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世界大百科事典

世界大百科事典

徳川昭武
とくがわあきたけ
1853-1910(嘉永6-明治43)

明治初年の水戸藩主,のち水戸藩知事。徳川斉昭の18子。1866年(慶応2)三卿の一つ清水家を相続。67年パリで開かれた万国博覧会に,将軍徳川慶喜の名代として参列し,スイス,オランダ,ベルギー,イタリア,イギリスの各国を歴訪し,再びパリへ戻って留学した。幕府滅亡の報をうけて68年に帰国し,同年,慶篤のあとを受けて最後の水戸藩主となった。
[小野 正雄]

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1. 徳川昭武
世界大百科事典
1853-1910(嘉永6-明治43) 明治初年の水戸藩主,のち水戸藩知事。徳川斉昭の18子。1866年(慶応2)三卿の一つ清水家を相続。67年パリで開かれた万
2. とくがわ‐あきたけ【徳川昭武】
日本国語大辞典
水戸藩主。斉昭の子。慶応二年(一八六六)将軍徳川慶喜の名代として、パリの世界大博覧会に参加。帰国後、水戸藩主となり、新政府に協力、箱館戦争に参加した。版籍奉還で
3. とくがわあきたけ【徳川昭武】
国史大辞典
[参考文献]『水戸藩史料』下、『徳川昭武滞欧記録』(『日本史籍協会叢書』)、『渋沢栄一滞仏日記』(同)、『川勝家文書』(同)、須見裕『徳川昭武』(『中公新書』七
4. とくがわ-あきたけ【徳川昭武】
日本人名大辞典
1853−1910 幕末-明治時代の大名,華族。嘉永(かえい)6年9月24日生まれ。徳川斉昭(なりあき)の18男。慶応2年三卿(さんきょう)のひとつ清水家をつぐ
5. 徳川昭武[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:1件 【逐次刊行物】:1件 『徳川昭武滞欧記録 3巻3冊』大塚武松(編)『徳川昭武の渡欧と仏国博覧会出品の意義』黒江俊子
6. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 253ページ
東洋文庫
を結ぶQ のち江戸に出てロッシュ公使の参謀として、幕・ 仏間の親密化に活躍。慶応三年(大毛)徳川昭武 の渡仏に際し帰国、その教導に当ろうとしたが側 近に妨げられ
7. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 257ページ
東洋文庫
武蔵の人。家業は本来農業だが養蚕、藍商、金融 も兼ねた。一橋家ついで幕府に仕え、慶応三年 (大毛)徳川昭武に従って渡欧、大いに西洋の文 物に学んだ。維新後大蔵省
8. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 258ページ
東洋文庫
医官石川桜所に医術を、また緒方洪庵に蘭書を学 ぶ。幕府の奥医師となり、また慶応三年(天宅) 徳川昭武に従って欧州諸国を巡遊。戊辰戦争に際 し榎本武揚らと北海道に
9. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 261ページ
東洋文庫
駐 英大使をへて明治六年外務卿となる。のち文部卿、 元老院議長、枢密院副議長を歴任した。伯爵。徳川昭武(民部大輔)〔天茜-一九δ〕 水戸藩主徳川 斉昭の第十八子
10. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 269ページ
東洋文庫
仏学を修め、蕃書調所、開成所の教授職、 外国奉行支配翻訳御用頭取となる。慶応三年(天 六七)徳川昭武に随行しフランスに留学。帰国後、 明治政府に仕え、フランス諸
11. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 271ページ
東洋文庫
 応三年(天宅)徳川昭武に随行して渡仏した。維 新後、明治五年大蔵省に出仕、まもなく内務省さ らに農商務省に転じ、三十年以上にわたって博覧 会・博物館事務に従事
12. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 272ページ
東洋文庫
と密着して幕政改革等を建言し、横須賀製鉄所建 設、陸軍教官団の渡日、日仏合同商社の設立、パ リ万国博、徳川昭武の渡仏などを斡旋し、倒幕派 を支持した英国のパーク
13. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 275ページ
東洋文庫
榎本・沢・田口・大野・中島・上田・         古川・山下の九名、乗船帰国。慶応三年 三ハ歳 三月、徳川昭武の一行パリ着。山高信 (一八宅)    離・渋沢
14. いわま-きんぺい【岩間金平】
日本人名大辞典
ぎ)藩の桂小五郎らと丙辰丸(へいしんまる)盟約をむすぶ。その後京都を中心に活動。明治3年藩主徳川昭武をたすけて北海道の開拓に従事した。のち徳川家家扶。明治29年
15. えびな-ぐんじ【海老名郡次】
日本人名大辞典
