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  11. 松平定信

松平定信

ジャパンナレッジで閲覧できる『松平定信』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
松平定信
まつだいらさだのぶ
一七五八 - 一八二九
江戸時代後期の将軍補佐兼老中。幼名は賢丸、字は貞卿、号は旭峯・楽翁・風月翁・花月翁など。徳川(田安)宗武の第三子(八代将軍徳川吉宗の孫)。宝暦八年(一七五八)十二月二十七日江戸田安邸に生まる。田安家血統の絶える恐れがあるにもかかわらず安永三年(一七七四)白河藩松平定邦の養子を命じられた。徳川(一橋)治済・田沼意次の策動ともいう。安永四年閏十二月従五位下上総介。天明三年(一七八三)十月襲封(陸奥白河十一万石)、従四位下越中守。時に東北関東凶作に際会し、藩士の減禄、倹約、租税免除、物資回送などの施策で切り抜け、以後も農政を重視、家臣団の教育、風教振興に努め藩治の実効をあげた。同七年六月三家一門などの支持をうけて老中首座となり、田沼意次の重商傾向を訂正し天明の飢饉後の幕政を推進することになった。同八年三月将軍補佐となる。老中就任後、幕権の回復と緊粛による社会困窮脱出を計り、いわゆる寛政の改革を施行した。天明七年七月に幕府諸役を江戸城内に召集し将軍徳川家斉より政治は享保の遺制に則る旨を申し渡し、やがて幕府要職の更迭を行い人材を登用し、倹約を基調として財政整理、大奥の抑制、米価ならびに物価引下げ、奢侈品の製造売買の禁止、御家人の借財棄捐、酒造制限、備蓄米および江戸の町会所の設置、石川島人足寄場の設置、妓楼の新設および混浴などの禁止、出版物への干渉、諸藩留守居役の取締り、旗本の文武奨励士風振興、医学館の官営化、昌平坂学問所の設立、同校内の異学の禁などつぎつぎに施策するところがあった。天明八年正月の京都大火の折内裏も炎上したが、京都に赴き内裏造営にあたっては柴野栗山らに博く旧記を調査させ、古制に則り寛政二年(一七九〇)十二月に竣工した。一方、光格天皇は閑院宮より入って皇位に即いたが生父典仁親王に太上天皇宣下の意があり、寛政元年二月幕府に議せしめたが、定信は理なしとして拒否し事は実現しなかった。ために一時、公武間に険悪な空気も流れた(尊号事件)。たまたま徳川家にても家斉の生父一橋治済を西ノ丸に迎え大御所として遇しようとする動きがあったが、同様の態度を持した。明和・安永のころすでに蝦夷地にロシア艦が出没し寛政に入ってからは南方にも異国船が現われ、寛政四年九月にラクスマンが軍艦に投じて根室に来て通商を要求した。海防対策として寛政五年三月沿海諸藩に命じ警備をきびしくし、自身も伊豆・相模・房総の海岸を巡視した。しかし充分な国防準備は未だ確立しなかった。定信の施政は緊張を強いる傾向があり大奥や江戸市中商人層には不評で、尊号問題もあってか特に政治的反対があったわけではないが、辞職を願い七月二十三日に補佐ならびに老中を免じられた。以後溜間詰として諮問にあずかり、文化七年(一八一〇)には房総沿岸警備にあたった。文化九年健康勝れず致仕して家督を定永に譲り、藩の下屋敷(築地浴恩園)に移った。この時期の状況は『修行録』『花月日記』に詳しい。文政十二年(一八二九)五月十三日没。年七十二。守国院殿崇運社天誉保徳楽翁大居士。墓所は霊巌寺(東京都江東区白河一丁目、国史跡)。桑名照源寺の墓所には装束と歯骨を斂めてある。老中辞任後に書かれた『宇下人言』(天理図書館蔵)は自伝的覚書で、当事者側の寛政の政治史でもあるが達意の文章である。その教養は深く、著述も多い。『守国公御著述目録』には百三十八部が掲げられ、すでに焼却したものや目録以外のものもある。『白河家訓』『政語』『政事録』『国本論』『求言録』『物価論』などのほかにも随筆に『花月草紙』があり、作歌も多く、古典書写も大部に上っている。古物愛好は『集古十種』(八十五冊、享和ごろまでに編集)に結集され、未刊ではあるが『古文書部類』『古画類聚』と併せ研究的姿勢がうかがわれる。絵巻物の作成や楽曲の研究にもその片鱗が示されている。また頼山陽に『日本外史』を求めたり、人をして『白河風土記』『白河古事考』『楽亭妙薬集』ほかを編集させ、『ドドネウス和蘭本草書』の翻訳をさせたり、老中時代には人材を活用して『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』ほかの幕府編纂事業の緒を開いたりし、文化上の功も大きい。→寛政の改革(かんせいのかいかく)
