ジャパンナレッジは約1500冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 日本史上の人物
  10. >
  11. 武田耕雲斎

ジャパンナレッジで閲覧できる『武田耕雲斎』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書

国史大辞典
武田耕雲斎
たけだこううんさい
一八〇四 - 六五
幕末尊攘派の水戸藩士。文化元年(一八〇四)同藩士跡部正続の嫡男として生まれる。正続の兄正房の養子となり本家を継いだが、のち跡部の旧姓武田に復す。名は正生。通称は彦太郎、彦九郎、のち修理。字は伯道。号は如雲、致仕後に耕雲斎。文化十四年家督を継いで三百石、寄合組。文政元年(一八一八)小性。同十二年使番。徳川斉昭の藩主擁立に尽力して以来、改革派に属して活動。天保十年(一八三九)若年寄(参政)、足高百石に役料二百石を家禄に加えて六百石。同十三年大番頭に左遷。弘化元年(一八四四)斉昭の藩主解任後、その雪冤を求めて江戸へ無願出府、その罪で翌年役禄を召し上げられ、致仕・慎を命ぜられた。嘉永二年(一八四九)慎を免ぜられ、安政二年(一八五五)本禄三百石、足高二百石で再び大番頭となり、同年若年寄再勤。同三年正月執政(用達)に進み、尊攘派の重鎮として活動するも、同五年九月罷免。万延元年(一八六〇)八月執政再任。文久元年(一八六一)六月謹慎。同二年閏八月謹慎解除。同年十一月三たび執政。翌十二月一橋慶喜に随従して上京、翌三年五月に江戸帰着。元治元年(一八六四)正月、伊賀守に任じ、従五位下に叙せられた。同年三月、藤田小四郎らによる筑波山挙兵(天狗党の乱)が行われると、五月領内取締り不行届の故をもって執政を罷免され、謹慎処分を受け水戸に下った。六月、市川三左衛門ら門閥派政権に抗議するため一族を率いて出府を企てたが果たせず、藩主徳川慶篤の名代として領内鎮撫のため水戸に向かう宍戸藩主松平頼徳に随行。しかし市川らに入城を阻止されたため那珂湊に陣して城兵と戦った。十月、藤田らの筑波勢と合流、北上して大子村に集結、天狗党を再編、十一月一日、全軍の首領として上京の途についた。西上の途次、諸藩の兵と交戦、苦しい行軍を続けたが力つきて加賀藩に降った。慶応元年(一八六五)二月四日、敦賀で「元水戸殿家来浪士総大将」として斬罪に処せられた。六十二歳。墓は敦賀市松島町と水戸市見川二丁目の妙雲寺とにある。→天狗党の乱(てんぐとうのらん)
[参考文献]
『水府系纂』一一、川瀬教文『波山始末』、玉虫茂誼編『波山記事』(『日本史籍協会叢書』)、大内地山『武田耕雲斎詳伝』
(鈴木 暎一)


改訂新版 世界大百科事典
武田耕雲斎
たけだこううんさい
1804-65(文化1-慶応1)

幕末尊攘派の水戸藩士。名は正生(まさなり),通称は彦九郎,伊賀。耕雲斎は号。徳川斉昭の藩主擁立に尽力して以来,藩政改革派の重臣として活躍し,斉昭辞職後その雪冤に奔走し一時罷免されたが,のち許されて1856年(安政3)執政となる。64年(元治1)藤田小四郎らが筑波山に挙兵するや,筑波勢を助けてその首領となる(天狗党の乱)。戦略は功を奏せず,同志を率いて上京の途次,加賀藩に降伏,翌年幕府により敦賀で斬に処せられた。
[鈴木 暎一]



日本大百科全書(ニッポニカ)
武田耕雲斎
たけだこううんさい
[1803―1865]

幕末の志士。水戸藩士跡部正続 (あとべまさつぐ)の子。本家跡部正房の養子となり、跡部家の旧姓武田に復する。家禄 (かろく)300石。名は正生 (まさなり)、字 (あざな)は伯道 (はくどう)、通称彦九郎 (ひこくろう)、修理 (しゅり)、号如雲 (じょうん)、致仕後耕雲斎。1864年(元治1)従 (じゅ)五位下伊賀守 (いがのかみ)に任ぜられる。1829年(文政12)徳川斉昭 (なりあき)を水戸藩主に擁立、自らは参政となり、藤田東湖 (ふじたとうこ)、戸田蓬軒 (とだほうけん)らとともに改革政治に活躍した。1844年(弘化1)斉昭が幕府から致仕謹慎を命ぜられるとその雪冤 (せつえん)運動に奔走して罰せられ、幽閉5年、許されて参政に復した。水戸藩内の天狗 (てんぐ)派・諸生派の対立が激しくなり、藩主徳川慶篤 (よしあつ)の目代として分家松平頼徳 (よりのり)が鎮撫 (ちんぶ)に赴く際耕雲斎も同行したが、諸生派と幕府の連合軍に拒否されて戦端を開き敗北した。1864年(元治1)尊攘 (そんじょう)激派天狗党の藤田小四郎 (ふじたこしろう)らの筑波 (つくば)挙兵に行をともにした。同勢1000余名と上洛 (じょうらく)の途中、越前国 (えちぜんのくに)(福井県)新保 (しんぼ)で加賀藩に降伏、敦賀 (つるが)で刑死した。墓は敦賀市と水戸市貝川町妙雲寺にある。

