ジャパンナレッジは約1500冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 遺跡
  8. >
  9. 日本の史跡・遺跡・遺物・史料
  10. >
  11. 時の鐘跡

ジャパンナレッジで閲覧できる『時の鐘跡』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

日本歴史地名大系

日本歴史地名大系
時の鐘跡
ときのかねあと

[現]中央区日本橋室町四丁目

本石ほんごく町三丁目に江戸市中で最初に設置された時の鐘。天正一八年(一五九〇)の徳川氏関東入部後は江戸城内の鐘楼堂が明六つ暮六つ時に時の鐘をつき、町方の便宜にもなっていたが、二代将軍徳川秀忠のとき鐘鳴が御座の間に大きく響くため、城内では鐘を廃し太鼓を用いることとなった。同時に時の鐘廃止が町方に不便をきたさないよう、町内に場所を見立てて鐘をつかせることとなり、こく(本石町)に時の鐘が設置され、昼夜一二時に時を告げた(落穂集追加)。「武江年表」には元和五年(一六一九)鋳物師長谷川豊前が西久保にしくぼ八幡(現港区)境内に時の鐘を草創し、これは延宝年中(一六七三―八一)しば切通し(現同上)へ移ったとあり、本石町の時の鐘はそれより少し早い元和年中に設置されたと推察される。享保一〇年(一七二五)の鐘役源七の書上(御府内備考)によれば、本石町の時の鐘は当初新たに鋳造がなるまで城内西丸のものを借用したが、新規鋳造後返還した。鐘楼は当初代々城内鐘役を勤めていた本石町三丁目の辻源七屋敷内に設けられ、元禄一三年(一七〇〇)源七屋敷裏の二〇間四方の会所明地に鐘楼土蔵を普請して移設した。宝永三年(一七〇六)には本石町三―四丁目北裏に新道が開削されたのに伴い、新道沿いに鐘楼地が設けられ、同地は源七に預けられた。鐘楼の運営費用については鐘役が家持一軒ごとに一ヵ月永楽一文、当鐚では四文ずつ(一二ヵ月分四八文)を役料として徴収した。鐘役銭を収納する町は大町・小町・横町合計で四一〇町あったという。本石町の鐘撞番は家数が多いため、昼夜交替の番人など常時七、八人を使用し、毎月の時料収入も多く経済的には豊かであった。

一方、鐘撞番の仕事には因果めいた逸話が付随しており(遊歴雑記・武野俗談)、そのため鐘撞番の株は永く所有されず、よく売買されたともいう。江戸市中の時の鐘は明暦大火後各地に設置され、元禄頃には本石町、浅草寺、本所横川ほんじよよこかわ(現墨田区)、上野文殊堂、芝切通し、市谷いちがや八幡、関口せきぐち目白不動の七ヵ所となり(江戸惣鹿子)、のちには赤坂田あかさかた成満じようまん(現港区)と四谷天龍てんりゆう寺を加えて九ヵ所となった(江戸名所図会)。明治四年(一八七一)九月九日、正午の時報を大砲で行うことになった。また同六年一一月一八日から東京府の時の鐘は工学寮学校(のち帝国大学工科大学、現港区)の時計台において報知することとなり、江戸時代以来の時の鐘はその役割を終えた。現在日本橋小伝馬にほんばしこでんま町一丁目の十思じつし公園に宝永八年改鋳の時の鐘が残り、都の文化財に指定されている。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。
ジャパンナレッジの利用料金や
収録辞事典について詳しく見る


