邪馬台国
二、三世紀の日本列島内にあった小国の一つで、対馬国(のちの対馬島上県・下県郡、現在の長崎県上県・下県郡)以下二十八の小国を統属していた倭国連合の盟主国。二世紀末から三世紀前半まで女王卑弥呼が都としていた国。この国への道程は『魏志』倭人伝によれば諸韓国の一つ狗邪韓国(弁辰狗邪国・金官国・駕洛国ともいい、現在の大韓民国慶尚南道金海郡)から千余里渡海して対馬国に至り、また南へ千余里渡海して一大(支)国(のちの壱岐島壱伎郡・石田郡、現在の長崎県壱岐郡)に至り、さらに千余里渡海して末盧国(のちの肥前国松浦郡、現在の長崎県北松浦・南松浦郡、佐賀県東松浦・西松浦郡一帯、その中心は佐賀県唐津市付近か)に至る。そこから東南へ五百里陸行して伊都国(のちの筑前国怡土郡、現在の福岡県糸島郡前原町を中心とする一帯)に至り、また東南の奴国(のちの筑前国那珂郡、現在の福岡県福岡市・春日市一帯)へは百里、東行して不弥国(のちの筑前国穂波郡穂波郷、現在の福岡県飯塚市・嘉穂郡一帯、もしくは筑前国宇美、現在の福岡県粕屋郡宇美町)へは百里、南の投馬国(のちの筑後国上妻・下妻郡、現在の福岡県八女市・八女郡一帯のほか出雲説・但馬説など)へは水行二十日、南の邪馬台国へは水行十日、陸行一月で到達し、また帯方郡からは一万二千余里の地点にあったという。この国には伊支馬・弥馬升・弥馬獲支・奴佳
の四つの官があり、魏への派遣官は、みな大夫と称していた。七万余戸の人口があり、国の以北にある諸国を検察するため伊都国に常駐していた一大率(あるいは大率)という官が特置されており、諸国はこれを畏憚していたと伝える。さらに国中には古代中国の地方官である刺史に類する官(あるいは一大率のこととみなされている)があって、魏の都洛陽や帯方郡さらに諸韓国に使者を派遣する場合、もしくは帯方郡の使者が倭国を来訪した際に、すべて船着場で捜査し、文書や物資を女王のもとに伝送するのに誤りがないようにしていたという。また国々には市があって物資の交換取引を監督する大倭と呼ばれる役人がいた。この国の王は、もと男子であったが、二世紀後半に倭国が乱れ戦いがつづいた後に卑弥呼が共立されて女王となり、宮室・楼観・城柵が厳重に設けられ、兵士が武器を手にして守衛していた。女王卑弥呼の死の直前、従来より不和であった狗奴国(のちの肥後国球磨郡、現在の熊本県球磨郡一帯か)と戦い、戦乱の最中に卑弥呼は世を去ったらしい。この後、男王が立てられたが、国中は服さないで戦乱となり、千余人が死んだ。そこで卑弥呼の宗女で時に十三歳の壱与(台与とも)を王に立てると国中は安定をとりもどしたという。大人・下戸の階層があり、また婢・生口など下層の階級の者も存在していた。婢は王などに召し使われ、また殉死させられていたらしい。生口は朝貢物として魏の皇帝に贈られていた。さらに持衰(じさい)と呼ばれ航海の安全を図るため精進潔斎をしてすごす特殊な職能者もいた。尊卑の差序が明確で顔面・身体にほどこした入れ墨で尊卑の差をあらわし、身分秩序は厳然としており、軽罪の者は妻子を没し、重罪を犯した者は、その門戸・宗族を没するという法秩序も整っていた。租税を納める制度も存在し、軍事物資を貯えたらしい邸閣も備わっていた。倭人の男子は冠をかぶらず髪を露出し、木緜(もくめん)を頭に巻き、ほとんど縫っていない横幅の布を身体にまとい、婦人は髪を延びるままにして束ね、布の中央に穴をあけ、頭をその穴にとおして着る衣服(貫頭衣)を着用し、すべて裸足で暮していた。食事の時は、
豆(竹・木で作った高坏)を用い、箸などを使わず手で直(じか)に食べていた。屋内では父母兄弟の寝室が別々になっており、身体には朱丹を塗っていた。人が死ぬと棺は用いるが、槨は拵えず、土で冢を作った。死者をその冢に葬るまでの十余日間、喪に服し、肉食は避け、喪主は哭泣し、他の者は歌舞飲酒してすごした。死者を埋葬したあと家をあげて死の汚れを除くため水に入って沐浴し身を浄めた。また動物の骨を焼き、
(ひび)割れを見て吉凶を占う卜筮も行なっていた。このような倭人の習俗は、邪馬台国に居住していた人々も同様であったとみなしてよい。邪馬台国の時代は、考古学の時期区分では弥生文化時代の後期後半にあたるので、すでにひろく水稲耕作が行われていた。『魏志』倭人伝にも「禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・
緜を出だす」とある。この記事から稲作を中心に、麻を栽培し、絹織物や綿織物が生産されていたことが察せられる。また女王卑弥呼が魏の皇帝に献上した物品の中に倭錦・絳青
