いささか気が早いのだが、期待をこめて書いておこうと思う。「シュウソク」という語についてである。もちろん、新型コロナウィルス感染症のことに他ならない。 「シュウソク」は、同音語の「収束」と「終息」とがあり、同義語ではないが意味はかなり近い。そのためだろう、執筆者や発言者によって、どちらを使うのかいささか混乱があるように見受けられる。文字で書かれたものは見ればわかるのだが、口頭で述べられたものだと、どちらなのだろうかと思うこともある。どちらも、感染症がおさまるという意味で使われているのだから、どちらを使っても問題はなさそうだが、辞書編集者としてはやはり気になるところだ。
 例えば、国会の本会議、委員会での発言を、速記者はどうしているのだろうかと思ったのである。そこで国会会議録検索システムを調べてみると、こんなことがわかった。新型コロナに関しては3月になってからだと、「収束」は26回、「終息」は67回使われている(4月7日現在の数字)。具体的に見てみると、第201回国会-衆議院-経済産業委員会-第3号-令和2年3月18日では以下のようになっている。

 「まずは感染の拡大を防止し、その流行を早期に収束させることこそが、まずは経済の観点からも最大の課題だと考えております」

とある一方で、その直後の別の人の発言では、

「まずは感染拡大の終息を目指していくということがまず第一でありますけれども」、

と書かれている。予想通り、「収束」「終息」が混在しているのだ。発言者は「シューソク」と言ったので、速記者が自分で漢字に変換して書いただろう。わずかな間に異なった語になったのは、速記者は5分ごとに交替していると同システムのサイトで説明しているので、ひょっとすると速記者が交替したのかもしれない。ただ、二番目の発言は、発言者の意図はわからないが、「収束」の方がふさわしいような気もする。
 もちろん私は、どちらかを使うべきだといいたいわけではない。ましてや揚げ足を取ろうなどと思っているわけでもない。ただ、辞書的にこの2語がどう違うのか説明しておきたいと思っただけである。
 「収束」は、文字通り集めてたばねるということで、これが、ばらばらになっていたり混乱していたりしたものが一つにまとまって収まりがつくという意味になる。
 例えば『日本国語大辞典(「日国」)』で引用している「収束」の例、夏目漱石の『道草』(1915年)は、「云ふ事は散漫であった。〈略〉収束(シウソク)する所なく共に動いてゐた健三は仕舞に飽きた」(九六)というものである。これだけだとちょっとわかりにくいので補足すると、留学から帰った主人公の健三は大学教師になり研究に没頭するのだが、縁を切ったはずの昔の養父島田が現れ金を無心してくるのである。引用文は、その島田からの指示で健三のもとに来た男との話し合いに、なかなか収まりがつかないということを述べているのである。
 これに対して「終息」は「終」という漢字が含まれているように、物事がおわること、やむことをいう。『日国』の引用例の一つ、司馬遼太郎の『美濃浪人』(1966年)は、「とりあえず下関海峡での対外戦を終熄(シュウソク)させようとした」
というものだが、戦争をおわらせるという内容である。
 これを新型コロナウィルス感染症に当てはめてみると、こういうことになるだろう。「収束」は感染者の数を小さくおさめるということで、感染者がまだ出ていたとしても新たな感染者は減少し始めている状態、「終息」は新規の感染者がほぼ出なくなった状態ということになるのではないだろうか。つまり、まずは「収束」を目指し、最終的には「終息」を目標にするということになるのではないか。
 このコラムが掲載されたころには、少しでも「収束」の見込みがついていることを願ってやまないのである。

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 心身の力のありったけを尽くして、何かを行うことを「心血を注ぐ」という。例えば、地理学者、志賀重昂(しがしげたか)が日本の風光について論じた『日本風景論』(1894年)にも、

 「一代の英物たる野中兼山が心血を澆(そそ)ぎて鑿通せし各処の溝渠運河は」(三)

とある。ここでは、江戸前期の土佐藩の家老野中兼山(のなかけんざん)が、まさに「心血をそそい」で完成させた治水灌漑工事のことを述べている。
 ところがこの「心血をそそぐ」を、「心血を傾ける」と言う人がいる。
 文化庁が2007(平成19)年度に行った「国語に関する世論調査」でも、「心血を注ぐ」を使う人が64.6パーセント、「心血を傾ける」を使う人が13.3パーセントと、「心血を傾ける」という人は、多くはないが存在することがわかる。しかもその調査では、「心血を傾ける」と答えた人は、50代と60歳以上になると、他の世代よりも多くなっている。
 「心血を傾ける」と言ってしまうのは、おそらく「心を傾ける」や「精魂(精根)を傾ける」といった表現との混同だろう。50歳代以上になると「心血を傾ける」が増えてくるのは、ことばをあいまいに覚えていて、他の表現と混同する人が多くなるせいなのかもしれない。
 私も人ごとではない。
 「心血を傾ける」は本来の言い方ではないため、『明鏡国語辞典』はこれを「誤り」としている。私も、「心血を傾ける」が本来の言い方ではないと認めるにやぶさかではないが、かといって『明鏡』のように「誤り」と断定することについては、いささかためらいがある。というのも、哲学者三木清の『語られざる哲学』(1919年)にこんな使用例があるからだ。

