現両神村の西端、大滝(おおたき)村との境界にある標高一七二四メートルの山で、秩父多摩国立公園・県立両神自然公園のうち。北麓は小鹿野(おがの)町域にかかる。秩父古生層のチャートからなり、周囲を絶壁に囲まれた特異な山容で知られる。関東平野から遠望され、古くから信仰の対象となった。「風土記稿」薄(すすき)村の項には「嶮嶽ニテ高ク青霄ニ聳ヘ、ソノ大ナル武甲山ニ譲ラス、四角八方ニ巌々タル危峰険岩、兀々トシテ羅立セリ、児孫ノ如ク打絡ヘリ」とあり、山の所有は薄村と中津川(なかつがわ)村(現大滝村)枝村白井差(しろいざす)の二ヵ村で、年貢地となっていた。一方、同書河原沢(かわらさわ)村(現小鹿野町)の項では「八日見山」とみえる。同項では山上に竜神大明神の社を勧請していることから竜神(りゆうかみ)山とも称したといい、「衆山ニ秀テ嶮岨ノ山路細径曲折、土人モ容易ニ攀ル事ヲ得ス、宿願ノモノ偶登山セリ」とある。
江戸時代には修験者の修行の道場として賑わい、山頂には両神権現社(現両神山両神神社奥社)・両神明神社(現両神神社奥社)の両社が祀られていた。権現社の別当は本山派修験金剛(こんごう)院、明神社の別当は当山派修験観蔵(かんぞう)院が勤め、両社ともに伊弉諾命・伊弉冉命の二神を祀り、勧請草創は東征の折に当山に登った日本武尊(命)と伝える。文化年中(一八〇四―一八)の両神山出入訴状并返答書写(金剛院文書)によれば、同八年明神社別当についての争論が観蔵院・金剛院の間で起こり、翌九年に和解、明神社は観蔵院、権現社は金剛院の支配と定められている。ところで寛政期(一七八九―一八〇一)木曾御嶽の登拝道を開いた普寛行者の高弟が金剛院の世代から出たため、同院は御嶽山蔵王権現を奥院(両神権現社)に勧請したり、御嶽講を組織したりしている(同文書)。また両神山の神の眷属である山犬を盗賊・火難除けのため近隣に貸出したり、眷属札(守護札)を代参の者が受取っていた(「風土記稿」など)。一方、観蔵院も両神講を組織して代参を募り、大口真神(神犬)の神札を授けていた。現在、両神山両神神社は小森(こもり)の字浦島(うらしま)に里宮が、両神神社は奥社のやや南に本社、薄の日向大谷(ひなたおおや)に里宮がある。近世の登山道は日向大谷観蔵院前から登るコースが表登山道、ほかに浦島金剛院前から登るコース、河原沢村尾(お)ノ内(うち)の竜頭(りゆうとう)神社から向かうコースが中心で、各登拝路には多くの石神・石仏などが奉納されていた。現在では表口の日向大谷コース、南口の白井差コース、北口の八丁(はつちよう)峠コースの三つが代表的登山道になっている。五月下旬から六月にかけてはヤシオツツジが咲き、秋には紅葉も美しい。山中には丸神(まるがみ)の滝・昇竜(しようりゆう)の滝や、高さ約三〇〇メートルの絶壁である大ノゾキなどの名所もある。なお旧金剛院の史料は現在薄平家(両神山両神神社神主)に保存されている。両神山信仰に関する史料をはじめ、江戸中期からの聖護院門跡の補任状、御嶽山開闢記など普寛行者に関するものなども数多い。
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