ジャパンナレッジ 本文サンプル『豊臣秀吉』

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国史大辞典 本文サンプル『豊臣秀吉』

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国史大辞典

豊臣秀吉

とよとみひでよし

一五三七 - 九八
安土桃山時代の武将。天文六年(一五三七)生まれる。『太閤素生記』によれば尾張国愛知郡中村(名古屋市)の木下弥右衛門の子という。弥右衛門は織田信秀の足軽であったが負傷して村に帰り百姓となった。秀吉の母なか(大政所、天瑞院)は弥右衛門との間に、姉とも(瑞竜院日秀)と秀吉を生み、弥右衛門死後おなじく織田家の同朋であった竹(筑)阿弥に嫁し、一男一女をあげた。すなわち、秀長と旭姫(南明院)である。秀吉の幼名は猿、日吉丸とも伝える。十六歳のとき父の遺したわずかな永楽銭を持って中村を出、清須で木綿針にかえ、針を商いつつ流浪するところを遠江久能の城主松下加兵衛(之綱)に拾われ家来となったが、同輩の妬みにあい出奔、やがて織田信長に仕えることとなった。信長のもとで草履取から次第に出世した次第は小瀬甫庵『太閤記』に詳しく、そこには清須城の割普請や美濃墨俣(すのまた)築城においてみせた迅速な成功、薪奉行としての算勘の巧みさなど、秀吉の手腕を示す挿話が描かれている。しかし、確実な古文書の上でかれが姿を現わすのは、永禄八年(一五六五)十一月信長が美濃の坪内利定らに与えた知行充行状にそえた添状で、木下藤吉郎秀吉の署名がある。そのころからしばらく信長の奉行衆として、丹羽長秀などとともに活動していた。木下の姓については、正室ねい(北政所、高台院)の兄家定が木下を名のっているところから、入聟によって妻の実家の姓を借りたとみる説がある。天正元年(一五七三)七月木下姓を改め、羽柴姓に替えた。丹羽長秀と柴田勝家にあやかったものと伝える。時期的には信長による足利義昭の追放、室町幕府の滅亡と一致していた。筑前守の受領名もこのころから名のったと思われる。信長入京以後秀吉は京都周辺の政務を奉行していたが、天正元年九月浅井氏滅亡後の江北に大名として封ぜられ、今浜(長浜)に築城した。天正五年十月信長の命をうけて中国平定に出陣、播磨・但馬の経略に従事、三木城主別所長治の反乱を鎮定し、備前の宇喜多直家と結び、八年因幡・美作に入り、九年十月吉川(きっかわ)経家の籠る鳥取城を陥落させ、伯耆に進出、転じて淡路を押え、十年三月備中に向かい、五月高松城に清水宗治を囲んだ。六月二日本能寺の変に信長が斃れると、その報を秘して高松城救援の毛利輝元と講和を結び、宗治を自殺させて反転、十三日山城山崎に明智光秀と戦いこれを破った。光秀は敗走の途中土民に討たれ、秀吉によって首を本能寺に梟(きょう)された。秀吉は柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興らと尾張清須に会議し、信長の長男信忠の子三法師(秀信)を織田氏の後継者と定め、分国を再編、江北を勝家に譲り、みずからは山崎に拠った。以後、信長死後の主導権をめぐる闘争となったが、秀吉は天正十一年四月柴田勝家を近江賤ヶ岳に破り、勝家を本城越前北荘(福井)に攻めて自殺させ、勝家と結んだ信長の三男信孝も自殺、滝川一益らは降伏して、覇権の基礎を固めた。五月池田恒興を美濃に移し、秀吉は摂津大坂城に入り、八月畿内・近国の検地と知行割を実施、大坂城の大規模な築造に着手、ここを本城とした。