[現]大内町新沢
天正一〇年
また、天正一一年正月と推定される大宝寺義氏書翰(秋田藩家蔵文書)に「早春四月荒沢之城及行、外構悉打破焼払而、実城斗ニ成候」ともあり、新沢合戦が相当激しいものであったことがわかる。
一部式部少輔は佐竹氏の陪臣系図(県立秋田図書館蔵)に「中津川氏臣ナリ、伝テ羽州秋田二部ノ邑半ヲ領ス、因テ一部氏ヲ称ス、天正十年新沢権現堂ノ館ニ於テ戦功アリ、秋田愛季感書ヲ授ク、天正十八年七月二十二日湊ニ於テ戦没」とあり、その後子孫は佐竹氏の重臣梅津政景の家臣となった。
新沢館主の小助川治部少輔は赤尾津左衛門とも号し、その子の赤尾津孫次郎は慶長初年まで当地に住んだが、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦の際に「最上家に属し、会津表上杉景勝を押て功あり」とあり、同六年常陸国へ所替になったという(小助川氏系図)。宝永七年(一七一〇)の御巡見様御案内ニ付留書覚印牒(大内町文化財資料)には、「駒なかせ 麓 同所古館 大井孫次郎と申人居被申候由、北南に四拾間程 西東に拾五間程」とあり、小助川氏系図に赤尾津の本名は大井とあるので、赤尾津孫次郎と大井孫次郎は同一人物をさすと思われる。
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