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  10. 彦根城
国史大辞典・日本大百科全書・日本歴史地名大系

国史大辞典
彦根城
ひこねじょう
滋賀県彦根市金亀町・尾末町にある城。平山城。関ヶ原の戦ののち徳川家康の臣井伊直政は近江の石田三成の旧領十八万石を与えられて佐和山城に入った。直政の男直勝は慶長八年(一六〇三)に新城造営の工を起し、同九年に佐和山城から移転した。この新城構築は井伊氏が石田三成の影響が強く残る佐和山を嫌ったことと、壮大な城郭と城下町を営むには彦根がふさわしかったからであろう。築城は諸大名の手伝いがあったにもかかわらず元和八年(一六二二)までかかり、さらに城下町が姿を整えたのはその二十年後のことであった。江戸時代の全期間を通じて城主は井伊氏であった。城は東に佐和山、西に琵琶湖を控えた標高一三六メートルの金亀山山頂から麓にかけて縄張りされている。本丸など最重要部は金亀山に配され内堀がこれをめぐる。大手口は南西側に開いている。内堀の外側に二ノ丸、さらに中堀を隔てて三ノ丸が置かれ、三ノ丸外堀の東と南の外周に城下町が展開して南端を人工的に流路変更した芹川があたかも総堀のような形で流れる。山頂には西ノ丸・本丸・太鼓丸・鐘ノ丸がほぼ南北に一直線に連なる。本丸は山頂中央にあり天守を設けたが、この天守は家康の命で大津城から移築したものとされ三重三階、石垣内に階段室がある。西ノ丸には三重櫓・続櫓、太鼓丸北端に太鼓門、同じく南端に中央一重櫓門両端二重二階の天秤櫓があり、当城の特色となる。二ノ丸北部は槻御殿と玄宮園が営まれ、現在は玄宮楽々園と呼ばれている。二ノ丸東南佐和口門に多聞櫓があり、その近く内堀に面して馬屋(御厩部屋)が遺存する。これらの建物は本丸の天守・附櫓・多聞櫓が国宝であるほかすべて重要文化財に指定されている。本丸など主要部と中堀を含む二ノ丸の大部分および三ノ丸埋木舎敷地が国の特別史跡に、玄宮楽々園は国の名勝に指定されている。
[参考文献]
『井伊家譜』、『彦根市史』上、滋賀県教育委員会編『国宝彦根城天守・附櫓及び多聞櫓修理工事報告書』
(石丸 煕)


日本大百科全書(ニッポニカ)
彦根城
ひこねじょう

江戸期の城。滋賀県彦根市金亀(こんき)町にあり、別称を金亀城ともいう。徳川四天王に数えられる井伊直政(なおまさ)は関ヶ原の戦いの功により、上州箕輪(みのわ)城から石田三成(みつなり)の居城であった佐和山(さわやま)城(彦根市)を与えられた。直政は佐和山の西磯山(いそやま)に城を移そうとしていたが、関ヶ原の戦いのときの傷が再発して没した。後を継いだ直継(なおつぐ)(のち直勝(なおかつ))は磯山ではなく彦根山に移すことにし、1603年(慶長8)に着工、伊賀(いが)、伊勢(いせ)など7か国12大名に手伝普請(てつだいふしん)が命ぜられ、3年かかって完成した。これを第1期工事とよび、主として大津、安土(あづち)、佐和山などの旧城址(じょうし)から石材や瓦(かわら)などを運んで突貫工事で進めたものである。15年(元和1)直継にかわって直孝(なおたか)が城主となり、翌16年から22年まで第2期工事が行われた。城は琵琶(びわ)湖を西に控える平山城(ひらやまじろ)で、彦根山の頂上を本丸とし、西に西の丸、東に鐘の丸などを配し、これらが山上部分で、東の麓(ふもと)に表御殿があった。さらに内堀を隔てて東および南西に二の丸があり、家老など重臣級の武家屋敷が置かれ、東に佐和口、南に京橋口、西に船町口、北に山崎口が開いて三の丸に通じていた。井伊氏は直孝のとき、大坂の陣の功で5万石加増され、さらに1633年(寛永10)10万石加増され30万石となり(ほかに幕府城付米(しろつきまい)5万石を預かる)、譜代(ふだい)大名としては破格の扱いを受けて幕末に至った。現在、建造物としては天守閣(国宝)、西の丸三重櫓(やぐら)(重要文化財)、天秤(てんびん)櫓(重文)、佐和口多聞(たもん)櫓(重文)、太鼓門、御馬屋が残り、ことに御馬屋は他に例のない珍しい遺構である。
[小和田哲男]