[参考文献]
渋沢栄一『楽翁公伝』
(山本 武夫)


日本大百科全書(ニッポニカ)
松平定信
まつだいらさだのぶ
[1758―1829]

江戸後期の大名。寛政(かんせい)の改革を断行した老中。宝暦(ほうれき)8年12月27日江戸で生まれる。田安宗武(たやすむねたけ)の七男で、8代将軍吉宗(よしむね)の孫にあたる。幼名は賢丸(まさまる)、隠居後は楽翁と号した。1774年(安永3)奥州白河藩主松平定邦(さだくに)の養子となり、翌年従(じゅ)五位下上総介(かずさのすけ)に叙任。83年(天明3)養父定邦の後を継いで白河11万石の藩主となり、従四位下越中守(えっちゅうのかみ)に昇進した。おりしも天明(てんめい)の大飢饉(ききん)に際会、白河領内の士庶の困窮もその極に達したが、定信自ら率先して倹約を重んじ、食糧の緊急輸送、備荒貯蓄や人口の増加、あるいは殖産興業を促すなど、藩財政の立て直しや領民生活の安定化を図り、みごとにこの難局を切り抜けた。やがて彼の藩政は、諸大名の間にその名声を高め、老中田沼意次(おきつぐ)失脚ののちの87年6月、御三家(ごさんけ)および一橋治済(ひとつばしはるさだ)の推挙により老中首座(筆頭)となり、侍従に任じ、いわゆる寛政の改革に着手。翌年3月には将軍補佐の大役をも与えられた。松平信明(のぶあきら)、本多忠籌(ただかず)、戸田氏教(うじのり)、松平乗完(のりさだ)、太田資愛(すけよし)ら同志の譜代(ふだい)大名を幕閣の中枢に登用し、彼らと合議しつつ幕政の振起に努めた。財政の緊縮政策をはじめ、札差棄捐令(きえんれい)、旧里帰農奨励令、七分積金令、人足寄場(にんそくよせば)設置令、出版統制令、風俗匡正(きょうせい)令、物価引下令、異学の禁、江戸湾防備計画等々は、いずれも定信が断行した寛政の改革の有数の政策である。幕府財政再建のために農本主義を基調としているが、都市政策や思想統制にもみるべきものが多い。93年(寛政5)7月老中ならびに将軍補佐役を辞職したが、左近衛権少将(さこのえごんのしょうしょう)に昇任、家格も溜間詰(たまりのまづめ)に昇格、ふたたび白河藩政に意を用いることとなった。彼の辞職の理由は、光格(こうかく)天皇が実父典仁(すけひと)親王に太上(だいじょう)天皇の称号を贈ろうとして定信に反対された尊号一件、および将軍家斉(いえなり)が実父一橋治済を大御所に迎えようとして定信に反対された大御所一件などが絡んでいるといわれる。しかし、その背景として、「それみたか、余り倹約なすゆえに、おもいがけなき、不時の退役」「白河の、清きに魚もすみかねて、元のにごりの、田沼こいしき」などの当時の落首にもみられるように、彼の極度の緊縮政策に対する士庶の批判も考えねばならない。こののち白河藩主として、藩校立教館の拡充や、1810年(文化7)には会津藩とともに江戸湾防備の幕命を受け、房総沿岸に台場を築造したりしたが、12年嫡子定永(さだなが)に封地を譲り、晩年は江戸築地(つきじ)の下屋敷浴恩園に住んで風雅な生活を送った。文政(ぶんせい)12年5月13日没。72歳。江戸深川の霊岸寺に葬り、のち伊勢(いせ)(三重県)桑名の照源寺に分骨した。
