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  11. 吉田松陰
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
吉田松陰
よしだしょういん
一八三〇 - 五九
幕末の思想家、教育者。長門の人。幼名虎之助、のち大次郎、松次郎、寅次郎に改む。名は矩方、字は義卿または子義、松陰・二十一回猛士と号す。天保元年(一八三〇)八月四日、父長州藩士杉百合之助常道(家禄二十六石)・母滝の次男として長門国萩に生まれた。五歳の時、山鹿流兵学師範として毛利家に仕えていた叔父吉田大助賢良(家禄五十七石六斗)の仮養子となり、翌年大助の死により吉田家を嗣ぐ。松陰は、すでに六歳にして藩の兵学師範たるべき運命を負い、幼少時から兵学と経学の習得に励んだだけでなく、時代の政治的課題と真正面から向き合い、それを身をもって生きようとした人物である。その思想の行跡は、浩瀚な全集に収められているが、ここでは、その生涯を五つの時期に分けてその事跡を迹付け、併せて思想の特質について略説する。第一期は、出生から山鹿流兵学師範になるまでの時期。松陰は養父の死後も実家杉家に同居し、実父百合之助や叔父玉木文之進から厳格な教育を施され、天保十年、十歳にして藩校明倫館にて家学を教授し、翌十一年には藩主毛利敬親の面前で『武教全書』を講じた。家学後見人であった藩士山田宇右衛門や山田亦介からは、兵学の知識を授けられたのみならず、当時の世界の形勢への眼を開かせられた。嘉永二年(一八四九)二十歳、三月には外寇御手当御内用掛を命ぜられ、六月には藩命により須佐・大津・豊浦・赤間関などの海岸防備の実状を巡視した。第二期は嘉永三年から同六年までの諸国遊歴の時期。嘉永三年八月から十二月までの四ヵ月間、九州の平戸・長崎などに遊歴して葉山佐内・山鹿万助らに家学の教授を受け、文武著名の人士を訪れる一方、中国および日本の海防関係の著述を読み、また陽明学の書や会沢正志斎の『新論』などを読んで見聞を広めた。翌四年三月には、藩主の東行に従って江戸に遊学し、安積(あさか)艮斎・古賀茶渓(謹一郎)・山鹿素水・佐久間象山らに従学した。同年十二月、藩の許可なくして友人宮部鼎蔵らと東北行を敢行し、水戸では会沢正志斎や豊田彦次郎(天功)らに会い国史研究への眼を開かせられた。翌五年、会津・新潟・佐渡・秋田・弘前・青森・盛岡・仙台・米沢などをめぐって著名人士と交遊したのち、四月江戸に帰った。同月帰国を命ぜられて七ヵ月間萩に屏居し、その間、『日本書紀』『続日本紀』など国史の研究に没頭した。同年十二月、一年前の亡命の罪により御家人召放の処分を受け、父百合之助の育(はぐくみ)となる。翌六年正月、十年間の諸国遊学が許可されて再度江戸に遊学中、ペリーの浦賀来航に遭う。佐久間象山のもとで砲術と蘭学を学び、象山の思想的影響をうけた松陰は、時務策を論じた「将及私言」その他を藩主に上書する一方、海外視察のために密航を企てた。ロシアの軍艦が長崎に来舶すると聞くや、九月、長崎に向かったが果たさず、翌安政元年(一八五四)正月、ペリーが和親条約締結のため再航するや、三月二十七日夜、金子重之助とともに下田において米艦ポーハタン号に上り外国への密航を懇請したが容れられず、翌日自首して縛に就き、江戸の獄舎に投ぜられた。同年九月、連坐して捕縛された佐久間象山ともども自藩幽閉の処分となり、松陰は萩の野山獄に収容された。以上が松陰の生涯の前期とすれば、後期は萩野山獄での獄囚生活と杉家での幽居生活がその中心となる。これが第三期である。安政元年十一月から始まった野山獄の生活では、読書と思索に没頭したが、入獄の半年後には囚人たちの間で読書会が組織され、松陰は『孟子』を講義し、それが機縁となって主著『講孟余話』が生まれた。約一年に及ぶ獄囚生活の後、安政二年十二月、病気保養を理由に実家杉家に預けられ、以後幕命により江戸に召喚されるまでの二年半の間、いわゆる松下村塾の実質的な主宰者として、高杉晋作・久坂(くさか)玄瑞・吉田栄太郎(稔麿(としまろ))・入江杉蔵・野村和作(靖)・久保清太郎・前原一誠・伊藤博文など幕末・維新に活躍する有為の人材の教育に従事した。