衆議院議員。みんなの党代表。61歳。“ミッチー”の愛称で親しまれた自民党の大物、渡辺美智雄元副総理の長男。行政改革担当相のとき、成立は無理とみられていた公務員制度改革基本法が、土壇場で民主党が協力して成立した時に男泣きに泣いたことでも知られる。

 2008年、麻生太郎首相に対する衆議院の解散総選挙を要求する決議案に、与党議員でただ1人賛成。戒告処分を受けて離党し、みんなの党を結成。

  『週刊新潮』(6/13号、以下『新潮』)は、先日公開された資産報告書で渡辺氏が「資産ゼロ」と書いたことで、追及している。1995年に父親が亡くなった際、遺産だけでも約12億円と報じられているからである。

 『新潮』で、そのカラクリを資産公開にくわしいベテラン国会議員秘書が明かしている。

 「実は、報告しなくてもよい資産が結構あります。①普通預金やタンス預金②配偶者や子どもの資産③資産管理会社など、法人名義の資産④未公開株や資本金1億円未満の会社の株など。つまり、今の制度は、本人の名義を替えれば、簡単に資産を隠すことができる。喜美さんの場合、この抜け道を非常にうまく使っているように見えます」

 『新潮』は渡辺氏の隠し資産を探す旅に出る。渡辺代表の地元・栃木県のJR宇都宮駅から車で約10分走ると下戸祭(しもとまつり)地区に着く。この町の一画(約2000平方メートル)に「和三紫(わさし)ビル」が建っている。

 このビルの名義上の所有者は和三紫という有限会社だが、71年に父・美智雄氏が設立した。現在は渡辺喜美後援会が入り、実質的には渡辺代表のものであろう。評価額は土地と建物合わせて2億円ぐらいはするといわれる。

 「04年と06年の資産公開では、喜美さんは、東京・渋谷区内に広さ60平方メートル位のマンションを一室所有していた。この部屋は、元々美智雄さんのもので、喜美さんが相続した。で、07年に資産管理会社の和三紫に売却したため、09年の資産報告書からは消えています」(元後援者)

 何のことはない「資産ゼロ」にすることなど容易(たやす)いのである。だが、公党の代表たるもの、モラルに欠けると批判されても仕方なかろう。

 以前『週刊文春』(1/24号、以下『文春』)で「渡辺喜美は選挙中に極秘離婚していた!」と書かれたことがある。昨年暮れの総選挙が公示された翌日に、である。

 まゆみ夫人は結婚前、銀座の有名クラブのホステスをしていたそうで、父・美智雄氏がなかなか結婚を許さなかったため、子どもまでつくって既成事実を認めさせたという。

 なかなか情熱的な二人だが、最近は別居して、渡辺氏はホテル暮らしが多くなり、その原因は渡辺氏の女性関係にあるのではないかと『文春』が報じている。当時の夫人のツイッターには、こんなものすごいものがある。

 〈教訓を得ないバカの一つ覚えみたいな繰り返しをするリーダーは即刻変えろ!経営能力のない失態を犯す経営者は直ぐ首!民間では当たり前!!!!!〉

 渡辺氏は『文春』の取材に対して、「以前、夫婦喧嘩をした際に署名し妻に預けていたものを選挙中に妻が勝手に提出したものです。現在は妻の誤解を解いて元の状態に戻すべく協議中」だと答えている。(記事が出た直後のブログで「離婚はしておりません。夫婦喧嘩はしましたが、婚姻関係は継続中です」と書いている)

 代表としても、橋下徹大阪市長とついたり離れたりと、党内からもリーダーシップが問われている。国を治めるより女房を治めるほうが難しいことはわかるが、これではリーダーとしての資格が問われても致し方あるまい。安倍首相とよく似て人はよさそうなのだが。

 

   

読んだ気になる!週刊誌 / 元木昌彦   



 映画ファンとは自称しつつも、テレビやレンタルを中心に楽しんでいる人は多いだろう。劇場に足を運ばせる理由づけとして、「3D映画」に期待が寄せられたのはほんの数年前のこと。実際、2009年12月公開の映画『アバター』は驚きの映像体験として迎えられた。ところが、現在の興収の要である邦画においては、題材的にも演出的にも、どうも3Dがそぐわない。いまや3Dは、ハリウッドのアクション大作を楽しむだけの趣向といえる。……だが逆に言えば、洋画を楽しむ趣向としてはまずまず機能しているのではないか。