日本歴史地名大系
彦根城跡
ひこねじようあと

[現]彦根市金亀町・尾末町・城町

湖岸に近い彦根山(金亀山)に築かれた彦根藩井伊家三〇万石(預地を含めると三五万石)の政庁。慶長五年(一六〇〇)九月の関ヶ原の戦は一七日の佐和山合戦で石田三成の佐和山さわやま城が陥落、井伊直政は徳川家康により三成の旧領近江の地を与えられ、従来の一二万石に六万石を加えられ一八万石を領する有力大名となった(井伊年譜・井伊家譜)。のち加増を重ね、彦根城を築き城下町を建設し、近江の地にあって幕府の意を受けて京都および西国・中国を押える任務を負った。彦根の位置は中山道にやや離れるが、琵琶湖岸に近い朝鮮人街道を整備するとともに両道を結ぶ道を開いた。北方米原からは北国街道が発しており、有事の際にはこれらの幹道により東・北・南の三方を押えうる要地であった。一方、西は湖に面し、湖南の坂本に走る舟運力をもってすれば京都は近い。幕府が井伊家に与えた役割の重要さがうかがえ、その信任の厚さは何代にもわたって就任した大老職をあげるまでもなく知られるところである。彦根城は天守のみでなく、櫓・門・馬屋などを含め城郭総体としてまとまった姿を今日に伝える。

〔築城前後〕

築城以前の景観は、彦根古絵図(彦根市立図書館蔵)などによれば、佐和山城を古城と記し、彦根山の谷間に観音信仰で平安時代から都人に知られた彦根寺などが描かれ、北西方に長尾ながお山、その西麓に金亀こんきガ淵、東方に尾末おすえ山があり、尾末山の東端に世理せり(善利川とも、現芹川の旧流路)が流れ、彦根山の北裏手に広がる松原まつばら内湖に注いでいる。同川は南方で西に分流し、やはり湖に注ぐ。この絵図で見る限り水城とはいいきれないものの、湖上水運を最重視した選地であることがうかがえる。ただ直政は松原の北、磯山いそやま(現坂田郡米原町)に移築しようとしていたらしいが、その没後、嫡子直継(直勝に改名)が幼少であったため老臣木俣土佐が駿府へ下り、幕府の許可を得て彦根城に決定した。

築城の期間は慶長八年から元和八年(一六二二)にわたるが、大坂両陣を境に二期に分けられる。工事を監督する公儀奉行は山城忠久・佐久間政実・犬塚平右衛門が任じられ、役夫は伊賀(上野藩)・伊勢(桑名藩・津藩・亀山藩など)・美濃(大垣藩・加納藩)・若狭(小浜藩)・越前(福井藩)の七国一二大名に賦課された(井伊年譜)。なお「木俣記録」では二八大名・九旗本となっている。一方、井伊家は家中に縄張りとして四人、普請奉行として三人、作事奉行として一人、大工棟梁として一人を任じている。慶長九年かねの丸が成り、同一一年本丸天守が完成、併せて藩主の居館本丸広間も建てられた。これらいわば第一郭のおもな建設が終了、佐和山からの移転が行われたらしい。第二郭ほかの普請は元和二年藩主直孝のときに開始され、西の丸・土佐とさ郭・天秤てんびん櫓をはじめ堀・土居などが築造された。表御殿もこの第二期工事により造営がなり、ようやく藩政庁としての体裁を整えた。

〔城郭の構成〕

山頂にある本丸を中心に、南西に空堀と廊下橋を隔てて鐘の丸があり、北西方には西の丸、出郭とよばれる郭、内湖に突き出た山崎やまざき郭が連なる。鐘の丸の北には表御殿、本丸の北と南西には武器庫・米蔵などが置かれていた。これら政庁施設を擁する第一郭は湖に連なる内堀によって第二郭(内曲輪)と隔てられ、中堀をもってその周りに内町、さらに外堀の周りに町が形成されている。本丸の天守は切妻破風・入母屋破風・唐破風を多様に配置し、二階と三階に花頭窓、三階には高欄付の廻縁を四隅に取付ける。構造は通柱を用いず、各階ごとに積上げていく工法で、全体的に櫓の上に高欄を付けた望楼をのせる古い形式を残す。昭和三二―三五年(一九五七―六〇)の解体修理でもと五階四重のものを移築したことが判明。この天守は大津城からの移築からという(井伊年譜)。天守の東側に本丸広間があり、表御殿が造られるまで藩主の居館に充てられていた。本丸表口を固める櫓門太鼓たいこ門櫓は佐和山城から移築されたもの、西の丸の三重櫓は小谷おだに(現東浅井郡湖北町)の天守、鐘の丸の天秤櫓は長浜城大手門をそれぞれ移築したものと「井伊年譜」は伝えるが明らかではない。表御殿は寄附・広間・書院と、これらの西方の御守殿・笹之間・表御座間、および奥座敷・長局などからなり、表御座間は藩主の平常の居間として、また政務を執る場となった。江戸後期には表御座間の東の中庭に能舞台があった(現彦根城博物館内能舞台)。奥向の諸室は藩主とその家族の私的な部屋となった。この表御殿跡は昭和五八年発掘調査が実施されている。延宝七年(一六七九)二の丸内曲輪の松原内湖畔にまったく私的な利用となる下屋敷が建てられる。のち縮小・増築を経ながら文化期(一八〇四―一八)けやき御殿の名称を得、槻のお庭と称された現玄宮げんきゆう園も営まれた。米蔵一七棟・材木蔵一〇棟・竹蔵四棟が置かれた。

