高瀬川一之船入とは「木屋町(きやまち)通二条下ル」にある、高瀬川西岸の船溜まり跡。船入とは、荷物の積み下ろしや船の方向転換をする広い場所のことで、高瀬川の起点の二条から四条通りまでの間に、一之船入から九之船入まで九つの船入が設けられていた。現存するのは一之船入だけで国指定の史跡になっており、木屋町筋からのぞき見ると、かなり広いため池のようなものがある。

 運河・高瀬川が開削されたのはちょうど400年前。江戸初期1614(慶長19)年のことである。当時の高瀬川は二条大橋の西畔から鴨川の水を引き込んで南に流れ、伏見を経て宇治川に注いでいた。運河はおよそ10キロメートルの距離があり、水深は意図してわずか30センチメートルほどの浅瀬になっていた。高瀬川は船底が平らの独特の高瀬舟でなければ、重い荷を積んで行き来することは難しかった。これは運河開削のうえでも、水利という点でも合理的であり、開削を手がけた豪商・角倉了以(すみのくら・りょうい)の才覚によるものであった。了以は、嵐山の保津川や富士川(静岡県)を開削し、日本の水運を牛耳った人物で、備前国(岡山県)で浅瀬を航行する平底の高瀬舟を見たときに発想を得て、京都の運河にその構想を結実させた。高瀬川という名前も、舟の名称からとられたものだと伝えられている。

 高瀬川の開削によって、それまで陸送に頼ってき大阪や滋賀との物流が劇的に変わることになった。船運の最盛期であった18世紀には、200艘近い高瀬舟が行き来し、船頭が操舵する船を河岸に沿って曳く仕事を担っていた曳き子は700人あまりもいたという。当時運搬された物資は薪や炭、材木、米酒、醤油、海産物などで、高瀬川の周辺には商人や職人が集まって住んでいた。材木町や石屋町、塩屋町などの高瀬川沿いに見られる町名は、その頃の名残である。


ここだけ時間が止まっているように、ひっそりと残されている船入。


   

京都の暮らしことば / 池仁太   


池仁太(いけ・じんた)
土曜日「京都の暮らしことば」担当。1967年福島県生まれ。ファッション誌編集者、新聞記者を経てフリーに。雑誌『サライ』『エスクァイア』などに執筆。現在は京都在住。民俗的な暮らしや継承技術の取材に力を入れている。
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