 2013年4月、名古屋の複合娯楽施設「中川コロナワールド」に、3Dならぬ「4Dシアター」が誕生した。韓国のCJ 4D PLEX社が開発したシステム「4DX」を日本で初めて導入したもので、映画のシーンに合わせて、座席が動いたり、揺れたりする。海のシーンで風やミストが吹き出したり、美女の登場シーンで甘い香りをただよわせるといった凝ったギミックも加えられる。まるで映画館ではなくテーマパークのようだと皮肉る意見もあるが、それはまさに狙っているところだろう。自宅にひきこもった映画好きを、劇場に連れてくることがひとまず4Dの責務である。『アイアンマン3』で始まった中川コロナでの上映の評判は、決して悪くないようだ。海外で公開された『タイタニック』4DX版も業界内では話題になった。あとは、4DXに向いたコンテンツがどれだけ生まれるかが注視される。


 

   

旬wordウォッチ / 結城靖高   



 総務省の人口推計によると、2012年10月1日時点の65歳以上の人は3079万人。人口に占める割合も24%で過去最高を記録し、2025年には高齢化率が30%になることが予測されている。

 高齢化に伴い年間死亡者数も、2010年の119.2万人から2030年には約160万人になることが推計されている。そこで問題になっているのが「死に場所」だ。

 戦後間もない日本では、ほとんどの人が自宅で最期を迎えており、病院で亡くなるのは1割程度。しかし、核家族化などの影響で現在は85%が医療機関で亡くなっている。実に100万人を超える人が病院で亡くなっているわけだ。

 2030年には死亡者数が今より40万人増えるが、医療機関のベッド数は頭打ちだ。それどころか、国は医療の効率化を図るために、慢性期の患者を受け入れる療養病床のベッド数を、2025年までに今より7万床削減する方針を出している。2012年度の医療費の価格を決める診療報酬改定でも、その方針に沿って在宅医療や訪問看護などの医療費の配分を増やすことで、自宅や介護施設でも必要な医療を受けられる体制作りを急いでいる。

 だが、厚労省の必死の誘導にもかかわらず、この10年間、自宅死亡は横ばいで増えていない。現実的に考えて、心身に何らかの障害を抱えた高齢者がひとり暮らしをするのは困難だ。特別養護老人ホームなどの老人福祉施設は、財源や人材にも限界があるので、簡単には増やすことができない。

 別の厚労省の推計では、2030年の死亡場所の内訳は、医療機関が89万人、自宅が20万人、介護施設が9万人、残りの40万人以上が「その他」となっている。この「その他」が死に場所が決まらない人々で、「死に場所難民」が大量発生すると心配する声が上がっているのだ。

 だが、これだけのことがわかっているのに、国が何も手を打たないはずはない。厚労省は着々と準備を始めており、「有料老人ホームやサービス付き高齢者住宅」などの施設の増加を検討している。また、小泉自民党時代に決まった療養病床数の削減も見直される可能性もある。

 大切なのは、「死に場所難民」が出ると扇情的に国を責めることではなく、いかにして「死に場所難民」を出さないような体制を整えていくかということだ。

 

   

ニッポン生活ジャーナル / 早川幸子   



 日本食が世界でブームらしい。ただし、日本食イコール「和食」とはかぎらない。たとえばラーメンだ。ニューヨークでは、人気店「博多一風堂」が進出してブレイクを果たした(海外には「すする」という習慣がなく、麺の長さを短くしたとか)。独特のラーメン文化はアメリカの食いしん坊たちに受け入れられ、いまや大都市の多くに行列店がある。よもや外国人が並んでまでラーメンを食べる時代が来ようとは。食文化は国境を越える。