〔歴代城主とおもな治績〕

井伊直政を藩祖とする井伊家は明治四年(一八七一)の廃藩置県の時の直憲まで一四代を彦根藩主として領内三〇万石を治め、また幕政に重きをなした。井伊家は藤原氏を始祖とし、その共保のとき遠江守に任じられ、遠江国引佐いなさ井伊谷いいのや(現静岡県引佐郡引佐町)にあって井伊氏を称したという。戦国期、今川氏の勢力下にあったが、誹謗などにより井伊家当主は討死を繰返すなかで、直政は徳川家康により井伊家再興の機をつかみ、天正三年(一五七五)井伊谷に二千石を与えられた。翌四年家康の対武田氏との戦での大功で一万八千石となり、同一〇年には駿河国に加増四万石、同一八年の家康の江戸移封に伴い上野国箕輪みのわ(現群馬県群馬郡箕郷町)城主となり一二万石を得た。関ヶ原の戦では軍奉行として働き、家康の筆頭大名の位置にあった。佐和山城の直政は、京極・浅井両氏の遺臣を招き国風を尋ね、家臣に石田三成への悪口を止め、民政は広く旧例を尊重したとされる。慶長七年、関ヶ原の戦で島津軍を追討した際の鉄砲傷が悪化し、数え四二歳で没した。

嫡子直継は直政の後を継ぎ、慶長八年家康の命で彦根城築城に着工した。同一九年の大坂冬の陣では病臥にあり、庶弟の直孝が従軍。元和元年直孝が直政を継ぐことになり、直継は一八万石のうち上野の三万石を与えられ、安中あんなか(現群馬県安中市)城主となった(直勝と改める)。彦根藩一四代はこの直継を数えない。直孝は同年五月の夏の陣でも功をあげ、五万石の加増を約束されたらしく、一一月都合二〇万石の知行が通達された。さらに同三年・寛永一〇年(一六三三)に各五万石の加増で三〇万石となった。寛永九年年寄衆の一人として幕政に参与、秀忠・家光・家綱の将軍三代にわたって補佐した。藩政では人材の登用に門閥に偏らず実をとり、厳格な教育を推進し、藩の諸制度は直孝の時に整備されたという。万治二年(一六五九)没。なお直孝の嫡子直滋は寛永一三年父に代わり彦根に帰り国政を治めるよう命じられるが、万治元年百済ひやくさい(現愛知郡愛東町)に入る。三代直澄は直孝五男。延宝四年没。

四代直興は延宝四年就封、彦根藩中興の英主といわれる。同五年下屋敷の造営に着手。元禄元年(一六八八)日光東照宮修造の総奉行。同八年大洞弁財天を建立するため領内すべてに一人一文の奉加金を募るなど文治政治に力を注ぐ。同一〇年大老職、同一三年病を理由に辞し、第八子直通に家督を継がせ直治と改め養生する。宝永七年(一七一〇)五代直通が没し、次弟直恒が就封するがわずか五〇日で死去、直興は再び藩主となる。翌年大老に就き、直該と改める。正徳四年(一七一四)職を免じられ彦根に帰る。享保二年(一七一七)没。七代直惟は同年一五歳で就封、元文元年(一七三六)没。狩猟を好み、絵画をよくし、詩文に親しんだという。八代直定は享保二〇年就封するが、それ以前正徳三年に一万石を分知されていたのを(彦根新田藩)、就封とともに返還。質素倹約の生活を徹底し、奢侈を戒めた。幕府奏者番を勤める。宝暦四年(一七五四)致仕するが、九代直〓が死去、再び藩主になる。同年直〓の子直幸を嗣子とし、翌年一〇代目に就け、致仕。天明四年(一七八四)大老を命じられ、同七年辞すが、なお政務に参与。天明の飢饉の際には施粥場を設けた。その子直富は父に代わって国政に当たる。

一一代直中は寛政元年(一七八九)就封。藩士の俸禄の半分を上納する制度や租税の納入期を改めたほか、町会所を設置し、殖産奨励のため国産方を開き、また学館稽古けいこ館を創立した。弓馬・鉄砲など武芸を好み、倹約に勤めた。また藩財政の回復に伴い下屋敷槻御殿の増築、能役者の召抱え、香道の奨励など文化振興にも力を注いだ。一二代直亮は文化九年に就封、天保六年(一八三五)より同一二年まで大老職にあり、弘化四年(一八四七)から相模国の海岸警備を命じられた。

直弼は、埋木舎うもれぎのやで歌や茶の世界に遊び、古道を極め剣槍を修めていたが、兄直元の死により思いがけなくも弘化三年世子となり、嘉永三年(一八五〇)一三代藩主に就封、同じく相模国警備の任に就く。同六年ペリー来航の際には開国を主張、「別段存寄書」なる建白書を提出。安政五年(一八五八)に大老職に就任、同年六月日米通商条約に調印、イギリス、フランス、ロシア、オランダの四国とも開港条約を締結した。九月一連の外交政策や将軍の継嗣問題に反対する大名や浪人・公家のなかに不穏な計画があるのを知り、防止のためいわゆる安政の大獄を断行。翌六年一〇月には関係者の断罪を終えるが、攘夷倒幕の運動が高まるなか、翌安政七年三月三日、水戸浪士らの暴徒に討たれた。桜田門外の変である。しかし直弼の死は秘され、三〇日に大老職を免じられ、閏三月三日の発表となった。井伊家断絶を避けるための幕府の恩命であった。四月、直弼の次男直憲が一四代となる。文久二年(一八六二)八月京都守護職という井伊家の名誉職を免じられ、一一月父直弼の失政をとがめられ、一〇万石を減封された。以降、横浜港の警衛、長州征伐、京都の警護などに勤めた。明治二年版籍奉還により藩知事、同四年廃藩置県に伴いこれを免じられ、同一七年伯爵となる。

