時折食べる松花堂弁当が、弁当箱に由来する名前とは知らないまま食べていた。松花堂というのは、箱形の弁当箱あるいは四角い料理の器のことだ。松花堂弁当となると、箱の蓋を開けて中が十字に仕切られ、4つの枡に分けられた弁当箱を指し、料理は一つ一つの枡に盛り分けられている。それぞれの枡が完成された一品であると同時に、仕切りによって味や香りが混じりにくいという機能もあり、さらに4つの枡の組み合わせも楽しめるという趣向である。茶会でもよく用いられる弁当だが、今日では花見などの宴席や旅先などで重宝する、弁当の代表的な種類だろう。
この松花堂弁当を編み出したのは、料亭吉兆(嵐山)の創業者、湯木貞一(ゆき・ていいち)である。京都・吉兆によれば、1933(昭和8)年に茶会へ招かれた湯木は、そこで、小物などが収められた四角い盆を見つけ、譲り受けたという。その盆は田の字型にくぎられており、もともとは農家で種子や薬の入れ物に使われていた古いもので、田の字の枡の3箇所に墨絵が描かれていたそうだ。湯木はこれを参考に、全体の長さを小さく、枡の高さは深めに改良し、蓋をつけて新しい料理の器を作った。この器が松花堂弁当の原型である。この器と料理が評判を呼び、新しい弁当の様式として日本中に広まったというわけである。
湯木が茶会で訪れた場所というのが、実は「松花堂」という茶室だった。江戸初期の僧、松花堂昭乗(しょうかどう・しょうじょう)が、晩年に構えた草庵茶室である。昭乗は真言密教を修めて阿闍梨となり、男山石清水八幡宮(おとこやまいわしみずはちまんぐう)の滝本坊(たきもとぼう)住職となった人物。晩年は松花堂に隠棲し、風雅三昧の日々を送るわけだが、興味深い逸話が多い人物であり、この人物についてはまた改めて紹介することにする。
最後に、松花堂弁当を食べるときの作法について。茶事の料理を原型にしてつくられた松花堂弁当には、本来は箸や蓋の使い方、食べる順序などに作法があるが、今回は一般的な食事の場合のマナーに触れておきたい。まず蓋は両手で開けて、箱の下に重ねるか、弁当箱本体の奥側に仰向けにして置く。食べ物は、吸い物からはじめ、前菜や刺身などから食べ進めるのが一般的だ。食事が終わったら、魚の骨などの食べ残しを一箇所にまとめておき、蓋を閉じる。
松花堂庭園・美術館(八幡市)の一部として保存されている松花堂。
この松花堂弁当を編み出したのは、料亭吉兆(嵐山)の創業者、湯木貞一(ゆき・ていいち)である。京都・吉兆によれば、1933(昭和8)年に茶会へ招かれた湯木は、そこで、小物などが収められた四角い盆を見つけ、譲り受けたという。その盆は田の字型にくぎられており、もともとは農家で種子や薬の入れ物に使われていた古いもので、田の字の枡の3箇所に墨絵が描かれていたそうだ。湯木はこれを参考に、全体の長さを小さく、枡の高さは深めに改良し、蓋をつけて新しい料理の器を作った。この器が松花堂弁当の原型である。この器と料理が評判を呼び、新しい弁当の様式として日本中に広まったというわけである。
湯木が茶会で訪れた場所というのが、実は「松花堂」という茶室だった。江戸初期の僧、松花堂昭乗(しょうかどう・しょうじょう)が、晩年に構えた草庵茶室である。昭乗は真言密教を修めて阿闍梨となり、男山石清水八幡宮(おとこやまいわしみずはちまんぐう)の滝本坊(たきもとぼう)住職となった人物。晩年は松花堂に隠棲し、風雅三昧の日々を送るわけだが、興味深い逸話が多い人物であり、この人物についてはまた改めて紹介することにする。
最後に、松花堂弁当を食べるときの作法について。茶事の料理を原型にしてつくられた松花堂弁当には、本来は箸や蓋の使い方、食べる順序などに作法があるが、今回は一般的な食事の場合のマナーに触れておきたい。まず蓋は両手で開けて、箱の下に重ねるか、弁当箱本体の奥側に仰向けにして置く。食べ物は、吸い物からはじめ、前菜や刺身などから食べ進めるのが一般的だ。食事が終わったら、魚の骨などの食べ残しを一箇所にまとめておき、蓋を閉じる。
松花堂庭園・美術館(八幡市)の一部として保存されている松花堂。