この時期、秀吉は三法師を擁し、信長の五男御次丸(秀勝)を養子にした地位を活用し、信長の葬儀や一周忌の法要を行い、平秀吉を名のるなど、信長の正統の後継者であることを前面に押し出していた。のちまで用いることになった朱印も使用し始めている。天正十二年信長の次男信雄は徳川家康と結び、秀吉と対立した。秀吉は犬山城に入り小牧山に陣した家康に対したが、四月配下の甥秀次・池田恒興・森長可らは家康の本拠三河を衝こうとして尾張長久手の戦に家康に敗れ、恒興・長可以下が戦死した。十一月秀吉は信雄と講和、ついで家康もこれに従った。小牧・長久手の戦は、東国を平定して征夷大将軍の職につこうとした秀吉の権力構想(信長の継承)に転換を余儀なくさせた。十一月かれは従三位権大納言に昇任、公卿への道をふみだす。従来、秀吉は天正十年十月従五位下左近衛権少将、十一年五月従四位下参議に叙任したとされているが、ともに十二年十月以降遡及して叙任されたもので、文書はあるがその時点の事実ではない。天正十三年三月正二位内大臣、七月従一位関白となった。関白は古来摂家の者に限られた職であったが、秀吉は近衛前久の養子となり、藤原秀吉としてこの職についた。このころ弟秀長を将として四国を平定、ついで北国に進み越中・越後・飛騨から信濃に勢力を伸ばした。十四年五月妹旭姫を家康に嫁させ、十月母大政所を岡崎に質として送り、家康をして入京、臣従の礼をとらせることに成功、十一月信長以来の課題であった正親町天皇の譲位を実現、陽光院(誠仁親王)第一王子で十六歳の和仁(周仁)親王を後陽成天皇として即位させた。秀吉は太政大臣となり(十二月)、藤原氏を改め、豊臣姓を名のり、近衛前久の女前子を養子とし、新天皇の女御として入内せしめ、外戚の地位についた。このころ大村由己に書かせた『任官之事』には、秀吉の祖父を萩中納言という架空の公家とし、皇胤を匂わせる創作がなされている。天正十五年五月島津義久を降伏させて九州を平定、六月キリシタンの統制にかかわる二つの法令を発し、大名の自由な入信と大名による領民へのキリスト教入信の強制とを禁じ、人身売買を禁止するとともに、日本を「きりしたん国」に対置される「神国」と認識し、宣教師の追放を命じた。明の衰退とヨーロッパ勢力の進出という東アジアの新しい情勢のもとで、近世的な国家意識を表明したものといえる。天正十六年四月、秀吉は京都内野に新築した聚楽第に天皇を迎え、二十九名の大名から起請文をとって政権の基盤を固めた。信長によって追放された足利義昭もこれを機に帰京、剃髪して秀吉の知行を受け、室町将軍家は消滅した。七月秀吉は刀狩令と海賊取締令を発し、百姓の武装解除と耕作専念義務を定め、海民の掌握につとめた。関白政権による天下統合はこれ以後加速度を増したが、その手段は、大名ごとの領域支配を支援・確立して一揆を制圧し、領域内外の紛争は関白の裁定によって停止、裁定違犯者は関白によって編成された軍勢によって制裁するというかたちをとった。北条氏政・氏直父子の討伐はその典型例である。天正十五年暮関東・奥羽に発せられた惣無事令は両地域における武力紛争の全面的停止を命じたものであるが、北条氏は真田氏との係争地である上野沼田領に関する秀吉の裁定を侵犯し、公儀の名による「誅伐」を受けることになった。天正十八年秀吉は諸大名を動員して小田原城を攻め、七月北条氏を滅ぼし、八月会津城に入り、関東・奥羽の大名領知を確定、同時に徳川家康の江戸転封に代表される大規模な大名の移封・除封を実施し、天下統合を終えた。