〔所領の変遷〕

慶長五年の佐和山城入封のときは上野国三万石を含む一八万石で、近江は神崎郡内二万四千一七八石余・愛知えち郡内五万六〇一石余・犬上郡六万一四一石余・坂田郡内一万四千二八九石余(ほか多賀大社領などを含む)であった(慶長高辻帳)。翌年直継への上野三万石を分ける。同二〇年の五万石加増の内訳は坂田郡内二万二千六四二石余・浅井郡内一万三千九七六石余・伊香いか郡内三千三九一石余・愛知郡内五千六〇九石余・神崎郡内四千三九〇石余。元和三年の五万石加増は坂田郡内二万七千九六五石余・愛知郡内三千八一三石余・神崎郡内一千九九七石余・蒲生がもう郡内一万六千二二三石余。寛永一〇年の五万石加増は伊香郡内一万五千九八〇石余・蒲生郡内六六七石余・愛知郡内一千石・坂田郡内四千九四四石余・浅井郡内七千四〇八石。同年のうち坂田郡の三千二七〇石余を浅井郡三千五一五石余・伊香郡二四五石余と、また浅井郡の一部と蒲生郡の一部が取替えられている。こうして寛永一一年八月段階で近江の犬上郡六万六七五石余・愛知郡内六万一千二〇石余・神崎郡内三万五六七石・蒲生郡内一万七千二三五石余・坂田郡内六万六千八一七石余・浅井郡内二万四千五五五石余・伊香郡内一万九千一二五石余と、下野国(安蘇郡内一万七千六九三石余)・武蔵国(橘樹郡内二千三〇六石余)を合せ三〇万石となった。これでみると替地などによるものか蒲生郡で一〇八石余が減り、またのちの寛文四年(一六六四)の領地目録改と照らすと、犬上・坂田両郡内ほかで替地があったようである。

現在のところ、最大三〇万石の具体的な村々を知るには寛永石高帳・正保郷帳以下の郷帳によるほかないが、一括彦根藩領の村名と村ごとの高をみるには延享二年(一七四五)の高辻帳があり、それによれば近江は犬上郡一円一一九村・愛知郡内一〇四村・神崎郡内五五村・蒲生郡内四〇村・坂田郡内一三四村・浅井郡内四一村・伊香郡内三九村の都合七郡内五六六村二八万石である(ほかは下野国安蘇郡内一五村、武蔵国荏原郡内一一村・多摩郡内八村)。なおこのほか御用米という城付米があり、これと本高三〇万石と合せ三五万石の格式とされたという。

文久二年の一〇万石減封は、近江の神崎・蒲生両郡と下野・武蔵両国の分は残らず上知となり、以下犬上郡内は五万八千二二三石余・愛知郡内二万八千六五四石余・坂田郡内六万四千一〇三石余・浅井郡内一万一千四八二石余・伊香郡内一万四千一一九石余に減じ、村数は三八三となった。この措置に対し、同年九月蒲生・神崎両郡の五〇村が幕府領への知行替えに反対し、一〇日に彦根城下へ押しかけ、一八日まで騒いだという(平松文書など)。上知は変更されなかったが、年貢徴収などの事務は彦根藩が継続したらしい。旧領民の要求が反映したものか、慶応元年(一八六五)この上知分のうち愛知・坂田・浅井・伊香四郡内の三万一千石余を井伊家への預所とした(以上、井伊家文書、「彦根市史」)。この預所の諸村は旧高旧領取調帳で知りうるが、たとえば神崎郡内にも預所と記す村があり、正確には把握しがたい。

〔家臣〕

身分上、五階級に分れる。笹之間詰は禄高一千石以上で三四家あり、老中・中老・用人らはこれから選ばれた。武役席は一千―三〇〇石の者で約六〇人、町奉行・筋奉行などを勤めた。平士は三〇〇―五〇石で約四八〇人、勘定奉行はじめ藩経営の用務にあたる。平士以上が知行取で、これらにつぐ小姓・中小姓・騎馬徒士までが士であり、切取米・扶持米取であった。これ以下に歩行(歩行・伊賀歩行・七十人歩行)・足軽(弓組・鉄砲組)が置かれた。知行取は一万石から五〇石までの田禄を与えられた。一万石の田禄は一万石の米を産する土地の知行権を得ることだが、この地方知行制は早くに実質を失い、正保二年(一六四五)には「彦根知行地方渡り相止む」とあるように(井伊年譜)、その知行権は井伊家に吸収されたという。扶持米取および切取米の士は御蔵入地(藩直轄領)から支給されたため、蔵取米などとよばれた。

