第一次世界大戦
一九一四年(大正三)七月二十八日オーストリアのセルビアに対する宣戦布告に始まり、一八年十一月十一日ドイツの降伏によって終った戦争。欧州大戦ともいう。発端は、ボスニアの首都サラエボ(現ユーゴスラビア領)で、一四年六月二十八日に突発したセルビアの一青年によるオーストリアの皇位継承者フェルディナント大公夫妻の暗殺事件にあった。この事件はバルカンの複雑な民族問題にからんでおり、両国の外交交渉決裂のあと、八月初めまでに、ドイツ・ロシア・フランス・イギリスなどの主要強国をすべて戦争に巻きこみ、さらに世界戦争へと拡大した。
〔大戦前史〕
大戦はイギリス・フランス・ロシアの協商国(連合国)とドイツ・オーストリアの同盟国を敵対両陣営の中心として戦われた戦争であるから、大戦の原因を考えるためには、列強相互間の同盟・協商の成立経緯を展望しておく必要がある。ドイツの統一が実現した一八七一年に始まり、一九一四年の大戦勃発に至るあいだの国際関係の推移は、一八九〇年を境として、二つの時期に分けて展望できる。第一段階はビスマルク体制とよばれる時期で、この時期の特徴はドイツ・オーストリア・ロシアの三帝協商とドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟が締結されドイツの国際的地位が優越していた反面、フランスが孤立していたことである。これに対して、ビスマルクの失脚した一八九〇年以後の第二段階の特徴はドイツの優越が崩れ、結局、ドイツが国際的に孤立化していったことである。ビスマルク体制は一八九〇年のロシア・ドイツ再保障条約不更新の決定とともに破綻し、一八九一―九四年にロシア・フランス同盟が成立した。ついで、十九世紀末、日清戦争後の中国分割、ファショダ事件、アメリカ・スペイン戦争などが発生して国際対立が激化するに及び、イギリスは一八九八年、九九年、一九〇一年の三度にわたりドイツとの同盟締結を交渉したが、ドイツの判断の誤りから英独同盟は不成立に終った。ドイツとの同盟を断念したイギリスは、一九〇二年(明治三十五)一月三十日、桂内閣治下の日本と日英同盟を結んだ。ついで、日露戦争勃発直後の〇四年四月八日、イギリス・フランス協商を締結、さらに日露戦争後の〇七年八月三十一日、イギリス・ロシア協商が成立し、イギリスは中央アジアでロシアとの勢力範囲の協定調印に成功した。ここに三国協商体制が完成したが、それに反して、ドイツは列強の包囲網のもとにおかれ、同盟国イタリアも一九〇〇年と〇二年にフランス・イタリア協商を結んで結束を強化したので頼むに足らず、三国同盟は弱体化していた。ロシアが日露戦争の敗北とイギリス・ロシア協商の締結により、対外政策の重心をダーダネルス・ボスポラス両海峡に向け始めたため、国際対立の焦点はバルカン問題に移った。一九〇八年、オスマン帝国では青年トルコ党が日露戦争における日本の勝利に刺激を受け、近代化への革命を起したが、その混乱の中でオーストリアは、一八七八年のベルリン会議以来、トルコの宗主権のもとにありながら行政管理権だけをゆだねられていた、スラブ民族の居住するボスニア・ヘルツェゴビナ二州に対して、完全併合をトルコに認めさせた。これはロシアに対する汎ゲルマン主義の挑戦であったから、ロシアは汎スラブ主義の結束強化に乗り出した。これがサラエボ事件発生の背景だった。
〔大戦の発生と国際政治の変動〕