松陰にとっては最も輝かしい実りある時期である。松下村塾は、表向きは漢学塾であったが、松陰自身の強い実学指向の影響のもとで当時の世界情勢やわが国の実情について考究する実践的な思想鍛練の場となったことに大きな特色がある。だが、村塾の平和は長くは続かなかった。安政五年日米修好通商条約の調印問題をめぐって国内政治が混迷の度を深めるや、松陰はこれに深く関わっていったからである。これが第四期である。松陰は、幕府による通商条約の無断調印を厳しく批判し、藩政府に対して、上書などで働きかける一方、門下生を諸方に派遣して情報蒐集に努め、老中間部(まなべ)詮勝の要撃や公卿大原重徳(しげとみ)の西下策、藩主の参覲に際して藩主を擁して幕府に直諫せしめようとする伏見要駕策などをつぎつぎに提起するが、それに反対する門下生との間で次第に異和を生じ、深い孤独感と死への渇望を深めていった。藩政府は、松陰の一連の過激な言動に対して「学術不純にして人心を動揺せしむる」との理由をもって、安政五年十二月、再び野山獄に収容した。第五期は安政六年五月幕府より松陰東送の命が下り、江戸に護送されてから、十月、処刑されるまでの期間である。五月下旬萩を発して六月江戸着、七月九日より幕吏の訊問が開始された。幕府の訊問は、いわゆる安政の大獄で捕縛した梅田雲浜との関係を問うものでそれ自体はなんら処罰の対象となるものではなかったが、みずからが抱懐する信念をもって幕府役人を感格せしめようとの決心によって法廷に立った松陰は、みずからペリー来航以来の幕府の一連の政策を批判し、剰え幕府が全く知らなかった間部詮勝の要撃策や大原重徳の西下策まで自供したために「不〓〓公儀〓不敬之至」として「死罪」の判決をうけ、十月二十七日処刑された。享年三十。墓は東京都世田谷区若林四丁目松陰神社と山口県萩市椿東(ちんとう)にある。以上、松陰の二十九年に及ぶ生涯の歩みを略述したが、その思想の特質としては、第一に、藩校明倫館は、荻生徂徠の初期の門人であった藩儒山県周南以来、徂徠学の影響下にあったが、朱子学を信奉していた叔父玉木文之進の影響のもとで思想形成した松陰は、朱子学思想との親近性を強く有し、陽明学や李卓吾などにも親しみ、自己の内面性を重視する思想を形成した。松陰が好んで使用した「至誠」もそうした松陰の特質を象徴する表現であり、松陰が、自分が至誠であれば必ずや他人(ひと)を感格しうるものだとの強い信念に立って多くのすぐれた門下生を育成しえたのはそのためである。だがまたこのような心情の論理が、政治的な利害抗争の場ではそのまま通用するものではないことも当然であり、現実の政治過程から疎隔されて幽囚生活を送っていた松陰が、一方では的確な情況への対応能力を喪失して門下生らの離反を招いたこと、他方で、幕吏の訊問しない事柄に対してもみずからの抱懐する正議をふりかざした挙句「死罪」を宣告される結果をも惹き起すことになった。第二に、松陰の思想は、生まれながらの兵学者として、当時圧力を強めつつあった欧米列強に対して国の独立をいかに保持するかを課題とし、その過程で、国家的価値への覚醒や蘭学を通じての欧米文化への開眼、尊王と敬幕、攘夷と開国、国家・天皇・将軍・藩主などへの忠誠観の相剋など、日本の近代国家形成期における思想的対立を身をもって生きたところに形成されたものであることから、その精神史的意味の究明は、その生き方の真摯さと三十歳の若さで政治的に葬り去られたその生涯とともに、日本の歴史に関心を持つ人々にとって、常に尽きることのない課題として存在しているといえる。山口県教育会編『吉田松陰全集』全十巻(昭和九年(一九三四)―十一年、岩波書店)が刊行され、同六十一年より再刊。また漢文を読み下しにした同会編『吉田松陰全集』全十二巻(同十三年―十五年、岩波書店)があり、のちこれを底本に増補したものが大和書房(全十巻・別巻一、同四十七年―四十九年)より刊行。
[参考文献]