定信は、歌人・国学者として著名な父田安宗武の影響もあって、幼少より大塚孝綽(たかすえ)に師事して学問に励み、12歳のとき自分の信条を記した『自教鑑(じきょうかがみ)』を著したのをはじめ、一生のうちに200部近くもの著作を残した。著述の内容は、老中退職以前は『国本論』『物価論』など政治関係のものが多く、退職後は『花月草紙』『楽亭筆記』など文芸に関するものが多い。とくに歌集『三草集』は有名である。このほか古書画、古器物を収集して編纂(へんさん)した『集古十種』『古画図考』や、自叙伝の『宇下人言(うげのひとこと)』『修行録』も有名である。また武芸にも励み、とくに起倒流柔術の師鈴木邦教(くにたか)から伝授された「神武(しんぶ)の道」は、彼の世界観に大きな影響を与えた。
[竹内 誠]



世界大百科事典
松平定信
まつだいらさだのぶ
1758-1829(宝暦8-文政12)

江戸後期の幕府老中。寛政改革を推進した中心人物。8代将軍徳川吉宗の孫,父は三卿の田安宗武。幼名を賢丸,号は楽翁,花月翁,風月翁など。儒者大塚孝綽に師事して幼時より学問に励み,わずか12歳で《自教鑑》という修身書を著すなど,俊才の誉れが高かった。1774年(安永3)奥州白河藩主松平定邦の養子となり,83年(天明3)家督を継いで従四位下,越中守に叙任,白河11万石の藩主となった。おりしも天明の大飢饉に際会し,白河藩でも士民の困窮はその極に達した。定信は上方より食糧を緊急輸送して領内の窮民を救済するとともに,藩の財政支出を抑えるため,あるいは風俗を匡正するために,徹底した倹約令を発した。さらに家臣には武芸と学問を奨励し,農民には間引きを禁止するなど農村人口の増加策や,植林などの殖産政策を推進し,白河藩政の建直しに努めた。87年,こうした藩政の実績や清潔な人柄を評価した三家と将軍家斉の実父一橋治済の推挙により,定信は老中首座となり,田沼意次失脚後の幕政を担当,以後6年間にわたり,いわゆる寛政改革を主導した。

前代の賄賂政治を厳しく批判し,財政の緊縮整理,綱紀の粛正,出版・思想の統制,さらに荒廃農村の再建と都市秩序の維持のために,次々と改革政策を断行した。ロシア船の来航を機に海防にも力を尽くした。寛政改革は,財政の建直しや民生の安定に一定度の成果を収めた。しかし定信が将軍家斉や一橋治済らと対立したり,その厳しすぎる緊縮政治に人心が離れたりしたため,93年(寛政5)定信は老中および将軍補佐役を免じられた。彼は再び白河藩政に専念することになった。とくに文武を熱心に奨励し,白河城下に設立した藩校の立教館をいっそう充実したり,庶民のための学校敷教舎を建てるなどした。1812年(文化9)家督を子の定永に譲った。隠居後は,花鳥風月の自然に親しむ悠々自適の生活を送った。著作は百数十部にも及ぶが,誕生から老中辞職までの自叙伝《宇下人言(うげのひとこと)》,政治の基本を説いた《国本論》,流麗な雅文随筆《花月草紙》,自選和歌集の《三草集》,古書画,古器物を摸写編集した《集古十種》などが著名である。29年5月13日没,辞世は〈今更に何かうらみむうきことも楽しきことも見はてつる身は〉。
[竹内 誠]

[索引語]
寛政改革 楽翁
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1. 松平定信
日本大百科全書
江戸後期の大名。寛政(かんせい)の改革を断行した老中。宝暦(ほうれき)8年12月27日江戸で生まれる。田安宗武(たやすむねたけ)の七男で、8代将軍吉宗(よしむね ...
2. 松平定信
世界大百科事典
1758-1829(宝暦8-文政12) 江戸後期の幕府老中。寛政改革を推進した中心人物。8代将軍徳川吉宗の孫,父は三卿の田安宗武。幼名を賢丸,号は楽翁,花月翁, ...
3. まつだいら‐さだのぶ【松平定信】
デジタル大辞泉
[1759〜1829]江戸後期の大名。田安宗武の七男。陸奥(むつ)白河藩主松平定邦の養子。号、楽翁。天明7年(1787)老中首座となり、寛政の改革を断行。著「花 ...
4. まつだいら‐さだのぶ【松平定信】
日本国語大辞典
江戸中期の白河藩主。田安宗武の子。吉宗の孫。白河藩主定邦の養子となる。号は、白河楽翁。田沼意次の弊政のあと老中となって、財政の整理、風俗の匡正、文武の奨励、士気 ...
