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  10. 高知城
日本歴史地名大系・国史大辞典

日本歴史地名大系
高知城
こうちじよう

[現]高知市丸ノ内一丁目

高知城下中央やや北西寄りにある大高坂おおだかさ(高知山)に築かれた平山城形式の城。土佐藩主山内氏の居城。大高坂城ともたか城ともよばれる。国指定史跡。南北朝時代、南朝方として活躍した大高坂松王丸の居城のあった地といわれ、戦国時代には長宗我部元親も築城しようと岡豊おこう(現南国市)より移ったこともある。しかし度重なる洪水のため断念し、浦戸うらどへ築城した。長宗我部氏に代わって慶長六年(一六〇一)入国した山内一豊は、長宗我部氏の浦戸城の放棄を決め、大高坂山に築城する計画を立てた。同年八月、築城総奉行に百々越前守安行を任命、その子出雲を補佐として九月に着工した。

高知御城築記(皆山集)に「石は浦戸城石を不苦所は毀取、江ノ口北迄大船に積廻し、其外久万・万々・秦泉寺・円行寺或ハ一宮・神田・潮江・朝倉辺より取之、材木ハ久万・万々・秦泉寺・円行寺或ハ一宮於木場荒仕成仕候事」、また「御侍中老若共我も我もと竹木土石等持参自分働き、若衆は簀を荷ひ或は二人舁抔仕、幼少之者は袂に石砂等を入持参、並町人郷人共男女猶々也、雖然町郷の拾歳以下幼少の者は砂一升に米一升を以鳥目代に被遣候事」とある。そのほか瓦は大坂から取寄せ、職人の多くは大坂から呼入れている。人夫は一日約一千三〇〇人に及び、一人当り米七合と味噌代を支給している。この築城期間中、山内一豊は一日おきに浦戸から五人の影武者を伴って視察した。一豊と五人の影武者は六人衆とよばれ、同装束で現れ、旧領主長宗我部氏の遺臣の攻撃に備えたという。

慶長八年、本丸と二ノ丸が完成、八月二一日に入城した。御城築記は「御入城当日、御旗、御馬印等終日御城ニ立、不絶鳥銃打放ツルヘ放抔有、又は金皷撃鳴申事、当日より二三日同然之事」と記している。城山の名称も大高坂山を改めて、真如しんによ寺の在川(一説に雪蹊寺の月峯)河中こうち山と命名した。くち川とかがみ川の二つの河川に挟まれているからという。ところが相次ぐ洪水で城下町づくりが困難を極めたので河中の字を忌み、同一五年九月に五台山竹林ちくりん寺の空鏡が、藩主の命を受けて高智山と表記を改めた。これは竹林寺の文殊菩薩(知恵をつかさどる菩薩)の高い知恵にあずかるとの意味という。やがて高智から高知へと変化し、ここに高知という地名が生れた。同一六年二ノ丸東下段の三ノ丸が完成。この場所は地盤も悪く用地も狭かったので、大高坂山と北西にある小高坂山との間にあった中高坂山をすべて取崩して土を運び、東方に土を盛り築立てている。のちに中高坂山の跡地の一部に円満えんまん寺が建立された。

こうして築かれた高知城は、大高坂山の山頂部に本丸、その北に二ノ丸、二ノ丸の東側一段下に三ノ丸が配された。本丸と二ノ丸の西側は一段と低い獅子の段ししのだんとよばれる広場となっている。その西、さらに一段低い地に御台所屋敷、その北西方向に西ノ丸が置かれ西門に隣接する。本丸の西南、城郭内の隅に御屋敷があり、その東が南門にあたる御屋敷門となっている。本丸東側は杉の段すぎのだんとよばれ、さらに東に下ると大手門(追手門)となり、南東部には馬場が置かれた。本丸北東方には各種倉庫が配され、北門へと至る。本丸には、三層六階で最上層に高欄をめぐらした天守閣と本丸書院を中心に納戸蔵・黒鉄くろがね門・東多聞・西多聞があり、北部の詰門とよばれる櫓門で二ノ丸と結ばれる。二ノ丸には二ノ丸御殿、三ノ丸には大書院があり、大書院は家臣を集合させて新年の儀式などを行う大集会所として利用された。明治初年には高知藩知事府の庁舎にもされた。城郭内には八つの櫓が設けられ、七つは二重であったが、一つは三重で、浦戸城の天守閣を移築したものと伝える。この城郭は東西四町二五間、南北四町三〇間の広さで、江ノ口川を北の堀とし、東・南・西側を幅一〇―一二間の堀で囲んだ。正保年間(一六四四―四八)の高知城絵図では大手門北および馬場は侍屋敷地であるが、寛文九年(一六六九)の城下町絵図ではほぼ前述の城郭となっている。

