いまさらになるが日本を代表する女優である。傘寿(さんじゅ)になるが、凜とした佇まいは変わらない。1953(昭和28)年に封切られた菊田一夫原作『君の名は』で真知子を演じた。この映画はメロドラマのお手本といわれ、韓国ドラマ『冬のソナタ』はこの映画から多くを学んだといわれる。過日、見直す機会があったが、いまなお佐田啓二とのすれ違いの恋は、ハラハラさせ、涙させる。岸のショールの巻き方は「真知子巻き」と呼ばれ大流行した。私は子どもだったが、来宮良子(きのみや・りょうこ)のナレーション「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓 (ちこ)う心の悲しさよ」というフレーズは暗唱できた。
1957年、作家川端康成の立ち会いでフランス人映画監督イヴ・シャンピと結婚。パリに居を構えてサルトル、ボーヴォワール、マルロー、コクトーらと親交を持ったそうである。娘が生まれるが、シャンピ氏とは1975年に離婚している。
1960年に映画『おとうと』で第11回ブルーリボン賞主演女優賞を受賞するなど、名女優の名を恣(ほしいまま)にする。文才も豊かで『ベラルーシの林檎』で日本エッセイストクラブ賞を受賞している。
もう20数年前になるが、私がいた『月刊現代』で、作家渡辺淳一さんとの対談を、岸惠子さんにお願いしたことがある。
テーマは忘れたが、対談中、渡辺さんの岸さんを視る眼の、なんと優しかったことか。終わって、渡辺さんが誘って銀座のバーに行くのを見送った。遠慮したのは、明らかに渡辺さんが岸さんを口説こうとしている気配が色濃く漂っていたからである。
その後の展開は聞いていないが、そのころでも十分に彼女は美しかった。だが、対談中にこう漏らした言葉が印象に残っている。
「私だって娘の美しさに嫉妬を感じることがあります。若さにはかなわないわ」
岸さんが10年ぶりに書き下ろした小説『わりなき恋』(幻冬舎)が話題である。渡辺淳一さんばりの高齢者の性愛描写が生々しい。『週刊文春』(4/18号、以下『文春』)から引用してみよう。
「あなた、今、私の中にいるの?」
喘ぎながら呟いた。
「そう、笙子(しょうこ)さんの中にいるよ。あなたの中にぼくがいる」(中略)
「全部? 全部いるの?」
「焦らないで。全部ではない。だけどぼくのほとんどが今あなたの中にいる」
『文春』によれば、この男性にはモデルがいて、パリ便ファーストクラスで知り合った「現在は六十代の、背がすらっと高くてカッコいいビジネスマン」だそうである。
作中、笙子は自信満々に「七十五歳という女盛りよ」と語っている。
書き手である“恋多き女”岸惠子もまだまだ枯れそうにないが、そこが彼女の魅力である。本物の「美魔女」とはこういう人のことをいうのであろう。