おもな職制(平時)は老中・中老・用人・物頭(足軽組を管轄)・母衣役(物頭とともに士組付の編成外で、用人・側役・町奉行などの要職に就いた)をはじめ、寺社奉行を兼帯し彦根・長浜両町を管轄した町奉行、地方行政にあたる筋奉行、その補佐役の代官役、年貢米収蔵・管理の松原蔵奉行、領内の米の換金をつかさどるために置かれた大津蔵屋敷奉行・大坂蔵屋敷留守居、京都に急があれば松原湊から湖上三時間で坂本に走り山越えで入京するという水軍をつかさどる船奉行など。

〔地方行政〕

二代直孝のとき領内を三分、天野あまの川の北を北筋、宇曾うそ川筋の南を南筋、その中を中筋とし、各筋に筋奉行二人を置いた。御蔵入地と家臣の給所の別なく、村方の庄屋・年寄・横目・組頭を指揮し、行政・司法・警察など一切を管轄した。中筋は犬上郡一二〇村・愛知郡二七村・坂田郡五五村の二〇二村、南筋は愛知郡一〇〇村・神崎郡四五村・蒲生郡三九村の一八四村、北筋は犬上郡二村・坂田郡七三村・浅井郡四八村・伊香郡四二村の一六五村(「彦根領村帳」彦根市史)

慶長検地のあと承応二年(一六五三)藩独自の検地が行われるが(承応の畔走り)、年貢率はこれより先正保二年に定免制をとっていた。善政を布いたとされるが、小物成の取立ては「彦根掃部さんは油屋のしめ木、三十五万石しめなさる」とは里謡が語るところである。小物成は多種多様で、竹年貢(藪年貢)は現物納三分の一(ほか銀納)、茶運上は銀納、葦年貢は湖岸沿いの村からの徴収で米納とされる。ほか網年貢・海年貢・川年貢・入江年貢・船運上・〓運上・鳥札運上・酒造稼冥加・大工職冥加など。高掛物には千石夫米・五百石中間米・川除一分米・海道掃除米などがあり、うち中間米は藩と諸村の連絡役ほか公用雑務に充てていた費用を村方に課したものという。

彦根藩領内では一揆・騒動が少ないとされ、宝暦期の柳川騒動が知られるくらいだが、その理由には大藩であることがあげられる。財政規模が大きくやりくりに柔軟で領民に大幅な負担を強いることが少なかった。広い領域で他領との水・境・山をめぐる争いが少なく、他領と争論があった場合には井伊家の力が強大でその点での領主への信頼があったといえる。また一度も国替がなかったこともあり、形式化したとはいえ地方知行制が不満・動揺を表面化させなかったからともいわれる。

旱魃に恒常的に襲われる村方を頻度数順に一番・二番・三番とし、救恤施策の基準とした。また水害では湖岸沿いや荒川流域の村々に対し、水場二五ヵ村と水場村村を指定し、被害に応じて救米を支給している。天保の飢饉に際しては七年に蔵米三千俵を臨時に払米とし、翌八年には城下の六千九七二人に四一四俵余を安値で払下げている。備荒・救荒対策には義倉が採られたが、藩米と富農からの借用米で貯蓄米とする方策で、天保期の史料では金融制度化した側面がうかがえ、しかもそれが藩財政の補填に使われたのではないかという。

〔財政・国産方〕

藩財政はほぼ健全であったとされるが、江戸中期以降は必ずしも豊かではなく、幕末には七〇万石の借財があり、家臣の俸禄から融通することがあったらしい。将軍上洛の供奉、日光名代、朝鮮通信使来聘、大老職在任による江戸在府の長期化など出費の大きさは並大抵のものではなかっただろう。国産方の設置はこれを背景に推進されたとみられる。享保一五年米札(藩札)を発行、寛保二年(一七四二)には領内での幕府の貨幣の使用を禁止し、城下本町・長浜町・高宮宿に引替所を置き、米札流通の徹底を図った。この米札を基金に寛政一一年国産会所を城下ふな町に設置、浜縮緬・浜蚊帳・浜ビロード・高宮布のほか、政所茶・伊吹もぐさ・湖東焼などを保護、資金の貸付けや販路の確保などを行った。商業活動に積極的になるに伴い諸物産への統制のため産地に直接会所を設置するようになった。業務は所属の株仲間の統制のほか資金の貸付け・販路の確保などだが、実務はほとんど有力商人などに委嘱していた。なお藩は近江商人に対し御用金を調達させる一方、庇護を加え、苗字帯刀を許したり郷士の待遇を認めたりしたという(彦根市史)。井伊家は大名のなかで唯一牛肉の製造を認められており、将軍家や老中への献上品であった。元禄期、大石良雄が「彦根之産、黄牛の味噌漬」を食したことが伝えられるが(杉浦文書)、加工品には干牛肉・酒煎牛肉・粕漬牛肉などがあった。

〔文化・宗教〕

藩校は寛政一一年創立の稽古館があり、天保元年弘道こうどう館と改称した。藩学者には藩校で教えた伴只七(洞庵)・中村不能斎や、藩儒学者の中川禄郎、井伊直弼の側近で国学者の長野主膳がいる。大洞弁財天堂は藩主の意向で建立されたものだが、城下の寺社は彦根城の建設に伴い彦根山から移転したもの、上野国から移建したもの、同国以来の僧を開基とするものなどが知られる。これら寺社は北野きたの神社・北野寺をはじめとして井伊家の保護を受けるとともに、東照宮への将軍代参や大老職就任の祈願をするなど、井伊家との密接なつながりがあり、多賀大社の場合、社の経費の不足分を補ったり、祭礼の警備員を派遣するなど特別の計らいがあった。火災で焼失した寺院の復興には藩林などが寄進された。