江戸の文人で五代藩主豊房に召抱えられた斎藤唱水は元禄一六年(一七〇三)高知城を訪れたが、その日記(「高知市沿革略志」所引)に次のようにある。

此御城は山城にて遥に見上らる。腰かけより下乗の
大門に入るまでは平地なり。威儀堂々と勢高し。門
を入り、石壇をはるばると上る。此道けはし。本丸
は左の方に殿守たかくさしのぼり高欄有り。
(六月一三日条)
広間をさしのぞけば外椽をしまはし、敷板はば広く、
張台にはあげまき糸ふとくかけらる。必ず大厦本城
の床にはあるものと見ゆ。いづれも残らず金張に極
彩の絵さまざまに画けり、此箔の色、むかし色にて
当世にはまれなり、大広間いづれの諸侯の居城にも
をとるまじく見ゆ。四方の張付のこらず金なり。光
かがやく事大方ならず。天井は野山の霊木、柱も椽
もおなじ。白木作りにて詞も及びがたく、いづかた
にも類なきさまなり(中略)二階へのぼればそのつ
くりさま高欄よりはじめ、さながら唐作りのごとし。
(中略)いづれも金作りなり。方々見わたされ眺望
類なし、下へくだり二たび広間に出、廊下より高知
を見わたせば、まのあたり見おろされ、山つき川な
がれ、民家つらなり、田畠かぎりなし。一瞬に見ま
わせば、一城に一国をしめたるよそほひ、威勢こと
わりにこそ。         (六月一六日条)

享保一二年(一七二七)二月一日、城下かみ町の北にある小高坂の越前えちぜん町から出火、西風に火炎は延びて西門から城内へも火が入り、二ノ丸・三ノ丸、さらに、廊下門から本丸にも移り天守閣も焼けてしまった(年代略記「皆山集」)。残ったのは大手門・西門・北門櫓くらいであった。同一四年九月、幕府の許可を受けて再建に着手し、築城奉行に家老深尾帯刀を任じた。延享二年(一七四五)八月に二ノ丸、寛延二年(一七四九)八月に本丸、宝暦三年(一七五三)一一月に三ノ丸が落成したが(高知公園史)、工事開始から二四年間かかっている。

明治四年(一八七一)山内家は城を県に譲渡し、同六年には高知公園となって県民に開放された。なお天守(咸臨閣)・本丸書院(懐徳館)と納戸蔵・東多聞・西多聞・黒鉄門・追手門・詰門・廊下門・天守に付属する矢狭間塀(二棟)・黒鉄門に付属する矢狭間塀(二棟)・追手門に付属する矢狭間塀(二棟)の一五棟が国の重要文化財。昭和二三年(一九四八)に追手門の修理を開始、続けてほかも解体修理され、同三四年完成した。

〔天守閣〕

本丸東北の角に位置し、北側の高い石垣の上に建つ。井籠組という作り方で、二階を三つ積重ねた三層六階の高さ一八・五メートルの建物。延享四年一一月に上棟された棟木の銘文が残り、再建年代がわかるが、構造形式は創建当時とほとんど変りないといわれる。千鳥破風・唐破風・入母屋破風などを取合せ安定した風格をつくり出している。最上階外部には回縁と八本の黒漆塗の親柱に擬宝珠をつけた高欄をめぐらす。これは山内一豊が遠州掛川城にならって、幕府の許可を受けてつけたものといわれる。明治以後、この建物は咸臨かんりん閣と名付けられた。天守東南から南に延びる矢狭間塀は六一・一八メートルで銃眼一五ヵ所が設けられ、東北から北に延びる矢狭間塀は五・七九メートル。

