万葉集
飛鳥・奈良時代の歌集。二十巻。
〔成立〕
現在見る形にまとめられたのは何時か不明。制作年代のもっとも新しい歌は天平宝字三年(七五九)正月の大伴家持の作歌だから、最終的編纂はそれ以後になる。最近の伊藤博説によれば、巻一から巻十六まで(これを第一部と呼ぶ)のうち、天平十六年(七四四)七月二十日の日付をもつ歌が新しく、第一部は天平十七年以降の数年間に成立、巻十七以降の四巻(第二部)は、少数の例外的に古い歌を除けば天平十八年正月から天平宝字三年正月までの作品であり、第一部に続き天平勝宝五年(七五三)八月から天平宝字二年初頭までに巻十七・十八・十九の三巻が成り、その後巻二十が加えられた。二十巻本編集の立役者は大伴家持で、現存の形とほぼ等しいものが作られたのは延暦元年(七八二)から翌二年にかけてであろうと推測される。巻一・巻二に関していえば、巻一前半部が持統天皇の発意により文武朝に編纂され、後半部の追補が和銅五年(七一二)から養老五年(七二一)までに行われ、同じころに持統万葉の企図を受けついで巻二が編纂された。この巻一・巻二を母胎に十六巻本、二十巻本に成長したのが現存の形だろうという。なお問題も多いが、数次の編纂によることと、大伴家持の手が多く加わっていることは間違いない。
〔内容〕
『万葉集』は実質的には舒明天皇時代(六二九―四一)から淳仁天皇の天平宝字三年まで、約百三十年間の長歌・短歌・旋頭歌・仏足石歌など四千五百首余りを収録する歌集である。文学史的には口誦の歌謡から記載の抒情歌の生み出された原初期の作品の集成であって、天皇・皇后をはじめ皇族や貴族・大宮人とともに階層的に低い一般民衆の歌まで含むので、古代の人々の持っていた勃興的で意欲的なエネルギーに触れることができる。中世以降において和歌の歴史の行き詰まった時に、常に『万葉集』が顧みられ、万葉調の復興が唱えられたのも、このような『万葉集』のもつ清新なエネルギーを糧に、衰弱した歌の力の回復が求められたのだといえる。
〔歌風〕
『万葉集』の歌風を概観する場合、これを四期に分けるのが普通である。
(一)第一期
舒明朝から壬申の乱(天武天皇元年(六七二))まで。日本の古代史のなかでも激動の時期で、皇極天皇四年(大化元、六四五)六月の蘇我氏誅滅のクーデター、同年九月の古人大兄皇子の謀叛、大化五年の蘇我倉山田石川麻呂事件、斉明天皇四年(六五八)の有間皇子の死などの間に、大化の改新という大改革も行われ、古代国家の基礎が固められた。その後斉明天皇七年の新羅征討軍団の西征、天智天皇二年(六六三)の白村江の敗戦、同六年の近江遷都を経て壬申の乱に至るまで、文字通り多事多難であった。この期の歌は初期万葉歌とも呼ばれるが、文字との関係からいえば文字以前の口誦の歌といってよい。初期万葉歌に特に濃厚に認められる集団性・意欲性は限界芸術的性格で、宮廷儀礼や民間習俗の場と結びついている。舒明天皇の国見歌や中皇命の宇智野の猟の歌、近江遷都の時の額田王作歌などの長歌にはことに場の制約が強く認められる。歌謡や民謡との関係の濃密さは口誦歌として当然であろうし、この期の相聞歌のほとんどが求婚の贈答歌であるのは、その源流が歌垣の掛合いにあることを語っている。天智天皇七年五月五日蒲生野薬猟時の額田王と大海人皇子の贈答も、掛け合いの伝統を承ける宴席の即興歌で、いわゆる忍ぶ恋の歌ではなく、集団に共有されるものであった。自然に霊性を認め、それを畏怖しつつそれに依存し、自然と融即する傾向を持つのは、農業生活に根ざした必然的な性質でもあるが、そうした自然感情の濃厚にあらわれているのも初期万葉歌である。しかし天智朝には官人制の拡充、都城への集住、舶来の教養など文学的新風を生む条件も整った。漢詩を読み、それに模して和製の漢詩を作ることを通して得られた新しい文学の意識は、口誦とは別の世界を人々に教えた。そうした海彼の文学意識が徐々にやまと歌の発想や表現に浸透するのであって、主観語をあまり用いず、客観的即事的な表現を主としつつ、記紀歌謡より内面化し、対象の核心を簡浄な言葉でとらえ、独自の表現美を保持するところにこの期の歌の姿が示されている。
(二)第二期
壬申の乱以後奈良遷都(和銅三年)まで。天武朝には強大な専制王権の確立を見た。皇親政治が実現され、政治機構が充実したばかりでなく、文化的にも活力に満ちた時期であった。天武天皇四年二月の歌人貢上、同十年二月の律令修定の詔、同年三月の帝紀および上古の諸事記定の詔、翌十一年の『新字』四十四巻の作成など、一連の文化的事業はこの時期の動向を端的にあらわす。柿本人麻呂の歌人としての出発がこの天武朝にあり、口誦の歌謡から記載の抒情歌への転換期にあたっていたことは、その歌の性格を根本的に規定している。人麻呂は文字によって作歌した最初の歌人であった。その作歌法が前代と異なることは、枕詞・序詞・対句などを見ても明らかである。長歌・短歌・旋頭歌などそれぞれの歌体の記載文学における可能性が探られたのもこの時期であった。記紀歌謡や初期万葉歌と異なり、数十句または百句を越える長歌が人麻呂によって作られたのは、中国の辞賦の影響である。