[秋山高志]

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。
武田耕雲斎の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 199
検索コンテンツ
1. 武田耕雲斎画像
日本大百科全書
幕末の志士。水戸藩士跡部正続あとべまさつぐの子。本家跡部正房の養子となり、跡部家の旧姓武田に復する。家禄かろく300石。名は正生まさなり、字あざなは伯道はくどう
2. 武田耕雲斎
世界大百科事典
1804-65(文化1-慶応1) 幕末尊攘派の水戸藩士。名は正生(まさなり),通称は彦九郎,伊賀。耕雲斎は号。徳川斉昭の藩主擁立に尽力して以来,藩政改革派の重臣
3. たけだ‐こううんさい【武田耕雲斎】
日本国語大辞典
幕末尊攘派の水戸藩士。名は正生(まさお)、字(あざな)は伯道、通称修理、叙任して従五位下伊賀守。藩主徳川斉昭の幕譴解除運動や戊午の藩難に活動して免職。万延元年(
4. たけだこううんさい【武田耕雲斎】
国史大辞典
纂』一一、川瀬教文『波山始末』、玉虫茂誼編『波山記事』(『日本史籍協会叢書』)、大内地山『武田耕雲斎詳伝』 (鈴木 暎一)
5. たけだ-こううんさい【武田耕雲斎】
日本人名大辞典
1803−1865 江戸時代後期の武士。享和3年生まれ。常陸(ひたち)水戸藩士。徳川斉昭(なりあき)の藩主擁立につくし,改革派の中心人物として藩政に参加。元治(
6. 武田耕雲斎[文献目録]
日本人物文献目録
溝口嘉助『近世百傑伝』干河岸貫一『武田耕雲斎』干河岸貫一『武田耕雲斎と日本之武士道』斎藤平治郎『松原神社と武田耕雲斎』杉浦大蔵『武田耕雲斎詳伝 水戸藩幕末史 2
7. 武田耕雲斎[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©小学館ライブラリー
8. あおき-やたろう【青木弥太郎】
日本人名大辞典
?−? 幕末の盗賊。幕府の旗本。武田耕雲斎の一族武田伊織と称し,尽忠報国をとなえ江戸で強盗をはたらく。慶応元年(1865)恋人お辰,小倉庵長次郎らとともに本所で
9. あきやま-またさぶろう【秋山又三郎】
日本人名大辞典
(よりのり)が水戸藩内抗争鎮圧にむかうとき護衛としてしたがい,奮戦。のち天狗(てんぐ)党の武田耕雲斎にしたがい京都にいく途中,敦賀で金沢藩にくだり,元治2年2月
10. あさくら-げんたろう【朝倉源太郎】
日本人名大辞典
党の乱では松平頼徳(よりのり)にしたがって那珂湊(なかみなと)で諸生党の軍とたたかう。のち武田耕雲斎の隊と合流して京都にむかう途中,越前(えちぜん)で加賀金沢藩
11. あさくら-さんしろう【朝倉三四郎】
日本人名大辞典
は,松平頼徳(よりのり)にしたがって那珂湊(なかみなと)で諸生党の軍とたたかう。兄とともに武田耕雲斎の隊と合流して京都にむかう途中,越前(えちぜん)で加賀金沢藩
12. アメリカ彦蔵自伝 2 67ページ
東洋文庫
同勢のなかには豪商・豪農を脅迫などし、「尊王攘夷のために」金穀を強奪した者も少なくなかった。 武田耕雲斎は水戸藩の執政であった。しかも後に注記するごとく、政変に
13. アメリカ彦蔵自伝 2 90ページ
東洋文庫
なく、その目代として支藩たる宍戸藩主松平大炊頭頼徳が、水戸に向かった。しかし、その配下には武田耕雲斎らの攘夷派も加わっていたのである。 水戸においては、政敵を迎
14. あんどう-ひこのしん【安藤彦之進】
日本人名大辞典
藩校弘道館の武場掛となり,のち与力となる。元治(げんじ)元年天狗党(てんぐとう)の乱に際して武田耕雲斎と行動をともにし,京都にむかう途中で加賀金沢藩に降伏,元治
15. いいだはん【飯田藩】
国史大辞典
七千石の加増があったが、老中水野忠邦の失脚に連座して一万石の減知を受けた。親義もまた元治元年(一八六四)武田耕雲斎ら浪士の通過に手を打たなかったため、二千石の減
16. いだ-へいざぶろう【井田平三郎】
日本人名大辞典
元治(げんじ)元年天狗(てんぐ)党の乱のとき,潮来(いたこ)勢に属して那珂湊(なかみなと)でたたかう。武田耕雲斎らと京都をめざす途上,金沢藩に降伏。2年2月4日
17. いちげ-こうのすけ【市毛孝之介】
日本人名大辞典
首領とする天狗(てんぐ)党の筑波山(つくばさん)挙兵にくわわり,那珂湊(なかみなと)の戦いで敗走。武田耕雲斎にしたがって京都へむかったが,越前(えちぜん)で金沢