〔本丸書院〕

正殿・溜ノ間・玄関からなり、大小一四室がある。付属建物として藩の重要文書を納入した納戸蔵がある。玄関正面に大きな床があり、右手が正殿である。一段高くした藩主専用の座敷が八畳の上段の間で、正面に簡素な床と違棚をつけた脇床があり、東側に出書院を付け、西側は四畳の納戸(武者隠し)で小襖を取付ける。襖には金箔押しの八双金具を打付け、引手に朱房がつく。正殿西南の隅には炉を設けて茶棚をつけた御茶所がある。明治以後、この建物は懐徳かいとく館と名付けられた。

〔追手門〕

高知城の正門(大手門)。延享四年(一七四七)九月、城門の呼称に変更があり、もと「大御門」といわれていたのを「追手御門」とした(皆山集)。享和元年(一八〇一)に修築された櫓門で、桁行一一間、梁間四間。門柱・扉・冠木・腕木などはいずれも欅の厚板でかぶせ、継目などに各種金具を打付けている。門には非常の場合に板をはずして石を落すという石落しが設けられている。門の両側には大石を積上げて、門前に枡形を形成。なお門外の巨石には幾つか刻印がみられる。追手門東北から北に延びる矢狭間塀は二七・五五メートルで銃眼が三ヵ所あり、追手門前の枡形を囲む矢狭間塀は七一・二一メートルで銃眼は一三ヵ所。

〔詰門〕

二ノ丸と本丸との間に設けられた櫓門で、上部は渡廊下として両丸を結ぶ通路となっている。内部西側は通路に沿って四間に仕切り、北・中・南の三間には襖・畳を入れ、南から身分の高い順に本丸を警固する武士が詰めており、詰所だったところから詰門と名付けられた。階下は通路と蔵で、出入口を東西両側につけるが、通路は一直線ではなく、いわゆる筋違いになっている。門内に入った敵が簡単に通り抜けられないようにするためであった。通路と蔵はともに土間となっており、漆喰の叩きで仕上げられ、蔵は塩蔵であったといわれる。

〔廊下門〕

詰門の二階は二ノ丸から本丸へ通じる廊下となっており、その突当りに本丸正門の廊下門がある。櫓門で、正面は詰門に隠されて外からあまり見えない。門柱の下には踏金具をつけ、門扉には金物や乳金物などを打付けて飾られ、脇には潜り戸も設ける。櫓は桁行一〇間、梁間三間。

〔黒鉄門〕

本丸へ搦手から出入りするための裏門で、本丸西側にある。柱・桁・門扉に多数の鉄板が打付けてあるので、黒鉄門と名付けられた。門の上部には開閉自在の石落しがつけられ、小さいが頑丈な造りになっている。西北から北に延びる矢狭間塀は二三メートルで銃眼などは五ヵ所、東南から南に延びる矢狭間塀は一四・六四メートルで銃眼三ヵ所。

〔東多聞・西多聞〕

本丸の石垣の上にある平家建の建物で、廊下門の東西に塀と兼用でつくられた櫓。本丸の守備のために内部には銃眼や石落しを設けてある。東多聞は予備の武具を納める倉庫に利用されていたが、現在は旧藩主や幕末の志士らの遺品が数多く展示されている。西多聞は住宅風になっており、「本丸御番所」と墨書されていることからも、本丸を警備する武士の宿直室ではなかったかと推測されている。