徳富蘇峰『吉田松陰』(『岩波文庫』)、玖村敏雄『吉田松陰』、広瀬豊『吉田松陰の研究』、河上徹太郎『吉田松陰』(『中公文庫』)、丸山真男「忠誠と反逆」(『日本近代思想史講座』五所収)、本郷隆盛「幕末思想論」(『講座日本近世史』九所収)
(本郷 隆盛)


日本大百科全書(ニッポニカ)
吉田松陰
よしだしょういん
[1830―1859]

幕末期長州藩の志士、思想家、教育者。幼名は大次郎(だいじろう)・寅次郎(とらじろう)・寅之助、名は矩方(のりかた)、号を二十一回猛士という。生家は無給通(むきゅうどおり)、23石取。父は杉百合之助(すぎゆりのすけ)(1804―1865)、松陰は次男であった。幼くして吉田家に養子となったが、同家は大組(おおぐみ)で禄高(ろくだか)40石、山鹿流(やまがりゅう)兵学師範の家であった。
 松陰30歳の短い生涯は多難に満ちている。しかし、これは大別すると3期に分けることができる。第1期は18歳までの少年時代、第2期は24歳までの遊学時代、第3期は獄中時代(松下村塾(しょうかそんじゅく))である。
 少年時代、叔父玉木文之進(たまきぶんのしん)や兵学者山田宇右衛門(やまだうえもん)(1813―1867)、山田亦介(またすけ)(1808―1864)から兵学に関する教育を受けた。1838年(天保9)9歳のとき藩校明倫館(めいりんかん)で山鹿流兵学の講義をしたが、これから毎年一定期間明倫館で教授することになった。11歳のとき藩主毛利敬親(もうりたかちか)の前で「武教全書」を講義し、その巧みさに藩主を驚かせた。1844年(弘化1)15歳のときふたたび藩主に講義する機会があり、激賞を受け褒賞を下賜された。
 1848年(嘉永1)19歳で明倫館師範となったが、このとき明倫館再興に関する意見書を提出している。同年、御手当御用掛となり山陰海岸の砲台を巡視し、海防についての報告書を提出する。20歳のとき藩府の許可を得て九州を遊学し、熊本で盟友宮部鼎蔵(みやべていぞう)を知る。21歳のとき兵学研究のため藩主に従って江戸へ出て、佐久間象山(さくましょうざん)らについて広く学ぶ。22歳のとき東北視察に出発するが、藩府の許可を得ない無届出奔であったため、翌1852年の帰藩時、亡命の罪を問われ士籍と禄高を没収される。しかし、藩主敬親の特別の計らいにより、10年の諸国遊学が許される。24歳のとき萩(はぎ)を出発して江戸へ向かうが、途中京都で諸国の志士と交遊を深める。
 1854年(安政1)25歳のとき浦賀に再度来航したアメリカ軍艦に乗り込み、同志金子重之助(1831―1855)とともに海外渡航を企てるが失敗し、幕府に自首する。このため、江戸伝馬町(てんまちょう)の獄舎に入る。幕府は松陰を萩に送り、野山獄(のやまごく)に入る。27歳のとき、藩府は出牢(しゅつろう)を許して生家での禁錮(きんこ)を命ず。出牢した松陰は近隣の子弟を集めて塾を開くが、この塾が、玉木文之進の始めた松下村塾(当時隣家の久保氏が教授)と合体し、やがて松陰が主宰者となる。29歳のとき、松陰は同志17名と血盟し、「安政(あんせい)の大獄」を未然に防止しようと老中間部詮勝(まなべあきかつ)の要撃策を企図する。目的達成のため、この案を藩府要人に示して後援を求めるが、藩府は松陰を危険人物視してふたたび投獄する。松陰は獄中においてもこの策を推進するため門人を動かすが、門人たちも投獄されてこの策は失敗する。1859年30歳のとき、幕府は藩府に松陰の江戸送致を命ずる。江戸に着いた松陰は同年(安政6)10月27日、伝馬町の獄で刑死する。