 「書籍の中でも偉大なる人々が心血を傾け尽して書いたものを顧みることは、旧思想との妥協者として譏られる恐れがあったので」

これ1例だけだった、つい筆が滑ったということも考えられるだろう。だが、他にも夢野久作の『木魂(すだま)』(1934年)という小説に、

 「心血を傾けて編纂しつつある『小学算術教科書』が思い通りに全国の津々浦々にまで普及した嬉しさや」

という例がある。夢野は他の作品では、「心血を傾注する」(『ドグラ・マグラ』1935年刊)とも書いている。また、明治時代のジャーナリスト鳥谷部春汀(とやべしゅんてい)は「心血を傾倒する」(『明治人物月旦』「大隈伯と故陸奥伯」1907年)と書いている。
 これらの例からわかることは、「心血を傾ける」あるいはそれに類似する言い方は、最近生まれた言い方ではないということである。
 実は、最初に示した志賀の『日本風景論』は1894年の刊行だが、これは『日本国語大辞典』の「心血を注ぐ」の項目で一番古い例として引用している内田魯庵(うちだろあん)の随筆『嚼氷冷語(しゃくひょうれいご)』(1899年)よりもさらに5年古い。だが、それとくらべて、『語られざる哲学』『木魂』はどうだろう。最大で40年しか違わない。明治から大正、昭和にかけての40年は、決して短くはないが、こと日本語に関しては、時代的に大きな断はないような気がする。50代以上、つまり私と同じ世代を擁護するわけではないが、「心血を傾ける」も誤用とはいえない気がするのである。

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 まずは以下の文章をお読みいただきたい。

 「ある人に関する、世間にあまり知られていない話。その人の隠れた面をよく表わしているような話。」

これは、『日本国語大辞典(日国)』の「逸話」という語の語釈である。そしてこれは、他の国語辞典もほとんどが同じ内容である。『日国』ではこの語釈に続いて2つ用例が引用されていて、いずれも近代以降のものである。古い方の例は、

*思出の記〔1900~01〕〈徳富蘆花〉六・一六「伯父の死を聞き知って『彼お丈夫な御方が』とくやみを述べ、猶一場の逸話を語った」

というもの。この用例文中の「逸話」とは、亡くなった「伯父」の隠れた面の話ということであろう。つまり、「ある人」「その人」に関する話だという、『日国』の語釈の内容と合致する。
 ところが、こんな例はどうだろうか。

(1)「先日(こないだ)硯と阿波侯についての話しを書いたが、姫路藩にも硯について逸話が一つある」(薄田泣菫『茶話』1916年)

(2)「かわうその伝承は日本各地に伝わるが、それもかつては身近にいたからこそ。もはや幻となってしまったニホンカワウソからは新たな逸話はうまれない。」(青木奈緖『幸田家のことば 知る知らぬの種をまく』2017年)

 これらの例に共通するのは、いずれも『日国』や他の国語辞典の語釈とは違って、人に関することではないという点である。(1)は「硯」、(2)は「ニホンカワウソ」である。ただ、(1)は前後を読むと「硯」に関するある人物の話のことではあるのだが。だが、私だったら、どちらのケースも、「伝説」とか「エピソード」などとすると思う。もっとも「エピソード」にも「逸話」同様、ある人に関する話という意味もあるのだが。
 また、私の知人は「○○市の逸話」のように、人ではなく地名に対してこの語を使っていた。「硯」「ニホンカワウソ」「○○市」に人格的なことを認めて、「逸話」と言っているのだと説明できるのかもしれないが、少し無理がありそうだ。さらに、テレビでよく顔を見かける日本語学者が書いた文章で、「北風と太陽」の話を「逸話」と言っているのを読んだこともある。私だったら、これは「寓話」にする。
 いずれにしても、辞書に記載された「逸話」の意味では説明しきれない使用例が、多くはないが見られるということである。「逸話」の意味の範囲が拡大しているということなのだろう。
 だとすると、今後「逸話」の語釈は、元来は人限定なのでその意味は残しつつも、そのものやものごとにまつわる興味深い話という意味を追加した方がいいのかもしれない。そう思って『三省堂国語辞典』第7版を引いてみたら、すでにそのように書かれていた。恐らく現状をふまえての判断なのであろう。さすがである。

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 まずは以下の文章をお読みいただきたい。

 「歯みがきしてない犬の多くは8歳頃に、深刻な症状が発覚する。」(西川文二『イヌのホンネ』2015年)

 注目していただきたいのは、文中に使われている「発覚」という語である。この「発覚」の使い方に違和感をもったという人は、かなりいるかもしれない。
 「発覚」は、例えば『日本国語大辞典(日国)』によると、「かくしていた秘密や罪悪、陰謀などがあらわれること。露顕。暴露。」という意味である。そして、そこに引用されている用例は、平安後期の説話文学『江談抄(ごうだんしょう)』(1111年頃)のものが最も古い。