明治四年の廃藩置県に伴い、彦根藩領は彦根県の管轄となり、城内に県庁が置かれた。同七年から城郭の解体が進められ、同一一年には天守閣解体の準備も整っていたが、同年一〇月北陸巡幸の明治天皇に現近江町長沢ながさわ福田ふくでん寺摂専の室が解体中止を嘆願、かろうじて城郭の一部が残された。現在国宝の天守閣をはじめ、天秤櫓・太鼓門櫓・西の丸三重櫓・馬屋・多聞櫓(以上国指定重要文化財)などの建造物を中心に、本丸および内曲輪一帯は国指定特別史跡として保存されている。また表御殿跡に昭和六二年開館した彦根城博物館は旧藩領および井伊家にかかわる史資料の収集・整理や公開を進め意欲的な企画展が行われている。

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3. 彦根城
世界大百科事典
琵琶湖東岸の要衝である彦根は,石田三成の築いた佐和山城があったが,関ヶ原の戦(1600)後,徳川譜代大名の筆頭井伊氏がこの地に京都・大坂への抑えとして封じられ, ...
4. ひこね‐じょう[‥ジャウ]【彦根城】
日本国語大辞典
滋賀県彦根市金亀(こんき)町にある平山城。慶長八年(一六〇三)井伊直継が着工、元和八年(一六二二)完成。井伊家歴代の居城で三方が琵琶湖に囲まれ、間道・迷路が入り ...
5. ひこねじょう【彦根城】
国史大辞典
玄宮楽々園は国の名勝に指定されている。 [参考文献]『井伊家譜』、『彦根市史』上、滋賀県教育委員会編『国宝彦根城天守・附櫓及び多聞櫓修理工事報告書』 (石丸 煕 ...
6. 彦根城(ひこねじょう)
古事類苑
地部 洋巻 第1巻 1166ページ ...
7. ひこねじょうあと【彦根城跡】滋賀県:彦根市/彦根城下
日本歴史地名大系
従来の一二万石に六万石を加えられ一八万石を領する有力大名となった(井伊年譜・井伊家譜)。のち加増を重ね、彦根城を築き城下町を建設し、近江の地にあって幕府の意を受 ...
8. ひこねじょうか【彦根城下】滋賀県:彦根市
日本歴史地名大系
彦根藩井伊家三〇万石(預地を含めると三五万石)が建設した彦根城の城下町。天守を中心とした城郭を第一郭とすると、内堀を隔てて内曲輪とよぶ第二郭が囲み、それを石垣・ ...
9. 彦根城天秤櫓[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
国指定重要文化財 滋賀県彦根(ひこね)市 ©公益社団法人びわこビジターズビューロー ...
10. ひこにゃん[イミダス編 文化・スポーツ]
イミダス 2018
滋賀県彦根市で2007年3~11月に開催された「国宝・彦根城築城400年祭」のPRキャラクターとして生まれたご当地キャラ。彦根藩二代目藩主である井伊直孝公をお ...
11. 安土桃山時代
世界大百科事典
園建築である。築城は17世紀初頭(慶長10年代)からいっそう盛んになった。名古屋城,姫路城,彦根城,高田城などは,外壁が白く塗られ,門の内部にも枡形を設けるなど ...
12. 安土桃山時代美術画像
世界大百科事典
風光を正面からとりあげたすぐれた例である。 1600年代に入ると建築や美術の数もましてくる。彦根城,姫路城のような桃山天守建築が出現する。障壁画の分野では,当時 ...
13. あわた-まきぞう【粟田万喜三】
日本人名大辞典
つみあげて石垣をきずく穴太衆(あのうしゅう)積みの技術をまなぶ。延暦寺書院をはじめ,安土城,彦根城,和歌山城,園城寺など数多くの石垣修復をおこなった。昭和58年 ...
14. 井伊氏
世界大百科事典
関ヶ原の戦後,直政は近江佐和山城に配置され京畿(けいき)の押えとされた。江戸時代を通じて井伊氏の居城となった彦根城は,直政の没後の1606年(慶長11)公儀役普 ...
15. いい-なおかつ【井伊直勝】
日本人名大辞典
井伊直政の長男。父の跡をつぎ,慶長7年近江(おうみ)(滋賀県)佐和山城主。8年彦根山に築城を開始,のち彦根城にうつる。徳川家康の命により彦根藩主を異母弟の直孝( ...
16. 井伊直弼画像
日本大百科全書
文化(ぶんか)12年12月29日、彦根藩35万石の第11代城主直中(なおなか)の十四男として彦根城内に生まれる。母は側室お富の方(江戸麹町隼(こうじまちはやぶさ ...
17. いいなおすけ【井伊直弼】
国史大辞典
江戸時代後期の大老。近江国彦根藩主。文化十二年(一八一五)十月二十九日、十一代藩主直中の十四男として彦根城内で生まれた。母は側室のお富の方。通称は鉄三郎といい、 ...