18. いのうえ-おさむ【井上修】
日本人名大辞典
大槻磐渓(おおつき-ばんけい),田口江村にまなぶ。尊王攘夷(じょうい)をとなえ,文久3年藩の周旋方となる。武田耕雲斎,勝海舟らと交流した。明治2年藩校の教授,廃
19. いわはなだいかんしょあと【岩鼻代官所跡】群馬県:高崎市/岩鼻村
日本歴史地名大系
村々有力農民は講武所設置願を代官所に提出した(同年「御用村用留」飯塚文書)。元治元年(一八六四)一一月の武田耕雲斎指揮の水戸天狗党の追討には、その中枢機関として
20. いわま-きゅうじろう【岩間久次郎】
日本人名大辞典
常陸(ひたち)水戸藩士の子。岩間金平の弟。元治(げんじ)元年天狗(てんぐ)党の筑波山の挙兵に参加。武田耕雲斎にしたがい京都へむかう途中金沢藩に降伏し,翌2年2月
21. うちやまとうげ【内山峠】長野県:佐久市/中込地区/内山村
日本歴史地名大系
聞記」(野沢司馬作氏記)によると、元治元年(一八六四)一〇月二三日、常陸国那珂湊を出発した武田耕雲斎一行は、同年一一月一五日下仁田に宿泊、翌一六日本宿に宿泊し、
22. うめざわまごたろう【梅沢孫太郎】
国史大辞典
市之進とともに望まれて一橋家の雇となり、京都にあって本国寺党の領袖となった。同年十二月慶喜が武田耕雲斎・藤田小四郎ら追討のため出陣するや、先鋒を命ぜられて敦賀に
23. うめだうんぴん【梅田雲浜】
国史大辞典
主張し、ペリー再来のときは江戸に赴き、吉田松陰と交渉をもつに至った。ついで水戸に赴き、家老武田耕雲斎以下に尊攘論を説くも効果なく、帰京した。その年の九月、ロシア
24. おおがきし【大垣市】岐阜県
日本歴史地名大系
元治元年(一八六四)禁門の変のとき伏見(現京都市伏見区)で長州藩兵と戦い、同年、水戸(現茨城県水戸市)の武田耕雲斎の西上に備える一方、長州征討にも従い、この出兵
25. おおきど-ちょうべえ【大城戸長兵衛】
日本人名大辞典
文久3年天誅(てんちゅう)組に軍資金をおくり,翌年には金沢藩に降伏した水戸天狗(てんぐ)党の武田耕雲斎赦免のために活動した。明治6年12月4日死去。61歳。加賀
26. おおくぼ-しんのすけ【大久保信之介】
日本人名大辞典
元治(げんじ)元年松平頼徳(よりのり)にしたがい水戸へいく。のち天狗(てんぐ)党にくわわり,各地を転戦。武田耕雲斎らと京都へいく途中,敦賀(つるが)で降伏し,元
27. おおだち-けんざぶろう【大館謙三郎】
日本人名大辞典
)で古賀〓庵にまなぶ。のち武田耕雲斎らとまじわり,慶応3年金井之恭(ゆきやす)らと新田勤王党を組織して捕らえられる。戊辰(ぼしん)戦争で
28. おおのし【大野市】福井県
日本歴史地名大系
。これらの事業のために同五年に洋式帆船「大野丸」を竣工させた。元治元年(一八六四)一二月、武田耕雲斎ら水戸浪士一行が蠅帽子峠を越え、西ノ谷を経て大野へ入ろうとし
29. おおば-いっしんさい【大場一真斎】
日本人名大辞典
1803−1871 江戸時代後期の武士。享和3年生まれ。常陸(ひたち)水戸藩執政。武田耕雲斎,岡田徳至(のりよし)とともに「三隠」とよばれ,藩内改革派の声望をあ
30. おおわだ-げき【大和田外記】
日本人名大辞典
天狗(てんぐ)党の乱に義兄の飯田軍造とともにくわわる。那珂湊(なかみなと)などでたたかい,武田耕雲斎のもと京都をめざす途中で降伏。元治2年2月16日越前(えちぜ
31. おかだ-よしなが【岡田善長】
日本人名大辞典
1838−1907 幕末-明治時代の武士,軍人。天保(てんぽう)9年生まれ。幕臣。水戸藩の武田耕雲斎らの天狗(てんぐ)党の乱に際し,鎮定(ちんてい)の命令をうけ
32. おかやみち【岡谷道】長野県:上伊那郡/辰野町/平出村
日本歴史地名大系
平出から諏訪社上社に通ずる東北の有賀峠の道筋に比べ、史料が乏しい。しかし、元治元年(一八六四)一一月、武田耕雲斎ら水戸浪士の一隊が平出で高遠藩士らと干戈を交えず
33. おの-とうごろう【小野藤五郎】
日本人名大辞典
れ。常陸(ひたち)水戸藩士。田丸稲之衛門に属し,筑波山挙兵に参加,那珂湊まで転戦した。のち武田耕雲斎らとともに京都にむかう途中,越前(福井県)敦賀で捕らえられ,
34. おばまはん【小浜藩】画像
国史大辞典
び京都所司代を命ぜられ、井伊直弼の腹心として尊王志士の逮捕にあたった。ついで忠氏の時代には武田耕雲斎らの水戸浪士が西上の途中、敦賀で降伏、処刑されるという特記す
