一定の間隔をおき長期にわたって刊行を続ける出版物。新聞や印刷通信物などとあわせて定期刊行物periodical,または図書館などにおいては逐次刊行物などと呼ばれることもあるが,新聞などにくらべると1号ごとの内容的なまとまりが強く,発行間隔がより長いことに耐えうるような編集,印刷,造本などの配慮がなされる。継続刊行ではあっても,双書などのように当初から全容がはっきりしていてその部分をかさねてゆくのとは異なり,1号ごとの刊行が主眼となり誌齢は試行の発展(または縮小)として結果する。
雑誌の出版にあたっての特性は(1)比較的少額の経費でも出版をはじめうること,(2)継続によってときに幾何級数的な効果の増大を実現できること,という2点に集約できるだろう。日本の文学雑誌の最初というべき尾崎紅葉らの《我楽多文庫(がらくたぶんこ)》は,学生時代の彼が小説好きの友人たちと手書き作品を編んだ回覧雑誌として出発した。また,二つの世界大戦をはさむ時代の日本に,〈かつてない同人雑誌の盛行〉(高見順)がみられたことは,社会の変動期に青年層をはじめとする表現者たちの発表の場として自主刊行の雑誌がふさわしかったという事情によるものだった。また明治中期から数度の盛期を画しつつ増大を続けている短歌,俳句の結社同好誌は,さまざまの趣味雑誌が会員の関心と密接して長命を続けているその先駆といえるだろう。欧米諸国において宗教各派の教会の説教誌が盛んであることと対照的な様相ともみることができる。1970年代ごろから日本の地方都市で数を増している〈タウン誌〉は,商店会や業界の広告によって経費をまかなって,その地特有の生活情報を主内容とすることにより,文化活動の支えとして雑誌機能に着目した例である。
低コストという利点からは,政治や経済の担当者がその勢力の浸透手段として雑誌を用いることもたやすいという結果も導かれる。各国政府はいずれも対外広報活動に雑誌を重視しており,公式記録や政府方針をくわしく説明するための文書中心の雑誌のほかに,知識人むけの文化情報誌や,公衆むけの読物雑誌,グラフ誌などと,対象や内容をわけて発行している国もある。また,国内むけをふくめての行政機関や政治集団の広報宣伝(宣伝)においては,みずから発行主体と名のることなく,出資者として雑誌の方向をリードすることも行われている。また,一般企業のPR雑誌はしだいに多様化して,グラフィックな華やかさだけでなく,著名な執筆者を動員する高級誌志向も増えてきた。
日本における営利事業としての出版にとって,雑誌は格別に重要な比重が置かれてきた。大正年間から昭和初年にかけて,出版物を全国統一価格(定価)で売って個別の値引きを禁ずるのとひきかえに,売残りは出版元が引き取るという委託販売制(返品制)が採用されてゆくうえで,雑誌はこの商慣行が確立するためのかなめとなった。単行本では,1人の人間は1冊しか買わないが,雑誌は同じ読者が繰り返して購買者となる。増刷の配本を受けるという個別手続なしに,小売書店は継続的に利をあげることができ,売切れはかえって次号読者を増す誘因となる。誌名が知れ渡れば毎号の発売日を記憶する読者もでてくる。日本では大多数の小売書店が書籍よりは雑誌を経営の主軸に置き,そのことが出版社にも大量部数の雑誌を希求させる原因となっている。
しかし,継続刊行の意義は経営面の累積効果だけにあるのではない。発行主体の思想の明証としてこそ,持続の活動軌跡はいっそうみごとに働く。たとえば第2次世界大戦にむかう日本で,反戦を主張し続けることができたのは,矢内原忠雄《嘉信》(1938),桐生悠々(きりゆうゆうゆう)《他山の石》(1934),正木ひろし《近きより》(1937)などの個人雑誌であった。営利事業としての新聞や出版が戦時体制に同調したり沈黙していったのちにも,抵抗の場として生き続けたのは極小の発行主体による雑誌であった。感情や意見を継続的に発表するためには,雑誌がもっとも労少なく効のたしかな媒体だという特性は今後も続くだろう。創刊にもまして持続が問われる状況というべきかもしれない。また,アメリカはよく〈雑誌王国〉といわれるが,これは強力な全国紙がなかったアメリカにおいては,雑誌が全国的な媒体として活躍しており,数量も多いことによる。