5. まつだいらさだのぶ【松平定信】
国史大辞典
一七五八―一八二九 江戸時代後期の将軍補佐兼老中。幼名は賢丸、字は貞卿、号は旭峯・楽翁・風月翁・花月翁など。徳川(田安)宗武の第三子(八代将軍徳川吉宗の孫)。 ...
6. 松平定信
日本史年表
幕府、 松平定信 を老中に任じる(続実紀)。 1788年〈天明8 戊申〉 3・4 幕府、老中 松平定信 を将軍補佐とする(続実紀)。 1793年〈寛政5 癸丑〉 ...
7. まつだいら-さだのぶ【松平定信】
日本人名大辞典
1759*−1829 江戸時代中期-後期の大名。宝暦8年12月27日生まれ。徳川吉宗の孫。田安宗武(むねたけ)の7男。松平定邦(さだくに)の婿養子となり,天明3 ...
8. 松平定信[文献目録]
日本人物文献目録
斑』江間政発『松平定信と浮世絵』-『松平定信と蝦夷地開港』井野辺茂雄『松平定信と神武の道』板沢武雄『松平定信とその時代』児玉幸多『松平定信入閣事情』菊池謙二郎『 ...
9. Matsudaira Sadanobu 【松平定信】
Encyclopedia of Japan
1759−1829 Daimyo of the Shirakawa domain (now part of Fukushima Prefecture) and  ...
10. 松平定信儉約 (見出し語:松平定信)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 79ページ ...
11. 松平定信撰老中心得十九條 (見出し語:松平定信)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 181ページ ...
12. nbsp;松平定信爲德川幕府輔佐 (見出し語:松平定信)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 168ページ ...
13. 松平定信矯正惡癖 (見出し語:松平定信)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 271ページ ...
14. 松平定信自誡 (見出し語:松平定信)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 182ページ ...
15. 祭松平樂翁 (見出し語:松平定信)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 1353ページ ...
16. 松平定信蔵書印[図版]
国史大辞典
白河文庫 桑名文庫 楽亭文庫 白河 桑名 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
17. 亜欧堂田善
日本大百科全書
須賀川(すかがわ)に生まれる。染物業のかたわら僧月僊(げっせん)に絵を学ぶが、領主の白河城主松平定信(さだのぶ)に画才をみいだされ、自分より若い谷文晁(ぶんちょ ...
18. 亜欧堂田善
世界大百科事典
なむ堂号である。陸奥国(現,福島県)須賀川の生れ。染物業のかたわら僧月僊に絵を学び,白河城主松平定信に見いだされ谷文晁に師事した。のち定信から銅版画(エッチング ...
19. あおうどう‐でんぜん【亜欧堂田善】
デジタル大辞泉
岩代(いわしろ)の人。本名、永田善吉。画僧月僊(げっせん)・谷文晁(たにぶんちょう)に師事、松平定信の御用絵師となる。江戸で洋風画法や銅版画を学び、江戸名所風景 ...
20. あおうどうでんぜん【亜欧堂田善】
国史大辞典
先祖は伊勢の御師という。天明五年(一七八五)伊勢で画僧月僊に画技の手ほどきを受け、寛政六年(一七九四)領主松平定信に画才を見出され、命によって谷文晁の門に入り、 ...
21. あおたむら【青田村】福島県:安達郡/本宮町
日本歴史地名大系
沼幸彦は「石井考」を書き、岩井の清水が、歌に詠まれた「あさかのいはゐ」であることを論証、同年松平定信が陸奥塩竈明神へ社参の折、和歌二首を寄せている。霊泉として領 ...
22. あおやまただやす【青山忠裕】
国史大辞典
翌年寺社奉行を兼ね、同八年には西ノ丸若年寄に進んだ。文化元年(一八〇四)、先に尊号事件によって失脚した松平定信のあと老中となった。文政十年(一八二七)将軍徳川家 ...
23. 秋山記行・夜職草 228ページ
東洋文庫
中心とした戦記文学の一。『甫庵太閤記』五巻は太閤記物の祖といわれ、本書も江戸時代成立の一書。き松平越中守松平定信(一七五八i一八二九)。奥州白河藩主、隠居後白河 ...