一九一四年六月二十八日のサラエボ事件発生とともにヨーロッパの国際関係は極度に緊張した。オーストリアは同盟国ドイツの全面的支援を受ける保障を固め、強硬な態度でセルビアに臨むため七月二十三日に四十八時間の期限付きの最後通牒を発した。交渉は決裂し、二十八日にオーストリアがセルビアに開戦すると、バルカンの局地戦争に連鎖反応が起った。三十日のセルビアを後援するロシアの総動員令に対抗し、ドイツはいちはやく八月一日にロシアとの開戦に踏み切り、三日にはフランスにも宣戦布告した。ついでドイツ軍が北フランスに侵攻することを目差してベルギーの中立を蹂躙すると、イギリスはこれを開戦理由にして、四日ドイツに宣戦布告した。このようにして全面的なヨーロッパ戦争が発生したのみでなく、列強は海外に植民地をもっていたから、戦火はたちまち世界各地に拡がった。ドイツ軍の作戦計画は開戦直前の一九一三年に世を去った参謀総長シュリーフェンの構想を基礎としていた。シュリーフェン計画の名で知られたドイツ軍の戦争計画は、東西をロシアとフランスに挾まれ二正面戦争を強いられる位置にあったドイツとしては、まず西部戦線でフランスに対してできるだけ迅速に行動して決定的打撃を与え、次に東部戦線のロシアに当たろうとする作戦だった。もっとも、そのためにはフランスとの国境を直接突破せず、ベルギーの中立を侵して北フランスに突入する必要があり、したがって国際法侵犯行為を開戦の口実としてイギリスを参戦させた致命的欠陥をもつ作戦計画だった。ベルギー軍の抵抗も意外に頑強でドイツ軍は予定どおりパリに殺到することができず、東部戦線でも迅速なロシア軍の動員によってベルリンに脅威が加わるに及び、参謀総長モルトケはヒンデンブルクとルーデンドルフを起用し、ロシア軍との決戦に備えた。ドイツ軍は八月二十三日から九日間にわたる東プロイセンのタンネンベルクの会戦で勝利し、ロシア軍を包囲殲滅することができたが、九月五日から約一週間にわたる西部戦線でのマルヌの戦いに敗れたため、短期即決を骨子とするシュリーフェン計画は完全に瓦解し、以後長期戦におちいった。一九一四年十月末、トルコがドイツ側に立って参戦すると、国際政治の展開は複雑になった。イギリス・フランスは、ロシアがドイツと単独講和することを防止する必要から、またイタリアを連合国側に参戦させる必要から、一五年三月十八日海峡地帯の領有に関するイギリス・フランス・ロシア三国間のコンスタンティノープル協定、ならびに同年四月二十六日にトルコ領分割に関するイギリス・フランス・ロシア・イタリア四国間のロンドン協定を締結した。同年五月三日三国同盟を離脱したイタリアは、五月二十三日オーストリアに対して宣戦を布告した。ブルガリアのドイツ・オーストリア側への参戦(一五年十月)、ルーマニアの連合国側への参戦(一六年八月)に際しても、それぞれの側から領土獲得の秘密条約が結ばれた。また、アラブ国家の樹立を約束したマクマホン宣言(一五年十月二十四日)とユダヤ人国家の再建を約束したバルフォア宣言(一七年十一月二日)の名で知られた二つの秘密条約は相互に矛盾した内容をふくむもので、イギリスの結んだ秘密外交の所産だった。戦争は極東にも波及した。一四年八月二十三日、日本は日英同盟を理由にしてドイツと開戦した。日本軍は青島(チンタオ)を占領するとともに、日本海軍は膠州湾を脱出してキールに向かうドイツの東洋艦隊を追跡し、一七年には遠く地中海にも艦艇を派遣して連合国と協力した。だが、日本の戦争目的は中国進出にあった。日本は一五年一月十八日に袁世凱政府に二十一箇条要求を提出した。同年五月、日本の要求は認められたが、日本はイギリス・アメリカ両国から厳重な抗議を受けた。欧米列強の了解をとりつけておくべき必要を感じた日本は、一五年十月十九日単独不講和を協定したロンドン宣言への加盟、一六年七月三日第四次日露協約の締結、一七年二―三月山東および南洋諸島に関するイギリス・フランス・ロシア・イタリア四国との秘密協定の締結などの対策を具体化した。アメリカとの間には、一七年十一月二日石井・ランシング協定を締結したが、これは一時的な妥協にすぎなかった。同じ年、日本は袁世凱の後継者段祺瑞政府に対して「西原借款」を供与し、対華投資を強化して中国進出を画策した。