国史大辞典
高知城
こうちじょう
高知市の中央大高坂山にある城。平山城。もと大高坂城といい、南北朝時代大高坂松王丸が居城して南朝方の拠点となっていたが、暦応三年(興国元、一三四〇)落城して廃城となる。長宗我部元親が再興し天正十六年(一五八八)移転したが、水害のため再度浦戸城に移った。関ヶ原の戦後、山内一豊が土佐二十万石の国主となり、家老百々(どど)安行を総奉行に任じて築城にあたらせた。慶長八年(一六〇三)本丸が落成し浦戸城より移る。長浜雪蹊寺の僧月峰が一豊の命により河中山の城名を選んだが、慶長十五年二代忠義の命で五台山の僧空鏡が高智山と改め、以後高智城(のち高知城)とよぶようになり、山内家十六代の居城として明治維新までつづいた。享保十二年(一七二七)の大火で追手門以外はほとんど焼失し、天守閣は延享四年(一七四七)再建、ほかの建物も宝暦三年(一七五三)までに再建された。天守閣は四層六階で最上層には勾欄がある。本丸と二ノ丸が南北にならび、間を空堀で仕切り、その上を廊下門で連結し、東の下段に三ノ丸、西に西ノ丸を配置してある。城門は四方にあって東は大手口、西は搦手口で、南の鏡川、北の江ノ口川を外堀に利用し、その間をつなぐ堀を掘って東西の外堀とした。外堀内は郭中とよび、上士の居住区域で、その東西に足軽奉公人および町人町を形成した。廃藩後取り壊されたが、天守閣以下十五棟は、重要文化財に、城跡は国史跡に指定されている。
[参考文献]
『高知市史』上、高知県教育委員会編『重要文化財「高知城」』、同編『重要文化財高知城修理工事報告書』、同編『重要文化財高知城天守修理工事報告書』
(山本 大)
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1. 高知城画像
日本大百科全書
戦国期~江戸期の城。高知市丸ノ内にある。1588年(天正16)長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)が、南北朝期に大高坂(おおたかさ)松王丸の拠(よ)っていた大高
2. 高知城[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
国指定重要文化財 国指定史跡 高知県高知市 ©高知市観光振興課
3. こうち‐じょう[カウチジャウ]【高知城】
日本国語大辞典
高知市にある平山城。山内氏歴代の居城で、慶長八年(一六〇三)頃山内一豊が築城。はじめ河中山(こうちやま)城と称し、のち現名に改称。享保一二年(一七二七)焼失した
4. こうちじょう【高知城】
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5. こうちじょう【高知城】高知県:高知市/高知城下
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[現]高知市丸ノ内一丁目 高知城下中央やや北西寄りにある大高坂山(高知山)に築かれた平山城形式の城。土佐藩主山内氏の居城。大高坂城とも鷹城ともよばれる。国指定史
6. 高知城
日本史年表
1727年〈享保12 丁未①〉 2・‐ 土佐国高知大火、 高知城 焼失(実紀)。
7. こうちじょうか【高知城下】高知県:高知市
日本歴史地名大系
標高四〇メートルの大高坂山(高知山)に築かれた高知城を中心に形成された近世の城下町。東流して浦戸湾に注ぐ鏡川(潮江川)の下流部北岸にあり、北は江ノ口川が東流する
8. 高知城下之図(城下町絵図)[文献解題]高知県
日本歴史地名大系
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9. 正保土佐国城絵図(高知城絵図)[文献解題]高知県
日本歴史地名大系
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10. あがわぐん【吾川郡】高知県
日本歴史地名大系
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11. あきぐん【安芸郡】高知県
日本歴史地名大系
大村には庄屋・老、小村には名本がいた。近世の初め浦奉行所が奈半利に置かれたことがあったが、その後郡奉行同様高知城下に移され、浦分には下士の分一役が派遣されて徴税
12. あきはまむら【安喜浜村】高知県:安芸市
日本歴史地名大系
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日本歴史地名大系
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日本歴史地名大系
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15. いぐちむら【井口村】高知県:高知市
日本歴史地名大系
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日本歴史地名大系
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日本歴史地名大系
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18. いげのき【神母ノ木】高知県:香美郡/土佐山田町/佐古藪村