十九年八月、家臣団下層を構成する奉公人・侍・中間・小者らが町人・百姓となること、百姓が商売・賃仕事に出ることを禁じ、身分の社会的流動化に歯止めをかけ、その統制を強めた。同年暮関白の職を甥秀次に譲り、みずからは太閤として実権を握り、翌文禄元年(一五九二)諸大名に命じて朝鮮出兵を実行した(文禄の役)。秀吉の大陸侵略構想は関白就任直後からあり、国内における惣無事令と表裏をなしていた。九州平定後朝鮮の入貢と明への案内を朝鮮国王に求め、それに応じなかったことを理由に出兵したもので、秀吉は肥前名護屋に城を築いて本営とした。日本軍は緒戦で朝鮮二王子を捕え明の国境まで進出したが、義軍の蜂起と明軍の介入により戦線は膠着状態となり、文禄二年六月いったん講和となった。同三年八月側室淀殿との間に次男(秀頼)が生まれた。秀吉は正室との間に実子に恵まれず、秀勝死後も秀秋(三好のち小早川)・秀家(宇喜多)・智仁(六宮のち八条宮)を養嗣子とし、天正十七年淀殿が長男鶴松を生んだときは欣喜したが、十九年の鶴松夭折に落胆、秀次を豊臣家の継嗣とした。秀頼誕生を機に秀吉は隠居城であった山城伏見城を諸大名に命じ大拡張し、天下統合の中枢とし、城下に町屋敷を建設せしめた。こうした動きは国制の頂点にある秀次との間の矛盾を表面化させ、ついに文禄四年七月秀次は謀叛の罪により自殺、諸大名は秀頼への忠誠を誓約させられるに至った。八月大名・寺社以下の統制を主眼とした天下支配の掟および掟追加が徳川家康・毛利輝元ら有力大名の連署によって発せられた。大名相互の自主的な盟約を停止したことに象徴されるように、戦国時代が法制的に終幕を告げたものといえる。有力大名と直臣の奉行によって構成される権力機構はこの時点で成立し、慶長三年(一五九八)七月の五大老・五奉行の職制として整備された。慶長元年九月来日した明使楊方亨を大坂城に引見した秀吉は意に反した表文にその無礼を怒り、使節を追い返すとともに再度の朝鮮出兵を命じた(慶長の役)。このたびは秀吉は伏見城に居り、諸軍も朝鮮南半部の沿岸地帯確保に努めるうち、三年八月十八日秀吉が死去(六十二歳)、やがて全軍撤退となった。秀吉の辞世は「つゆとをちつゆときへにしわかみかななにわの事もゆめの又ゆめ」であった。四年四月洛東阿弥陀ヶ峰西麓(京都市東山区)に営まれた廟所に埋葬され、朝廷は豊国大明神の神号を贈り、豊国社が設立された。秀吉は信長の政策を継承し、中世社会に形成されつつあった町と村を社会制度の基礎単位として公認し、特に天正十二年以降の検地において三百歩=一段制と京枡使用という統一基準による土地丈量により石高制を創出、町村ごとに町人・百姓の土地保有を認定した。それは職能による身分編成への動きとともに近世社会の骨格をつくりだしたものであった。秀吉は百姓の境遇から身を起し、社会の頂点に立ち、大名領主権力による近世国家の創始者となった。新井白石もいうように「かかる事、我朝にしては希なる」ことであり、死後江戸時代前期にかけて多くの伝記が作成された。小瀬甫庵『太閤記』・竹中重門『豊鑑』・林羅山『豊臣秀吉譜』などが代表的で、甫庵のように儒教的立場から論評を加えたものがある。その後江戸幕府のもと豊臣時代の史実究明が禁圧されるなかで、江戸時代中期以降身分制社会の流動化に伴い、武内確斎『絵本太閤記』・栗原柳庵『真書太閤記』などの大衆的文芸作品が民衆の身分上昇への憧憬と結びついて愛好され、広汎な読者を得た。今日でも秀吉の生涯は勤勉・工夫・奇略などを含む日本人の好む出世物語の典型とされている。→織豊政権(しょくほうせいけん)