35. おんな二代の記 78ページ
東洋文庫
「子年のおさわぎ」 一八六四(元治元)年、後半年にわたり、水戸藩の内紛が武装反乱にい  たり、武田耕雲斎、藤田小四郎ら激派が藩の佐幕派-諸生党と幕府の軍隊と戦っ
36. かさとりとうげ【笠取峠】長野県:北佐久郡/立科町/芦田村
日本歴史地名大系
はじめ旅人が茶屋の前を往来する姿が興味深く刻されている。元治元年(一八六四)一一月、京都を目指し信濃に入った武田耕雲斎らの水戸藩士一行は、一九日に八幡宿から中山
37. かさまつけんご【笠松謙吾】
国史大辞典
蛤御門の変に京都を遁れてきた同志蒲原の長谷川鉄之進、糸魚川の松山良三を匿い、同年十月水戸の天狗党武田耕雲斎を迎えようとして長野まで行ったが会えなかった。慶応三年
38. かしむら-へいたろう【樫村平太郎】
日本人名大辞典
となえ,元治(げんじ)元年(1864)田丸稲之衛門ら天狗党の筑波挙兵にくわわって各地を転戦。武田耕雲斎にしたがい京都にむかったが,加賀金沢藩兵に降伏し,2年2月
39. かない-くにのじょう【金井国之丞】
日本人名大辞典
桃井儀八に儒学をまなぶ。元治(げんじ)元年天狗(てんぐ)党の筑波山挙兵に参加。各地を転戦後,武田耕雲斎にしたがい京都にむかったが,越前(えちぜん)(福井県)で金
40. かねえだ-りゅうそん【金枝柳村】
日本人名大辞典
下野(しもつけ)(栃木県)大田原藩につかえる。元治(げんじ)元年(1864)京都にむかう天狗(てんぐ)党の武田耕雲斎らが領内にはいろうとしたとき,説得して退去さ
41. 加波山事件 民権派激挙の記録 19ページ
東洋文庫
天狗党六十四名は筑波山で挙兵した。長州の尊懐派と呼応、政情一新を企図したようであった。重臣武田耕雲斎の加わるに及んで三千もの大勢となり、幕軍の追討を退けて意気あ
42. 加波山事件 民権派激挙の記録 118ページ
東洋文庫
三春藩士の女なり。その父宮田惣左衛門、謹は光義、板倉内膳正の知遇を蒙り、その藩籍に入る。時に水戸において、武田耕雲斎の乱起こる。すなわちこれが追討の命を受け、つ
43. 加波山事件 民権派激挙の記録 263ページ
東洋文庫
燃ゆるが如きその胸、結ばれしその思い、到底筆紙のよく悉くし得るところにあらず。僅かにその唇端を洩るるは、武田耕雲斎の「薄紅葉赤き心を問われては散らで中中恥ずかし
44. かみいしがみむら【上石上村】栃木県:大田原市
日本歴史地名大系
委員会蔵)。元治元年(一八六四)一一月五日水戸天狗党が法善寺を本陣として村内に宿泊した(「武田耕雲斎那須野通過と顛末」阿久津モト文書)。天保年中(一八三〇―四四
45. かめだ-とくさぶろう【亀田徳三郎】
日本人名大辞典
)船越村の農民。元治(げんじ)元年天狗党の乱にくわわり,兵器や食糧などの補給・輸送を担当。武田耕雲斎にしたがって京都にむかう途中,加賀金沢藩への降伏に反対して本
46. かめやま-ゆうえもん【亀山勇右衛門】
日本人名大辞典
水戸藩士栗田源左衛門に武術をまなぶ。元治(げんじ)元年水戸天狗(てんぐ)党に参加し,各地に転戦。のち武田耕雲斎にしたがって京都にむかったが,越前(えちぜん)敦賀
47. かわせ-せんぞう【川瀬専蔵】
日本人名大辞典
四郎らの筑波山挙兵に呼応して村島正義とともに兵をつのり転戦,那珂湊(なかみなと)で敗れる。武田耕雲斎らにしたがい京都にむかう途中,加賀金沢藩に投降し,元治2年2
48. かわまた-さいすけ【川又才介】
日本人名大辞典
幕末-明治時代の武士。文化10年生まれ。常陸(ひたち)水戸藩郡吏で尊攘(そんじょう)派として行動。文久3年武田耕雲斎にしたがい京都にいき,藩主の子の徳川昭訓(あ
49. きざきしゅく【木崎宿】群馬県:新田郡/新田町/木崎村
日本歴史地名大系
に「勤皇士隊長小嶋多門」の名で尊王の檄文(写は河口氏蔵)が張出された。同年一一月一三日には武田耕雲斎ら水戸天狗党一行が当宿に入り、近隣の富家から軍用金を徴発した
50. きむら-そのさぶろう【木村園三郎】
日本人名大辞典
運動にはいる。那珂湊(なかみなと)で榊原(さかきばら)新左衛門をたすけて幕府軍とたたかう。武田耕雲斎にしたがって京都をめざす途中で捕らえられ,元治(げんじ)2年
「武田耕雲斎」の情報だけではなく、「武田耕雲斎」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る