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19. いしたてむら【石立村】高知県:高知市
日本歴史地名大系
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20. いたがきたいすけ【板垣退助】
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一八三七―一九一九 幕末・明治時代の政治家。天保八年(一八三七)四月十七日高知城下中島町の邸に生まれた。父は高知藩士乾正成、母は林氏賢貞。家禄三百石、馬廻格。
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江戸時代中期の印刻師。青木胥山から篆刻(てんこく)の技術をまなぶ。のち銅印鋳造の方法を研究し,高知城下水道町の鍛冶職半左衛門に鋳造方法をおしえる。「土佐銅印」は
22. いちきまさとし【一木政利】
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23. いちはら-けんざん【市原〓山】
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1826−1909 明治時代の陶芸家。文政9年6月6日生まれ。もと土佐高知藩の足軽。高知城下能茶山(のうさやま)で陶器を試作。明治初年自ら窯(かま)をきずき,日
24. いなりしんち【稲荷新地】高知県:高知市/下知村
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25. いの(町)画像
日本大百科全書
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26. いのうえ-しゅんぞう【井上俊三】
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28. いわさきやたろうせいか【岩崎弥太郎生家】高知県:安芸市/一宮村
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29. うさむら【宇佐村】高知県:土佐市
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30. うしおえむら【潮江村】高知県:高知市
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31. うつのやま【宇津野山】高知県:高知市/潮江村
日本歴史地名大系
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32. うまづめごんのすけ【馬詰権之助】
国史大辞典
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日本歴史地名大系
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34. うらどわん【浦戸湾】高知県:高知市
日本歴史地名大系
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35. えいこくじあと【永国寺跡】高知県:高知市/高知城下/郭中/永国寺町
日本歴史地名大系
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36. えいこくじちょう【永国寺町】高知県:高知市/高知城下/郭中
日本歴史地名大系
[現]高知市永国寺町・追手筋二丁目・廿代町 本与力町の北にあり、東西七町二七間(高知市沿革略志)。町の西詰に高知城の鬼門鎮護のため、元和年中(一六一五―二四)に
37. 絵金
世界大百科事典
土佐(高知県)の町絵師。通称金蔵,絵金は絵師金蔵の略称。本名は弘瀬洞意。友竹斎雀翁と号した。高知城下新市町の髪結の家に生まれたが,画道に志し,藩のお抱絵師池添美
38. えきん【絵金】
日本架空伝承人名事典
土佐(高知県)の町絵師。通称金蔵、絵金は絵師金蔵の略称。本名は弘瀬洞意。友竹斎雀翁と号した。高知城下新市町の髪結の家に生まれたが、画道に志し、藩のお抱絵師池添美
39. えちぜんまち【越前町】高知県:高知市/小高坂村
日本歴史地名大系
南北の筋に開かれた町。「土佐州郡志」は「是地昔百々越前家臣家焉故名」と記す。山内一豊の高知城下建設の築城奉行を勤めた百々越前守安行は、高知城縄張りに際してその宿
40. えのくちむら【江ノ口村】高知県:高知市
日本歴史地名大系
田町・相模町・中水道・寿町・洞ヶ島町・伊勢崎町・幸町・入明町・宝町・小津町 江ノ口川を挟んで高知城下の北にある。西は小高坂村、北は久万川を限る。土佐郡に属し、「
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日本歴史地名大系
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日本歴史地名大系
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43. おおいだいらむら【大井平村】高知県:香美郡/香北町
日本歴史地名大系
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44. おおしまむら【大島村】高知県:宿毛市