 こうした動きは、アメリカの人気店が日本に「逆輸入」されるというユニークな状況を作り出した。2013年4月、「新横浜ラーメン博物館」にお目見えした「IKEMEN HOLLYWOOD(イケメン ハリウッド)」は、つけ麺の「ジョニーディップ」などハジけたネーミングセンスで驚かされるが、味のほうはいたって本格派である。オーナーの川端康正(かわばた・やすただ)氏は、若き頃の留学経験から現地の日本食に幻滅し、アメリカナイズされない味にこだわったという人物。中村栄利 (なかむら・しげとし、名店「中村屋」で業界の寵児に。湯切りの動き「天空落とし」も話題となった)氏らと2011年に立ち上げた同店は、またたく間に西海岸界隈に豚骨系という「アメリカ人の知らない味」を広めるに至った。日本人という民族が、世界中を巻き込んでラーメンにかける情熱に乾杯だ。

 

   

旬wordウォッチ / 結城靖高   



 地域をかぎって首相主導で大胆な規制緩和、税制優遇に取り組む施策。政府はこれを「成長戦略」の柱に位置づけており、別名「アベノミクス戦略特区」とも呼ばれる。創設を強く唱えたのは竹中平蔵慶應大学教授だ。

 3大都市圏を中心に推進し、甘利明(あまり・あきら)経済財政・再生大臣は「認定する特区は3、4か所に絞り込む」としている。

 規制緩和や減税で国際競争力を高めて企業誘致を進め、安倍首相は特区を「世界一ビジネスをしやすい事業環境にする」という。

 竹中氏が示した特区の事例は、「イノベーション特区で、法人税の大幅引き下げ」(大阪)、「外国人医師の国内診療行為の容認」(東京)、「都営交通の24時間化」(同)、「海外トップクラスの学校誘致」(同)、「公道での車の自動走行実験」(愛知)など。なかにはカジノ解禁をにらんだのか「統合型リゾート」(東京)といった構想もある。

 ただその実現性となると高い壁が立ちはだかる。既得権益を持つ業界団体や省庁の抵抗だ。「構造改革特区」など従来の特区制度も抵抗の壁に阻まれて思うように進まなかった経緯もある。また地方からは「地方切り捨て、都市部への一極集中になる」と反発する声も出てきそうだ。

 今のところ、勢いのある安倍政権だが、ひとたび陰りが生じると、「国家戦略特区」は批判の大合唱になりかねない。そんな危険性もはらんでいる。

 

   

マンデー政経塾 / 板津久作   



 間口が狭く、奥行きの深い構造になった住宅や場所のたとえで、その典型が京都の町家である。町家は通りに面した表口から裏口まで「通り庭」がまっすぐ抜けており、その通り庭に沿って表口-店-ダイドコ-座敷が、奥へ奥へと続いている。板の間や畳敷きの床の上のことは「オイエ」と呼び、土間である通り庭のうち、表口-店までを「ミセニワ」、その奥は「ハシリニワ」と呼んで二つに分けている。このミセニワとハシリニワの間には、よく麻地の長暖簾がかけられている。これが京都の商人や奉公人を皮肉った「三条室町 来て見りゃ地獄 おかゆ隠しの長暖簾」といわれる、表と裏を隔てた暖簾である。

 京都の町家は、東西、南北に走る通りで区切られた四角い土地を、各家の間口が通りに面するように短冊状に宅地割りされている。そのため、住宅が密集するほど、奥行きは変わらないまま、間口は狭くなっている。多くの町家は奥行きが18~22メートルで、間口は小戸と呼ばれる4.5メートル(2間半)以内のものが多い。京都の古い町家は1864年の「蛤(はまぐり)御門の変」で消失してしまったので、現存する住宅は古いものでも明治期以降に建てられたものである。現在、もっともよく見かけるのは、2階建てで、通りに面した窓には真鍮(しんちゅう)製のパイプ格子などが施され、窓下の腰の部分に、御影(みかげ)石やタイルなどの外壁を貼った住宅である。これは大正期~昭和初期に建てられた町家で、当時はかなりハイカラな町家として話題になっていたそうである。町家は細長い造りなので部屋の中の日当たりはよくないけれど、その分涼しく、表の戸口を開けると、風は通り庭を通って裏庭へ、2階へと勢いよく流れていく。風通しは素晴らしい。