〔アメリカの参戦とロシアの革命〕
ドイツは開戦前に建艦計画を着々と進めてきたにもかかわらず、海軍力はイギリスにくらべて劣勢だったから、潜水艦戦に期待をかけたが、一五年五月七日に百名を超えるアメリカ人の生命を奪った、ドイツ潜水艦によるイギリス船ルシタニア号撃沈事件が発生したことから、アメリカとの関係が急激に悪化した。ドイツ首相ベートマン=ホルベークはアメリカ大統領ウィルソンの厳重な抗議と強硬な潜水艦戦論者ティルピッツ海相に挾まれ苦境に立ったが、一六年三月ティルピッツを罷免することができアメリカとの関係を改善した。だが、同年八月参謀総長ファルケンハインはフランス軍の拠点ベルダン要塞占領の失敗とルーマニアの連合国側への参戦に直面して罷免され、そのあと参謀総長ヒンデンブルク・第一兵站総監ルーデンドルフの陣容で再編制された最高統帥部は一七年二月一日から無制限潜水艦戦の実施に踏み切った。そこで同年一月二十二日上院で「勝利なき平和」をよびかけていたウィルソンは、二月三日ドイツとの断交を決定した。ついで三月一日に報道された、いわゆるツィンマーマン電報事件を契機としてウィルソンは参戦決意を最終的に固め、四月六日にアメリカは参戦した。無制限潜水艦戦はアメリカの参戦を招来した愚策だったが、他方でドイツに希望を与える出来事がロシアに発生した。一七年三月に「二月革命」が起ってロマノフ王朝が崩壊し、それがさらに同年十一月のボルシェビキを率いるレーニンの「十月革命」に発展し、ついで一八年三月三日にドイツとの単独講和を意味するブレスト=リトフスク条約が結ばれ、ロシアが大戦から脱落したのである。
〔大戦の終結とベルサイユ体制の成立〕
一九一八年三月二十一日ドイツ軍は西部戦線で総攻撃を開始し、かつての戦場ソンムを越え、アミアン前方一〇マイルの地点まで進出した。これはソンム攻勢とよばれ、ドイツ軍は四十日間優勢を保持したが、しかし、それ以上は補給が続かず、進撃を停止した。これに反して、アメリカの戦力の加わった連合国側は連合軍最高司令官フォッシュの指揮のもとに反撃に転じ、八月八日以後ドイツ軍は全戦線で敗退を余儀なくされた。同盟国側の降伏は九月三十日のブルガリアの降伏に始まり、十月三十日にトルコが降伏、ついで十一月三日にオーストリアが単独休戦し、皇帝カール一世がスイスに亡命した。ハプスブルク家の崩壊のあとを追い、ドイツでもキール軍港の兵士の反乱(十一月三日)を発端として革命が勃発し(十一月九日)、皇帝ウィルヘルム二世のオランダ亡命とともに、四十余年のホーエンツォレルン家の支配が瓦解した。一八年十一月十一日ドイツはパリ郊外コンピェーニュの森で休戦条約に調印し、ここに四年三ヵ月にわたる第一次世界大戦が終結した。連合国とドイツとの講和会議は一九年一月十八日からパリのフランス外務省で開かれた。ウィルソンの十四ヵ条の原則がこの会議の指導理念となるはずであったが、ウィルソンの理想主義はイギリス・フランスの現実主義的権力政治に阻まれ、同年六月二十八日に調印を強いられたベルサイユ条約に対してドイツは強い不満を抱いた。アルサス・ロレーヌのフランス返還、ザール地方の住民投票による帰属決定、ポーランド再興に伴うドイツ領の割譲、ダンチヒの自由市化、すべての海外植民地の放棄、軍備制限、戦争責任の承認とそれに拠る賠償支払いの義務、外国軍隊のライン左岸十五年間占領などが課せられていたからである。