日本歴史地名大系
たもの。洞仙寺は大島への移住者が増えるに伴って住民の間から希望が出され、慶安二年(一六四九)高知城下近くの真如寺の世話で創建された(浜田家文書)。
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日本歴史地名大系
の向山が横たわる。村の中央部を南北に蚊居田村から豊永郷(現長岡郡大豊町)へ行く道、村の南部を高知城下から赤岡村(現香美郡赤岡町)に行く道が通る。「和名抄」所載の
46. おおだかさじょうあと【大高坂城跡】高知県:高知市/高知城下
日本歴史地名大系
[現]高知市丸ノ内一丁目 高知城のある大高坂山(高知山)にあった中世の土豪大高坂氏の居城。大高坂氏は平氏の後裔平田俊遠の子孫と伝え、土佐郡高坂郷の開拓とともに勢
47. おおつむら【大津村】高知県:高知市
日本歴史地名大系
と記す。寛保郷帳によると家数三三〇、人数一千三一〇、馬三七、牛五五。俗に大津三千石とよばれて高知城下に近い東部の米作中心の純農村であったが、浪人・郷士のほか足軽
48. おおひらむら【大平村】高知県:土佐郡/大川村
日本歴史地名大系
有哨店」と記すが、「南路志」によれば番人は山中左衛門次郎・和田喜八郎の二人で、各々番人給田五石三斗六升。高知城下から一〇里半であった。留山一(前記風土記)。大元
49. 岡田以蔵
日本大百科全書
幕末土佐藩の剣士、刺客。高知城下に近い土佐郡江ノ口村の郷士の子。城下の武市半平太(たけちはんぺいた)(瑞山(ずいざん))道場、ついで江戸の桃井春蔵(もものいしゅ
50. おかむね-たいじゅん【岡宗泰純】
日本人名大辞典
1768−1833 江戸時代後期の国学者。明和5年生まれ。土佐高知城の西川岸端で医を業としていたが,土佐藩家老深尾氏にかかえられた。天保(てんぽう)2年稲毛実,
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大坂城跡(日本歴史地名大系)
日本歴史地名大系/平凡社/[現]東区大阪城。東区の北東の一角にある城跡で、本丸と二ノ丸のほぼ全域七三万平方メートルが国の特別史跡。城跡にもと玉造定番屋敷・同与力同心屋敷の一部を加えた約一〇三万平方メートルが大阪城公園となっている。
伏見城跡(日本歴史地名大系)
伏見山(桃山丘陵)に豊臣秀吉によって築かれた城。関ヶ原の合戦に伴う東軍と西軍の攻防戦で被害を受けた後、徳川家康の手で大規模な修築復興がなされたが、元和九年(一六二三)廃城になった。
井伊谷城跡(日本歴史地名大系)
[現]引佐町井伊谷。井伊谷の盆地北側、標高一一四メートルの城(しろ)山の山頂とその南東方向の麓にあった居館。井伊(いい)城ともいい、井伊氏の居城。なお史料上、南北朝期にみえる井伊城は三岳(みたけ)城をさす。
三岳城跡(日本歴史地名大系)
[現]引佐町三岳・川名。三岳山の山頂部にある山城跡。標高四六六・八メートルの山頂を中心として東西約七〇〇メートルにわたる尾根上に築かれていた。国指定史跡。井伊氏の本城で、平時の居館であった井伊谷(いいのや)の井伊谷城に対し、詰の城として利用され、当城と井伊谷城は同一視されていた。御嵩城・三嶽城・深嶽城あるいは
(日本大百科全書(ニッポニカ))
塁、堀、柵など外敵の侵入を防ぐために設けられた軍事的構築物のことをいい、さらにそれによって防衛された地域もいう。城郭という語も城と同義に用いられる。しかし火器の発達した近代に構築された軍事的防衛施設は城とよばず要塞とよばれる。最初は自然の地形を利用して防衛のためにのみ築城したが
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岸和田城(国史大辞典・日本歴史地名大系)
大阪府岸和田市岸城町にあった。縄張りが滕(ちぎり)に似ているところから別称を千亀利城という。本丸・二ノ丸・三ノ丸と総曲輪からなる臨海の平城で、総面積約七万二千坪。建武年間(一三三四―三八)楠木正成に属した和田新兵衛高家が構えたのがはじまり
平戸城(国史大辞典)
長崎県平戸市岩の上町所在。亀岡城・朝日岳城・玄武城ともいう。平山城。平戸藩主松浦氏の居城。宝永四年(一七〇七)松浦棟が築城、以後明治維新に至る。実はこれ以前、同地には慶長年間築城の日之岳城があった。しかし、これは慶長十八年(一六一三)
高山陣屋跡(日本歴史地名大系)
[現]高山市八軒町城山の西方、宮川に架かる中橋を西に渡った地点に東に向いて位置する。敷地は一千一九二坪で、陣屋門(天保三年築造)・表玄関、広間(書院造)・白洲・庭園・収納米蔵などがあり、現存する唯一の郡代陣屋跡として国指定史跡
奈良井宿(日本歴史地名大系)
[現]楢川村大字奈良井鳥居峠(一一九七メートル)の北麓に位置し、中山道の中で最高所の宿である。「西筑摩郡誌」によると「天文元年、木曾義在奈良井に専念寺を建つ。同二年、義在木曾に宿駅を定む」とあり、永禄一一年(一五六八)の相州文書にも宿駅として
韮山反射炉(日本歴史地名大系)
[現]韮山町中字鳴滝(なるたき)にある幕末に築造された反射炉。国指定史跡。一九世紀ヨーロッパにおいて高炉が発達し、銑鉄の大量生産が可能になると、銑鉄を溶融して大砲を鋳造するために反射炉が考案された。天保(一八三〇―四四)末年オランダより入った技術書
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