 「致忠男保輔 保昌、兄也 是強盗主也。事発覚繋獄之後」(三)

というもので、「致忠(むねただ)の男児の保輔(やすすけ)〔保昌の兄である〕は、強盗の首領である。事件が「発覚」して獄につながれた後に」という意味だ。この例もそうだが、『日国』で引用されている他の2例、小栗風葉の『青春』(1905~06年)も長塚節(ながつかたかし)の『土』(1910年)も、「小児を山林の奥で獣類同様に育てた」とか、「悪事」とかいった、隠していたよくないことがあらわれるという意味で使われている。
 ところが、冒頭の引用文にある「発覚」はどうだろうか。犬に何か症状が現れるということで、それは深刻なものなのかもしれないが、秘密や罪悪、陰謀があらわれるわけではない。
 「発覚」の「発」は、あばくで、隠れたものごとを表にだすという意味、「覚」は人に気づかれるという意味である。そして「発覚」で、隠していたよくないことがばれてしまうということが本来の意味なのである。
 従って、小型の国語辞典のほとんどは、『日国』同様、隠しごとや悪だくみなどがあらわれることという意味にしている。
 ところが最近、スポーツ紙や週刊誌などで、「熱愛(交際)が発覚」などと書かれた記事をよく見かける。当人達にしてみればそれらは隠そうとしていたことなのかもしれないが、別によくないことでも悪事でもないだろう。これが「不倫」だと違うかもしれないが。
 このような使用例があるからだろう、『明鏡国語辞典 第2版』には、「隠してもいない事柄(特に吉事)に使うのは誤り。『×妊娠[婚約・誕生]が発覚』」とかなり踏み込んだ内容の注がある。確かに、「妊娠・婚約・誕生」は従来「発覚」と一緒に使われなかった語なので、本来の言い方ではない。だが、「誤り」と言い切れるかということになると、いささか疑問がある。ことばの意味が本来のものとは異なるものに変化していくのはよくあること。「発覚」のこの新しい意味がさらに広まる可能性は否定できないのである。好むと好まざるとにかかわらず、辞書ではそれに合わせて、語釈の内容を変えていかなければならない語なのかもしれない。

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 まわりと比べて容貌や風采がいいことを、「押し出しがいい」「押し出しが立派だ」などと言う。「押し出しがいいということだけで当選した」「押し出しは立派なのだからあとは中身がそれに伴うかだ」などのように。
 「押し出し」は、人の目に映るその人の姿や態度のことで、それが人からいい印象を受ける場合に「いい」とか「立派だ」とかいうことになる。
 ところが最近、この「押し出し」を「押し出しが強い」と言う人がいる。例えば、

 「一方、二郎よりも押し出しが強く、逞(たくま)しい本庄は、肉豆腐を頬張り、たまには肉を食べるよう二郎に助言するのです」(秋元大輔『ジブリアニメから学ぶ 宮崎駿の平和論』2014年)

といった使用例がある。文中の「二郎」「本庄」は、スタジオジブリのアニメ「風立ちぬ」の登場人物である。「押し出し」は、冒頭でも述べたように風采や貫禄のことなので、「二郎」よりも「本庄」の方が、見た目が「強い」ということではなく、文中に「たくましい」ともあることから、この場合はどうやら「押しが強い」ということを言いたいらしい。だとすると、それとの混同なのかもしれない。「押しが強い」は、どこまでも自分の意見や希望を通そうとするような人をいうので、そのように読めば不自然ではない。
 この混同はどの程度広まっているのだろうか。「押し出しが強い」が引用した使用例以外にもいくつか見つかっているので、増えつつあるのかもしれない。しかも、反対の意味の「押し出しが弱い」という例まである。

 「女の子は優美だけれども薄ぼんやりしていて、脆弱で、活力が劣り、レースだのフリルだので飾り立てでもしなければ男の子と同様には目立たない、押し出しが弱いというのか」(松浦理英子『裏ヴァージョン』2000年)

 というものだ。
 ただ、「押しが強い」との混同ではなさそうな「押し出しが強い」の例もあるので話はさらにややこしい。「押し出し感の強い車」「押し出しの強い音」「押し出しの強い看板」などといった言い方である。この場合の「押し出し」は、従来の風采、風格、貫禄とは違い、デザインや、単なる見た目、印象という意味で使われているようだ。「押し出し」にはこのような新しい意味が生じているのかもしれず、この意味だと「強い」「弱い」としても間違いだとは言えないような気がしてくる。引用した松浦理英子の例も、こちらの意味に近いのかもしれない。
 さらに、「押し出しがいい」のだから「押し出しが悪い」もあるのではないかと考える人もいるらしい。『大辞泉』は、「押し出しが悪い」の形では普通は使わないとしているが、国研のコーパスで検索すると、1例だけだが書籍の使用例が存在する。
 これらの使用例をどのように考えるべきか。誤用だと言い切ってしまえば簡単なのだろうが、そんな単純なものではない気がする。

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