雑誌のかたちをした最初の定期刊行物は,ハンブルクの神学者で詩人だったヨハン・リストJohann Ristが創刊した《エアバウリッヒェ・モーナツ・ウンターレードゥンゲンErbauliche Monaths Unterredungen》(1663-68)だといわれている。これに続いて,フランスの著述家ドニ・ド・サロDenis de Salloの《ジュルナール・デ・サバンJournal des sçavans》とイギリスのローヤル・ソサエティの《フィロソフィカル・トランザクションズPhilosophical Transactions(哲学論集)》がともに1665年に刊行された。これらはいずれも,17世紀の知識人たちが学問への意欲を語り,その成果を同好の士に知らせようとするものだった。72年には知識人の〈たのしみ〉のための雑誌《メルキュール・ギャランMercure Galant》(のち1714年に《メルキュール・ド・フランスMercure de France》と改題)が創刊された。作家ジャン・ドノー・ド・ビセJean Donneau de Viséが法廷ニュースや小話や小詩片を編集したこの雑誌のあとを追って,数年のうちにドイツ,イギリスなどに同種の雑誌が続いた。
イギリスの印刷業者エドワード・ケーブEdward Caveが《ジェントルマンズ・マガジンGentleman's Magazine》を1731年に創刊して成功してのち〈マガジンmagazine〉の語をつけた雑誌が次々に生まれた。もとは倉庫や貯蔵庫を意味したこの語が18世紀なかばには雑誌をさすことばとして定着して,アメリカ最初の雑誌が41年にフィラデルフィアで2誌生まれたときにも,その名は《アメリカン・マガジンAmerican Magazine》(創業者ベドフォードAndrew Bedford),《ゼネラル・マガジンGeneral Magazine》(同B. フランクリン)であった。日本最初の雑誌は1867年(慶応3)に柳川春三(やながわしゆんさん)が創刊した《西洋雑誌》である。これは,江戸幕府の洋書調所の洋学者たちの研究グループであった会訳社が発行主体となって,主としてオランダの雑誌から重要記事を翻訳編集したものであった。
知識人を読者とすることによって18世紀から19世紀にかけての欧米の雑誌界は評論と文芸の全盛時代を迎える。イギリスではD.デフォーの《レビュー》(1704-13),J.スウィフトが半年間論説を担当した《エグザミナーExaminer》(1710-12),J.アディソンとR.スティールの活躍した《スペクテーター》(1711-12)などが,政治・外交・文化の諸問題について鋭い考察を続けた。政府は1712年の印紙税などによって批判的な言論をおさえようとしたが,ジャーナリズムの勢いは衰えなかった。フランスではP.マリボーの《スペクタトゥール・フランセSpectateur Français》(1722-23),A.F.プレボーの《プール・エ・コントルLe Pour et Contre》(1733-40)などが相次ぎ,ルイ王朝の弾圧に遭ってオランダへ亡命した人たちが刊行した雑誌だけでもフランス革命にいたるまで30をかぞえる盛況を示した。ドイツではF.ニコライの創刊した《ブリーフェBriefe,die neueste Litteratur betreffend》(1759-65)誌に,レッシングやM.メンデルスゾーンが編集委員として参加し文芸雑誌の伝統をつくった。ゲーテが編集に参画していた《フランクフルター・ゲレールテン・アンツァイゲンFrankfurter Gelehrten Anzeigen》(1772-90)や,〈ドイツの定期刊行物の父祖〉といわれた《アルゲマイネ・リテラトゥーア・ツァイトゥングAllgemeine Literatur-Zeitung(総合文芸新聞)》(1785)など,ドイツの雑誌はヨーロッパのどの国よりも文芸的な内容を特色としていた。アメリカでは,T.ペインの編集した《ペンシルベニア・マガジンPennsylvania Magazine》(1775)をはじめとして,《アメリカン・ミュージアムAmerican Museum》(1787),《マサチューセッツ・マガジンMassachusetts Magazine》(1789),《ニューヨーク・マガジンNew York Magazine》(1790)などにより18世紀末に評論雑誌の全盛時代が出現した。