 松陰の思想は、読破した多くの書籍と恩師や友人から得たいろいろな考えを蓄積して形成された。国禁を破り海外渡航を企てた松陰の考えは「規諫(きかん)の策」であり、外国の実情を実際に見聞してそれを藩主に規諫(直接訴えいさめる)しようとしたものであった。老中間部詮勝要撃策の破綻(はたん)したとき、松陰の到達した考えは「草莽崛起(そうもうくっき)」であった。これは松陰と志を同じくする多くの者が広く立ち上がり、幕府を包囲攻撃するということであった。このような松陰の思想の特徴は、「至誠留魂」の語にみられるように、真心をもって事にあたれば、おのずから志を継ぐ者が現れ道は開けるものだという信念であった。ここに思想と実践の一体化した松陰教育の確信があった。この教育のなかから、高杉晋作(たかすぎしんさく)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、山県有朋(やまがたありとも)、吉田稔麿(よしだとしまろ)など、幕末維新期に活躍する門下生が育ったのであった。著述、書簡などを収めた『吉田松陰全集』がある。墓は東京都世田谷(せたがや)区若林町松陰神社。
[広田暢久]2016年7月19日



世界大百科事典
吉田松陰
よしだしょういん
1830-59(天保1-安政6)

幕末の志士,教育者。諱(いみな)は矩方(のりかた),字は義卿,通称寅次郎。松陰は号。長州藩士杉百合之助の次男として萩郊外の松本村に生まれ,山鹿流兵学師範吉田大助の養子となった。叔父玉木文之進らの教育を受け,11歳で藩主に《武教全書》を講じて早熟の秀才であることを認められた。1850年(嘉永3)九州を巡遊して平戸に山鹿家を訪れ,家学の歴史を探った。翌51年には江戸に出て西洋兵学を知る必要性を痛感し佐久間象山に入門したが,直接原書につく勉強法には進まなかった。同年末,許可なく藩邸を脱し,翌年にかけて水戸から東北,北陸と遊歴したため,士籍剝奪の処分を受けたが,その代りに10年間諸国遊学の許可をもらった。

 53年ペリー来航に際しては浦賀に出かけて黒船をまのあたりにし,佐久間象山に勧められて海外の状況を実地に見極める決心を固め,長崎でプチャーチンの軍艦に乗ろうともくろんだが行き違いとなって果たさず,翌54年(安政1)再来中のアメリカ艦に暗夜下田で漕ぎ着けたが,密航を拒否された。岸に送り返されて幕府の役人に自首し,江戸の獄に入れられたのち,藩に引き渡し在所に蟄居(ちつきよ)させるとの判決を受けたが,身柄を引き取った長州藩は,慎重に過ぎて萩の野山獄に投じた。ここで同獄の囚人に孟子を講じて獄内の気風を一新し,教育者の資質を発揮し始める。在獄1年余,藩当局も処分の過当を認めて,生家の杉家に預けることに変更,55年12月出獄した。他人との接触は禁じられていたが,近隣の子弟で来たり学ぶものが多く,幽室が塾と化した。玉木文之進が始めた松下村塾は外叔の久保五郎左衛門に受け継がれていたが,そこの門弟で松陰のもとに来るものが増えたため,いつしか松陰が松下村塾の主宰者とみなされるようになった。評判が高まるにつれて萩の城下から通うものも現れた。久坂玄瑞と高杉晋作がその代表で,松下村塾の双璧と目された。久坂は松陰の妹と結婚した。松陰の講義は時勢を忌憚なく論じるところに特徴があり,それは残された講義録《講孟余話》や《武教全書講録》にもよく現れている。そこに若者が引きつけられ,彼の膝下から多数の志士が育った。明治の元勲伊藤博文,山県有朋,また萩の乱の前原一誠は,みな松陰門下である。この時期,外からは僧黙霖や月性,小浜の梅田雲浜らが文通もしくは来訪したりして,松陰の思想に影響を与えた。

 58年,幕府が勅許を得ないままハリスとの間に日米修好通商条約を結ぶと,熱烈な尊王論者であった松陰は,急に反幕府的言動を強めた。ついに老中間部詮勝(まなべあきかつ)暗殺の血盟を結ぶに及んで,藩も捨てておけず,借牢の願いを出させて同年末野山獄に再収容した。一方,安政の大獄を強行した幕府は,別途に松陰への疑惑をもち,59年江戸へ呼んで伝馬町の獄に投じた。訊問中に老中暗殺計画が現れて10月27日死刑に処せられた。
[松浦 玲]

[索引語]
佐久間象山 松下村塾
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37. 安政の大獄
世界大百科事典
た。梅田雲浜,頼三樹三郎,小林良典,池内大学,橋本左内など,この年の逮捕者は数十人に達した。吉田松陰は長州藩が投獄し,江戸へ送られた。59年になると,幕府は,前 ...
