地図を重ねて三千里 地図を重ねて三千里

江戸時代、明治時代と現代の東京の地図を重ねて表示できるアプリ『江戸明治東京重ね地図』との連動企画。武士の時代から明治維新を経て現在へといたる東京という都市の移り変わりを、地図製作者の小島豊美氏が各地域にスポットをあてて語ります。

第2回 吉原・その1

2019年12月13日

重ね地図で、わかりやすく可視化される、リアルな吉原ヒストリー

吉原神社

現在の台東区千束三丁目に鎮座する吉原神社。昭和43年(1968)に再建された。

吉原は江戸では幕府公認の唯一の遊郭で一日千両の金の動く黄金郷だったことは、この地図を楽しまれている方には先刻ご承知のはずだろう。遊郭で遊ぶのは男の甲斐性とはいえ、もちろん吉原まで行かなくても品川・新宿・板橋・千住の四宿ししゅくや、神社仏閣の門前などにある岡場所といわれる私娼屈で遊ぶことはできた。

岡場所のあったといわれる場所(深川)

岡場所のあったといわれる場所(深川)

岡場所のあったといわれる場所(根津)

岡場所のあったといわれる場所(根津)

江戸各地の岡場所は深川・根津・音羽・赤坂などにあった。しかし、落語「紺屋高尾」や歌舞伎「助六」などにあるとおり、大名や御大尽から長屋の熊さん八っつあんの庶民に至るまで、やはり吉原で遊びたいのは人情というもの、吉原は常に江戸文化の中心であった。

岡場所のあったといわれる場所(音羽)

岡場所のあったといわれる場所(音羽)

岡場所のあったといわれる場所(赤坂)

岡場所のあったといわれる場所(赤坂)

江戸の遊里吉原は庄司しょうじ甚右衛門じんえもんという町人が、幕府の正式認可を得て元和四年(1618)に営業を開始した。場所は現在の中央区日本橋人形町(堀留二丁目)辺りであったが、明暦三年(1657)正月十八日の昼、本郷丸山の本妙寺から火が出たいわゆる振袖火事で焼失、それを契機に浅草日本堤に移転した。最初の吉原に対して明暦以降の遊郭を新吉原と称したゆえんである。したがって吉原各町の正式呼び名は、例えば「新吉原揚屋町あげやちょう」「新吉原角町すみちょう」と新吉原の冠をつけて言った。この移転の経緯が面白いので少しふれておく。

現在の人形町交差点から、かつての吉原の方角を望む

現在の人形町交差点から、かつての吉原の方角を望む。

庄司甚右衛門が吉原を人形町界隈に開いたころは幕府が開かれて日も浅く、周囲はただの湿地(葦原ともある)で町人の住む町などなかったが、追々埋め立てが進んで人口も増え、ついにはそれらの町に囲まれてしまう程になった。幕府は、町なかに遊郭などがあっては風俗の乱れの原因になると恐れ、これを郊外に移すことを考えていたところに大火があって、その機に乗じての移転というのがどうも事実であったようだ。

江戸時代の元吉原。吉原町旧地と赤字であるあたりとされる。

江戸時代の元吉原。吉原町旧地と赤字であるあたりとされる。

吉原の移設は予定通り明暦三年三月に着工したが、八月の完成まで遊女たちを遊ばせておくわけにはいかないので、町家を借りて仮宅営業を始めた。仮宅は郭内の営業に比べて諸事安直で、面倒な仕来たりや慣習から解放され、遊女の揚げ代も格安となる。町人も利用できるとあって大層繁盛した。
その後、火事で吉原が焼けると(しょっちゅう焼け出されていた)この仮宅営業が仕来たりとなり、その都度客層を拡げ、普請がなって女たちが吉原へ引き上げた後も、仮宅となった土地は花街や繁華街として残った。新しい吉原はその年の八月に完成した。こうして新しい吉原を「新吉原」、以前の吉原を「元吉原」と言った。

現在の吉原大門交差点。吉原への道はカーブになっていて中の様子が見えない。

現在の吉原大門交差点。吉原への道はカーブになっていて中の様子が見えない。

新吉原は周囲に堀(通称、おはぐろどぶ)を巡らした曲輪くるわ作りである。日本堤から一方口(一方だけに設けられた出入り口)の大門おおもんまでの下り坂をくの字に曲げて道を作ってある。現在もこの道は曲がったなりで現存している。
大門から仲の町通りを真っすぐ行くと水道尻。ここで廓は行き止りで、廓内は江戸町一、二丁目、角町、京町一、二丁目の五町に区切られ、元吉原時代は各町に散在していた揚屋を一か所にまとめて揚屋町とした。