日本では,森有礼や福沢諭吉を同人とする明六社が1874年に創刊した《明六雑誌》や,成島柳北(なるしまりゆうほく)が77年に創刊した《花月新誌》などが評論雑誌の初期を代表した。明治10年代にかけて,自由民権の主張をかかげる雑誌が続出したが,政府の言論弾圧によって短命を余儀なくされた。徳富蘇峰の主宰した民友社が平民主義をかかげて87年に《国民之友》を創刊したのにたいして,志賀重昂,三宅雪嶺らの政教社が翌88年に日本主義を唱えて《日本人》を創刊したとき,日本も本格的な評論雑誌の時代を迎えた。欧米との対等条約を主張して《日本人》は弾圧され,《国民之友》は二葉亭四迷らの小説を掲載するなど知識人の広い関心にみごとに対応した。明治20年代に各種の実用的な雑誌を刊行していた博文館は95年にそれらを総合して,評論雑誌《太陽》と文芸雑誌《文芸俱楽部》を創刊し,ともに明治後期を代表する雑誌とすることに成功した。大正時代に《中央公論》が編集長滝田樗陰(たきたちよいん)のもとでデモクラシー(民本主義)を唱えて文芸の秀作を相次いで掲載し,1919年に《改造》が海外の新思想の紹介につとめて,たがいに知識人読者層の拡大を競ったとき,日本の評論雑誌の時代も本格的なものとなった。芸術や科学の諸領域の雑誌も,とくに第1次世界大戦以後に盛んとなり,写真の採用やレイアウト,用紙,造本などのくふうもすすんだ。しかし,日華事変から第2次世界大戦にかけて,内容や資材についての統制が強化され,その過程で時局を論ずることを主とする雑誌には〈総合雑誌〉という日本独特の官製呼称が与えられた。
産業革命と都市化の進行によって,安い読物をもとめる新しい読者層が生まれ,大部数を競う娯楽雑誌が登場した。イギリスでは《ペニー・マガジンPenny Magazine》(1832-46),《ペニー・サイクロペディアPenny Cyclopaedia》(1833)などの競争に続いて《チェンバーズ・ジャーナルChamber's Journal》が1845年に発行部数9万部に達した。ドイツも《ペニヒマガジンPfennigmagazin》(1833)などに続いて《ファミリエンブラットFamilienblatt》が70年代に40万部を記録した。81年に《ティット・ビッツTit-Bits》を創刊したイギリスのニューンズGeorge Newnesは,その成功から大衆むけの雑誌を幾種類も刊行することによって出版業を利益の多い企業とした。コナン・ドイルがシャーロック・ホームズ探偵物語を連載した《ストランドStrand》もニューンズの雑誌群の一つだった。また,19世紀末から20世紀にかけてイギリスの新聞王となるハームスワースAlfred Harmsworth(のちのノースクリッフ卿 Lord Northcliffe)も《ティット・ビッツ》の寄稿者育ちだった。19世紀末にはアメリカでも激しい大衆雑誌競争が演じられた。《コスモポリタンCosmopolitan》(1886),《マクルーアMcClure's Magazine》(1893),《マンセーMunsey's Magazine》(1893)などがそれぞれ定価を下げて読者を獲得することにつとめた。また88年創刊の《ナショナル・ジオグラフィック・マガジンNational Geographic Magazine》は美しい写真で世界の珍しい風物を紹介する雑誌として,一般家庭を対象に着実に部数をのばし,現在は約1000万部に達している。
女性雑誌もまた,都市の新人口となった家庭婦人の生活指針と娯楽読物を主内容としてこの時期に急速に発展した。イギリスでは,6ペニーの月刊誌《レディズ・マガジンLady's Magazine(婦人の雑誌)》(1770)や版画で服飾ページをはじめて試みた《レディズ・マンスリー・ミュージアムLady's Monthly Museum(月刊婦人博品館)》(1798)などを先駆として,19世紀を通じてさまざまな女性雑誌が競い合った。《フィーメイルズ・フレンドFemale's Friend(女性の友)》(1846)をはじめ女性の権利を主張する雑誌もそのなかから生まれた。《イングリッシュ・ウィミンズ・ドメスティック・マガジンEnglish Women's Domestic Magazine(イギリス婦人の家庭雑誌)》が1852年にそれまでの定価1シリングを2ペンスに下げ,富裕層のたのしみよりも平凡な市民の家事に内容を絞って成功したことが,家事中心の雑誌を盛んにさせた。