時の鐘跡と同じ日本の史跡・遺跡・遺物・史料カテゴリの記事
大坂の陣(国史大辞典・世界大百科事典・日本国語大辞典)
関ヶ原の戦の戦勝により、政治の主導権を獲得し、かつ戦勝者として大名の支配を可能にした徳川氏にとっては、中央政権を樹立し、その支配権を正当化し確立することが今後の課題となった。そのため戦後一門・譜代大名の創出とその要衝配置、ならびに豊臣秀吉恩顧の大名をはじめとする外様大名
関ヶ原古戦場跡(日本歴史地名大系)
慶長五年(一六〇〇)九月一五日に行われた徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍との合戦場跡。決戦は東西約四キロ、南北約二キロ、標高一三〇メートルの関ヶ原台地で展開され、この戦いに勝利したことで家康は事実上天下の支配者となり、慶長八年の征夷大将軍補任によって名目上からも全国統一の権威をもった
桶狭間古戦場伝説地(日本歴史地名大系)
[現]豊明市栄町 南舘名鉄本線中京競馬場前駅(名古屋市緑区)南方二〇〇メートルの、国道一号を横断した所にある。国指定史跡。この辺りは知多半島に続く丘陵地で谷間が多く、豊明市内には大狭間・小廻間の地名が多い。狭間(廻間)というのは「はさまった間」を意味するといわれ、国史跡指定地は谷あいにある。
小豆坂古戦場(日本歴史地名大系)
[現]岡崎市羽根町 小豆坂 羽根地籍東方の丘陵地。松の木立に覆われた起伏の多い一帯が今川義元と織田信秀の軍が激しく戦った小豆坂古戦場である。「信長記」などによると、天文一一年(一五四二)八月、今川義元は駿遠三の兵を率いて、当時織田信秀の支配下にあった安祥城(現安城市)を攻撃し
新沢権現堂古戦場(日本歴史地名大系)
[現]大内町新沢 新沢の八幡神社の背後に館跡があり、権現堂ノ館・荒沢之城・新沢館・小助川館などとよばれ、元亀―天正(一五七〇―九二)の頃に矢島大井氏の一族小助川治部少輔が居館を構えていたという(「小助川氏系図」由利郡中世史考)。館の広さは東西一〇〇間、南北三〇間であったが
日本の史跡・遺跡・遺物・史料と同じカテゴリの記事をもっと見る


「時の鐘跡」は日本の重要文化財に関連のある記事です。
その他の日本の重要文化財に関連する記事
彦根城跡(日本歴史地名大系)
[現]彦根市金亀町・尾末町・城町湖岸に近い彦根山(金亀山)に築かれた彦根藩井伊家三〇万石(預地を含めると三五万石)の政庁。慶長五年(一六〇〇)九月の関ヶ原の戦は一七日の佐和山合戦で石田三成の佐和山(さわやま)城が陥落、井伊直政は徳川家康により三成の
大念仏(日本大百科全書・日本国語大辞典)
大ぜい集まって念仏を唱える行事。世阿弥(ぜあみ)作の能『百万』の背景となった嵯峨釈迦(さがしゃか)堂清凉寺(せいりょうじ)(京都市右京区)の大念仏は1279年(弘安2)に、また壬生寺(みぶでら)(京都市中京区)の大念仏は1300年(正安2)に円覚上人
岸和田城(国史大辞典・日本歴史地名大系)
大阪府岸和田市岸城町にあった。縄張りが滕(ちぎり)に似ているところから別称を千亀利城という。本丸・二ノ丸・三ノ丸と総曲輪からなる臨海の平城で、総面積約七万二千坪。建武年間(一三三四―三八)楠木正成に属した和田新兵衛高家が構えたのがはじまり
平戸城(国史大辞典)
長崎県平戸市岩の上町所在。亀岡城・朝日岳城・玄武城ともいう。平山城。平戸藩主松浦氏の居城。宝永四年(一七〇七)松浦棟が築城、以後明治維新に至る。実はこれ以前、同地には慶長年間築城の日之岳城があった。しかし、これは慶長十八年(一六一三)
高山陣屋跡(日本歴史地名大系)
[現]高山市八軒町城山の西方、宮川に架かる中橋を西に渡った地点に東に向いて位置する。敷地は一千一九二坪で、陣屋門(天保三年築造)・表玄関、広間(書院造)・白洲・庭園・収納米蔵などがあり、現存する唯一の郡代陣屋跡として国指定史跡
日本の重要文化財に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額600万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る