などの織物があったことによって錦や高級な絹布が織られていたと考えられる。邪馬台国の所在についての代表的見解は、大和説と九州説とであり、九州説にはさらにさまざまな地域に比定する説があって分立している。邪馬台国大和説は、『日本書紀』神功皇后摂政三十九年・四十年・四十三年条の分注に『魏志』倭人伝を引用し、卑弥呼を神功皇后に比定していたらしいことからすれば、すでに同書の編纂時代から存在していたことになる。この分注引用記事によったためか以後、大和説は長く引き継がれ、邪馬台国研究が学問的な対象となる江戸時代にまで至る。松下見林が『異称日本伝』で「卑弥呼は、神功皇后の御名、気長足姫尊を、故れ訛りて然か云ふ」と述べていることからも、それは明らかであり、そのあとを受けた新井白石も、『古史通或問』において「邪馬台国は即今の大和国なり」と主張していた。ところが新井白石は、やがて『外国之事調書』において邪馬台国を筑後国山門郡(福岡県山門郡)に比定するようになり、邪馬台国九州説の中ではもっとも有力な邪馬台国山門郡説の先鞭をつけた。新井白石の死後五年にして誕生した本居宣長は、邪馬台国を大和にあった国とみなしていたが、魏に朝貢したのは神功皇后ではなく、「熊襲」などの類が神功皇后の名を騙って通交したのであるとし、「熊襲偽僭説」の先駆けとなった。この説を発展させたのが鶴峯戊申(しげのぶ)であり、邪馬台国を大隅国囎唹郡(鹿児島県曾於郡)に比定し、また近藤芳樹は、肥後国菊池郡山門郷(熊本県菊池市一帯)説を主張した。ここに邪馬台国九州説での代表的三説、山門郡説・囎唹郡説・山門郷説が出揃い、これらがともに明治時代にまで及んだ。明治四十三年(一九一〇)に白鳥庫吉の「倭女王卑弥呼考」、内藤虎次郎(湖南)の「卑弥呼考」が発表され、近代における邪馬台国研究の画期となった。白鳥庫吉は詳細な里程論と日数論の上に立って、邪馬台国は肥後国(熊本県)内にあったとし、卑弥呼をその地方の女酋とみなした。一方、内藤虎次郎は『魏志』倭人伝の本文批判をとおして、邪馬台国は大和に擬するほかはないとし、卑弥呼を倭姫命にあてた。この両論以後、両者の間をはじめ大和説・九州説に拠る研究者の間に邪馬台国論争が展開された。白鳥説を承けて橋本増吉が、また内藤説を継いで笠井新也が代表格となって、それぞれ九州説・大和説を発表した。橋本増吉は邪馬台国を筑後国山門郡の地とし、笠井新也は卑弥呼を倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)命とし、卑弥呼の冢を箸墓(はしのはか)とみなした。この間、梅原末治は、三角縁神獣鏡が魏代の製作の可能性の高いことを説いて、この鏡が近畿地方に濃厚に分布することから邪馬台国大和説に同調して、考古学の見地からする新しい方向づけをした。その後マルクス史学者は、考古学からの指摘を重視して大和説をとる者が多く、邪馬台国は当時の日本列島内のもっとも先進的な社会を形成させており、国家体制への明確な徴候がみられるという指摘がなされ始めた。第二次世界大戦後、邪馬台国研究は活況を呈し、諸説は乱立し、現今に至るまで定説は打ち立てられていない。しかし『魏志』倭人伝の文献研究は深められ、邪馬台国の性格や構造、卑弥呼の王権についての研究も著しく進み、関係する論著が数多く出版されている。戦後の主立った論説をあげれば邪馬台国九州説では、榎一雄が『魏志』倭人伝の里程・日程記事をとりあげて、従来邪馬台国に至るまでの行程を直線的に読みとってきたことを退けて、伊都国までの行程記事は、それ以前の国からの方位・距離を示し、到達する国名をあげているのに対して、伊都国からは、方位・国名・距離の順に記述しているのは、伊都国から奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国などそれぞれの国に至ることを意味しているものとし、邪馬台国は伊都国から南へ水行十日、または陸行一月で到達する地点、すなわち筑紫平野のうちに求められるとしたことが注目される所説とされている。一方、邪馬台国大和説では、小林行雄が三角縁神獣鏡の特殊な分有関係の存在に着目して、三世紀中葉の政治的情勢を見究め、邪馬台国九州説の成立は困難になると論じたことが、大和説に有力な一つの支えとなったものとしてあげることができる。また九州説からする藤間生大(せいた)の邪馬台国を中心とする諸小国で構成されていたとする連合国家論、井上光貞の邪馬台国の政治体制を原始的民主制の段階とみなした論説、さらに大和説の立場にたっての上田正昭の専制君主制萌芽的形態論などが相ついで提出された。卑弥呼が共立によって王となったこと、卑弥呼の死後、王位継承にあたって国人が服さなかったことなどから当時の邪馬台国の王制が確固たる世襲王制であったとはみなされないことをふまえて邪馬台国を古代国家の端緒形態と指摘した石母田正(いしもだしょう)の所論も注目された。かつて内藤虎次郎は、『魏志』倭人伝の本文批判の中で、諸版本が邪馬台国を「邪馬壹国」に作っていることを取りあげて、「邪馬壹は邪馬臺の訛なること、言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆臺に作れり」と論じていたが、古田武彦が「邪馬壹国」論を発表し、邪馬台国は諸版本の記すとおり、「邪馬壹国」が正しいとした。この論は『魏志』倭人伝の本文批判を再検討する気運を促した点で評価できるが、古田説への疑問は多方面から寄せられている。→魏志倭人伝(ぎしわじんでん),→親魏倭王(しんぎわおう),→台与(とよ),→卑弥呼(ひめこ)
[参考文献]
石原道博編訳『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』(『岩波文庫』)、三木太郎『邪馬台国研究事典』一、佐伯有清編『邪馬台国基本論文集』、三品彰英編『邪馬台国研究総覧』、佐伯有清『研究史邪馬台国』、同『研究史戦後の邪馬台国』、武光誠編『邪馬台国辞典』

)国とするのが妥当。邪馬台は正式には「やまと」と読むが、大和 (やまと) 王権と区別するために一般には「やまたい」と呼称している。