服装パターンや実用記事を盛った家庭雑誌が出版企業をなりたたせるようになったのは,《マイラズ・ジャーナル・オブ・ドレス・アンド・ファッションMyra's Journal of Dress and Fashion(マイラの服飾ジャーナル)》(1875)と《ウェルドンズ・レディズ・ジャーナルWeldon's Ladies' Journal(ウェルドン婦人)》(1875)がはげしい競争を演じるなかにおいてであった。アメリカではファッション画を重視した《ゴーデーズGodey's Lady Book》(1830)のあとを受けて,《ハーパーズ・バザーHarper's Bazar》(1867年創刊,のち1929年にHarpar's Bazaarとつづりを変更)が服装記事に重点を置いて成功した。83年に創刊した《レディズ・ホーム・ジャーナルLadies' Home Journal》は経営者カーティスCyrus Curtisのもとでまもなく40万部の発行部数を実現して企業としての大衆出版の記録をつくった。89年以降,同誌はボックEdward Bok編集長のもとでセンチメンタリズムと実用記事とによる大衆ジャーナリズムを実現してゆく。《グッド・ハウスキーピングGood Housekeeping》(1885)は消費者の立場からの商品テストを続け,《ボーグ》(1892)は高級ファッションを重点とする,など特色ある編集によってアメリカの女性誌は読者を分け合っている。
多国籍型ともいうべき,多くの言語に翻訳される雑誌の成功は,20世紀の出版の一つのエポックであった。ウォーレスDe Witt Wallaceが,さまざまな書籍雑誌から好評を得そうな内容を抄録してポケット版とした《リーダーズ・ダイジェスト》(1922)は,まずアメリカ東部の諸都市で歓迎され,たくさんの類似誌の競争をふりきったのち,〈平均的な読者の関心に応じる楽観的で持続的な読物〉集を1939年イギリスに,40年スペイン語圏にと,送り出し,それぞれの発行地で独自の内容を加味しながら,複数国で刊行する雑誌の首位を保っている。
週刊情報誌と写真報道誌によって現代状況にさきがけたルースHenry Luceもまた,現代アメリカ人の情報希求にみごとに応じた事業家であった。《タイム》(1923)の,自社取材網により調査を行き届かせむだのない文章でまとめたニュースは,〈タイム・スタイル〉と評された。産業情報誌《フォーチュン》(1930)に続いて彼は,総アート紙の大版に話題の人物,テーマを写真物語とする《ライフ》(1936)でまったく新しい型の雑誌を創始した。《タイム》の成功によりアメリカ国内で《ビジネス・ウィークBussiness Week》(1929),《U.S.ニューズU.S.News and World Report》(1933),《ニューズウィーク》(1933)などの競争誌が生まれただけでなく,西ドイツの《シュピーゲル》(1947),フランスの《レクスプレスL'Express》(1957),イタリアの《パノラマPanorama》(1962)など戦後ヨーロッパ各国にも週刊情報誌が並び立つこととなった。《ライフ》は第2次大戦前後に飛躍的に部数を増大させ,71年には約700万部に達したが,製作コストを償うだけの広告収入を得ることができなくなって72年末に廃刊した。しかし西ヨーロッパでは,フランスの《パリ・マッチ》(1949),西ドイツの《シュテルンStern》(1948),イタリアの《オッジOggi》(1945)など戦後生れの写真ニュース誌が仕事を続けている。
日本で大衆雑誌が急成長をはじめたのは,第1次世界大戦をはさむ時期からであった。《講談俱楽部》(1911)が創刊まもなくに講談師たちの反発に直面して,余儀なく作家たちに〈新講談〉を書かせたことが,思いがけず新しい読者層に応じた文芸を射当てた結果となった。大衆文芸とのちに呼ばれることになるこの新文化を少年層や婦人層に試みる《少年俱楽部》《婦人俱楽部》などを次々に創刊した講談社の野間清治は,1925年に《キング》を創刊して〈100万部の国民雑誌〉を実現し雑誌王国を完成させた。
《主婦之友》(1917)は,料理,家計など家事の実用記事を盛り,のちには有名人の教訓や大衆作家の作品を加えて,大正年間に発行部数第1位の雑誌となった。創業者石川武美は〈一人一業〉を唱え主婦層だけを事業の対象としたかわりに,実用講座などの書籍出版や家庭用商品などを販売する〈代理部〉の創設によって,経営を戦略的に展開した。《小学六年生》(1922)によって家庭の学習熱をとらえた相賀武夫は,〈セウガク一ネンセイ〉にいたる学年別雑誌を次々に育てあげ,小学館の基礎をきずいた。こうした児童雑誌や婦人雑誌の競争では,とくに目をひく付録を数多く添えることが重視され,それが戦前日本の大衆雑誌の一特徴となっていた。