38. あんせいのたいごく【安政の大獄】
国史大辞典
及んで、幕吏に追われた京都清水寺成就院の僧月照は西郷吉兵衛と鹿児島湾に入水して死し、萩藩では吉田松陰が間部詮勝の要撃を計画して幽閉された。朝廷は幕府の強圧に屈し ...
39. 井伊直弼
世界大百科事典
大獄〉である。公卿とその家臣,大名とその家臣,幕臣,尊攘派の志士など処罰者は100人をこえ,吉田松陰など7人の刑死者を出した。とくに厳しい弾圧をうけた水戸藩では ...
40. いいなおすけ【井伊直弼】
日本架空伝承人名事典
大獄」である。公卿とその家臣、大名とその家臣、幕臣、尊攘派の志士など処罰者は一〇〇人をこえ、吉田松陰など七人の刑死者を出した。とくに厳しい弾圧をうけた水戸藩では ...
41. 井伊直弼[文献目録]
日本人物文献目録
』今堀文一郎『柳王余光』井伊大老史実研究会(編)『井伊直弼』吉田常吉『安政の大獄 井伊直弼と吉田松陰』永江新三『安政七年三月井伊侯殺害当時の流行歌』春峰『井伊大 ...
42. いくえいかんあと【育英館跡】山口県:阿武郡/須佐町/須佐村
日本歴史地名大系
京都で伊藤東涯に師事し、帰郷後は古学を唱道したという。波田崇山・山科太室・小国崇陽らが輩出した。うち崇陽は吉田松陰と親交深く、松陰は門下の富永有隣・山田顕義・伊 ...
43. いくた-りょうすけ【生田良佐】
日本人名大辞典
長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩の家老毛利隠岐(おき)の家臣。月性(げっしょう)にまなび,吉田松陰の影響をうける。安政5年松陰の間部詮勝(まなべ-あきかつ) ...
44. い‐しん【懿親】
日本国語大辞典
懿親之情〓」*松浦松洞宛吉田松陰書簡‐安政五年〔1858〕九月九日「吾等一身不 ...
45. いずのくに【伊豆国】画像
国史大辞典
洋式船を建造したのは有名。日米修好通商条約の締結後、外交の中心は江戸・横浜に移ったが、この間吉田松陰の密航事件、下岡蓮杖の写真術、唐人お吉など派生した事件も多か ...
46. いずもざきまち【出雲崎町】新潟県:三島郡/出雲崎町
日本歴史地名大系
来訪者には芭蕉・亀田鵬斎・十返舎一九・小林一茶・巻菱湖・谷文晁・高久靄崖・柏木如亭・頼三樹三郎・吉田松陰・釧雲泉・五適杜澂らがいる。地元では良寛・山本以南・山本 ...
47. い‐せん【夷船・異船】
日本国語大辞典
〔名〕外国の船。西洋の船。*十三湊往来〔室町後〕「滄海之夷船、京船群集」*杉梅太郎宛吉田松陰書簡‐嘉永六年〔1853〕六月二〇日「九日暮方夷船退出之筈之処」*夜 ...
48. いちのへむら【一戸村】岩手県:二戸郡/一戸町
日本歴史地名大系
れる。特産物に馬・雉子・漆・蝋燭・焼麩がある(文政四年「領分産物書上」盛岡市中央公民館蔵)。吉田松陰は「東北遊日記」嘉永五年(一八五二)三月九日条に「一戸に宿す ...
49. いちりわたし【一里渡し】秋田県:山本郡/二ッ井町/荷上場村
日本歴史地名大系
二里十三丁」と記す(東遊雑記)。雪解けや洪水の時は渡しは航行不能となった。嘉永五年(一八五二)春にここを通った吉田松陰は「東北遊日記」に、雪解けの増水にあって荷 ...
50. イデオローグ
日本国語大辞典
唱道する人。*雲のゆき来〔1965〕〈中村真一郎〉一「維新革命のイデオローグの最良のひとりであった吉田松陰が」 ...
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