明暦三年、浅草寺の裏へと移転してきた新吉原。町全体が斜めに配置されているのがわかる。

明暦三年、浅草寺の裏へと移転してきた新吉原。町全体が斜めに配置されているのがわかる。


江戸の「意識高い系」? 格式に溺れる吉原流儀あれこれ ―吉原の格式。

吉原神社奥宮(吉原弁財天)に立つ花園池(弁天池)跡の案内板。弁天池は昭和34年(1959)に埋め立てられた。

新吉原になってから、吉原の格式はますます高くなり、遊女買いがまるで一つの儀式のような風格を帯びてきた。
遊女を買うために客はまず揚屋に上がり、幇間たいこもちなどを呼んで酒宴をはる。幇間には勿論のこと、揚屋の使用人一同に適当な額の祝儀を配る。これが少なかったり度を超して多かったりすれば、“野暮”といわれ陰口をたたかれる。
なじみの遊女を呼ぶのに、揚屋の主人は遊女屋の主人に揚屋差紙あげやさしがみという儀式ばった文章を送る。散々若いが揚屋と遊女屋の間を往復して、時間の打ち合わせなど双方納得した上でのことだ。

廓内は江戸町一、二丁目、角町、京町一、二丁目の五町に区切られ、元吉原時代は各町に散在していた揚屋を一か所にまとめて揚屋町とした。

廓内は江戸町一、二丁目、角町、京町一、二丁目の五町に区切られ、元吉原時代は各町に散在していた揚屋を一か所にまとめて揚屋町とした。

やがて打ち合わせ通りの時間に、盛装した遊女が、その一族郎党を引き連れて揚屋へやってくる。これを“道中”と呼ぶ。江戸町、京町からやってくる。新造しんぞう禿かむろ、若い衆、遣り手やりて妓夫ぎゆうとびの連中などの他に、布団やら枕やら煙草盆など遊女の格に従って、一切の道具を担いでくる。
ただしこれはなじみの客の場合である。遊女は初会しょかい、裏を返す、のあと馴染みになってようやく床を一緒にすることになる。令和の今日では馬鹿馬鹿しい話だが、こういう儀式まがいの作法が吉原にはいくつもあったのだから、吉原の遊びを一律にただの女郎買いと思っては誤りである。
※初会とは指名した遊女に初めて会うこと。裏とは同じ遊女に二度目に会うこと。馴染みとは同じ遊女に三度目に会って同衾すること。

見返り柳。遊郭帰りの客が名残を惜しんで、この辺りで振り返ったといわれる。

見返り柳。遊郭帰りの客が名残を惜しんで、この辺りで振り返ったといわれる。

吉原・その2へつづく

スマホアプリ
江戸明治東京重ね地図

「江戸明治東京重ね地図」は、江戸時代末期(1860年・万延元年)、明治時代後期(明治40年前後)の東京地図と、現代の地図を重ねて表示する地図アプリです。変わり続けてきた都市、東京の姿をお楽しみいただけます。

会員ID、パスワードをお忘れの方

スマホアプリ
江戸明治東京重ね地図

「江戸明治東京重ね地図」は、江戸時代末期(1860年・万延元年)、明治時代後期(明治40年前後)の東京地図と、現代の地図を重ねて表示する地図アプリです。変わり続けてきた都市、東京の姿をお楽しみいただけます。

著者プロフィール
小島 豊美 (こじまとよみ)

音楽・映像・マルチメディアプロデューサー。1948年 東京都墨田区両国生まれ。故・小島貞二の長男。

『おかあさんといっしょ』『みんなのうた』『ひらけ!ポンキッキ』『ピッカピカ音楽館』などで子ども向け音楽をプロデュース。
1976年「およげ!たいやきくん」で第9回レコード・セールス大賞を受賞。

『江戸明治東京重ね地図』『ご存知古今東西噺家紳士録』など文化データベース構築にも取り組み、2014年「第1回グッド・ビジネス・アワード」でグランプリ受賞。

著書「昭和のテレビ童謡クロニクル 『ひらけ! ポンキッキ』から『ピッカピカ音楽館』まで」

株式会社ジャピール 代表取締役
一般社団法人地歴考査技術協会 代表理事

バックナンバー

第1回 両国橋 2019.11.08
第2回 吉原・その1 2019.12.13