18. いしがさきまち【石ヶ崎町】滋賀県:彦根市/彦根城下
日本歴史地名大系
ただし設立予定地は現古沢町にあたる。北野神社は井伊家の天神信仰による再興とされ、もとは彦根山に鎮座していたが、彦根城築城により移転したという。天満天神の配祀は元 ...
19. いぬかみぐん【犬上郡】
国史大辞典
ケ原の戦のあと井伊直政が三成の旧領に封ぜられた(当初十八万石、のち三十万石)。やがて彦根山に彦根城の築城が開始され、元和八年(一六二二)にほぼ完成し、それととも ...
20. いぬかみぐん【犬上郡】滋賀県
日本歴史地名大系
(東大寺文書)などにみえる水沼村・覇流村は奈良東大寺の経営と開発の進展度をうかがいうる。のち彦根城が建設される地には観音の霊験あらたかな寺院彦根寺があり、寛治三 ...
21. いぬかみぐんちく【旧犬上郡地区】滋賀県:彦根市
日本歴史地名大系
彦根市のほぼ中央部、北は旧松原内湖から南は荒神山・宇曾川に至る地域を占め大部分は平地。北部に旧彦根城下を含み、その南端を流れる芹川と犬上川に挟まれた地域は市街地 ...
22. うちだいくまち【内大工町】滋賀県:彦根市/彦根城下
日本歴史地名大系
町に分れる。慶長九年(一六〇四)破却された大津城の天守を彦根城に移築したとされるが、その天守閣隅木墨書銘には同一一年の日付とともに彦根城下大工町で喜市・山本助六 ...
23. 厩/馬屋
世界大百科事典
の馬屋の形式で造られ,三猿(見ざる,いわざる,聞かざる)その他の猿の彫刻が飾られている。また彦根城の馬屋はL字形の平面をもち,21の小間,端部に馬丁の休息所をも ...
24. 近江国
世界大百科事典
瀬田地方のおさえとして戸田一西(3万石)を入れた。湖北では井伊直政をして慶長・元和年間にかけ彦根城を築かせて18万石を領知せしめた。15年(元和1)大坂の陣に勝 ...
25. おうみのくに【近江国】滋賀県
日本歴史地名大系
築き、大津城の戸田一西を入城させた。同八年一月征夷大将軍となって江戸幕府を開くと、同年七月には彦根城の築造にかかり、井伊直継を配している。同一九年の大坂冬の陣に ...
26. 大津[市]
世界大百科事典
阻止し,徳川家康に勝利をもたらす。この籠城戦によって大津は焦土と化し,城は膳所へ移転したが(天守閣のみは彦根城に利用),02年家康より地子免許の特典をうけ漸次復 ...
27. おおつじょうあと【大津城跡】滋賀県:大津市/大津
日本歴史地名大系
基壇石垣上面の幅は三九間余、石垣上面から頂点まで六〇間とされる(新修大津市史)。一説には大津城天主は彦根城築城にあたって、同城天主として移築されたともいう(井伊 ...
28. おおほらべんざいてんどう【大洞弁財天堂】滋賀県:彦根市/旧犬上郡地区/佐和村
日本歴史地名大系
発願の趣意は、直興の奇病を治した松島弁順が、その信仰する弁財天の勧請を勧めたことによると伝え、彦根城の鬼門除けとして奉祀したのではないかともいわれるが(彦根市史 ...
29. 大洞弁天建立鳥目寄帳(元禄八年大洞弁天寄進帳)[文献解題]滋賀県
日本歴史地名大系
原本 井伊家(彦根城博物館寄託) 解説 元禄八年彦根藩が弁財天堂の建立に先立ち、領内の僧俗・貴賤・老若を問わず二五万九千五二六人から奉加金を募った目録。原則 ...
30. おすえまち【尾末町】滋賀県:彦根市/彦根城下
日本歴史地名大系
[現]彦根市尾末町・佐和町 佐和町・京橋上片原町の北にある武家地。彦根城の北東に位置し、内町とは佐和口の橋で通じる。西町・中町・東町に分れる。慶安四年(一六五一 ...
31. おだにじょうあと【小谷城跡】滋賀県:東浅井郡/湖北町/伊部村
日本歴史地名大系
捨て、湖岸の長浜に城を移す。建物は多く長浜城に移されたといい、もと長浜城の天守であった現在の彦根城の西の丸三重櫓は、小谷城の鐘丸であったと伝えられる。〔遺構〕本 ...
32. 御手伝普請
世界大百科事典
人足(千石夫)を徴したのに始まる。以後連続的に江戸城をはじめ,上方・西国に対する守りとしての彦根城・篠山城・亀山城,大御所家康の居城である駿府城,家康の子息の居 ...
33. 海游録 朝鮮通信使の日本紀行 150ページ
東洋文庫
には彦根山があり、ゆえに佐和城を一名彦根城と呼び、または沢山城と号する。土地は豊饒にして、室盧、人民、貨卑、游観の修がはなはだ盛んである。山によって城を築き、姫 ...
34. かみさいくまち【上細工町】滋賀県:彦根市/彦根城下
日本歴史地名大系
この町に川瀬千次郎が居住したためと注記されている。彦根町地割事(長谷川文書)によれば、同氏は彦根城下建設以前からの住人で、城下町割後は細工町で研屋を営み、藩主井 ...
