錦とは、魚屋や八百屋、乾物屋などの店が建ち並び、京都の台所といわれる錦小路(にしきこうじ)のことである。江戸時代には豊富な地下水を利用して街路の地下に室をつくったため、特に魚市場として発達したものが現代に受け継がれている。ずいぶん古くから市場を形成していたことは間違いないようであるが、史実として確認されているのは江戸期以降のことになる。
街路としては、平安京が開かれたころからの古い小路である。昔は東端が寺町通、西端は千本通。現代は東西とも若干伸び、東は新京極通、西は壬生川(みぶかわ)通となっている。市街地にもかかわらず、ほとんど変わっていないというのは驚くべき事実である。
通りの名称の由来には諸説あり、具足(ぐそく)小路という名称が転訛して糞(くそ)小路なる不名誉ともいえるような名前で呼ばれていた時期がある。鎌倉初期に編まれた説話集『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』には、それが錦小路へと変わるいきさつが書かれている。面白いので、要約して以下に記すことにする。
昔、清徳という名の聖(ひじり、僧侶のこと)がいた。母親の供養のため、愛宕山に籠もること三年あまり。供養を終えて京へ戻る途中、空腹を覚え、通りすがりの畑主にもらった米一石をなんと平らげてしまった。この聖の大食漢ぶりを珍しがった右大臣は邸に招き、米十石(約1800リットル)を与えたという。この途方もない量の米を、またもや食べ尽くすのだが、その様子を見た右大臣は大食いの理由がわかった。実は、聖は普通の人には見ることができない餓鬼や畜生、虎、狼、犬などを数万も背後に引き連れており、そのものたちに食べ物を分け与えていたのである。
食べて消化すれば、当然出てくる「もの」もある。邸からの帰り道、もよおした場所はちょうど錦小路の辺り。数万の鳥獣たちがこぞって出した「もの」は、通りの端から端にまで達っしていたそうだ。それがあまりに長く大きな「もの」であったため、以来、この通りは「糞小路」という異名で呼ばれるようになってしまった。一方、その話を知った帝は、南側の四条通を挟んで線対称にあたる反対側の綾小路(あやのこうじ)という名称に因み、「錦」という通りの新しい名称を与えたのだとか。
おそらく脚色の過ぎた作り話であろうが、歴史の長さはそれも一興と楽しませてくれる。
正面に見える壬生川通との突き当たりが錦小路の終点。壬生寺に近い壬生坊城町。