元東京電力福島第一原子力発電所所長。原発事故の現場で指揮を執ったが7月9日、食道がんのために死去。58歳。
『週刊現代』(7/27・8/3号)で、生前の吉田氏にインタビューしたジャーナリスト門田隆将(かどた・りゅうしょう)氏がこう書いている。食道がんの手術をし、抗がん剤治療を終えた吉田氏と彼が会ったのは2012年7月。184センチの長身でやや猫背気味の吉田氏の容貌が、ニュース映像とはまったく違っていたという。
だが、吉田氏は人なつっこい顔で「私は何も隠すことはありません」と言い、ここで食い止めなければ事故の規模はどのくらいになったのか、と質問すると 「チェルノブイリの10倍です」と続けた。
「福島第1には、6基の原子炉があります。ひとつの原子炉が暴走を始めたら、もうこれを制御する人間が近づくことはできません。そのために次々と原子炉がやられて、当然、(10キロ南にある)福島第2原発にもいられなくなります。ここにも4基の原子炉がありますから、これもやられて10基の原子炉がすべて暴走を始めたでしょう」
門田氏はこう書いている。
「吉田さんたち現場の人間が立っていたのは、自分だけの『死の淵』ではなく、日本という国の『死の淵』だったのである」
吉田氏は、全電源喪失の中で暴走しようとする原子炉を冷却するには海水を使うしかないと決断、すぐに自衛隊に消防車の出動を要請し、原子炉への水の注入ラインの構築に着手した。
吉田氏らしさが最も出たのは、官邸に詰めていた東電の武黒(たけくろ)一郎フェローから、官邸の意向として海水注入の中止命令が来たが、敢然と拒絶したときである。
東電本社からも中止命令が来ることを予想した吉田氏は、あらかじめ担当の班長にこう言った。
「テレビ会議の中では海水注入中止を言うが、その命令を聞く必要はない。そのまま注入を続けろ」
この機転によって、原子炉の唯一の冷却手段だった海水注入は続行され、なんとか最悪の格納容器爆発という事態は回避されたのである。
私は吉田氏の名前を聞くたびに忸怩(じくじ)たる思いがする。私事で恐縮だが、お付き合いいただきたい。2012年9月7日付朝日新聞夕刊の連載「原発とメディア」にこういう記述がある。
「2011年3月11日。iPadの画面上のニュースが大地震発生を伝えていた。週刊現代の元編集長・元木昌彦(66)はiPadをバス最後部の(当時の)東京電力会長・勝俣恒久(72)と副社長・皷(つづみ)紀男(66)に渡した。2人は『じーと見ていた』という。
この日。『愛華訪中団』と称する電力会社幹部とマスコミ人ら約20人は北京市内を移動していた。この時で10回目。旅程は6~12日で、団長の勝俣は10日に合流。勝俣は震災を受けてすぐに帰国しようとしたが、飛行機に乗れたのは翌12日早朝だった」
この訪中団は「東電の丸抱え」だと批判されたが、ここでは、それは事実と違うとだけ言っておきたい。帰国した翌日、旧知の大新聞社長と会い、原発事故の深刻なことを聞かされ、私は勝俣会長と北京で一緒だったと話した。真意は、最高責任者が日本にいなかったことで事故処理が丸1日遅れた可能性がある。そのことが致命的な事故に繋がる恐れがあるから、調べてくれということであった。
後から清水正孝社長も妻を連れて関西に行っていたことが報じられたが、東電の原発安全ボケによる危機管理の無さは、徹底的に責められるべきだ。
だが、そのことで吉田所長は海水注入を決断できたのかもしれない。海水を入れれば原発は廃炉にするしかなくなる。勝俣、清水は経営的観点から、それを避けたいと考えたに違いない。後から海水注入を止めろと吉田所長に命じてもいる。吉田所長が“社畜”のようなサラリーマンだったらと思うと、恐ろしさに体が震える。
禍福は糾(あざな)える縄のごとし。トップ2人の不在と吉田氏の獅子奮迅の働きで、かろうじて最悪の事態を回避できた。刑事責任を免れないと思われる勝俣、清水は、その座を追われてものうのうと生き続け、吉田氏は想像を絶するストレスのためであろう、がんを発症し、惜しまれてこの世を去ってしまった。
日本人は福島第一原発事故と吉田昌郎の名を永遠に忘れてはいけない。二度とこのような悲惨な事故を起こさないために。