35. かわらまち【河原町】滋賀県:彦根市/彦根城下
日本歴史地名大系
れば長浜総持寺末で、井伊家老臣三浦家の建立になり、もと本堂は彦根山の金亀山観音堂であったが、彦根城築城の際その本尊薬師如来を移したのに伴い同堂を移建し、また蒲生 ...
36. かんざきぐん【神崎郡】滋賀県
日本歴史地名大系
彦根藩領は文久二年(一八六二)の同藩上知まで続く。文久二年彦根藩領上知の報が届くと、当郡の村からも彦根城下へ返地嘆願をする者が出る騒ぎとなった。ただし旧彦根藩領 ...
37. きたのじ【北野寺】滋賀県:彦根市/彦根城下/石ヶ崎町
日本歴史地名大系
[現]彦根市馬場一丁目 旧彦根城下内舟町の西、中堀の角に位置する。金亀山と号し、真言宗豊山派。本尊聖観音。もと彦根山にあったが、彦根城の築城のため慶長八年(一六 ...
38. 近世俳句集 239ページ
日本古典文学全集
落日庵句集)などがあるが、この句が最も簡明で力強い。この「絶頂の城」は、尾張の犬山城、近江の彦根城などの景が思われようか。ただし、いずれも絶頂というにはその山は ...
39. 近世俳句集 241ページ
日本古典文学全集
かゝる(新花摘)琵琶湖のほとりを過ぎ、茶店で名物の鮒ずしを味わっていて、ふと見上げると、遠い彦根城に雲がかかっている。鮒ずしには、強い発酵臭と酸味があり、味にも ...
40. ぎょうえん【行円(3)】
日本人名大辞典
孫子(ちょうごそんし)寺の僧とみられる。嘉禄(かろく)2年井伊家につたわる笙(しょう)1管(彦根城博物館蔵)を製作。のち大阪誉田(こんだ)八幡宮に現存する舞楽面 ...
41. けやきごてん【槻御殿】滋賀県:彦根市/彦根城下
日本歴史地名大系
[現]彦根市金亀町 彦根藩四代藩主井伊直興が彦根城の北、松原内湖に面した川手主水屋敷跡に設けた下屋敷。現在も当時の姿を残す。延宝五年(一六七七)藩士松本何右衛門 ...
42. 玄宮園
日本大百科全書
滋賀県彦根(ひこね)市金亀町にある庭園。彦根城の下部にあり、現在は彦根市が管理する。彦根藩4代藩主井伊直興(なおおき)が延宝(えんぽう)5年(1677)に造営し ...
43. 江左三郡録[文献解題]滋賀県
日本歴史地名大系
成立 明和二年 写本 彦根市立図書館 解説 温故録からの引用が多い。(一)―(三)犬上郡と彦根城下、(四)―(七)坂田郡、(八)―(一〇)愛知郡の地誌。  ...
44. ごさんじょうむら【後三条村】滋賀県:彦根市/旧犬上郡地区
日本歴史地名大系
中藪村の東に位置。朝鮮人街道が通り、北東の彦根城下との間を流れる善利川(芹川)に善利川橋が架かる。善利川左岸沿いの地域は城下の町続き町となり、後三条町が成立して ...
45. 御城下惣絵図(天保城下絵図)[文献解題]滋賀県
日本歴史地名大系
二一〇×一三四センチなど(彩色) 成立 天保七年 原本 彦根市立図書館 解説 伝存の彦根城下絵図では最も詳細なもので、付書から一枚ものとして保存されていた ...
46. ご当地イベント[レジャー/旅行]
イミダス 2018
2007年の「彦根城築城400年祭」、08年の「ビリケン生誕100周年」「源氏物語千年紀」、そして10年には「平城遷都1300年祭」「名古屋開府400年記念事 ...
47. さかたぐん【坂田郡】滋賀県
日本歴史地名大系
で入城した。しかし同八年七月彦根山へ築城の命が下され、井伊直継は佐和山城の資材その他をもって彦根城の築城に取かかっている。長浜城には同一一年家康の異母弟内藤信成 ...
48. さくらだもんがいのへん【桜田門外の変】
国史大辞典
同年九月在京中の西郷吉兵衛(隆盛)は詮勝の入京を目前にして、東西呼応して義兵を挙げ、詮勝を撃退し彦根城を攻略することを江戸の同志に説き、同藩の有馬新七は諸藩の有 ...
49. 薩摩歌(近松門左衛門集) 278ページ
日本古典文学全集
。戸田山城守、六万五千石。漆を塗ったあと、たたいて凹凸をつけた鞘。→付図29。近江(滋賀県)彦根城主、井伊掃部頭、三十万石。僧の持つ如意の形をした鞘(付図30) ...
50. さわむら【佐和村】滋賀県:彦根市/旧犬上郡地区
日本歴史地名大系
所也」と注記し、「今ハ村里ナシ」と述べている。慶長高辻帳には佐和町とみえ、高六二三石余。「但彦根城同屋敷ニ成」と注記される。寛永石高帳には佐和村とあり高三六三石 ...
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