない2冊本や3冊本もある。編者は未詳。鎌倉時代初期の成立で,1220年(承久2)前後と見る説が有力。書名の由来は諸説あって一定しないが,古来宇治大納言隆国(源隆国)編,またはそれに取捨を加えたものとされてきたことからの称らしく
仏教(国史大辞典)
仏陀と称せられる歴史的人物ゴータマの創始した宗教。〔開祖ゴータマの生涯〕仏教の開祖は姓をゴータマGotama(瞿曇(くどん))、個人名をシッダッタSiddhatthaという。前四六三年ごろ(他の学説によるとそれよりも約一世紀以前)に釈迦(パーリPāli語でŚākiya、サンスクリットSanskrit語でSākya)
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