[参考文献]
三鬼清一郎編『織田・豊臣政権研究文献目録(一九八三年十二月現在)』、『大日本史料』一〇編・一一編、大村由己『天正記』、『太閤素生記』(『(改定)史籍集覧』一三)、小瀬甫庵『太閤記』(『岩波文庫』)、太田牛一『大かうさまくんきのうち』、桑田忠親『豊臣秀吉研究』、同『豊太閤伝記物語の研究』、渡辺世祐『豊太閤の私的生活』、安良城盛昭『幕藩体制社会の成立と構造』、藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』、田中義成『豊臣時代史』、朝尾直弘『天下一統』(『大系日本の歴史』八)、同「豊臣政権論」(『(岩波講座)日本歴史』九所収)、宮地直一「豊太閤と豊国大明神」(『神祇と国史』所収)、染谷光広「木下秀吉の文書についての補説」(『日本歴史』三〇〇)

(朝尾 直弘)

国史大辞典(吉川弘文館)

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世界大百科事典

豊臣秀吉

とよとみひでよし
1536-98(天文5-慶長3)

「日本大百科全書」項目を見る

安土桃山時代の武将。天文6年出生説もある。織田信秀に仕えた足軽木下弥右衛門を父として尾張中村に生まれた。はじめ木下藤吉郎を名のる。

天下統一まで

秀吉は遠江の松下之綱(ゆきつな)に仕えたのち織田信長の家臣となり,戦功と才覚によって頭角をあらわした。1573年浅井氏の滅亡後に近江を与えられ,長浜に居城して領域的支配をつよめた。このころ筑前守に任ぜられ羽柴姓を称し,奉行人としての地歩を固めた。77年の中国征伐には明智光秀とともに先鋒をつとめ,播磨三木城の別所長治を討ち,81年には吉川(きつかわ)経家が守備する因幡鳥取城を陥落させ,翌年備中高松城を包囲し毛利氏との決戦を目前にしていた。このおりに信長暗殺の報に接し,直ちに毛利氏と講和を結んで兵をかえし,山崎の戦で明智光秀を破った。その直後に清須会議で信忠(信長の長男)の遺児三法師(秀信)を織田家の跡目に据え,みずから後見人となった。この強引な措置に反対する宿老の柴田勝家と83年近江賤ヶ岳に戦い,越前北ノ庄で滅ぼした。また織田信孝(信長の三男)を尾張内海に自殺させ,主導権を握った。同年かつての石山本願寺跡に大坂城を築き,畿内先進地帯を権力的に掌握し,全国制覇にのり出した。翌年織田信雄(のぶかつ)(信長の次男)・徳川家康の連合軍と小牧・長久手に戦い,外交的手段で家康を臣従させた。85年関白に任官し,古代的な権威をかりて身分制社会の頂点に立ち,翌年太政大臣となり豊臣姓をうけた。みずから京都に造営した聚楽第(じゆらくだい)に88年後陽成天皇を迎えるなど朝廷に接近し,延暦寺や春日社の復興に力をかして仏法の庇護者を自認する態度をとった。他方では紀伊の根来(ねごろ),雑賀(さいか)一揆を鎮圧し僧侶の武器を没収し,公家・寺社の荘園を改めて所領の確認を行った。四国の長宗我部氏を下したのち,87年九州の島津氏を平定し,新たな国分(くにわけ)を行った。90年小田原の後北条氏を滅亡させ,さらに奥羽の諸大名も服属させ,全国統一を達成した。