24. あねがさきむら【姉崎村】千葉県:市原市地図
日本歴史地名大系
りくりするよう命じられている(菊間家文書)。文化八年(一八一一)房総海岸の防備状況を巡見した松平定信は姉崎に宿泊し木更津方面に向かっている(狗日記)。同じ頃富津 ...
25. あまのたくも【蜑の焼藻】
国史大辞典
』にならって本書を著わした。上下二冊。寛政十年(一七九八)に成った。記事は、田沼時代の世相、松平定信老中就任の事情、寛政の改革の経緯から、定信や矢部定謙・中川忠 ...
26. あらいしょうじゅうろう【荒井庄十郎】
国史大辞典
源内没後は桂川家に移り、その業を助け、朽木昌綱の地理学研究にも助力した。ついで会津藩に仕え、松平定信に仕えた石井庄助がドドネウスの『草木譜』を訳出した際、その助 ...
27. あわぐん【安房郡】千葉県
日本歴史地名大系
など周辺一九村に助郷を触出したため出入となっている(根岸家文書)。房総沿岸の警備は、文化七年松平定信がその任に当たって以降、郡域の浜方には関連の施設が置かれ、諸 ...
28. 安房国
世界大百科事典
新兵衛による捕鯨が名高い(関東漁業開発)。幕末に及んで海防問題が起こり,1792年(寛政4)松平定信の房総豆相海岸巡視にはじまり,1810年(文化7)白河・会津 ...
29. あわのくに【安房国】千葉県地図
日本歴史地名大系
〔海防と動員態勢〕近世の対外的危機に対する海岸防備方針を実現するかたちで、江戸幕府は文化七年二月陸奥白河藩主松平定信を安房・上総両国の、陸奥会津藩主松平容衆を相 ...
30. 飯坂温泉
日本大百科全書
福島市にある温泉。鎌倉時代にすでに利用されていたとみられ、松尾芭蕉(ばしょう)や白河(しらかわ)藩主松平定信(さだのぶ)らも入湯したという。摺上(すりかみ)川の ...
31. いいざかおんせん【飯坂温泉】福島県:福島市/旧飯坂町地区/上飯坂村
日本歴史地名大系
ゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す」などと記している(おくのほそ道)。寛政一二年(一八〇〇)白河藩主松平定信が当地を訪れ「温泉あしからず」などと記している(退閑 ...
32. いがだにむら【伊賀谷村】兵庫県:豊岡市
日本歴史地名大系
村高は九五石余が九六石余に計り増しとなり、争論中に丹後久美浜代官所元締役の非道を正すとして老中松平定信に駕籠訴した庄屋平右衛門は隠岐へ流された(同文書)。 ...
33. いけだ-はるまさ【池田治政】
日本人名大辞典
寛延3年1月10日生まれ。池田宗政の長男。宝暦14年備前岡山藩主池田家5代となる。寛政の改革時に老中松平定信が発した倹約令にしたがわず,「越中(定信)に越されぬ ...
34. いしい‐しょうすけ【石井庄助】
日本国語大辞典
江戸中期の蘭学者。名は当光。明和八年(一七七一)小通詞末席となり、のち江戸に出て松平定信に仕える。稲村三伯、宇田川玄随らにオランダ語を教授。稲村三伯の「ハルマ和 ...
35. いしいしょうすけ【石井庄助】
国史大辞典
天明六年(一七八六)大槻玄沢の長崎遊学の帰途に同行して江戸に出た。その後、石井庄助と改名し、陸奥国白河藩主松平定信に仕えた。また玄沢の懇請により、玄沢の門人稲村 ...
36. いしい-しょうすけ【石井庄助】
日本人名大辞典
天明6年辞職して大槻玄沢(おおつき-げんたく)に同行して江戸にでる。石井恒右衛門,ついで庄助と改名し,松平定信につかえる。稲村三伯(さんぱく),宇田川玄随らにオ ...
37. 石川島
世界大百科事典
左衛門重次の所領となってこの島名で呼ばれ,また八左衛門島ともいった。1790年(寛政2)老中松平定信は,火付盗賊改の長谷川平蔵に命じ,島を埋め立てて人足寄場を建 ...
38. 石山寺縁起
日本大百科全書
15世紀前半)との伝承をもつが、いずれも確かでない。第6、7巻は江戸時代1805年(文化2)松平定信(さだのぶ)の命によって谷文晁(ぶんちょう)が新写したもの。 ...
