かにかくに祇園はこひし寝(ぬ)るときも枕のしたを水のながるる
「かにかくに」とは、「あれこれと」、「いろいろと」などといった意味の副詞である。歌は、歌人・吉井勇が23歳であった1910(明治43)年5月、京都に2週間ほど滞在したとき、祇園に寄せる思いを歌ったものだ。吉井勇のほか、北原白秋、石川啄木、高村光太郎らの青年詩人が中心同人となって発刊した文芸誌『スバル』6月号の、「京都より」と題した21首の巻頭の歌として掲載された。京都では祇園を象徴する歌としてすっかり有名であるが、吉井勇の代表作としては、黒澤映画の挿入歌にもなった「いのち短し 恋せよおとめ 赤き唇あせぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを」(「ゴンドラの唄」)のほうが、よく知られているかもしれない。
「かにかくに」の歌の詠まれた舞台であり、お茶屋・大友(だいとも)のあった、白川に巽橋(たつみばし)がかかる河畔(東山区祇園元吉町)には、この歌を刻んだ歌碑が建てられている。大友の女将であった磯田多佳(たか)は、夏目漱石や谷崎潤一郎とも交流のあった文学芸妓と呼ばれた人で、姉は有名な祇園一力亭の女将であった。大友は第二次大戦中に廃業し、お茶屋は強制疎開で撤去されてしまっている。歌碑はおそらく大友への思慕の情も込め、1955(昭和30)年11月8日に勇の古希を祝って友人たちによって建立されたものである。毎年11月8日、この歌碑の前に祇園の芸舞妓が集う。勇を偲んで「かにかくに祭」が催され、歌碑に花を供えたあと、抹茶や蕎麦などの接待が行なわれる。
「かにかくに」とは、「あれこれと」、「いろいろと」などといった意味の副詞である。歌は、歌人・吉井勇が23歳であった1910(明治43)年5月、京都に2週間ほど滞在したとき、祇園に寄せる思いを歌ったものだ。吉井勇のほか、北原白秋、石川啄木、高村光太郎らの青年詩人が中心同人となって発刊した文芸誌『スバル』6月号の、「京都より」と題した21首の巻頭の歌として掲載された。京都では祇園を象徴する歌としてすっかり有名であるが、吉井勇の代表作としては、黒澤映画の挿入歌にもなった「いのち短し 恋せよおとめ 赤き唇あせぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを」(「ゴンドラの唄」)のほうが、よく知られているかもしれない。
「かにかくに」の歌の詠まれた舞台であり、お茶屋・大友(だいとも)のあった、白川に巽橋(たつみばし)がかかる河畔(東山区祇園元吉町)には、この歌を刻んだ歌碑が建てられている。大友の女将であった磯田多佳(たか)は、夏目漱石や谷崎潤一郎とも交流のあった文学芸妓と呼ばれた人で、姉は有名な祇園一力亭の女将であった。大友は第二次大戦中に廃業し、お茶屋は強制疎開で撤去されてしまっている。歌碑はおそらく大友への思慕の情も込め、1955(昭和30)年11月8日に勇の古希を祝って友人たちによって建立されたものである。毎年11月8日、この歌碑の前に祇園の芸舞妓が集う。勇を偲んで「かにかくに祭」が催され、歌碑に花を供えたあと、抹茶や蕎麦などの接待が行なわれる。