統一権力としての性格

秀吉の全国統一は武力による征服であることはもちろんだが,綸旨(りんじ)による停戦命令など天皇の権威を十分に利用する点に特徴がみられる。また主要都市や鉱山を直轄下におき貨幣を鋳造し,諸国の座や関を整理するなど商工業の把握につとめた。方広寺大仏殿の造営のため職人を動員し,百姓から武具を取り上げる刀狩令の口実とするなど,新たな身分編成につとめている。九州征伐の直後にキリシタン宣教師の追放を指令し(伴天連(バテレン)追放令),布教の手段となっていた南蛮貿易を自己の統制下におき,武具など先進技術や生糸輸入の独占をはかった。山崎の戦の直後から始まった太閤検地は,征服地を拡大するにつれて全国に及び,石高制に基づいた年貢収取体制の確立により兵農分離を促進させた。91年の身分統制令によって武家奉公人がかってに百姓町人に戻ることは禁止され,身分の固定化をもたらした。

晩年の秀吉

検地の竿と鉄砲隊の威力によって進められてきた秀吉の全国支配は,天下統一によって新たに獲得すべき領地がなくなり,家臣へ恩賞として与えることが不可能となった。1592年(文禄1)かねてから服属を求めていた明国を討つため朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を令し,全国の大名を肥前名護屋(なごや)に集結させた。すでに関白職は甥の秀次に譲り,みずからは太閤として外征に専念し朝鮮へも渡るつもりでいた。緒戦の勝利に気をよくした秀吉は,後陽成天皇を北京に移し,その関白職に秀次をつけ,日本の帝位は若宮(皇子良仁親王)か八条宮(皇弟智仁(としひと)親王)に継がせ,その関白には羽柴秀保か宇喜多秀家をあてるといった,日本・中国・朝鮮にまたがる三国国割(くにわり)計画を呈示した。これは大局的判断を欠いた空想にすぎないものであるが,秀吉の描いた構想を如実に物語っており,やがてインドまでを含めたものに発展していく。しかしこの計画は朝鮮民衆の義兵組織によって砕かれ,明の援軍の到着によって補給路が絶たれた。明との和議交渉に際し,秀吉は朝鮮の南半分の割譲や勘合貿易復活,明の皇女を天皇の后とすることなどを要求した。この交渉は決裂し,97年(慶長2)再び朝鮮へ兵を送った。この間,秀吉に実子秀頼が誕生したことなどから秀次との関係が不和となり,95年秀次は高野山で切腹させられた。戦局の膠着化にともない大名間の対立は深刻化し,農民は兵粮米調達のため過重な負担を強いられるなど,国内は重苦しい雰囲気につつまれた。98年醍醐で華やかな花見が催されたが,秀吉は心身の衰えが激しくなり,8月に幼少の秀頼の前途を案じながら,五大老五奉行に遺言を残して世を去った。

太閤伝説の成立

秀吉の出生はなぞにつつまれており,自己宣伝的要素と重なって忠実を無視した物語が作られた。すなわち,秀吉の母(大政所,天瑞院)は萩中納言という貴族の娘で,尾張に配流されていたが,許されて上洛して宮中に仕え,再び尾張に帰ってすぐに秀吉を生んだと,天皇の落胤であることを暗示するものである。これは大村由己(ゆうこ)の《関白任官記》にも記され,ひろく流布した。同じような趣旨は外交文書にも盛られ,1590年(天正18)の朝鮮,93年(文禄2)の高山国(台湾)へ送った国書では,自分が生まれるとき母は太陽が懐中に入る夢を見,その夜は日光が室中に輝いたと述べている。自己を神秘化し天皇との関係を強調する,まったく虚妄の物語が作られることは,一面では豊臣政権の性格を暗示するものといえよう。

 秀吉の出自が無名の名主百姓層であることは,専制権力者という面を見失わせ,江戸時代においても庶民の間に〈豊太閤(ほうたいこう)出世物語〉として素朴な共感を抱かせるもととなったが,明治以後はそれが増幅して作り変えられ,英雄崇拝の観念と結びついていった。とくに戦前では〈大東亜共栄圏の先駆者〉として賞賛するような風潮もあったことを考える必要があろう。
[三鬼 清一郎]

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