庭に抜け、裏口へと続く通り庭。京都の暑い夏にはこの見た目の涼しさが大事である。


   

京都の暮らしことば / 池仁太   



 芸能プロダクション会長。享年83歳。“生涯マネージャー”を自任し、西郷輝彦、桜田淳子、早見優、桜田淳子、岡田有希子、松田聖子、都はるみ、酒井法子ら多くのタレントを輩出したが、1968年に興したときの所属タレントは森田健作ただ1人、6畳一間からのスタートだった。

 自分のところのタレントを自宅に下宿させることでも有名だった。『週刊新潮』(6/6号、以下『新潮』)で相澤氏の盟友・福田時雄氏(現・サンミュージックプロダクション名誉顧問)がこう語っている。

 「相澤が下宿生活させたのは、一つは親御さんを安心させるため。一緒にご飯を食べ、悩みなどを聞き、精神薫陶を授けて育てるのが彼のやり方です。今とは違って、1970~80年代は一つの芸能事務所からデビューするタレントは1人や2人。だから下宿させることもできた。女性アイドルは、自分の娘のように育ててきました」

 毎朝、新人タレントとジョギングに出かけた。成城の自宅を出て約30分のコースを太川陽介や松田聖子なども走らされた。

 『新潮』によれば、芸能界で彼のことを悪くいう人はいなかったが、「ただ、その分、脇が甘く、タレントを信じ切ってしまうことが多かった」(テレビ局のプロデューサー)ために、裏切られることが多かった。

 この人ほど所属タレントに苦しめられてきた人もいない。松田聖子は男関係が奔放で、何度も尻ぬぐいをしてやっていたのに、突然独立するといいだす。

 いちばん惚れ込んだ聖子に離れられ、相澤氏は福田氏の前で泣いたという。

 桜田淳子は統一教会の合同結婚式に参加し、これも離れてしまう。

 岡田有希子の自殺は相澤氏にとって痛恨事だったろう。18歳の若さだった。自殺の原因は年上の俳優に惚れて、それが叶わなかったためといわれている。

 芸能ジャーナリストの本多圭氏はこういう。

 「相澤さんは、当初、岡田の自殺について“自殺未遂して僕に何か言われると思い、突発的に飛び降りたと思った”と言っていた。が、その後、自殺の原因と思われることが書かれてあったノートが見つかった。そこには、はっきりと峰岸徹の名前が書いてあり、彼に対する恋心と、いくら想っても叶わぬもどかしさで、まるで真綿で首を絞められるような苦しみが綴られていたそうです。相澤さんは、それを読んで自殺が突発的なものではなく、思い詰めた末の行動だったと分かったそうです」(『新潮』)

 当時、峰岸は42歳。渋味のある演技で人気だった。彼には婚約者がいた。24歳も年下の岡田とは、ドラマ「禁じられたマリコ」 (85年11月~86年1月放送)での共演をきっかけに交際が始まったと報じられたが、峰岸自身は「私は一切関係ない」と沈黙を守り続け、数年前に亡くなっている。

 さらに、のりピーこと酒井法子が09年8月に覚醒剤所持で逮捕されてしまう。

 逮捕から40日ぶりに保釈された酒井の記者会見が東京都千代田区の「如水会館」で行なわれた。私も友人の芸能レポーター梨元勝氏と会場に赴き、まるで新曲発表の挨拶のような実のない彼女のお詫びを聞いた。

 相澤氏の45年にわたる芸能プロ生活で、事務所側から解雇したのは酒井1人だけである。そんな氏を業界では「芸能界の良心」と呼んでいた。自社のタレントを食い物にする芸能プロが跋扈(ばっこ)する中で、愛情を持ってタレントを育てることをモットーとしてきた相澤氏の存在は貴重であった。タレントも大量生産、大量消費の時代。こうしたプロダクションが二度と出てくることはないだろう。

※名前の表記は「相澤」「相沢」の2種類ありましたが、「相澤」に統一しました。


 

   

読んだ気になる!週刊誌 / 元木昌彦   


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