反歌が、長歌の内容の要約とか反復にとどまらず、長歌に詠まれている時間・空間の枠を越え独立的傾向を強めたのも人麻呂からである。複数の反歌や短歌による連作的構成が見られるようになったのは、読む歌として享受されたことと関連している。人麻呂はまた、自然にせよ人事にせよ、対象と混然合一の境地にあるような歌を詠んでいる。これは前期に関して触れた自然との融即性ともかかわるが、そうした古代的な心情と新しい技法との微妙な調和が前後に類を見ない人麻呂的特色をなす。人麻呂と同時代の歌人として、天武天皇・持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子・穂積皇子・但馬皇女・弓削皇子などの皇族と、藤原夫人・石川郎女・志斐嫗・高市黒人・長意吉麻呂・春日老などがあげられる。
(三)第三期
奈良遷都から天平五年まで。人麻呂没後の和歌史にさまざまな個性の開花した時期である。長屋王を中心とする奈良詩壇に藤原房前・藤原宇合・安倍広庭・吉田宜・背奈行文など貴族や文人が集まり、佐保の王邸ではしばしば詩宴が催された。その詩には『文選』『玉台新詠』ばかりでなく王勃や駱賓王など初唐詩の影響も指摘される。その影響はやまと歌にも及び、発想や表現の上にいちだんと明瞭な形であらわれるようになる。とりわけ注目されるのは、神亀五年(七二八)に大宰帥として九州に下向した大伴旅人を中心とする筑紫歌壇であった。山上憶良・小野老・沙弥満誓などを含む中国文学に造詣の深い官人たちの共作によって、初唐詩の詩序形式を模した梅花歌群が詠まれ、さらに『遊仙窟』や『文選』の「洛神賦」などの示唆を受けた松浦歌の歌序も作られる。旅人と憶良という、性格も文学観も対蹠的な二人の邂逅は、相互の特徴をいっそうきわ立たせることになった。現実的論理的な憶良が老病貧死の苦を佶屈な調べで歌ったのに対し、浪漫的空想的な旅人は嘆老・望郷の思いや亡妻思慕の情を流れるような調子で歌っている。これとは別に中央の歌人たちの中で、人麻呂の讃歌的伝統を継承したのは、笠金村・車持千年・山部赤人らであった。特に赤人は人麻呂の形式に学びつつ洗練された感性によって叙景的表現に特色を発揮した。また東国の地方官となった高橋虫麻呂は、旅愁や伝説を歌って異彩を放った。
(四)第四期
天平六年以後淳仁天皇の天平宝字三年まで。この期間は天平文化の爛熟期にあたり、東大寺の造営、大仏開眼などもあったが、政権争いの深刻化していった時期である。この期に注目されるのは、大伴家持との恋の贈答に哀切な歌を多く残した笠女郎、技巧的な作品で家持を拝跪せしめた紀女郎、家刀自として祭神歌、怨恨歌、天皇への献歌など多彩な作品を残した大伴坂上郎女など、一群の女性たちである。それらの歌は末期万葉の風雅を代表するもので、王朝女流の作歌へつながる性格を持つ。男性歌人では越中時代の家持の歌友大伴池主、宮廷歌人の流れを汲む田辺福麻呂の作が目に立つ。そのほか天平八年六月難波を出帆した遣新羅使人たちの歌百四十五首、越前国に流罪となった中臣宅守とその赦免を待つ狭野茅上娘子との贈答歌六十三首、天平勝宝七歳の防人歌など、遊戯的または形式的な宴席歌の多いこの期の作品の中で率直な抒情が注目される。大伴家持の作品は天平五年から天平宝字三年に及ぶ。少年時代のほのかな恋心を歌ったものから、地方生活を経て内面的豊かさを加え、人麻呂・赤人・憶良などの作品に多くを学び、中国文学の示唆も得て独自の歌境をひらくに至る。特に天平勝宝二年三月の春苑桃李の歌や少納言となって帰京後に詠まれた春愁の歌などが高く評価されている。なお『万葉集』四千五百首余りの中千八百首強が作者未詳歌である。巻十四の東歌のほか、巻七、十―十三などに多く含まれるそれらの作品が大河の流れるように万葉の基層を成していたことも見逃せない点である。
〔研究〕
中世以前の注釈書の中、画期的なものは仙覚の『万葉集註釈』で文永六年(一二六九)の完成。その後、由阿の『詞林采葉抄』があり、近世には、北村季吟『万葉拾穂抄』(元禄三年(一六九〇))、下河辺長流『万葉集管見』(寛文元年(一六六一)?)、契沖『万葉代匠記』(初稿本(貞享末)、精撰本(元禄三年))、賀茂真淵『万葉考』などのほか、荷田春満の講義を弟信名が筆録した『万葉童蒙抄』、本居宣長『万葉集玉の小琴』、橘千蔭『万葉集略解』、岸本由豆流『万葉集攷証』、橘守部『万葉集檜嬬手』、鹿持雅澄『万葉集古義』などがまとめられた。明治以後になるとアララギ派の歌人による万葉調の唱導と批評の活溌化に伴い研究もいっそう盛んになった。『万葉集』の古写本および伝本の文字の異同を明らかにした『校本万葉集』(大正十三年(一九二四)・十四年)の出版のほか、橋本進吉・佐伯梅友らによる国語学的研究、折口信夫の民俗学的研究、岡崎義恵・高木市之助の文芸論的研究、北島葭江らによる風土地理的研究など多彩な方法で解明が試みられ、第二次世界大戦後の研究への足場が築かれたのである。翻刻・校注は『日本古典文学大系』四―七、『日本古典文学全集』二―五などに収められている。
[参考文献]
小島憲之『上代日本文学と中国文学』中、中西進『万葉集の比較文学的研究』、伊藤博『万葉集の構造と成立』、稲岡耕二『万葉表記論』