海老名隣(りん)の夫。陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)藩士。慶応3年パリ万国博に派遣された徳川昭武に随行。戊辰(ぼしん)戦争では家老として新政府軍とたたか
16. おおののごまやまあと【大能野駒山跡】茨城県:高萩市/大能村
日本歴史地名大系
、明治二年(一八六九)には廃された。また「大能復牧録」(彰考館蔵)によると、同一五年斉昭の子徳川昭武が復牧して馬産に取組んだが、大正末年には経営の規模縮小を行っ
17. おりはしむら【折橋村】茨城県:久慈郡/里美村
日本歴史地名大系
。明治二〇年(一八八七)の建築で観瀑亭とも称し、天竜院御殿ともいわれる。明治一八年旧水戸藩主徳川昭武によって大能牧場の拡大が図られ、その一環として天竜院牧場が開
18. おんな二代の記 40ページ
東洋文庫
」と正直にいって、次の機会にそれを報告するので生徒に好かれたそうです。後に旧藩主イタリー公使徳川昭武伯の家庭教師となってローマに在留。さらに後年県立水戸高女の校
19. かいがいりゅうがくせい【海外留学生】
国史大辞典
ロシアに市川文吉ら六名、翌二年、イギリスに取締中村正直、学生外山正一・菊池大麓ら十四名、三年、フランスに徳川昭武らが留学した。諸藩では、海外渡航解禁以前は密航の
20. 京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記 130ページ
東洋文庫
この段御心得 までに申し上げ候。        十二月三日、慶喜卿は、その弟天狗党の最後        徳川昭武(わが公と嗣子の約束ゲある)とともに京師を発した
21. 京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記 142ページ
東洋文庫
会津君桑名君 二十七日、慶喜卿が帰京され、ただちに参内あって、賊徒掃蕩の事を上奏した。徳川昭武とわが藩兵もまた、帰京してきた。        この日、征長総督徳
22. 京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記 6ページ
東洋文庫
寺社奉行,若年寄をへて老中となり・しばしば上洛,また外国との交渉にあたった。 民部大輔昭武 ・→徳川昭武む 向山栄五郎 1826-1905 幕臣。黄村と号した。
23. 京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記 5ページ
東洋文庫
幕臣。下野守。勘定奉行,駿府城代をへて将軍側衆となったが,元治元年罷免された。  あきたけ 徳川昭武 1853-1910 清水家主。水戸藩主徳川斉昭の子で,慶喜
24. 栗本鋤雲画像
日本大百科全書
横須賀造船所の設立に尽力し、フランス文化の移植と殖産興業に努めた。1867年(慶応3)に渡仏した将軍名代徳川昭武とくがわあきたけ(1853―1910)をたすけて
25. しぶさわ-えいいち【渋沢栄一】画像
日本人名大辞典
生家は武蔵(むさし)榛沢(はんざわ)郡(埼玉県)の名主。一橋家につかえ,幕臣となる。慶応3年徳川昭武にしたがって渡欧し,西洋の近代産業や財政制度を見聞。維新後,
26. しみず-あきたけ【清水昭武】
日本人名大辞典
徳川昭武(とくがわ-あきたけ)
27. しんこうめちよう【新小梅町】東京都:墨田区/旧本所区地区地図
日本歴史地名大系
[現]墨田区向島一丁目など 明治五年(一八七二)徳川昭武邸と水戸藩蔵屋敷跡地などを合せて起立。西は隅田川、南は源森川に面する。同二四年元須崎村飛地字五百崎を合併
28. シーボルト【Alexander Georg Gustav von Siebold】
国史大辞典
三月から明治三年(一八七〇)七月まで、明治維新前後の駐日イギリス公使館に勤務、この間遣欧使節徳川昭武一行に随行、またオーストリア=ハンガリー使節来日の際通訳を勤
29. ジーボルト((慣)シーボルト)(Siebold, Alexander Georg Gustav von)
世界人名大辞典
語を習得[61:文久1頃].駐日イギリス公使館付員外通訳官[61],正通訳官[63]となり,徳川昭武一行の渡仏に同伴[67],日本に戻って一等通訳官代理となり[
30. ジーボルト最後の日本旅行 207ページ
東洋文庫
父の帰国直前、父の承諾をえてイギリス公使館の定員外通訳となった。六七(慶応三)年二月、彼は幕府の遣欧使節徳川昭武(将軍の弟)の一行に通訳として加わり、フランスに
31. スイス画像
日本大百科全書
ぐさ』のなかで、スイスの共和政体に触れている。幕府の外交使節としてスイスを最初に訪問したのは徳川昭武とくがわあきたけ一行である。1867年のパリ万国博覧会の帰途
32. せきがはらぐんき【関ヶ原軍記】
国史大辞典
、内閣文庫所蔵の『慶長記』(二冊)は同じ写本である。一方、水戸彰考館の『関ヶ原御合戦記』、旧徳川昭武蔵書の『慶長記』(内閣文庫所蔵)は、太田牛一自身の著作『関原
33. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 25ページ