武田耕雲斎と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
日本史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「武田耕雲斎」は人物に関連のある記事です。
その他の人物に関連する記事
武田耕雲斎(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
一八〇四 - 六五 幕末尊攘派の水戸藩士。文化元年(一八〇四)同藩士跡部正続の嫡男として生まれる。正続の兄正房の養子となり本家を継いだが、のち跡部の旧姓武田に復す。名は正生。通称は彦太郎、彦九郎、のち修理。字は伯道。号は如雲、致仕後に耕雲斎。文化十四年
高島秋帆(世界大百科事典・国史大辞典)
幕末の長崎会所調役頭取で砲術家。名は茂敦,通称は四郎太夫,秋帆は号。長崎防備のため,はじめ荻野流砲術を学び,のち出島のオランダ人から西洋砲術を学んで,これを高島流砲術と名づけた。西洋近代砲術を最初に紹介したものといえる。アヘン戦争が起こった1840年
菅義偉(日本大百科全書)
政治家。秋田県の生まれ。秋田県立湯沢高等学校を卒業後、上京し就職するがほどなくして帰郷。二浪して法政大学法学部政治学科に進学する。空手道部に4年間在籍し空手道二段。1973年(昭和48)3月同大学卒業。1975年政治家を志し大学OBで自由民主党
石川丈山(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典)
江戸初期の漢詩人。名は凹 (おう)。丈山は字 (あざな)。六六山人、四明山人、凹凸窠 (おうとつか)などと号した。代々徳川氏に仕える三河武士の家に生まれたが、大坂夏の陣のとき軍律を犯してとがめを受けたため武士を捨て、藤原惺窩 (せいか)に入門
清水次郎長(日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・国史大辞典)
江戸後期・維新期の侠客。駿河国有渡郡清水湊の海運業三右衛門の三男として生まれ、のち母の弟である米屋山本次郎八の養子となる。山本長五郎が本名で次郎長は通称。幼年期より粗暴の性質であった。一八三五年(天保六)に養父が死去し、家業を相続した。四一年に博徒
人物に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額600万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る