ついで、オーストリアとはサン=ジェルマン条約(一九年九月十日調印)、ブルガリアとはヌイイ条約(同年十一月二十七日調印)、ハンガリーとはトリアノン条約(二〇年六月四日調印)、トルコとはセーブル条約(同年八月十日調印)が締結された。これらの諸条約を支柱として成立した第一次世界大戦後のヨーロッパの国際秩序を総括してベルサイユ体制とよぶ。日本は大戦中輸出貿易の盛況によって多くの戦争成金を生み、パリ講和会議では五大列強に仲間入りできて国際的地位の向上を誇ったが、すでに大戦末期の寺内正毅内閣治下の一九一八年(大正七)八月に発生した米騒動やロシア革命干渉のシベリア出兵が示すように、その繁栄は決して健全ではなかった。一九年三月一日、朝鮮に起った三・一運動は日本の植民地体制に対する最初の激しい衝撃だった。
〔大戦の意義と研究史〕
歴史上最初の世界戦争になった第一次世界大戦は、各国とも当初の計画では予想もしなかった膨大な量の軍需物資を消耗しつくし、そのため勝敗はそれを補給できる生産力の強弱によって決せられる総力戦になった。また、大戦中の各国の秘密外交が示すように、第一次世界大戦は植民地の再分割を目差す帝国主義戦争だったが、一七年のアメリカ参戦とロシア革命を契機として、大戦の終結にウィルソンやレーニンの新外交が影響を及ぼした。もっとも、革命の国ロシアを代表するレーニンは講和会議には招かれず、結局、成立したベルサイユ体制はウィルソンやレーニンの理想にはほど遠いイギリス・フランス本位の帝国主義的国際秩序で、再び世界戦争への道を歩むことになる。さらに、戦勝国イギリス・フランスも総力戦を経験して極度に疲弊した上、大戦がロシア・オーストリア・ドイツの三帝国の崩壊とともに終結したことにより、ヨーロッパの国際政治は著しく不安定になった。このことは、これまで政治・経済・文化などあらゆる面で全世界の指導的地位に立ってきたヨーロッパそのものが第一次世界大戦を転機に地盤沈下し始めたことを意味する。したがって、第一次世界大戦の世界歴史の進展に演じた役割は「ヨーロッパの没落」の顕在化であったといえよう。第一次世界大戦の史的究明は一九二〇年代に、開戦責任を明らかにしようとする外交史研究から始まった。ベルサイユ条約はドイツの戦争責任を前提にして成立した条約だったから、これに反発する国民感情を背景にしてとりわけドイツで研究が活発だったが、やがて単なる開戦責任論にとどめず、高度資本主義時代の帝国主義に対する批判的視点に立って大戦の原因を論及する研究も生まれた。そして第二次世界大戦の始まるころには、ドイツの単独責任の追求でなく、大戦の原因を列強の帝国主義的対立に求める見解が支配的になっていたが、第二次世界大戦後十五年あまり経た一九六〇年代に、西ドイツの歴史家フリッツ=フィッシャーが公表した侵略戦争史観に基づくドイツの戦争目的論をめぐって大論争が起り、現段階ではこの問題提起を度外視して第一次世界大戦史を論じることはできなくなっている。
→山東問題(さんとうもんだい),→大戦景気(たいせんけいき),→地中海作戦(ちちゅうかいさくせん),→青島攻略(チンタオこうりゃく),→南洋委任統治地(なんよういにんとうちち),→ベルサイユ条約,→ベルサイユ体制
[参考文献]
『(岩波講座)世界歴史』二四、鹿島守之助『世界大戦原因の研究』(『日本外交史』別巻二)、中山治一『帝国主義の開幕』(河出書房新社『世界の歴史』二一)、江口朴郎『帝国主義時代の研究』、尾鍋輝彦『二十世紀』五、義井博『カイザー』(『人と歴史シリーズ』西洋二九)、フィッシャー『世界強国への道―ドイツの挑戦、一九一四―一九一八年―』(村瀬興雄監訳)