出版業としての雑誌活動に戦後的な特性を発揮したという点では平凡出版を筆頭にあげるべきだろう。読物誌だった《平凡》(1945~87)をスター・ゴシップ雑誌とすることで成功した清水達夫は,若い世代の男女を主対象としてその風俗をリードする雑誌群を並列させて事業を拡大し続けている。《週刊平凡》(87年廃刊),《平凡パンチ》(88年廃刊)から《アンアン》《クロワッサン》《ポパイ》《ブルータス》などを擁して,83年に社名をマガジンハウスと改称し雑誌専業の方向をいっそう鮮明にした。戦前に小学館の子会社としてスタートした集英社はスター雑誌《明星》(1948)で成功してのち,少女マンガ雑誌《マーガレット》を中心に平凡出版と同様な青年風俗誌を続出した。《週刊明星》(91年廃刊),《プレイボーイ》《ノンノ》《モア》《月刊プレイボーイ》という布陣は,平凡出版の各誌とそれぞれに競い合っている。ただし集英社はこれらの雑誌に主軸をおきながら,文芸誌《すばる》や文学全集,各種講座,文庫から単行本にいたる総合出版社として事業を展開している。
明治以来の文芸出版社だった新潮社がサラリーマン層を主読者とする《小説新潮》(1947)によって,文芸春秋社の《オール読物》(1930)にいどんだころから,〈中間小説〉と呼ばれる文芸形式が大部数の小説雑誌の特色となってきた。純文学と大衆小説とのあいだという意味でのこの新形式は,推理,ユーモア,SFなどのさまざまな展開をともないつつ,逆に純文学と大衆小説という区別をとりはらう原動力として働いた。両月刊誌の競争は,まもなく週刊誌の連載小説にひろがり,さらには大手出版社が次々に小説雑誌を経営の要部に位置づけていったからである。
時勢の動向にたいする批判性においては,岩波書店の《世界》(1946)が,吉野源三郎編集長のもと,自主的な平和主義外交を主張する知識人たちの共同戦線を保つ働きを続け,その没後も公害問題やアジア外交にたいする分析をのせている。また読物誌だった《文芸春秋》(1923)は戦後,ドキュメンタリーに力をそそぎ,占領時代の暗部,保守政治の裏面,日本共産党の内部事情などを長編の記録読物として,戦後的な国民雑誌を実現した。また1970年代から,平凡社の《別冊太陽》(1972)の成功をさきがけとして書籍的な雑誌としてムックmook(magazineとbookの合成語)と呼ばれる雑誌群が現れ,急速に展開した。
大量部数の雑誌には,おびただしい数の広告が掲載されている。出版社は,雑誌の販売収入だけでなく,ときにはそれを超えて,広告主からの広告掲載料収入を期待できる。アメリカでは1940年代ごろから,日本では60年代ごろから,広告を多数の読者の目に触れさせる媒体としての機能が雑誌刊行の主眼となりはじめた。80年代の日本で,中堅以上の出版社が相次いで新雑誌創刊をくわだて,既存誌の性格変更を試みることが頻繁となったのはこの理由による。したがって,新企画は消費財の広告を得やすい生活情報誌や婦人雑誌の領域に集中する。
印刷工務にかかわる面の技術の進展がテンポを速め,雑誌のあり方にも少なからぬ影響を与えるだろう。とくにコンピューターの採用は,はじめ営業面の計数処理に使われていたが,近年に編集工程の電子化をすすめさせている。書斎や居間がワークステーションとして情報ネットワーク化される段階では,とじられたページ群というかたちをとらないで,情報が編集センターから端末にディスプレーされるという状態も生まれている。
紙によらない雑誌として戦後の一時期にソノシートによる音声の雑誌がフランスや日本で続いていたことがあるし,もっと簡便な方法として,カセットテープにダビング(複写録音)したメッセージをレコード店で市販することが青年グループで行われていたこともある。近年では,CD-ROMの形態による雑誌も一部でみられる。巨大化と画一化が進行する他面で,新技術が少数者の創造と持続をささえる働きをしていることを無視してはなるまい。
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