東洋文庫
。美術家。名は信離。通称弾正,主計。石見守。1866(慶応2)年作事奉行格,小姓頭取のとき,徳川昭武に随行,渡仏。維新後大蔵省に出仕し,30年間にわたって博物館
34. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 24ページ
東洋文庫
えられ,処刑された。 民部 →徳川昭武む 向山菓五郎 1826-1905 幕臣。名は一履。号は黄村。隼人正。目付をへて外国奉行に任じ,1867(慶応3)年徳川昭
35. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 17ページ
東洋文庫
姓は北村。名村家をついだ。父はオランダ通詞。蘭・英・独・仏の各国語に通じた。1867(慶応3)年徳川昭武に従い渡仏。維新後司法畑に入り,ボアソナード招牌に努力し
36. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 15ページ
東洋文庫
つくったことは有名。中納言の唐名が黄門であったため,水戸黄門とも呼ばれた。 徳川(民部)大輔 →徳川昭武  もちつぐ 徳川茂承 1844-1906 和歌山藩主。
37. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 14ページ
東洋文庫
付,講武所総裁,ハリス上府用掛などをつとめた。一橋派に属したため,安政の大獄で左遷された。 徳川昭武 1854-1910清水家主。のち水戸藩主。徳川斉昭の第18
38. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 13ページ
東洋文庫
じられ,横浜鎖港使節の池田長発一行に従い渡仏,帰国後免職,閉門処分を受けた。67(慶応3)年徳川昭武に従い再び渡仏,帰国後目付となる。維新後外務少丞となり,岩倉
39. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 12ページ
東洋文庫
緒方洪庵に学ぶ。1865(慶応元)年一橋家の医師となり,慶喜が将軍となるや幕府奥詰医師となった。徳川昭武の渡仏に随行。戊辰戦争では箱館で抗戦,のち東京で医院を開
40. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 7ページ
東洋文庫
箱館で家塾を開いた。のち江戸へ移り,ロッシュ公使の腹心として幕・仏間の親密化に活躍。66(慶応2)年徳川昭武の渡仏に際し,帰国してその教導に当ろうとしたが成功せ
41. そくきょへん【息距〓
国史大辞典
水戸藩の徳川昭武名義で編纂されたキリシタン破邪のための叢書。二十巻。日本に対する欧米列強の外圧に対して俄に高まった攘夷思想を背景にして保守派・国粋主義者・国学
42. 『息距篇』
日本史年表
1860年〈万延元(3・18) 庚申③〉 この年 徳川斉昭、 『息距篇』 を編纂(徳川昭武名義)。
43. たかまつりょううん【高松凌雲】
国史大辞典
翌年緒方洪庵が東上したため、その後横浜でヘボンに学ぶ。慶応元年(一八六五)一橋家軍制所付表医師となり、同三年徳川昭武のお付医師としてパリの万国博覧会に随行し、公
44. たかまつ-りょううん【高松凌雲】
日本人名大辞典
社会事業家。天保(てんぽう)7年12月25日生まれ。緒方洪庵,J.C.ヘボンらにまなぶ。慶応3年徳川昭武に随行して渡仏。戊辰(ぼしん)戦争では榎本武揚(えのもと
45. たてのじんじゃ【立野神社】茨城県:那珂郡/緒川村/上小瀬村
日本歴史地名大系
鎮守とした。除地一石余を有し、また天保一五年(一八四四)徳川斉昭が七石の地を寄付した。社宝に徳川昭武奉納の弓がある。
46. 大日本産業事蹟 1 208ページ
東洋文庫
かつ牛群往々病艶するものありたるを以て、明治二年またまた廃牧に帰せしが、明治十五年に至りその孫徳川昭武、復牧を請うにより、これを允され、同年十一月に至りて種畜を
47. つうしんぜんらん【通信全覧】
国史大辞典
ある。その一部は『幕末維新外交史料集成』、『横浜市史』資料編三―六、『日本史籍協会叢書』の『徳川昭武滞欧記録』『明治戊辰局外中立顛末』などに活字化され、また、通
48. 東洋金鴻 英国留学生への通信 51ページ
東洋文庫
其の時御察し有るべし。注 一貞一郎の洋行は、聖護が述べているように、徳川昭一一三四三武の随行である。徳川昭武。徳川氏御三卿の一つ、清水家の当主。将軍慶喜の弟に当
49. 東洋金鴻 英国留学生への通信 102ページ
東洋文庫
五月〔太郎宛手紙不着の調査/太郎 徳川昭武に陪食/聖護微邪〕五月朔日午後地震。り。晴○米弐百八拾両を上米、二百両位の由な二日 晴英へ書状差出し候は、去年十月初旬
50. 東洋金鴻 英国留学生への通信 107ページ
東洋文庫
七度出し置き候日記、二度ならでは御入手無し。いかなる事にや。何番足らず、何番着と申す義、御記し成さるべく候。注徳川昭武のバリ到着は三月七日。太郎はこのため英国留
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