39. 石山寺縁起
世界大百科事典
巻は飛鳥井雅章(1611-79)の詞書だけで,絵はなかったが,江戸時代,1805年(文化2)松平定信の命で谷文晁が絵を補ったもの。このように鎌倉・室町・江戸の代 ...
40. いずしちとうしまかいしょ【伊豆七島島会所】
国史大辞典
き銀一匁を冥加金として上納させるのにとどまり、田沼意次の失脚もあって結局は失敗に終っている。松平定信も島問屋の独占に対してはきびしい態度で臨んでいるが、かれの退 ...
41. 伊豆国
世界大百科事典
問題がもち上がると,江戸湾防備上重大な立地をなす伊豆は再び注目され,1793年(寛政5)老中松平定信が伊豆東海岸を巡視したのをはじめ,1808年(文化5)鉄砲方 ...
42. いずのくに【伊豆国】静岡県
日本歴史地名大系
を経て静岡県に所属、明治一一年東京府に移管された。〔幕末の情勢〕「海国兵談」に刺激された老中松平定信の海岸見分は伊豆国を騒がせるに十分であった。文化年間(一八〇 ...
43. いずみじんやあと【泉陣屋跡】福島県:いわき市/旧磐城市地区/泉村
日本歴史地名大系
となった忠籌は、三度の大坂加番役を勤め藩財政の改革を断行。寛政一〇年(一七九八)老中となり、松平定信の寛政の改革に参画した。農業施策の一つに越後奉公人があり、文 ...
44. 泉藩
日本大百科全書
後の経世学者佐藤信淵(のぶひろ)がその著『経済要録』のなかで賞賛している。忠籌のこの財政再建策が老中松平定信(さだのぶ)に買われ、87年若年寄、翌年側用人(そば ...
45. いずみはん【泉藩】
国史大辞典
入部し、一万五千石を領した。忠如の子忠籌は、天明七年(一七八七)若年寄、翌八年側用人となり、松平定信の寛政の改革をたすけ、寛政二年(一七九〇)には老中格に昇進。 ...
46. いたこやむら【板小屋村】福島県:岩瀬郡/天栄村
日本歴史地名大系
羽鳥村の端郷で、鶴生村(現西郷村)から甲子山を越えて北上し当村に至る樵路があった(白河風土記)。松平定信の「退閑雑記」に「湯小屋村・板小屋村なんどという深き山里 ...
47. いなばみちくに【稲葉通邦】
国史大辞典
あげた。門人の松岡牡鹿輔に復原研究させた箙の図録『本朝軍器考玉箒』の題辞は高く評価され、その図は松平定信の『集古十種』に再録されている。『雫抄』『腹巻製作弁』な ...
48. 稲村三伯
日本大百科全書
ois Halma(1653―1722)の蘭仏辞典により、オランダ通詞(つうじ)出身で白河藩主松平定信(さだのぶ)に仕える石井恒右衛門(旧名馬田清吉)の翻訳、協 ...
49. いのがたむら【猪方村】東京都:狛江市地図
日本歴史地名大系
周囲三〇間ほどの塚が三ヵ所(久保塚古墳・清水塚古墳などか)存在していた(風土記稿)。文化一四年当村に松平定信の筆になる「万葉集」東歌の一首「多麻河泊爾左良須 ...
50. いんばぬま【印旛沼】千葉県:印旛郡地図
日本歴史地名大系
していた村の一つであった。寛政三年(一七九一)には印旛郡布鎌新田(現栄町)中組重右衛門が老中松平定信の役人衆に宛てて沼の新開発を願出て、香取郡滑川村(現下総町) ...
「松平定信」の情報だけではなく、「松平定信」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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松平定信と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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長篠の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正三年(一五七五)五月二十一日織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を三河国設楽原(したらがはら、愛知県新城(しんしろ)市)で破った合戦。天正元年四月武田信玄が没し武田軍の上洛遠征が中断されると、徳川家康は再び北三河の奪回を図り、七月二十一日長篠城
姉川の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
平成(国史大辞典)
現在の天皇の年号(一九八九―)。昭和六十四年一月七日天皇(昭和天皇)の崩御、皇太子明仁親王の皇位継承に伴い、元号法の規定により元号(年号)を平成と改める政令が公布され、翌一月八日より施行された。これは、日本国憲法のもとでの最初の改元であった。出典は
河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
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